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パオと高床

あこがれの移動と定住

キム・ヨンハ『殺人者の記憶法』吉川凪訳(クオン)

2018-02-25 23:21:23 | 海外・小説

連続殺人犯の独白体という形態の小説である。断章のように短い独白が続いていく。
最も長い章で2ページほど、短い場合は一行である。
キム・ヨンハは小説の実験も行っていく作家で、『阿娘(アラン)はなぜ』というアラン伝説を基にした小説では
メタノヴェルのようなことをやっている。

で、この小説の最大の困難は、連続殺人犯と自らを語る主人公である「俺」の一人称小説でありながら、その「俺」
はアルツハイマーであり、認知症が進んでいき、記憶が失われていくという設定であるところだ。つまり、一人称の
語りの主人公が記憶を喪失していくのだ。それで小説は維持できるのか。その綱渡りをやっている。「俺」は今を記
憶するために日記をつけ、ボイスレコーダーを使う。だが、「俺」は、いつかその日記自体が何なのかを忘れ、また、
日記の存在自体も忘れるだろうという怖ろしい状況を記述する。
その状況で、語られている事実が本当に事実なのかが曖昧になっていく。
どうやら彼は連続殺人犯ではあるらしい。時間が離れた遠い過去の方が記憶されている。新しい記憶ほど崩れていく。
だから、「俺」が自らの父を殺したというのは事実なのかもしれない。そして、「俺」には養女のウニがいる。そのウニの
彼であるパク・ジュテを「俺」は一目見るなり殺人者である自分と同類であると思う。ウニを守らなければならない。
そのためにはジュテを殺さなければならない。「俺」はそう考えるのだが、この関係は事実であるのかわからない。
ジュテが示す現実と「俺」の語る現実が噛み合わないのだ。ウニが養女だということも曖昧になる。
失われていく記憶の中で自分を自分として構築することは可能なのか。そして、そこにある切れ切れの主観的な事実は、
はたして事実なのか。現実は大きく揺らぐ。小説は結論を与えない。どこに事実があるのかは明らかにはされない。

僕らを支える記憶とは過去を作るだけではなく、未来をも形づくるのだと感じられる。
そして、その未来への思いが過去に意義を見いだす。

  未来というものがなければ、過去もその意味がないように思えてくる。

般若心経やモンテーニュ、未堂の詩、ニーチェ、オデュッセウス、オイディプスなどもちりばめながら、思索もさらりと
描きだす。
また、パク政権下で「俺」の殺人が捜査もされずに終わったといった民主化以前の時代の空気にも触れている。
放り出された謎は謎のままだ。むしろ記憶を追うことは迷路を描きだすことではないか、事実とは誰にとっての事実なのか
といったことを不安のままに手渡して、「俺」の記憶は今しかなくなっていく。
一気読みできる面白い小説だった。怖いけどね。
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ポール・ニザン『アデン、アラビア』小野正嗣訳(河出書房新社 世界文学全集Ⅰー10)

2017-02-16 13:49:13 | 海外・小説
どうしても、書き出しの文章からになる。

  僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わ
 せない。

心に痛みを感じるほどに、いい書き出しで、でも、このあとが抒情的に流れていくわけではない。むしろ痛烈な批判と風刺の書であり、
徹底した自己省察を徹底した社会批判と共に書きつくす、緊張感あふれる本である。
それこそ、かつて数十年も前に読んで、今回改めて読んだ。それこそ、ニザンによって批判される側に至った年齢で。だが、やはり、
いい。疲弊し、老朽化したヨーロッパに否(ノン)をいいながら、アラビア半島のアデンに旅立つ「僕」=ニザン。彼は、紀行文のよ
うにアデンを描写するわけではない。離れていく距離そのままにヨーロッパを問う。しかし、アデンにも安住しない。そう、自己は自
ら自身から離れられない。そうして、自己とはその制度が作り出した自己であるのだ。つまり、アデンに向かい、アデンから批判する
ヨーロッパとは自己を形成した価値の総体なのだ。ニザンはフランスに帰国する。再生するように。帰国した彼はコミュニズムへと実
存の投企を開始する。近代が生みだした資本主義と格闘するために。

