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パオと高床

あこがれの移動と定住

江戸川乱歩「D坂の殺人事件」(『江戸川乱歩全短編Ⅰ』ちくま文庫)

2011-11-10 02:26:03 | 国内・小説
地図で東京の谷中、根津あたりを見ていたら、団子坂があって、突然読みたくなった小説。松本清張もそうだけれど、江戸川乱歩も、短編、いいな。
明智小五郎の初登場作品で、大正十四年一月発表とある。大正十二年が関東大震災の起こった年で、この頃乱歩は、大阪にいる。「二銭銅貨」や「心理試験」や、この作品は大阪で書かれたもののようだ。年譜を見ると、前年に文筆生活を決意し、大正十四年に上京しているようだ。

すでに、探偵小説に必要な条件が書き込まれている。
目撃者の錯覚、事件を混乱させる偶然性、物証と心理分析、ミスリード、猟奇性、そして探偵の蘊蓄も含めた個性。さらにさらに、乱歩の書く街が醸し出す時代の空気が漂っている。

明智小五郎は語る。
「僕のやり方は、君とは少し違うのです。物質的な証拠なんてものは、解釈の仕方でどうにでもなるものですよ。いちばんいい探偵法は、心理的に人の心の奥底を見抜くことです。」
大正から昭和の時代の都会に生きる人の心理へ、乱歩は迫っていく。
そう、都会の雰囲気は、こんな描写にも表れている。
「表の大通りには往来が絶えない。声高に話し合って、カラカラと日和下駄をひきずって行くのや、酒に酔って流行歌をどなって行くのや、しごく天下泰平なことだ。そして障子ひとえの家の中には、一人の女が惨殺されて横たわっている。なんという皮肉だろう。」
乱歩のエッセイに「群衆の中のロビンソン・クルーソー」という言い回しを使ったものがあったと思うが、都会の中の孤独が記されている。

ところで、D坂である団子坂の菊人形に触れている箇所がある。
「さて、この白梅軒のあるD坂というのは、以前菊人形の名所だったところで、狭かった通りが市区改正で取り拡げられ、何間道路とかいう大通りになって間もなくだから、まだ大通りの両側にところどころ空地などもあって、今よりずっと淋しかった時分の話だ。」と書かれているのだが、司馬遼太郎が『本郷界隈』で、夏目漱石の『三四郎』に触れ、団子坂に菊人形を見物にゆくくだりのことを書いている。
明治四十一年の『三四郎』から、明治末に衰えた団子坂の菊人形、そして大正十四年のこの小説。場所を描く小説が残す、場所の変遷がある。

桜庭一樹『少女には向かない職業』(東京創元社)

2010-12-17 22:51:25 | 国内・小説
ストーリーを話すわけにはいかないのかもしれない。で、多くの人が話を知っているのだろうが、これは「東京創元社」の「ミステリ・フロンティア」の一冊で、ストーリー展開自体も面白いので、筋は書かない。すると、表紙カバーのキャッチにいっちゃう。

「島の夏を、美しい、とふいにあたしは思う。
 -強くなりたいな。
 強くて優しい大人になりたい。力がほしい。でも、どうしたらいいのかな。

 これは、ふたりの少女の凄絶な《闘い》の記録。」

文体は速度感がある、洒落て、軽い文体。ただ、ライト・ノヴェルかと言われると、そのライトの定義もはっきりしないのだが、何だか違う。軽いけど、重いのだ。ゲームのような感覚も取り込みながら、それをうまく借用しながら、何か、今どきの痛さや重さをきちんと伝えてくる。大西葵13歳と宮乃下静香13歳の《闘い》が描かれているのだ。夏休みから牡丹雪の降る大晦日まで、登場人物は歩き、話し、走り、泣く、もちろん笑い、そして……。

一気に読めてしまう、読書の時間が持てた。

朝吹真理子『流跡』(新潮社)

2010-11-30 13:42:23 | 国内・小説
最初に、小説冒頭の長めの引用から。

「……結局一頁として読みすすめられないまま、もう何日も何日も、同じ本を目が追う。どうにかすこしずつ行が流れて、頁の最終段落の最終行の最終文字にたどりつき、これ以上は余白しかないことをみとめるからか、指が頁をめくる。……られて、し……つきになるこ……光波に触れ、」

と、読み終わりから、書き始められる。ここで言葉が起動し始める。言葉が起動しだしたところから物事が動き出す。その起動状態を綴る。言葉が始まったところから始まるのは、あたりまえといえばあたりまえ。しかし、その現象の立ち上がりから記述するのは、そうそうあたりまえではない。そして、少し奇妙な言葉に出会いながら、不思議な文体に持っていかれる。

