ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

音楽寺 秩父札所23番 秩父市

2012年11月17日 18時22分45秒 | 寺社




2014(平成26)年は、秩父札所34ヶ所観音霊場の開創780周年に当たる。12年に1度の午歳(うまどし)総開帳の年である。

3月から11月までは、全札所の厨子(ずし)の扉が開かれていて、普段は秘仏としてお目にかかれない観音様をじかに拝顔できるばかりか、「お手綱(たずな)」と呼ばれる外に出された綱の片方を握ると、観音様と手をつなぐこともできるからというから有難い。

午歳に総開帳をするのは、馬が観音様の眷属(一族)だとされるからとか、開創の1234年が甲午(きのえうま)歳だったからだという。

目ぼしい札所はもう何か所も訪ねた。一番行きたかったのは名前も素敵な23番音楽寺だった。秩父駅から歩いても行けるところにあるので、「いつでも行ける」とこれまで敬遠していたのに、4月5日、花見の帰りに思い切って出かけた。

訪ねたかったのは、音楽好きなこともある。この寺は、その名から音楽を志す人たちが、ヒット祈願などのために訪れることで知られる。

この寺の御詠歌は

 音楽のみ声なりけり 小鹿坂の 調べにかよう峰の松風

である。

札所を開いた権者(ごんじゃ 仏・菩薩が衆生を救うため仮の姿で現れた者)13人が、松風を聞いて、菩薩の音楽を感じたために「音楽寺」と名づけられたという。本堂の裏手に13人の石仏が立っている。山号は「松風山」である。

音楽好きと言っても声を上げることしか音楽には能がない。この寺に来たかったのは何よりも、秩父事件の始まりに関係するからである。

1884(明治17)年11月1日夜に椋神社に集結、「困民党」を名乗って蜂起した農民たちが小鹿坂峠を越えて南下して、2日にこの寺に集結した。寺の鐘楼の梵鐘(吊り鐘)を打ち鳴らし、約3000人が大宮郷と呼ばれていた秩父の町に駆け下っていった、その現場をこの目で見たかったからだ。(写真)

境内には「秩父困民党無名戦士の墓」と書いた石碑があり、「われら 秩父困民党 暴徒と呼ばれ 暴動といわれることを 拒否しない」と刻まれている。

秩父人の心意気である。

秩父駅から来ると、荒川をまたぐ530mの「秩父公園橋」を渡る。主柱から斜めに張った鋼鉄製のケーブルで橋を支える斜張橋が、楽器のハープに見えるので「ハープ橋」とも呼ばれる。

音楽寺は、秩父市と小鹿野町にまたがる約4kmの秩父長尾根丘陵沿いに開かれた「秩父ミューズパーク」の北口を入って間もない右手にある。

秩父札所中最高の景観と言われるとおり、この寺から見下ろす秩父の市街地の眺めは絶景というに値するだろう。右手に削り取られた武甲山が見える。

近くに展望すべり台、展望台を兼ねた「旅立ちの丘」があることからも眺望の良さが分かるだろう。梅林、四季の百花園も近くにある。

「旅立ちの丘」は、1991年に近くの影森中学校の校長小嶋登(故人)が作詞、女性の音楽教師坂本(旧姓)浩美が作曲、今では全国の卒業式でトップの人気になっている「旅立ちの日に」にちなんだものだ。影森中の生徒によるコーラスも流れる。この二人は、県から「彩の国特別功労賞」が贈られた。

「ミューズ」とは、ミュージック(音楽)などの語源になっているギリシャの芸術の女神の名をとったもので、音楽堂、野外ステージなどの文化施設のほか、約50面のテニスコートやフットサル、流れるプール(夏季)、サイクリングセンターなど多彩なスポーツ施設やコテージ(100棟)がある。

尾根を走るスカイトレイン、自転車、歩行者用の「スカイロード」の両側には約3kmのイチョウ並木があり、癒しの森・花の回廊もあって、シャクナゲ、アジサイ、スイセン、サルスベリ、十月桜など各種の花が1年中楽しめる。

年間170万人が訪れるという。


西善寺 秩父札所8番 コミネモミジ 横瀬町

2012年11月17日 13時56分14秒 | 寺社



一本のモミジでこんなに素晴らしい巨木を見たことはない。

12年11月17日に歩き仲間と訪ねた、秩父札所8番の西善寺の境内にあるコミネモミジである。

思わず

 小倉山峰の紅葉心あらばいまひとたびの御幸待たなん

百人一首の歌を口ずさみたくなるほどだ。

目の前に武甲山が迫り、削られてはいても、威容を見せる。

埼玉県の指定天然記念物で樹齢約600年。

幹回り3.8、高さ7.2m、枝の幅は南北18.9、東西20.9、傘回り56.3m

というから、高さよりも枝が四方にひろがり、その広がりの輪が大きいことが分かる。初めて見ると圧倒されるほどだ。太い幹はまるで波のようにうねり、風格を感じさせる。(写真)