  何もかもが若者を破滅させようとしている。恋、思想、家族を失うこと、大
 人たちのなかに入ること。この世界のなかで自分の場所を知るのはキツイも
 のだ。

書き出しに続く文章である。今の社会状況と重なってくる。というより、常に現代は、こんな状況で進んできているのではないのだろ
うか。若さに価値を置きながら若さを搾取する。そのなかで閉塞を感じる若さは苦闘する。
近代の進歩史観と加速化する時間と消費に捉えられ、その近代自体を問うポストモダンが喧伝された。その時代を過ぎて、むしろポス
トモダンが知の袋小路に入ったかのような、さらなる理性の拘束と膠着を生みだしてしまった現代がある。その結果、今、感情の激化
と反知性的理性批判が支持を得ているような気がする。臆面もない強者の論理が、わが物顔で跋扈する。そして排他性こそが自らを高
め保証するものであるかのように豪語する。単純化された判断こそが解決策であるとして支持される。そんな今、ニザンの緊張感があ
り密度の濃い文章を読みながら、「否(ノン)」を言う行為とその行為を思索する深みについて考える。どこにアデンを見いだせるか。
いずれのアデンに立って、規定された存在の場を問うことができるか。

2月14日朝日新聞朝刊に熊本在住の思想家であり評論家の渡辺京二についての記事が掲載されていた。
「〈近代の再考〉テーマを貫く」という見出しで渡辺京二の仕事を紹介していた。彼の論考が一部紹介されている。

 「近代以前の市場経済が社会の中に埋めこまれ、社会から統制されていたのに
 対して、現在では、社会から自立した市場経済が逆に社会を統制し振り回すの
 である」

と。そこで、20世紀に台頭した共産主義とファシズムという政治運動に関して、

 「歯止めのきかない市場経済から、社会を防衛しようとする側面があった」と
 論じる。

と、書かれていた。この二つの、人々を「翻弄」し「破綻」した運動を「歯止めのきかない市場経済」との関係で考えたときに、この
二つが同根の閉塞から発した、表れ方の違いであることに気づかされる。それは、朝日の記事にも書かれているように「ナショナリズ
ムと保護主義」台頭の気運に満ちた現代と繋がる。二ザンは、

  ホモ・エコノミクスのさなざまな種類や変種や一族でいっぱいのこの国
 では、ひとは絞め殺されてしまうことが僕には理解できる。

と書いている。だが、ニザンは、まだ近代の中にいる。というより、近代から逸脱した場所に立つには、そこには地平がないのである。
近代を乗り超え得ない近代の思考が、僕らを形成しているのであれば、僕らは耐えるように自己省察を繰り返すしかないのかもしれない。
それを自虐史観と呼ぶな。威勢の良さが問題を解決するわけではない。むしろ問題との共棲が叡智を生むものだと考えたい。

訳は小説家の小野正嗣。昔の本は晶文社から出ていて、篠田浩一郎訳だった。
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カレン・ラッセル『レモン畑の吸血鬼』松田青子訳(河出書房新社 2016年1月30日)

2017-01-09 12:24:39 | 海外・小説
書き出しは、こう。

  十月、ソレントの男と女は「真っ先に花開く果実」を意味するプリモフィオ
 ーレ、つまり最もジューシーなレモンを収穫する。三月には黄色いビアンケッ
 ティが熟し、六月には緑色のヴェルデッリが後に続く。どの季節にも、ベンチ
 に座り落下するレモンを眺めるわたしの姿がある。

そして、レモン畑に観光に来た人々は、この老人である「わたし」を見て、

 男やもめだとか、子どもに先立たれた老人だとか、彼らはささやき合う。わた
 しが吸血鬼だとは思いもしない。

と始まる。ページ数で26ページほどの短編。描写の魅力と設定の面白さ、そして、漂う哀切感が、いい。

内容は、解説にもあることばを使えば、「〈倦怠期〉に直面した吸血鬼夫婦の物語」だが、この設定がコミカルさとはほど遠く、
切実な情感を持って描かれる。しかもべたつく情緒ではなく、さらりと、しかし、沁みるような詩情。
吸血鬼は、死ねない、終わりのない永遠性の中で、しかも同胞を他に見出すことができないという状況の中で〈倦怠期〉を迎え
てしまうのだ。

主人公のクライドは、女性の吸血鬼マグリブに出会うまで、人間が作り上げた吸血鬼の物語の中にいた。つまり、血を吸うことが
生命を維持するもので、太陽の光に当たると体は崩壊し、にんにくがダメな存在として生きてきた。ところが、マグリブが、そん
な彼を物語の嘘から連れ出す。

