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陸軍飛行学校から特攻機 桶川市

2015年05月11日 17時17分56秒 | 市町村の話題



5年もこのブログを書き続けているのに、埼玉県のことで知らなかったことが次々に出てくる。

最近、夕方のNHKのニュースを見ていたら、桶川市の荒川沿いにある現在の「ホンダ航空」の滑走路と同じ場所に、第二次大戦中、旧陸軍の桶川飛行学校があった。1945(昭和20)年2月以降は特攻隊の訓練基地として使用され、12人が鹿児島の知覧基地に向けて出発、11人が死んだという。

第二次大戦末期、特攻機の舞台になったのは、沖縄近辺の海域だった。

1945年、疎開先の鹿児島県隼人町で、隼人小学校に入学した私は、隣にある鹿児島神宮に毎朝、参拝に来る特攻隊員を見慣れていた。

毎朝、数十機が編隊を組んで出撃していくのを見送り、昼過ぎ1機だけが"戦果”報告のため帰ってくるのを見た。

特攻機の舞台だった沖縄周辺の海域からはるかに遠い埼玉県が、特攻機に関係していようとは、思ってもいなかったので、15年5月10日、さっそく飛行学校跡に向かった。

ここには、今にも崩れ落ちそうな木造の兵舎が残っていて、当時の写真や遺書が壁面に張られ、ビデオも上映されている。土、日、休日は「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」の有志が朝10時から午後4時まで詰めていて、説明に当たる。

その中の一人は、当時この飛行学校で整備員として勤務していた柳井政徳さんだ。大正15年生まれというから、90歳近い高齢なのに、今でも元気に質問に答えてくれる。

手ごろな資料も準備されていて、展示品やビデオ、それに説明を合わせると、ここから飛び立っていった12人のことがよく分かる。

JR桶川駅西口から東武バス「川越行」で10分。荒川を越す寸前の「柏原」停留所で降りると、親切な案内板があってすぐだ。

正式には「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」と呼ばれ、1937(昭和12)年、この地に開校した。

学徒出陣の特別操縦見習士官、召集下士官、少年飛行兵など約1500~1600人が教育を受けた。1945(昭和20)年2月以降は、特攻隊の訓練基地として使用された。

敗色がますます濃くなってくる時期で、まともな戦闘機は少なく、この12人は陸軍で初めて練習機による特攻となった。

2人乗りの「99式高等練習機」で、訓練は堤防上に立っていた吹流しをめがけて急降下、急上昇を繰り返すものだった。

戦闘機と違って、エンジンの出力が弱いので、速度も性能も低く、爆弾を積めば飛ぶのがやっとだったという。

陸軍は各地の飛行場で秘密裏に訓練していた模様で、桶川には6隊が来ていたようだという。昭和20年3月27日、知覧に向かう12人が決まり、「第79振武特別攻撃隊」と名づけられた。

昭和20年4月5日、12人は鹿児島の特攻機基地知覧に向かった。途中、各務原(岐阜県)、小月(下関)の飛行場に一泊、7日知覧着。

柳井さんら整備兵、整備員6人は、小月飛行場まで同乗、そこで別れた。

出撃は16日。うち1機は爆弾が落下したためいったん帰還、22日再出撃。1機は米軍機の攻撃を受け、離島のサンゴ礁に不時着、島民に救助されて知覧に帰ったが、飛行機がなく、終戦を迎えた。

12人の中に埼玉県関係者はいなかった。

戦後この兵舎は住宅困窮者用の寮として使われた。全員が寮を出た後、市が国から用地を買収した。関係者の保存への要望も強いので、市は15年2月、昭和初期の建造当時の姿で保存の方針を決めた。ところが、耐震診断で耐震指標値を大きく下回ることがわかり、12月1日から公開を中止し、当面は敷地内への立ち入りも禁止した。(写真)

市では当初、建物を取り壊す予定だったが、保存を求める署名が約1万4000人分集まった。桶川市教委が16年2月に市有形文化財に指定、5月末から解体工事を始め、戦前の姿に復元する。旧陸軍の飛行学校は、全国でも珍しい。

08年に開場以来、来訪者が多く、15年7月までで2万3000人に達した。



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