関東地方では最大のモミジと考えられるという。

西善寺が、「東国花の寺百ヶ寺 埼玉1番」に指定されているのもうなずける。関東1都6県の「花の寺」と称される寺院が集まり、01年にできたもので、モミジは花ではないものの花として扱われている。


11月中旬の紅葉シーズンには、札所参り・御朱印以外の見物人や写真撮影者からそれぞれ100、200円を任意で徴収している。昨年集まった20万円余はコミネモミジ基金として、軽自動車が東北大津波の被害地、気仙沼商工会議所に寄贈された。

このモミジは東北復興にも役立っているわけである。

モミジに興味を持ち始めたのは、前年、川口市安行のモミジ専門植木園「小林もみじ園」を訪ねて以来である。約3千坪に400種余が植わっていて、まるで植物園のようだ。

そのホームページなどを読んでいると、「日本はカエデ科植物の宝庫」だと分かる。

植物学では、モミジもカエデも「カエデ」といい、どちらもカエデ科カエデ属に分類されている。モミジという科も属もない。その区別は主に盆栽や造園業で行われている。

カエデは、カエルの水かきのように葉の切れ込みが浅いので、蛙手(かえるて)から「カエデ」、モミジは「紅葉ず(もみず)」という動詞の古語が転じたもので、葉の切れ込みが深く赤ちゃんの手に似ている。葉は5枚以上。

西善寺のコミネモミジは、数えてみると葉が五つに分かれていた。

日本の代表的なモミジ、イロハモミジ(別名タカオカエデ)は葉が5-9裂するので、イロハモミジの一種なのだろう。

世界的にみてカエデは、数多くの野生種が凝縮したように日本に自生している。紅葉が美しく、モミジとして親しまれているカエデは、中国や朝鮮半島に数種の自生があるだけで、それ以外は日本列島にあるのだそうである。

日本は「さくらの国」であると同時に「モミジの国」なのだ。

もみじは春モミジも含め、日本には原種、園芸品種合わせて400種類以上あるというから驚く。

モミジは秋だけでなく、春の芽吹きも夏の緑葉も真冬の雪化粧も美しい。今度はその季節にも訪ねてみよう。

「花の寺」というだけあって、初夏にはボタン、初秋には約30本のキンモクセイ、さらにムクゲやサルスベリ・節分草・福寿草なども咲き、年間を通じ花を楽しめるというから。

「ぼけ封じの寺」の別名もある。


金昌寺 秩父札所4番 秩父市

2012年11月10日 13時46分14秒 | 寺社

12年10月中旬、歩き仲間と一緒に秩父札所の1番から5番を訪ねた。いずれも荒川の支流の定峰川や横瀬川の近くにあるお寺である。

四国巡礼には順番どおり回る「順うち」、逆から回る「逆うち」という言葉があるらしい。一番から順に訪ねたからといって、殊勝に「順うち」を始めたわけではない。この五つの寺がまとまっていて回りやすいだけのことだ。

「乱れうち」という言葉もあるそうで、何度目かになる秩父札所めぐりは、この言葉どおり、順番を選ばない。

西武鉄道の御花畑駅からバスで1番の四萬部(しまぶ)寺へ。古くから親しまれている高篠鉱泉郷の一角にある。本堂の右手の施食殿(せじきでん)では、毎年8月24日施餓鬼会(せがきえ)が行われる。

曹洞宗なので「餓鬼」の字は使わず、施食会(せじきえ)と呼ぶ。古い歴史を持つ行事で関東三大施餓鬼の一つに数えられている。

2番の真福寺へは長い坂道を登る。息を切らして上り詰めると、無住の寺だった。

秩父札所は33だったのに、後にこの寺を加え34にした由緒ある寺である。この寺を加えたため、西国33か所、坂東33か所と合わせて「日本百観音」になった。

九十九(九重苦)より百の方が良いということだろうか。

33とは気になる数字だった。観音様が33の姿に変化して、衆生を救うという意味だとのこと。古代インドでは3は「多数」を意味し、それを重ねた33は無限・無数・無辺にも通ずるという。観音様のご慈愛は無限にあるということだろう。

5つの寺のうち最も興味を引かれたのは、4番目の金昌寺だった。

山門には木造りでは秩父札所の中で最大の仁王がにらんでいて、左右の柱に大わらじもかかっている。ここの仁王はその健脚ぶりで信仰されてきたからだという。

全国から寄進された1300体を超す石仏があるので「石仏の寺」として知られる。有名なのは「酒呑み地蔵」で、右手に徳利を持ち、左手に飲み干した大盃を頭に伏せている。 (写真)