 「で、血に何の効果もないことにいつ気がついたの?」
  この会話がなされたとき、わたしは一三〇歳にさしかかっているところだ
 った。十代の早くから、数パイントの血を飲むことなしに一日たりとて過ごし
 たことはなかった。血に何の効果もない? 額は火照り熱くなった。

血には何の効果もない。それなら「一体全体何のためにこの牙はあるのだ」と彼の100数年は一気にゆらぎだす。が、彼らは太陽の下、
デートを重ね、彼は恋に落ちる。オーストラリアでの太陽の描写がいい。

  そこでは、太陽が雲をレースのテーブルクロスのようになるまで焼き払っ
 てしまう。

  外では、世界全体が燃えていた。音のない爆発が低木の森を揺り動かし、光
 の塵が静かなロケットのように燃えている。まばゆい太陽の光の束が、ユーカ
 リとトクサバモクマオウの合間に落ちていった。(略)太陽で死ぬことはない
 のだ! 

彼は昼間の柩から出る。「マグリブが現れたことで、永遠はわたしを脅かすものではなくなった」。しかし、ある日、マグリブは
洞窟へと飛び去っていく。そこでは永遠が顔をのぞかせる。人間の結婚制度は「死が二人を分かつまで」というが、彼は考える。

  いつか死ぬという根本的な事実を知りながら、どの程度まで人間の愛は育
 つのだろうかと考えてみることがある。わたしには永遠によくわからないま
 まであろう方法で、何もないところから生えてきた緑色の茎のように愛はら
 せんを描く。さらに近頃では恐ろしい考えが頭から離れない。我々の愛は地球
 の滅亡よりも前に終わるだろうと、と。

蝙蝠となって飛び去るマグリブに対して、老いたクライドは飛ぶことができない。そんな彼がマグリブを追う姿が痛い。

血ではなくレモンを吸うようになった吸血鬼の心情や、レモン畑の描写なども含めて、筆致の魅力に引き込まれる一作だった。

ケリー・リンクやエイミー・ベンダーと通じる、ファンタジーから脱領域していく魅力的な作家だ。
あっ、そういえば、吸血鬼の永遠の孤独を描いた萩尾望都の『ポーの一族』という漫画があった。昨年、続編が出たような。
あの漫画はよかった。ラッセルも知っているのでは…。
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ハン・ガン『少年が来る』井手俊作訳(クオン「新しい韓国の文学15」2016年10月31日)

2016-12-17 02:12:35 | 海外・小説

  雨が降りそうだ
  君は声に出してつぶやく。
  ほんとに雨が降ってきたらどうしよう。

小説は、こう始まった。この本を読み終えたとき、気がつくと、外は冬の冷たい雨が降っていた。韓国語では、雨と血は表記も
発音も違うけれど、似た音「ピ」。光州事件を描きだした小説の書き出しは象徴的だ。

読み終えたときに風景が一変してしまうような小説がある。『少年が来る』は、そんな小説だった。そして、小説が即時性では
なく、時間を踏みしめるようにして成熟し出来事を獲得していくものだということを改めて感じた。その時間の風化を擦り抜け
て現れだしたものの姿が痛く、辛い。
と同時に胸に迫り、ひたひたと浸潤してくる。しかも、これは、起こった事実の持つ事態からだけではなく、書かれた小説がも
つ魅力に貫かれていて、むしろ小説の想像力と創造力が事態を構築しているといえるのだ。痛く、辛いが小説を読む愉しさに出
会わせてくれる。それを「愉しさ」といっていいのだろうか。いや、どのような状況が描かれていてもしっかりとした小説を読
むことは愉しさなのだ。

この小説は7章からなる。第1章で登場する同じ時間、同じ場所にいた彼ら、彼女たちが、各章での中心人物になる。ハンガンの
小説的挑戦は、この各章で人称を使い分けていることだ。韓国の小説は基本、一人称で書かれるものが多い。三人称の主人公で
あっても、小説で書かれていく語りの人称は一人称になる。例えばAさんが主人公でも、小説の中では「私は」と書かれていく
ことが多い。だが、ハン・ガンはその人称を使い分けているのだ。
しかも、単に実験のための実験ではない。光州事件に出会った者たちのそれぞれを書き分けることで、共通の時間を生きながら、
共通の暴力を受け、共通の痛みを負った、しかし、個別のかえがたい生を描きだしているのだ。

