パオと高床

あこがれの移動と定住

諏訪哲史『ロンバルディア遠景』(講談社)

2009-09-30 13:14:30 | 国内・小説
先行テキストの饗宴。宴は美味か、いや、むしろ美味への拒絶をあらわにしようとしているものかもしれない。ただ、そこから零れだすものは、案外、妙に、ノスタルジックな味わいも持っている。異端への郷愁とでも言おうか。あるいは、なくした実感への身体の思慕。切り剥がされていないことへのかすかな安堵。ここには、「文学」への「文学」の応答があり、「文学」と格闘する果敢な「文学」の挑戦がある。そのケレンへの好き嫌いは別として。

ヴェルレーヌとランボーを連想させる登場人物。そこにバタイユが絡み、ニーチェ、ヴァレリー、ポンティの引用なども入ってくるとなると興味がわかないわけがない。また、人物の実在への疑いや、誰が記述している小説かという問いを装置として使っていく手法、様々な文体の導入、詩と手紙と手記と小説の交錯。そこでは、小説という表現された外面だけが、その内面を表皮として転換していると思わせるものがある。さらに、思想をイメージにイメージを思想にするような徹底的な表面張力のような現れ方。
さらにさらに、「登場人物の消滅」がその小説の作者の死になるという「函」構造で、読者のみを後に残し、その読者にも「読むことによって書く」読者という設定から、小説の終息と同時に「読まぬ者」となり「書かぬ読者」として「読者の死」までも語るという、ちょっと頭の痛くなりそうな入れ子構造への挑発までが企図されている。

と、書くと意外と難解そうだが、
それが小説を推進させるわけではない。
小説の進み往きは、その場面の展開に乗っていければ、特に難解でもない。きちんと(?)、お話があるからだ。むしろメタな感じは円城塔の方が走っているのかもしれない。ただ、存在の実体感への希求や皮膚感覚やが、突出している。それと、どこか物語を裏切らない律儀な印象が、小説を一気に読ませる力になっているのかもしれない。
では、この小説を好きだったかと聞かれると、ボクは好きではないと答えると思うのだが…。
コメント
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