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埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

「渡辺」姓の祖 鴻巣市

2013年07月06日 17時09分56秒 | 市町村の話題
「渡辺」姓の祖 鴻巣市

日本には大変な数の姓があるらしい。

中国には、13億の人口だから姓は無数にあるだろうと思っていたら大間違い。

インターネットで調べてみると、姓が一字(単姓)が多いから意外に少なく、1万程度。現在使われているのは4千ぐらいという。

多い順で、おなじみの王(ワン)さん、李(リー)さん 張(チャン)さんと並び、この三姓で人口の約2割を占める。

中国と地続きで、昔は漢字圏だった韓国も同じ単姓。これまたおなじみの金(キム)、李(イ)、朴(パク)、崔(チェ)、鄭(チョン)さんの順で「五大姓」というのだそうだ。全人口の過半数を占める。これらを含めて韓国の姓は約250だとか。

ところが、姓が二字が多い日本には実に約30万あるというから驚く。世界一は、各国からの移民が集中、多民族国家の米国。日本は2位だという。

日本の姓は多いほうから5位までで「佐藤、鈴木、高橋、田中、渡辺」の順だという。(日本苗字大辞典 1997年発行)

この五番目に多い渡辺姓にゆかりの寺が鴻巣市にある。箕田(みだ)にある宝持(ほうじ)寺である。

この寺は、渡辺姓の祖とされる渡辺綱(わたなべのつな)が建立したもので、全国の渡辺さんの有志でつくっている「全国渡辺会」の顕彰碑 (写真)があるので知られる。

渡辺綱とは、坂田金時(足柄山で熊と相撲をとった金太郎)らとともに源頼光(みなもとのらいこう)の四天王の筆頭と言われた平安中後期の武将。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋でその弟分の「茨木童子(いばらきどうじ)」という鬼の右腕を切り落とした話で知られる。

この鬼退治後に、箕田に一時帰って、祖父と父追善のために建てたのがこの寺である。

箕田は、箕田源氏発祥の地で、祖父の源仕(みなもとのつこう)、父親の源宛(みなもとのあたる)が開発し、拠点にしていた。

綱は箕田生まれ。幼少の時に両親が死んだため、母親の里である摂津の渡辺庄(現大阪市中央区)で養育された。

わが国の苗字は、ほとんど地名に由来しているので、渡辺源次綱(わたなべのげんじつな)と名乗った。これが渡辺姓の起源である。源次は父の別名だった。

箕田源氏は、嵯峨源氏の流れをくむ。源仕は、書をよくし、三筆として知られる嵯峨天皇の皇子の一人である源融(みなもとのとおる)の孫。

源融は源氏物語の光源氏のモデルとされる人だから、その血筋を引く綱も大変な美男子、今流で言えばイケメンだったらしい。鬼退治の武勇伝が歌舞伎、能、謡曲で演じられるのは、そのせいだろう。

宝持寺には綱の刀や位牌が残されている。12年2月には地元の造形作家が、綱が鬼の腕を切る瞬間を描いた江戸時代の絵師・歌川国芳の浮世絵を再現した木製レリーフを創り、渡辺会や檀家によって奉納された。

境内で綱の顔を見られるのは武者絵と凧だけだったというから、このレリーフにさらに歌舞伎や能、謡曲の絵や写真も集めて、“イケメン寺”として売り出したらどうだろう。

切り落とした鬼の腕を花の名にした「羅生門蔓(かずら)」も、ふんだんに植えて。
   

ゼロ戦のエンジンの音 所沢航空発祥記念館

2013年07月06日 11時07分56秒 | 名所・観光


2012年12月1日(土)。この日は私にとって「ゼロ戦の日」だった。
所沢航空発祥記念館でゼロ戦のエンジンの音が聞けるというのだから、前日からいくぶん興奮していた。

記念館では世界で唯一飛行可能なゼロ戦を、12年12月から米国の航空博物館から借用して展示した。

機体が老朽化しつつあるので、大事をとって今回は空を飛ばせず、エンジンをふかしてプロペラの回転音を聞かせるだけにとどめた。

戦争時代に子どもだった者にとって

♪ エンジンの音轟々(ごうごう)と
  隼は征(い)く雲の果て ♪

で始まる軍歌「加藤隼戦闘隊」の歌詞とリズムは耳に染み付いている。

「隼」は、陸軍の、ゼロ戦は「零式艦上戦闘機」の名前どおり海軍の戦闘機だった。

陸軍と海軍の違いはあれ、同じ戦闘機のエンジンの音だから大差はあるまいと、「隼」の歌を口ずさみながら所沢に向かった。

記念館に近い西武新宿線の航空公園駅に降りると、館に向かう高年の男性の姿が目立った。午前11時過ぎ館に着くと、すでに長い行列が出来ていて、当日券は全て売り切れていた。

この日は、午前11時、午後1時半、午後2時50分の3回、10分間観客の前でエンジンを始動させる(プロペラを回す)予定で、420人ずつ館に隣接したシート囲いの特設会場で見学させることになっていた。

午後1時半以降の券なら手に入るだろうと、タカをくくっていたのが裏目に出たのだった。

そのまま引き返すのは残念なので、シート囲いの外にいるガードマンに聞くと、「エンジンの音だけなら、聞こえますよ。感動しましたね」とのこと。

それならと時間をつぶして、午後1時半に来て見ると、周囲は人で一杯。録音機材を手にしている人も多かった。

うなぎ屋でうなぎは食べず、匂いをかぐ落語みたいな話である。

終戦直前、大阪から鹿児島県の隼人町に疎開していた。現在の鹿児島空港が特攻機の基地になっていて、小学校に通う頃、必ず編隊を組んで南に向かっていった。

ゼロ戦も特攻機にも使われたというから、あの中にこの音が混じっていたのだろうか。

低く重いエンジンの響きを聞きながら、まさに感慨無量だった。

このゼロ戦は、「52型」。「栄21型」と呼ばれるエンジンを積んでいる。1943年の三菱重工業製。

44年にサイパン島の飛行場で米軍に無傷の状態で捕獲され、57年に米カリフォルニア州の民間航空博物館「プレーンズ・オブ・フェーム」に移管された。

エンジンは一部の部品が交換されているものの、ほぼ原型どおりで、飛行可能なゼロ戦は世界でもこの1機だけ。今でも年間15~20時間飛んでいるという。

日本には17年ぶり3回目の里帰りで、78年には埼玉県桶川飛行場、95年には茨城県龍ヶ崎飛行場などで飛んでいる。

1943年製だからすでに69年。70歳に近い。日本同様、ゼロ戦も年老いたのである。

今回空を飛ばず、地上でエンジンの音を聞かせるだけにしたのは、この高齢のためであろう。

記念館では、「エンジンの老朽化で、エンジンの音を聞けるのは、これが最後になるかもしれない」という。

このエンジンの音は、日本への告別の調べだったのかもしれない。

その後、音なしで見るだけの入場券もあることが分かり、撮ったのがこの写真。

小型でいかにも軽快そう。だが、防護性能を犠牲にして、格闘性能と長距離飛行に特化して各国の戦闘機と渡り合ったあげく、米軍機に歯が立たなくなると特攻機で終わったゼロ戦の哀れな末路を思い出して、気は重かった。

全部で約1万機余作られたこのゼロ戦、人気が高く、展示は13年3月末までの予定が8月末まで延期された。入場者は約14万人に上った。