実にユーモラスで楽しそうな姿なので、酒呑み礼賛の地蔵かと思いきや、その反対で、お酒の上で失敗したこの地の名主が、「もう酒は呑みません」と代官の前で誓ったのに由来するという。「禁酒宣言地蔵」なのである。この地蔵に禁酒を誓う人もいるとか。

本堂の前の慈母観音(子育て観音)も有名だ。母親が子どもに乳を与えている姿で、このやさしい慈母の像は、女性ばかりではなく男性の心にも迫るものがある。

やっと授かった妻と子を相次いで失った人が、浮世絵師に生前の母子の姿を下書きさせたと伝えられる。この時代、母が胸をはだけて授乳する像は珍しい。

寺に隣接する荒船家の墓所で、すっかり忘れていた埼玉出身の有名代議士の立派な墓と銅像に出会った。

荒船清十郎氏。運輸大臣当時、自分の選挙区の高崎線深谷駅に急行を停車させ、国会で追及されて大臣辞任に追い込まれた人。

停車を了承した当時の国鉄総裁石田禮助氏が、国会で「武士の情け」と答弁したことは今でも語り種(ぐさ)になっている。

こんな出会いもあるので秩父札所めぐりは止められない。














雪の秩父札所巡礼

2012年11月08日 12時27分11秒 | 寺社
雪の秩父札所巡礼

「札所は観音を祭るお寺なんですか」。年甲斐もない愚問を発するほど、信仰心の持ち合わせはほとんどないのに、10年2月、6人で秩父の札所5か所を回るはめになった。

お年寄りの歩く会の会員になったからである。

西国33か所とか坂東33か所霊場といった具合に33か所が普通なのに、秩父だけは34か所ある。この三つを合わせて「日本百観音」というが、百にするため34か所にしたのだという。

33か所なのは、観音が33に化身(けしん)して衆生を救うという信仰に由来する。

秩父札所最後で、日本百観音の結願寺でもある34番は水潜寺という、ダイバーが喜びそうな名前で、結願すると長野の善光寺に詣でるのが習わしという。

四国88か所の霊場を巡拝する遍路の季語は春だというのに、秩父へのにわか巡礼を待ち受けていたのは冷たい雪だった。出発したさいたま市では曇りだったのに、秩父では滑らないよう足下に気を使って雪の「巡礼路」をたどる貴重な経験をした。(写真)

歩いたのは、帰りの時間を考えて26から30番の5か所だけ。27番の大渕寺の「月影堂」の別名がある観音堂の近くに高さ16.5mの剣を手に持つ大きな白衣の「護国観音」がある。「高崎観音」(41.8m)「大船観音」(25.4m)と並ぶ寺院にある関東三大観音の一つである。

本堂のかたわらで一口飲めば33カ月長生きするという有難い「延命水」を飲んだ。

28番の橋立堂は、武甲山の西麓に当たり、高さ65mの武甲山の岸壁を背にして観音堂が立つ。

本尊は馬頭観音というだけあって、観音堂の隣には馬堂があり、親子の馬の木像が安置され、境内に馬の銅像がある。馬とのかかわりが強いところだ。「馬の観音さま」として信仰されてきた。

馬頭観音は今では、馬の守護神として祭られ、動物供養の性格が強い。

本来は、俊足を生かして四方を駆け回り、諸悪を蹴散らし、食い尽くすとされている。他の観音の表情が女性的で優しいのに比べ、目尻を吊り上げ、怒髪天をつき、牙をむき出した憤怒(ふんぬ)の相をしている。

このため、菩薩ではなく明王に分類され、「馬頭明王」とも呼ばれる。

馬頭観音が本尊となっている札所は珍しく、100観音霊場の中で西国29番松尾寺とここだけだという。

ここには県指定天然記念物の橋立鍾乳洞がある。全国でも数えるほどしかない縦穴(傾斜穴)で、全長約130m。洞内くぐりは、「弘法大師の後姿」などの奇岩でいっぱいなので、秩父札所きっての夏の行楽地としてにぎわう。

29番長泉院は、「よみがえりの一本桜」と呼ばれるしだれ桜で知られる。季節ごとに花が美しい寺である。

29番から30番法雲寺に向かってすぐ、札所ではないが、清雲寺には県の天然記念物に指定されている樹齢600年のしだれ桜の巨木(エドヒガン)がある。

法雲寺は、花と緑につつまれた美しい寺である。ご本尊は、鎌倉建長寺の道隠禅師が中国から持ち帰った通称「楊貴妃観音」。雪景色も写真のように素晴らしく、季節を変えてまた来たい。