「眼前の風景そのものに漆漆(しつしつ)とした穴がぽちりと、猫の鼻先のように光っていて、そこを片目でのぞきこむなり風が一吹きして目が乾く。すずやかな風音がしきりと聞こえる。どうやら向こうは秋らしい。」
の漢語や和語の入り交じり方、イメージの飛翔。
「棹をさす。水草にへばりつくへどろ、葦、くいなやしぎが眠っている。」
のひらがなの、音が整いながら目で追うと違和感を醸す流れ。
「轟きとともに、ロータリーのアスファルトがにわかにうごもち、人気の失せたアーケードの脇から、いままで乗っていたバスのなかから、タクシーから、コンビニから、ドラッグストアの角から、駅の出口から、そして空からも四方八方あふれ出るように、おおどかなすがたかたちの大金魚があらわれはじめた。」
の、カタカナ、ひらがな文の具体性のなかに、「うごもち」とかいう言葉を入れながら、「おおどかなすがた」というひらがな区切れなし部分も射し込んで、金魚に持っていく。語り口調は江戸前落語調か。などなど。

擬古典調の副詞形容詞、方言のような言い回し、和語を意識したようなひらがなの流れと難しげな漢語の挿入。江戸文学のような下世話さとシュールレアリズムのようなイメージの動き。観念性と妙な具体性。ポップな現代風俗のさりげない挟み込み。だが、これ見よがしではない。何か、それを自然化しようという雰囲気がある。言葉というものから入っている作者と思った。そこには、言葉があるからこそ存在できる世界が広がっていく。で、その言葉は実はリアルを体現したがっているように小説の直線的な流れに耐えるように封じられていく。しかし、封じられればられるほど、「文字もまたとどまることから逃げてゆくんだろうか」となる。よって、小説は現在進行的な物語を作りながら、先へ先へと向かい終息は訪れえない。円環するような構図だけを残して、現在形で宙づりになる。

そこには、「身体から引き剥がされたいと、窮屈だと感じていることは……。」といった、身体から離れたがる意識の浮遊や流離し続ける転生譚が残る。ひとつの死が無数の生に吸収されていく過程を見つめながら、境界をするりと移行するような状態が語られていく。
人称のない主体(?)は、言葉と向き合う者から、船頭、発する言葉が限定されている子の父、そして船を待つ波止場の女と入れ代わっていく。その因果は語られない。ただ、その入れ代わりだけが、ふいと行われてしまう。時間は併記できないが、時間は重畳して過ぎていく、仮に過去のことであっても。そして、存在の確かさは気配の濃密な印象だけを残していく。
水溶性のものと乾いたざらつき感、浮遊とそれを穿つような重量感が、言葉の過ぎたあとに残る。

赤染晶子『乙女の密告』(文藝春秋9月号)

2010-08-30 21:42:42 | 国内・小説
第百四十三回芥川賞受賞作である。あっ、もしかしたら面白いかもと思って読んでみた。あっさりと、面白かった。軽快なタッチが、短文の積み重ねによる切迫感へと変わっていく、この小説の流れに乗ることができた。

問題は、『アンネの日記』のアンネ・フランクが置かれた状況と女子大の「乙女」の状況に比重の違いを感じるかどうかなのかもしれない。そこに引っかかってしまうと、案外、違和感を感じ続けてしまうことになるのだろう。だが、そう思われてしまうことにも、現況が横たわっているのだと、おそらく、そう考えたときに、作者は、この小説と向き合えたのだと思う。

仕掛けは、「密告」と「アイデンティティ」をめぐってしつらえられる。「乙女」の「密告」空間は、「他者」を生きるか「アイデンティティ」による対峙を生きるかを突きつける。それが、アンネ・フランクの密告者は誰かという問いとアンネが「他者」を生きるか「アイデンティティ」の宿命を生きることで死ぬかの選択と重なってくる。実際には、アンネに選択の猶予はない。なぜなら、「他者」を求めたときに、既に自らの出自を告白してしまっているのだから。つまり、「アイデンティティ」は逃れられない自己として忘却の淵から「思い出される」のだ。だが、そこに生を賭ける。その地点で、アンネ・フランクは生かされるのである。そう、小説の中で「アンネ・フランクをちゃんと思い出してください!」と、バッハマン教授が言うように。

「乙女」の「密告」は、集団が流動的に生成し続けていく社会の中で、より日常化しているのではないだろうか。画然とした定義があるのではない集団が、自分たちの同質性で排除のシステムを作りあっていく中では、常に「密告」が起こる。そのささいさが連鎖していくときに、ある抜き差しならない状況が生まれていくのだ。その危機を、この小説は描き出していると思う。しかも、そこに「アイデンティティ」の処し方まで構想しようとしている。はたして、これで解決になるのか。いや、そうではなくて、「他者」へと向かうことも含めて「アイデンティティ」の所在をその宿命性も匂わせながら問うているところに、歩き出しが見えるのだ。

