ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

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中山道

2012年02月07日 18時36分31秒 | 街道・交通


「中山道」は、東京と京都を結ぶ大動脈ながら、「東海道」に比べて、知名度は低い。東海道が海沿いなのに対し、中山道は、「木曽街道」「木曽路」とも呼ばれた。

島崎藤村の「夜明け前」の書き出しで有名なように「木曽路はすべて山の中にある」からである。碓氷峠、和田峠、塩尻峠もある。

「木曽街道69次」は、「東海道53次」より宿場が16も多いのだから、当然距離も長い。

135里余あるから、東海道より9里余長かった(1里は約4km)。「中仙道」「仲仙道」とも書かれるが、幕府は「中山道」に統一した。平坦な埼玉県内は例外で、中山道の一般の印象は、「山の中の道」なのである。

江戸日本橋を基点に、板橋を最初の宿場として、荒川を戸田の渡しで越え、埼玉県に入り、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、本庄の9つの宿場を過ぎ、神流川を渡って群馬県に入る。

道筋は、ほぼ現在の国道17号線に沿っていて、県内の道幅は5間から6間(9~11m)だった。

5街道の一つだから参勤交代に使われた。幕府は各街道を通行できる大名の規制をしていて、1821(文政4)年には49藩が利用した。

中山道を順路とする加賀藩など41藩と、東海道が順路ながら幕府の許可を得た彦根藩など8藩である。徳川御三家の尾張藩や紀伊藩も何度か通行している。

百万石の加賀藩の行列は、最も多い時で3500人、普通の時で2000人前後だった。

江戸から金沢まで約120里(480km)、日数は平均して11、12泊だった。1日平均で約10里(40km)歩いたことになる。

金沢新幹線が走る時代、まさに今昔の感がある。東海道より道程が長いのに、利用されたのは、通行量が少なく、難所も少なかったからだった。これらの数字は、「埼玉・歴史の道50話」(県立博物館編著 埼玉新聞社)による。

さいたま市のシニア大学に通ったので、中山道の講義も聞いた。

「中山道」をなぜ、「なかせんどう」と読むのか初めて分かった。昔、「山陽道」も「山陰道」もいずれも、「さん」ではなく「せん」と読んでいたのだという。

中山道を使うと、大きな川越えがなく、日程の計算がしやすい利点もあった。

また、川の多い東海道は、渡る際、かごを人夫に担がれて下から見上げられる。このため京都から江戸にお輿入れする姫君に嫌われて、川が少ない中山道は、『姫街道』と呼ばれた、という講師の話が面白かった。

中山道の宿場の中で、本庄が一番人口と建物が多い宿場だった。

今は日本一面積が小さい市として知られる、さいたま市の南隣の蕨の方が浦和宿より大きかった。

蕨宿の方が大きかったのは、ご承知の通り、幕府が反乱の江戸への波及を恐れて、川に橋を架けさせない政策をとったためだ。

荒川の「戸田の渡し」が川留めになった際、宿泊の施設が必要だったので蕨宿の方が栄えたのである。

歌川広重の浮世絵版画「東海道53次」は、海外にも名をとどろかしている。この広重が「木曽街道69次」(全71景)にも手を染めていることは、余り知られていない。

江戸日本橋から京都三条大橋までを69の宿場で結び、全行程約135里2町(約534km)。「次」とは「宿る」「泊まる」という意味だったという。71景とは宿は板橋から始まるのに、基点の日本橋が第1景になっていて、中津川(岐阜県)が2景あるからである。

広重が47景、美人画で知られた渓斎英泉が24景を描いている。埼玉関係9景は栄泉の筆になる。

浦和宿は煙が立つ浅間山の遠望、大宮と鴻巣宿には富士山の遠望付きである。

埼玉県最後の宿場本庄は、利根川の水運で栄えていたので、天保年間、家数1212、宿内人口4千人超、旅籠屋70軒で、中山道最大規模の宿場だった。

深谷宿は、中山道の中で旅籠屋が一番多く80軒あった。飯盛旅籠が多かったという。(「中山道69次を歩く」 岸本豊著 信濃毎日新聞社」による)

日本橋を早朝4時に出発(七つ立ち)して、一泊目は上尾宿、2泊目は深谷宿で過ごす人が多かった。桶川宿は、江戸から約40.8km。
当時の旅は1日約40kmだったから、参勤交代の大名は桶川で一泊、板橋宿で衣服を改め日本橋に向かった。桶川宿は一般人の最初の宿になることも多かった。(「木曽街道六拾九次 望月義也コレクション(合同出版)」による)

(写真は浦和本陣跡)


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