「植木の里 安行」 お寺めぐり 川口市

2012年09月28日 15時28分19秒 | 寺社


安行のお寺めぐりは、安行の地名や植木の開祖にゆかりのある「金剛寺」から始めた。

この寺には開祖の墓や記念碑のほか、小さいけれど趣が深い茅葺の山門がある。江戸初期にできたもので、川口市内でも最古の部類に属する。山門に向かって左手には樹齢400~500年とされるキャラボクが威容を誇っている。

金剛寺は「お灸の寺」としても知られる。幕末にこの寺の第19世住職海牛禅師が始めた「弘法の灸」で、今でもお灸をすえてもらいに訪れる人が多い。

お灸はまだ経験がないので、一度このような寺ですえて欲しいと思っている。季節には川口で一番長いという参道の紅葉も美しい。

次に金剛寺に近い、川口市で最古という「宝厳院(慈林薬師)」を訪ねた。本堂はコンクリート製に改築されているので堂々としている。

安行原の「密蔵院」は、約30本の早咲きの安行桜で有名。ソメイヨシノより早く咲き、花期も長い。花びらはソメイヨシノより小ぶりで、ピンクが濃い。

ここの山門は、薩摩藩島津家の江戸屋敷の門を移築したもので、その山門の前を中心に各所に咲き、シーズンには多くの人でにぎわう。

安行桜は、「沖田桜」とも呼ばれる。昭和20年初頭、この桜を安行で見つけて育てた沖田雄司氏の名にちなんでいる。

密蔵院のホームページ上の沖田氏とのインタビューによると、この桜は、ソメイヨシノより1週間から10日開花するのに、花期が長いので、ソメイヨシノと一緒に見られる。

「安行大寒桜」と呼ぶ人もいるが、「安行緋寒桜」の名で桜図鑑に掲載されたという。

桜にありがちな「天狗巣病」になりにくく、枯れ枝にならない。桜は切り口から腐りやすいので、「桜切るバカ、梅切らぬバカ」と言われているのに、この桜はいくら切ってもかまわない、というから面白い。

桜の時期には、日本全国ソメイヨシノ一色で、一斉に咲き、一斉に散る。この桜の画一ぶりにうんざりしているので、こんな一風変わった桜が安行にあるのは非常にうれしい。

本堂手前には四国88か所霊場の砂を埋めた砂踏参道があり、88か所巡礼のご利益があるとされる。庭園には、ヒイラギ(樹齢300年)やツゲ(同500年)などの古木もある。

最も親しまれている、四季の花が美しい「花の寺」興禅院ももちろん訪ねた。「野鳥の森」「ふるさとの森」で、「紅葉の森」としても知られる。

12月上旬にはこの院の山全体が紅葉で赤く染まる。参道にスダジイの大木が何本かそびえ立ち、境内に茂る木々が「野鳥の森」だ。

裏の雑木林の斜面林のふもとには、湧水がある。350年前にできた弁財天が祭られ、木道沿いに十三石仏が散在する。初夏はアジサイ、秋の彼岸にはマンジュシャゲが咲き、素晴らしい湿地の散歩道だ。

本堂左の墓地のスダジイの大木の根元にお地蔵様が抱えられているように見えるのも可愛い。

最後は、埼玉高速鉄道の戸塚安行駅に近い西福(さいふく)寺を訪ねた。ここには美しい三重塔があり、三代将軍の長女千代姫が奉建した。高さ23m、埼玉県では一番高い木造建築だ(写真)。

西立野にあるこの寺には西国(33か所)、坂東(33か所)、秩父(34か所)の百札所の観音像を納めてある百観音堂がある。

ここを参詣すれば、100の観音霊場を回っただけの功徳があるわけだから、江戸から近いこともあって、江戸時代からにぎわった。


























日本最大の道教のお宮「聖天宮} 坂戸市

2011年07月14日 17時18分04秒 | 寺社
日本最大の道教のお宮「聖天宮」 坂戸市

道教のことは、さっぱり分からない。坂戸市に異国風な大きな宗教施設があることは、東武東上線の駅のホームの写真で気づいていた。訪ねてみようという気になったのは、「日本で最大」という話を聞いて、持ち前の好奇心がうずいたからである。

東上線若葉駅東口から一直線に伸びる駅前通りを、団地群を越え、工業団地を越え、歩いて30分余、坂戸市塚越に入ると、左手に誰もが「ありゃりゃ」と叫びたくなるお宮が眼に入る。