文体については、その文章に、あきらかに作者の存在が感じられる。三人称小説だが、客観的な三人称というより、もうひとり作者の介在が感じられるような距離感の文体なのだ。どこか、日記の中で三人称を設定して描いているような気がした。それは「アンネの日記」を意識してのことだろうか、それとも、それを意識したボクの思い込みだろうか。言葉の翻訳に関しても、ドイツ語、オランダ語、日本語の間で、その母語と外国語の関係での距離が示されているようにも思う。もちろん、それが自己と他者の問題と絡んでいるのだろうが。

堀江敏幸『熊の敷石』(講談社)

2010-04-03 09:31:22 | 国内・小説
以前、途中で読みやめたのはどうしてだったのだろう。今回、知人にすすめられて、読んでみるとよかった。前回も、つまらなくて読みやめたというより、何か他の本のほうに行っちゃったような気がする。と、いうことは、その、他の、本に興味が向かったということなのだが。

読点がつないでいく文体に、独特の含蓄があって、静けさが、心のもどかしさを伝えてくるようだ。

相手にとってのベストの僕にはなれないのかもしれない。いや、それどころか、相手にとっての僕とは、すれ違いながら、知らないうちに傷を負わせてしまっている存在なのかもしれない。そんな自他の関係が静かに語られる。

「彼の言いたいことは、それこそ『なんとなく』わかるような気がした。私は他人と交わるとき、その人物と『なんとなく』という感覚に基づく相互の理解が得られるか否かを判断し、呼吸があわなかった場合には、おそらくは自分にとって本当に必要な人間ではないとして、徐々に遠ざけてしまうのがつねだった。」

「なんとなく」という関係の中で、つながりを持つ。そして、

「ながくつきあっている連中と共有しているのは、社会的な地位や利害関係とは縁のない、ちょうど宮沢賢治のホモイが取り逃がした貝の火みたいな、それじたい触ることのできない距離を要請するかすかな炎みたいなもので、国籍や年齢や性別には収まらないそうした理解の火はふいに現われ、持続するときは持続し、消えるときは消える」

ものなのかもしれない。距離が、ボクらを規定して、自分を相手の前に自分として立たせている。当然、

「公の悲しみなんてありうるのだろうか、とヤンの言葉を耳に入れながら私は思っていた。悲しみなんて、ひとりひとりが耐えるほかないものではないのか。本当の意味で公の怒りがないのとおなじで、怒りや悲しみを不特定多数の同胞と分かち合うなんてある意味で美しい幻想にすぎない。痛みはまず個にとどまってこそ具体化するものなのだ。」

である。しかし、この文体の背後にはすでにこういった表現の持つ悲しみのようなものが漂っている。
主人公の「私」は、そう考えながらも実は、友人ヤンの語るヤンの存在の持つ重さにさらされている。もちろん彼は、そのこととの距離を保とうとしている。だが、「いらぬお節介」という意味を持つラ・フォンテーヌの「熊の敷石」の『寓話』に出会ったとき、「無知な友人ほど危険なものはない」との教訓に、「私」は自分がヤンにとってそんな存在だったのではないかと思い至る。

「話す必要のないことを『なんとなく』相手に話させて、傷をあれこれさらけ出させるような輩は、素知らぬ顔の冷淡な他人よりも危険な存在なのではないだろうか。ヤンとのあいだに、いまも小さな貝の火を共有しているという想いが私にはある。ヤンのほうでもそれに似たような譬え話をしてくれたことがあるから、こちらの存在が鬱陶しさや不快感を催させているわけではないだろう。だがあれこれ思い返してみると、私たちの会話は、日常のくだらない話以上に、『なんとなく』胸につかえるような話題をめぐって言葉が費やされることのほうが多かった。」

そして、「私」はヤンに対して、自分が、

「投げるべきものを取りちがえているのではないか、と。」

思う。
僕の前に現れる他者の他者性。それは、常に背中だけを向けていくのか。了解しえない領域から不意に現れる他者。自分自身を投影し、自らの距離でのみ判断しうる相手ではなく、そんな自己投影を拒んで在る他者。引き受けえない存在によって知らされるのは「取り返しのつかない時間」と責任に対する傷の実感なのだろうか。他者が顔を持つ、その顔の現れる刹那を自分の時間のなかで描き出そうとしている小説のように感じた。
この「私」の全身を貫く痛みの先に、この痛みの持つ実質が問われるのかもしれない。
また、常に遅れてやって来る認識。小説は、それによってもたらされるコミュニケーションの限界を語りかけているのだろう。

熊の道の夢、モン・サン・ミシェルとの出会いの場面やカトリーヌとダヴィドという母と子などの配置も効いている。

この小説をすすめてくれた知人に感謝。

読後、須賀敦子さんの凛とした文章をまた読んでみたいとも思った。