江戸時代の中山道や中世の鎌倉街道・・・の通路だったので、道沿いに都市が発達した“道の県”埼玉で、「日光御成道(おなりみち)」が脚光を浴びようとしている。
この道沿いの宿場町だった川口市と鳩ヶ谷市が合併して川口市になったのを記念して、12年1月下旬から2月初めまで、市の中央図書館と市民ホールで「日光御成道展」とシンポジウム開かれた。11月11日には、日光への将軍行列を再現した。
この道のことは、余り知らなかったので、展覧を見に出かけた。
御成道とは、江戸幕府を開いた徳川家康を祭る「日光東照社(東照宮)」に将軍や将軍の世継ぎ(大納言)などが、その命日(4月17日)に行われる例祭に、参詣(日光社参)する道として整備された。
江戸の本郷追分(東京都・文京区)から、幸手宿で日光道中(日光街道)と合流するまでの12里(48km)。追分とは、道が左右に分かれるところを指す。
本郷追分は、現在の東大農学部前にある。中山道の起点日本橋からちょうど1里(4km)で、1里塚があった。御成道はここで中山道(現国道17号線)と分かれるのである。
5つの宿場があった。岩淵の後、川口、鳩ヶ谷と続き、大門、岩槻(いずれもさいたま市)の各宿を経て、幸手宿の手前の幸手追分で日光道中に合流した。日光道中の脇街道というわけだ。
日光道中は、芭蕉が「奥の細道」の第一歩として、日光へ向かって千住から草加、粕壁(春日部)と、曾良を連れてたどった道である。
将軍は社参の際、岩槻城を宿泊地にしたため、御成道は、江戸時代初期には「日光道中岩槻通り」「岩槻道」などとも呼ばれていた(11年の浦和博物館の「日光御成道」特別展による)。
当初から整備されていたわけではなく、3代家光の時代までは、日光道中の越谷から岩槻に向かい日光に向かっていたようだ。将軍社参にふさわしい道として整備されたのは、1640(寛永17)年頃だという。
日光社参は、片道3泊4日で計17回行われた。始まりは、1617(元和3)年、2代将軍秀忠の時。将軍時代2回、引退して大御所になってから1回と計3回。家康への崇敬の念の強かった三代家光は、実に9回も社参を繰り返している。
社参の狙いは、徳川家の威信を天下に知らしめることだった。このため莫大な費用がかかった。お供をする大名や旗本、御家人、その随伴員、動員される人馬の数・・・。
先頭が岩槻に到着した頃、最後尾が江戸城を出発するというほど大規模なものだった。
幕府財政の悪化を理由に、4代家綱(2回)の後、日光社参は一時休止されていたのは当然のことだ。
ところが、享保の改革を断行、幕府や庶民、農民に倹約を強制したはずの8代吉宗も1728(享保13)年、供奉者13万3千人、人足22万8千人、馬30万5千頭の規模で大掛かりな社参をした。
1776(安永5)年の10代家治の社参では、前回から48年ぶりということもあり、吉宗の社参の規模を真似た。
社参は1843(天保14)12代家慶を最後に終わった。すでに失墜しつつあった幕府の威信回復を図ろうとしたため武家等の供奉(ぐぶ)者は15万に及んだという。
このおびただしい人馬の調達は、沿道の宿場や村々に押し付けられた。それだけではない。道の修理、掃除、藪の刈り取り、荷物の輸送や宿の準備など大変な負担である。
このような過大な沿道への負担が、街道こそ違うが、幕末の埼玉県下を揺るがす「伝馬騒動」につながっていくのである。
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