反り返った黄色い瓦屋根に、龍、鳳凰、麒麟などの神獣のガラスとタイルでできた屋根飾りを頂いている。

拝観料300円を払い、天門(天宮への門)から前殿を経て本殿に至る。前殿の左右に太鼓のある鼓殿と鐘のある鐘楼が付いている。

「寺」ではなく、「お宮」だという。何と読むのかと思っていたら、「せいてんきゅう」とのこと。道教は、どうやら天宮、つまり天球、宇宙に関係があるようなのだ。

「陰陽道(おんみょうどう)、八卦、風水とかにかかわる中国古来の民間信仰ですよ」。私がわずかに知っている老子、荘子については、「その中から哲学的な部分をまとめた人です」――と、案内の人が教えてくれた。

中国では黄色い屋根瓦は、皇帝の建造物と道教のお宮にしか使われない。龍の彫刻もふんだんにあるが、前殿の九龍柱は、一枚の岩から彫られた九頭の龍。九という龍の数は最高位の神、これも皇帝しか用いることができないという。前殿や本殿の天井は、木の彫刻が釘なしで組まれている。

金箔と黄青白赤黒の原色を使った、きらびやかで豪華絢爛な創りである。それもそのはず、聖天宮は、道教の伝説にある天界の宮殿なのだから。

これまで全国、いろいろ日本の寺社を訪ねてきた。こんなけったいなお宮を見たことはない。

本殿の中央に、人間界の運勢を司る道教最高位の三神「三清道祖」が鎮座している。中央が天地創造の神「元始天尊」、左に万物の魄を司る「霊寶天尊」、右に万物を道徳へ導く「道徳天尊」だ。「元始天尊」は、豪華な頭の飾りを付けている。いずれも髭を長く伸ばしているのが特徴だ。

この「三清道祖」にお線香を上げ、こと細かにお願いごとをすると、ご利益があるというのである。

なぜこんなお宮が坂戸に出現したのか――。建てたのは、康国典大法師(故人)。台湾人で、貿易で財をなした。40歳半ば、膵臓をわずらい、医者から「不治、余命いくばくもない」と宣告された。

東京のガンセンター、慶応病院、その他外国の病院などで7年余治療したが、うまく行かなかった。「三清道祖」に願かけしたところ、一命をとりとめ、完治した。

感謝の念にかられ、他の人もご利益にあずかれるお宮を建てようと建造の地を探していたところ、台湾ではなく、日本のこの地に建てよというお告げを授かった。

最寄りの若葉駅も、前の道もない雑木林だったこの地に、一から整地し、1981(昭和56)年に着工、14年かかって、1995(平成7)年に竣工した。

台湾の観音山から龍などを彫る観音石を運び出し、木彫用の木は台湾の楠。台湾の宮大工に作らせて、ここまで運び、台湾の職人を呼んで組み立てさせたというから、総費用は億どころか数十、数百億円かかっているのはなかろうか。

きらびやかな中華風の建物に惹かれて、コスプレの聖地として若者に人気が出てきたようだ。







妻沼の聖天さま 斎藤別当実盛 熊谷市

2011年06月12日 12時35分50秒 | 寺社
妻沼の聖天さま 斎藤別当実盛 熊谷市

「平家物語」は、中学生の頃から好きだった。吉川英治が「週刊朝日」に連載していて、単行本になるたび一冊残さず読んだ。日本の超長編小説の魅力に魅かれたのはこのシリーズからで、「大菩薩峠」や「富士に立つ影」にも挑んだ。

「平家物語」の中で、不思議に強く印象に残っている武蔵武士が二人いる。熊谷次郎直実と斎藤別当実盛である。直実の場合は、姓が熊谷なのですぐ分かる。実盛が同じ熊谷出身だったとは、この歳になるまで知らなかった。いい歳をして知らないことばかりだ。

聖天さまは仏教の宗派で言えば、高野山真言宗で、その準別格本山。縁結びのご利益があるとかで、地元の商工会などは「縁結びのまち」として盛り上げようと、縁結びキャラクターの「えんむちゃん」も、商工部青年部が公募して登場した。。

聖天さまを入ってまずくぐるのが貴惣門。横に回って見上げると、大小の切妻屋根三つに破風(はふ・合掌型の装飾板)がついている重層の組み合わせで、全国的にも例が少ないという。国指定重要文化財だ。

くぐるとすぐ右手に、左の手に鏡を持った老人の座像が目に入る。白髪と鬚(ひげ)を染めている、最後の出陣前の姿だ。これが1179年、この寺を創建した武将実盛である。この銅像は1996(平成8)年建立された。

