東京から約60kmの小川町に有機農業に地区全体で取り組み、全国ばかりか外国からも研修生がやってくるというところがあるということは、かねてから知っていた。
日本で戦後の公害の走りだった東京のガソリンの鉛中毒問題の頃から、環境問題には長く興味を持ってきた。このため有機農業とか「ロハス」とか「スローフード」という言葉には魅かれるものがあって、これまで何度か説明会などに出かけてきた。
調べてみると、小川町の下里地区に「霜里農場」という名の先進農場があり、奇数月の第2土曜日の午後1時半から見学会を開いていることが分かった。
その日近くに連絡してみると、もう定員一杯だとのこと。承知で、13年9月に会場の「下里二区集落農業センター」に出かけた。
東武東上線の終点の一つ小川町からバスで10分、降りて徒歩で10分くらいの所にある。
下里で降りると、長野県の茅野市から来た母娘に出会った。道が分からないので、一緒に行くことにした。
会場に近づくと、さいたま市近辺では見かけない細い黒羽根トンボが何匹か飛んでいて、木の葉にはナメクジがしがみついていた。カメラを持っていた大学生くらいの娘さんはさっそくシャッターを切った。
有機農業地区は、殺虫剤を使わないので、昆虫にもやさしいのだろう。
会場には各地から人が詰めかけていた。宮城県の大崎市からはバスで団体が来ていたし、陸前高田から来た人もいた。研修志願の若い外国人も混じっていた。大学生や若い人々の姿が多かった。
驚いたのは、安倍首相夫人の姿もあったことである。
著書「アグリ・コミュニティビジネス」(11年 学芸出版社)の中で、この農場や集落について書いている大和田順子さんの知り合いらしく、大和田さんに促されて、短い挨拶をされた。
自ら「家庭内野党」と名乗るだけに、面白い話だった。選挙区の山口で稲作もしているという。
大和田さんは、日本に「ロハス」という言葉を始めて紹介したことで知られる。「ロハス」とは、米国から来た語で、Lifestyles Of Health And Sustainability(健康と持続のライフスタイル)の略語。「健康と環境問題を意識したライフスタイル」といった意味である。
有機農業とも関係が深く、何度もこの地を訪れているという。
この地が全国に名を知られるようになったのは、10年、農水省の農林水産祭のむらづくり部門で、「全国で初めて集落全体で有機農業に取り組んでいる」として「天皇賞」を受賞して以来だ。14年には天皇皇后両陛下が下里地区を視察された。
その時の農林水産祭のホームページによると、この地区の総世帯数は11,711戸、農家数は882戸、農産品を売っている販売農家数は397戸。米、小麦、大豆、畑では主に自家用野菜が栽培されてきた。
一戸当たり農用地面積は0.8ha。農産物価格が低迷する中で、これまでのような経営を続けていてもやっていけないと、2000年、下里地区機械化組合の安藤郁夫組合長が、付加価値の高い有機農業に取り組むことを提案した。
その背景にあったのが、同じ地区で30年来、こつこつと有機農業を続け、その草分けとなった金子美登(よしのり)氏の存在である。
金子氏は、1948年下里生まれ。昔からの農家の長男で、両親は酪農をしていた。熊谷農業高校で酪農を学び、さらに農業経験2年以上が対象の農水省の農業者大学校(2年制)第1期生となった。
在学中、「有機農業」という言葉を、英語の「0rganic Farming」から翻訳して日本に定着させ、その普及に努めた一楽昭雄氏(全国農業協同組合中央会理事、農林中金常務理事などを歴任)の指導を受け、米と野菜を無化学肥料、無農薬で作り、地元の消費者と直接提携して届けるという会費制の有機農業を、1971年の卒業と同時に小川町で立ち上げた。
日本の有機農業の草分けであるとともに、42年間研修生と「霜里農場」を経営、地元の消費者40世帯と契約して、約3haの耕地で有機農業を続けている日本の有機農業の第一人者である。町議会議員にも選出されている。
有機農業は、20世紀初め英国やドイツに研究家や提唱者、1930年代には日本でも福岡正信氏の自然農法などが現れたが、日本の有機農業は、世界先進国の中で立ち遅れが目立つ分野である。有機農産物も輸入品が圧倒的に多い。
下里地区になぜ「霜里農場」の名? といぶかっていたら、「ここは海抜70m余なのに、夏は暑く、冬には霜だけでなく雪も降ることがあるんですよ」と、地元の関係者の一人が教えてくれた。
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