ゼロ戦を設計した堀越二郎は、1903年6月22日、群馬県藤岡市生まれ。所沢航空発祥記念館では生誕110周年に当たるのを記念して、13年6月22日から9月1日まで「堀越二郎の生涯」と題する企画展を開き、貴重な資料を公開、約30分の堀越の生涯を描く映画も、館内の大型映像館で上映したところ、これまた人気を呼んだ。
スタジオジブリの宮崎駿監督が堀越の半生をモデルにフィクションで描くアニメ映画「風立ちぬ」も、7月20日から上映される予定で、今回のゼロ戦里帰りをきっかけに、にわかに堀越二郎がスポットライトを浴びている。
この資料は、堀越の長男の雅郎さんがさる5月、東京都の自宅屋根裏部屋などで、ゼロ戦開発過程の実験記録など約千点の遺品を見つけ、記念館に寄贈した。GHQに焼却を命じられていたのを、隠していたものだった。
記念館では、東大大学院の航空宇宙工学の教授の協力を得て、調べたところ、未公開の貴重な資料と分かり、公開に踏み切った。
生家がある藤岡市の藤岡歴史館にも、堀越の親類から約500点の資料が寄贈されていて、その中に、ゼロ戦の後継機として開発が進められながら、試作機が完成する前に終戦になり、“幻の戦闘機”になった「烈風改」の設計図17枚もあった。
この機は、米国の爆撃機B29に対抗するために飛行高度1万m以上と想定されていた。
ジブリがアニメを制作するのを契機に藤岡市が調べたところ、寄贈資料の中に見つかったのである。
堀越二郎が生まれたのは、くずしくもライト兄弟が初めて空を飛んだ1903年だった。
小学生の頃から航空機に夢中になり、東京帝国大学の工学部航空学科を首席で卒業、現在の三菱重工業に入社、全金属製の96式艦上戦闘機の設計主任を務めた後、戦前の日本の航空技術の頂点を極めたゼロ戦の設計主任も担当した。
エンジンの出力が限られているので、ネジ一本無駄にしない徹底した軽量化を図り、軽い超々ジュラルミンを世界で初めて使用、航続距離と格闘性能で一時は世界無敵の傑出したゼロ戦を完成させた。
航空機は、自動車の百倍にも及ぶ部品点数を持つ、高度にシステム化された工業製品だという。
戦争中に培われた技術は、戦後の国産旅客機YS-11に引き継がれ、堀越らもこの設計に参加した。
1964年の東京オリンピックでは聖火リレーに利用され、国内定期路線に就航、世界12か国で活躍した。
堀越は防衛大や日大生産工学部で教授も務め、1982年78歳で死んだ。
記念館で上映された映画では、日本がドイツと組んで第二次大戦を戦ったことを批判する言葉を夫人には漏らしていたことがうかがわれる。
1945年8月15日に記された「終戦日誌」には、「日本に壊滅をもたらした政策を指導した者が全部去らなければ腐敗の種は残る」と軍部と政治家への厳しい批判が便箋二枚につづられていたという(東京新聞)。
ゼロ戦は堀越にとって、戦闘機というより自分の持てるものを全て注ぎ込んだ技術の結晶で、「美しい」存在だったことが、この映画や著書などからもよく分かる。