尋常小学校の唱歌に

年は老ゆとも、しかすがに 弓矢の名をば くたさじと
白き鬢鬚(びんひげ)墨にそめ 若殿原(ばら)と競ひつつ
武勇の誉を 末代まで 残しし君の 雄雄しさよ

という「斎藤実盛」の歌があったという。

昔の小学生は難しい文句を歌わされていたものだ、ほとほと感心する。

実盛は悲劇の主人公である。
1111年、越前生まれ。13歳で長井庄(ながいのしょう)と呼ばれていた妻沼の斎藤実直の養子になる。

保元の乱(1156年)では、熊谷直実らと源氏の源義朝に従い出陣、武勲を挙げた。平治の乱(1159年)では、平家の平清盛に敗れ、長井庄は清盛の二男宗盛の領地になる。宗盛の家人になって、宗盛に代わる別当として長井庄を管理する。

1179年、実盛は仏教の守護神の一つである歓喜天を祭った聖天宮を、長井庄の総鎮守として建立する。東京・浅草の待乳山(まつちやま)聖天、奈良・生駒市の生駒聖天とならぶ「日本三大聖天」の誕生である。

待乳山聖天は、浅草寺の子院のひとつの本龍院のことである。

1180年、富士川の戦では、平家側に参戦、周知のとおり、平家勢は水鳥の羽音に驚いて敗走する。

1183年、木曽義仲を討つため、平家軍に従った実盛は生まれ故郷越前に向かう。しかし、平家軍は倶梨伽羅峠の合戦に大敗、篠原(現加賀市)で義仲軍と戦い、また敗走する。「篠原の戦い」である。篠原は、実盛一族同門の地だった。

義仲軍の武将手塚太郎光盛は、侍大将が着る萌黄威しの鎧(もえぎおどしのよろい)の下に、錦の直垂(ひたたれ・鎧の下に着る)を着用した老武将と一騎打ちになる。名乗るよう求めても「木曽殿はご存じである」としか、答えない。

光盛は討ちとって、首を義仲の前に持参した。白髪を洗わせて、実盛と分かった時、義仲は人目をはばからず号泣する。

実盛と義仲の縁は1155年にさかのぼる。この年、鎌倉に住んでいた源氏の棟梁源義朝と大蔵館(埼玉県嵐山町)に住む弟の義賢は武蔵国をめぐって対立、大蔵館の変が起きた。

義賢は義朝の長男悪源太義平に討ちとられる。「殺せ」との命に背いて、義賢の遺児で二男の駒王丸は、畠山重忠の父重能と実盛の情に助けられ、信州の木曽に落ちのびた。成人したのが木曽義仲である。

2人とも、当時2歳だった幼児を殺すに忍びなかった。実盛は義仲の命の恩人だったのだ。嵐山町の鎌形八幡神社には「木曽義仲産湯の清水」の石碑が立っている。武蔵武士の本拠地だけに埼玉県には源氏関係の遺蹟が多い。

この実盛の話は、平家物語だけでなく、「源平盛衰記」や歌舞伎、謡曲に取り上げられ日本人の琴線に触れてきた。

無役の実盛が侍大将の身なりをしていたのは、生まれ故郷に帰るのに衣装だけでも錦を飾りたいと、宗盛の許しを得たもの。髪などを黒く染めたのは、年老いた武士とあなどられないようにとの配慮からだった。死に装束だった。享年73歳。

500年後、この篠原の古戦場を訪れた松尾芭蕉は

むざんやな 甲(かぶと)の下のきりぎりす

と詠んだ。

義仲もその翌年、範頼の軍に攻められ、粟津(滋賀県大津市)で一生を終えた。

妻沼の聖天堂 国宝指定 熊谷市

2011年06月11日 17時00分00秒 | 寺社
妻沼の聖天堂 国宝指定 熊谷市

「縁結びの聖天(しょうでん)さま」として親しまれている「妻沼の聖天さま」――熊谷市の「歓喜院聖天堂(かんぎいん・しょうでんどう)」が12年5月18日、国の文化審議会で県内では5件目の国宝に指定されることが決まった。

県北の観光振興の起爆剤になると期待されている。

正式には、真言宗の「聖天山歓喜院長楽寺」の本殿である。日光東照宮と同じ権現造りで拝殿、中殿、奥殿からなる。

特に奥殿の壁面は、獅子、龍、鳳凰(ほうおう)、七福神などの極彩色の豪華な彫刻で埋め尽くされているので知られる。

指定の理由は①江戸時代の建築装飾の技術的な頂点の一つである②農民の寄進でできた、の二点だった。

聖天院は1179年、斎藤別当実盛が開いたとされている。数回再建されていて、1670年の大火で消失した。

地元の大工の棟梁、林兵庫正清(はやしひょうご・まさきよ)が再建を志したのは1720(享保5年)。歓喜院院主とともに村々を巡って浄財を集めた。着工にこぎつけたのは15年後の1735年。子の正信が1760年、完成させた。

