パオと高床

あこがれの移動と定住

赤染晶子『乙女の密告』(文藝春秋9月号)

2010-08-30 21:42:42 | 国内・小説
第百四十三回芥川賞受賞作である。あっ、もしかしたら面白いかもと思って読んでみた。あっさりと、面白かった。軽快なタッチが、短文の積み重ねによる切迫感へと変わっていく、この小説の流れに乗ることができた。

問題は、『アンネの日記』のアンネ・フランクが置かれた状況と女子大の「乙女」の状況に比重の違いを感じるかどうかなのかもしれない。そこに引っかかってしまうと、案外、違和感を感じ続けてしまうことになるのだろう。だが、そう思われてしまうことにも、現況が横たわっているのだと、おそらく、そう考えたときに、作者は、この小説と向き合えたのだと思う。

仕掛けは、「密告」と「アイデンティティ」をめぐってしつらえられる。「乙女」の「密告」空間は、「他者」を生きるか「アイデンティティ」による対峙を生きるかを突きつける。それが、アンネ・フランクの密告者は誰かという問いとアンネが「他者」を生きるか「アイデンティティ」の宿命を生きることで死ぬかの選択と重なってくる。実際には、アンネに選択の猶予はない。なぜなら、「他者」を求めたときに、既に自らの出自を告白してしまっているのだから。つまり、「アイデンティティ」は逃れられない自己として忘却の淵から「思い出される」のだ。だが、そこに生を賭ける。その地点で、アンネ・フランクは生かされるのである。そう、小説の中で「アンネ・フランクをちゃんと思い出してください!」と、バッハマン教授が言うように。

「乙女」の「密告」は、集団が流動的に生成し続けていく社会の中で、より日常化しているのではないだろうか。画然とした定義があるのではない集団が、自分たちの同質性で排除のシステムを作りあっていく中では、常に「密告」が起こる。そのささいさが連鎖していくときに、ある抜き差しならない状況が生まれていくのだ。その危機を、この小説は描き出していると思う。しかも、そこに「アイデンティティ」の処し方まで構想しようとしている。はたして、これで解決になるのか。いや、そうではなくて、「他者」へと向かうことも含めて「アイデンティティ」の所在をその宿命性も匂わせながら問うているところに、歩き出しが見えるのだ。

文体については、その文章に、あきらかに作者の存在が感じられる。三人称小説だが、客観的な三人称というより、もうひとり作者の介在が感じられるような距離感の文体なのだ。どこか、日記の中で三人称を設定して描いているような気がした。それは「アンネの日記」を意識してのことだろうか、それとも、それを意識したボクの思い込みだろうか。言葉の翻訳に関しても、ドイツ語、オランダ語、日本語の間で、その母語と外国語の関係での距離が示されているようにも思う。もちろん、それが自己と他者の問題と絡んでいるのだろうが。
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