第1章は、市民に対する軍の鎮圧発砲による大量の死者を安置した尚武館(サンムグァン)から始まる。友を探しに来る中学生の
トンホ。その友チョンデとチョンデの姉のチョンミ。死者を拭きあげ安置する作業を行うソンジュ姉さん、ウンスク姉さん。学生
デモをまとめるチンス兄さん。そして、トンホを迎えに来る母。軍隊は最後の一斉攻撃を始めようとしている。その中で、作者は
中学生のトンホに語りかけるように「君」という人称を使って小説を始める。6章までで、死者の魂となった人称までも使い切って、
このそれぞれが受けた暴力と負った傷を描きだす。ただそれを糾弾し告発するのではない。むしろ鎮魂し、暴力の持つ暴力性の不
条理を見つめる。不条理というよりは異常な条理といえばいいのか、国家の非人道的な合理。そして、その暴力がいかに癒やしが
たく心を痛め続け、それでも人がそれを抱えて生きていくのかを表現していく。人間性の尊厳と人間の野蛮さ。どちらへも裏返る
表裏の危うさと体制の恐ろしさ。個別の生への仮借なき暴威に対する生の静かな問いかけ。

  魂には体がないのに、どうやって目を開けて僕たちを見守るんだろう。

  今、尚武館に居る人たちの魂も、鳥のように体からいきなり抜け出したのだろうか。驚いた
 その鳥たちはどこに居るのだろう。

デモへの圧搾は、鎮圧だけでは終わらない。連行された者たちへの、その人間の尊厳を奪うための狡智で残虐な拷問が待っている。
また、子や知人を失ったものは、その喪失から逃れられない。

  ガラスは透明で割れやすいよね。それがガラスの本質だよね。だからガラスで作った品物は
 注意深く扱わなくてはいけないよね。ひびが入ったり割れたりしたら使えなくなるから、捨て
 なくてはいけないから。
  昔、僕たちは割れないガラスを持っていたよね。それがガラスなのか何なのか確かめてみも
 しなかった、固くて透明な本物だったんだよね。だから僕たち、粉々になることで僕たちが魂
 を持っていたってことを示したんだよね。ほんとにガラスでできた人間だったってことを証明
 したんだよね。

最終章では作者ハン・ガンとおぼしき人物が語り手になる。ハン・ガンは1970年光州生まれ。80年の光州事件の時は10歳ほどである。
事件の時はソウルに住んでいる。朝日新聞の書評で蜂飼耳はこう書いている。

  子供の時に生じたこの出来事がいかに深い傷と衝撃に満ちた主題かということは、この小説
 そのものが語る。作家には、いつか書こう、と思うテーマがある。本書はそうした意気込みと
 緊張感を確実に伝える。(朝日新聞2016年12月11日 日曜版読書欄)

全斗煥(チョンドファン)による粛軍クーデター、軍部掌握をきっかけにして起こった民主化運動の象徴的な事件は、「スパイに
扇動された」とされ韓国内では報道管制が引かれる。外信により事件は伝えられ、また、次第に「光州での暴動」とされた事態は、
その規模や内実が明らかになっていく。ハン・ガンの中でも、長い日月を経て、積み重なるように思いが蓄積していったのではない
だろうか。

  ある記憶は癒えません。時が流れて記憶がぼやけるのではなく、むしろその記憶だけが残
 り、ほかの全てのことが徐々にすり減っていくのです。カラー電球が一つずつ消えるように
 世界が暗くなります。

だが、小説がやって来る。

  始めるのがあまりにも遅かったと私は思った。(略)
  しかし今やって来た。どうしようもない。(252)

そうして、小説はやって来た。

  真っ暗な芝生の下で踏んでいるのは土ではなくて、細かく砕けたガラス片のようだ。

ガラス片を踏みしめながら、だが、確実にやって来た。今、まだ蔓延する暴力の時代の真っ只中に。
問いが残る。

  つまり人間は、根本的に残忍な存在なのですか? 私たちはただ普遍的な経験をしただけな
 のですか? 私たちは気高いのだという錯覚の中で生きているだけで、いつでもどうでもいい
 もの、虫、獣、膿と粘液の塊に変わることができるのですか? 辱められ、壊され、殺される
 もの、それが歴史の中で証明された人間の本質なのですか?
  