水害や資金難で工事は何度も中断し、完成まで25年かかった。その費用2万両の大半は民衆が寄進した。

棟札に残っている記録によると、名字さえなかった農民の寄進額は50から300文、中には麦や米を出したのか、1斗、2升と書かれているものもある。

着工当時の江戸・享保年間は、日光東照宮に代表される華美な建築装飾が最高潮を迎えていた。聖天院が「小日光」と呼ばれるゆえんである。

彩色彫刻で装飾された、現存の寺院としては最後のものだとされ、1984年、国の重要文化財に指定されていた。

250年近く風雨にさらされ、彫刻も痛み、その彩色もほとんど失せてきたので、03年から、外壁の彫刻を当時の極彩色に復元、大屋根もふき替える大規模修理に取りかかった。工期を2年延長、7年かけて10年3月に完成した。総工費約11億6千万円。

復元工事で色の違う漆5種類が使い分けられるなど、高度な彩色技術が駆使されていることも分かった。

色とともに彫刻の数と多様さも驚異だった。70頭以上ある龍の彫刻は、姿や配色がそれぞれ違い、同じものはない。さまざまな技術が駆使され、まるで“技の百科事典”のようだという。

この彫刻群は、上州花輪村(現群馬県みどり市)の彫り物大工、石原吟八郎を中心とする彫り物大工たちがお互いに競い合って造ったものだった(埼玉新聞)。

正清や吟八郎、それに名もない庶民の夢が、国宝という形で報われたのだった。

県内の国宝にはこれまで、指定の順に備前長船(びぜん・おさふね)の「太刀」と「短刀」(いずれも県立歴史と民俗の博物館)、「法華経一品(いっぼん)経 阿弥陀経、般若心経」(ときがわ町・慈光寺)、「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品(金錯銘鉄剣など)」(行田市・県立さきたま史跡の博物館)の4品があった。

建造物(寺院)の国宝指定は県内で初めて。県北では、聖天堂と金錯銘鉄剣を結ぶ新しいツアーも可能になるわけで、観光地の少ない本県には朗報だ。






妻沼の聖天さま 修復工事終わる 熊谷市

2011年06月10日 10時48分57秒 | 寺社
妻沼の聖天さま 修復工事終わる 熊谷市

「仏さまは色好みなのだろうか」。こんな不敬なことを思うほど、壁の彫刻に極彩色が踊っている。

「ペンキ塗りたて」の掲示は、最近あまり見かけないものの、金箔と色漆の彫刻が売り物のお寺さまはどこも、完成当初はこんなに豪華絢爛だったのだろうか。日光東照宮に修復直後に出かけたらさぞかしすごかったろうと、ふと思った。

「埼玉の小日光」と呼ばれる「妻沼(めぬま)の聖天(しょうでん)さま」。

縁結びの御利益があるとして親しまれている「聖天山(しょうでんざん)歓喜院(かんぎいん)」である。お寺の名前は仏教独特の読み方で、かなを振ってもらわないと無学な衆生には分からない。

妻沼町の聖天さまだったのに、05年に熊谷市に合併、熊谷市妻沼の聖天さまに変わった。

妻沼だから夫沼もあったのだろうと考えていたら、歌人沖ななもさんの「地名歌語り」(朝日新聞埼玉版)によると、夫沼ではなく、「男沼」の地名が今も残る。利根川が氾濫する地域で「泥沼」が「おどろま」と呼ばれた。音は「男沼」に通じる。「妻沼」は、「女沼」から「目沼」、「妻沼」と変化したというのだ。

7年余進められていたその本殿「聖天堂」の修復工事が完成して、11年6月1日からまばゆいばかりの豪華絢爛たる姿が一般に公開された。(写真)

12年5月に国宝に指定された聖天堂は、江戸時代中期の1760年に、近くの庶民たちの寄付を集めて再建されているから、実に250余年ぶりに当時の姿に再現された。総工費11億6千万円。壁面の何層もの透かし彫りは当時の色を取り戻し、色鮮やかによみがえって輝くばかり。訪れる人々の目を驚かせている。

拝観料を払って、奥殿を囲む四面の彫刻についてボランティア・ガイドの説明を聞くと非常に面白い。

「埼玉の小日光」というぐらいだから、もちろん左甚五郎の作品(伝)もある。はたして実在したかどうか分からない名彫刻師ながら、日光東照宮の「眠り猫」で修学旅行のころからおなじみだ。

落語や講談にもよく登場、左利きだったから「左」と名乗ったとか、ライバルに腕をねたまれて、右腕を切り落とされたともいう。埼玉県にも秩父神社やさいたま市・見沼の国昌寺などにもあって見たことがある。