冒頭は、2014年のセウォル号転覆事件を連想させた。また、今回の朴槿恵大統領退陣のデモは、ちょうど光州事件の頃学生だった
人の子どもたちも参加しているのではないかと思うと、恨の解消に向かうエネルギーだという気もする。それが朴正煕の子の退陣
に向かっているということに歴史の繋がりを感じた。

それにしても、すごい小説だった。ハン・ガンは『菜食主義者』を2013年春に読んだときに圧倒されたが、今回はさらに、また心を
つかまれた。

そういえば、テレビドラマの『第五共和国』と『砂時計』、よかったな。



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エイミー・ベンダー『レモンケーキの独特な寂しさ』管啓次郎訳(角川書店 2016年5月31日発行)

2016-12-06 13:02:00 | 海外・小説
 他人の痛みが入りこんできて、自身の痛みと反応しあってしまったときに、人はどうやってその痛みを抱え込みながら、
それでも成長していくのだろうか。
 過剰と欠如。適切という状態ははたしてあるのだろうか。
 ボクたちは自分に出会う前に他人に出会ってしまうのではないだろうか。だから、関係の過剰と欠落にいきなり向き合い、
あとから自分を重ね合わせていく。そして、そのずれに突き放されながら、結局、自らを探し始めるのかもしれない。そんな
歩みはじめが再生への希望になるのかもしれない。
 
 と、小難しく考えてしまうのはボクの悪癖だ。
 ひりひりするかなしみが、ユーモアや奇抜な着想、意表をつく比喩、あとがきに書かれている「生まじめな思索とひそかな涙」
などを織り交ぜながら表現されているのが、エイミー・ベンダーの魅力なのだ。

 カバー裏に記されているように、9歳の誕生日にローズは母の作ってくれたレモンケーキを食べて、母の感情を味わってしまう。

  ひと口食べてはこう考えたーうん、おいしい、いままででいちばんおいしい
 ーでもひと口ごとに、不在、飢え、渦、空しさがあるのだ。母が、娘である私
 のためにだけ作ってくれた、このケーキに。

 幸せに暮らしていたはずの自分たちの中に、母の渇望を感じとってしまう。
 この日から彼女は、食べると、それを作った人の感情を看取してしまうという特別な能力を身につけてしまう。工場でそれを作っ
た人がいらいらしながら不満を込めて作ったとか、このパセリを摘んだ人はぞんざいな気分で摘んだとか、

  バターは屋内で飼われている雌牛からとったものなので、ゆったりとした
 味わいに欠けている。卵はかすかに、遠くてプラスティックみたいな味がし
 た。こうした材料のすべてが遠くでぶんぶん唸るような音を立てていて、ぜん
 ぶを混ぜてドゥをこねた職人さんは、怒っていた。

といった具合に。
 彼女は食べものが食べられなくなる。むしろ自販機の食品の方が彼女には食べやすいものになる。ローズは、この秘密を兄の友人
ジョージ以外には内緒にして生きていく。
 そして、成長していく過程で母の秘密に気づき、父の持つ距離感に迷い、失踪を繰り返す兄が持つ世界との違和に出会ってしまう。
それは、自分自身の世界との違和感にも繋がる。

 小説はローズ9歳から10数年間の成長を追っていく。ローズがどうやって、この特殊な才能と折り合っていくか。家族皆が抱えるかなしみを、
どう受けとめていくか。そして、また兄のジョゼフが比較されるように綴られていく。神童のような才能を持ち、母の期待と愛情を一身に
受けながら、失踪を繰り返す兄。謎めく兄の秘密も面白い。ローズとジョゼフ。二人の姿に現代を生きる姿が宿っているように思う。
 うん、少しニュアンスは違うけれど、カバー裏にある言葉が示すように、
「生のひりつくような痛みと美しさを描く、愛と喪失と希望の物語」だ。じわりとほのかに、だが。
そして、それが、ベンダーの魅力であり。

 ジョゼフについてが特にそうだが、解読や解説をしていかないのが、いい。だから、読者は、ひとり静かに、あるいは人と語らいながら、
小説の背後を想い、自分の想像力を付加していける。余地がある小説っていいな、やっぱり。


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