この本殿にあるのは、眠り猫ではなく、大きく両目を開け、ボタンにとまっているアゲハチョウをじっと見つめている〝目開き猫“である。

もう一つは、「鷲と猿」。鷲が猿を襲っているように見える。よく耳を傾けると、木のぼり上手の猿が手を滑らせて、波が渦巻く深い川に落ちたのを、鷲が助けている図。猿は、慢心した人間、鷲は聖天さまを象徴するという。

解説のパンフレットに院主の鈴木英全さんが書かれたものには、「妻沼の本殿は日光の東照宮が造られてから100年の隔たりがある。この彫刻は、四世か五世の甚五郎作の解釈も成り立つ」とある。

「三聖吸酸図」というのは、孔子、釈迦、老子の三聖人が壺の中の酢をなめて、顔をしかめているところで、宗教は違っても、真理は一つという意味。

「布袋と恵比寿の碁打ち」というのもある。江戸時代に棋聖とうたわれた本因坊道策と、その弟子の熊谷出身の熊谷本碩の対局が綿密に描き込まれているとかで、碁好きには見逃せない。

このように、一つ一つの彫刻には、それぞれ逸話があり、興味深い。「百聞は一見に如かず」である。一見の価値は十分にある。


らき☆すた 鷲宮神社 久喜市

2011年03月17日 07時55分14秒 | 寺社

「らき☆すた」 鷲宮神社 久喜市

11年の初詣には、いつものように近くにあるさいたま市の調(つきのみや)神社や氷川神社ではなく、茨城県境に近い久喜市鷲宮町の鷲宮神社へと足を延ばした。

景行(けいぎょう)天皇の時代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)が造営したとされ、土器を作る部族である土師氏の祖神「天穂日命(あめのほひのみこと)」などを祭る。このため、「土師宮(はじのみや)」が「鷲宮」に変わったという。

関東最古の神社と言われ、関東のお酉(とり)様の元祖とされる。

藤原秀郷、源義家、源頼朝など関東の武将に尊崇され、徳川家康からも寺社としては別格の400石の朱印地を与えられている。川越市の喜多院の500石に次ぎ、武蔵一ノ宮の氷川神社の300石を上回っていた。今も源義家の駒つなぎの桜が残っている。中世から伝わる神楽「土師一流催馬楽(はじいちりゅうさいばら)神楽」が有名だ。関東神楽の源流とも言われる国指定重要無形民俗文化財である。

この神社にはかなり昔、車で出かけたことがある。約3トンと県内一の重さを誇る「千貫神輿」を見たことを覚えている。

1789年(江戸寛政年間)にできたもので、縦・横1.4m。担ぐのに1回180人が必要とのこと。毎年9月第1日曜日にお出ましになる。

元日に出かけたのは、この町がこの神社のおかげで「らき☆すた」ブームに湧きかえっているというからだ。

にわか勉強でネットを検索し、新聞をめくり、やっと「らき☆すた」とは、英語の「ラッキー・スター」(幸運の星)の略語と分かった。

埼玉県は幸手市出身(現在はさいたま市に転居)の原作者美水(よしみず)かがみさんが「マンガ界の幸運の星となれ」という願いをこめてつけた名前だという。その願いはみごと実現、「らき☆すた」は美水さんにも鷲宮町にも幸運を呼び込んだ。

ペンネームの美水かがみさんはその名前の響きからてっきり女性と思っていた。男性とのことだ。春日部共栄高校の出身だから、舞台になっている鷲宮神社も幸手のこともよく知っている。

それぞれ名前は変えてあるものの、漫画の中で主人公の二人は「柊かがみ・つかさ」という名の神社の宮司の双子の娘で、その友達は幸手に住んでいて、通っている学校は春日部となっている。

「神社は鷲宮神社で高校は共栄高校がモデル」と作者もインタビューで認めている。埼玉の東北部を舞台にした極めて地域性の強い4コママンガ漫画である。

「萌えアニメ」などという言葉も、もちろん知らなかった。 女子高生の日常生活をゆったりとコミカルに描いた漫画で、思わず「そうだ そうだ」とうなずいてしまうのが特徴だとか。

これが07年からテレビアニメになって「テレ玉」(てれび埼玉)など全国各地で放映されると、人気が爆発、6巻で合わせて300万部を超え、中国、韓国、タイ、英語版も出たという。

アニメ放映が始まった07年ごろから全国の「らき☆すた」オタクが鷲宮神社を聖地とみなし、人気スポットになり「聖地巡礼」の先駆けとなった。そのあげく、10年の初詣は前年の倍に近い30万人、13年には47万人に達した。47万人とは大宮氷川神社に次ぐ人出である。例年8万人前後だったという。

このアニメの監督を務めた竹本康弘さん(47)も、19年7月の京アニの放火事件の犠牲者になった。

その陰には、鷲宮商店会の努力もある。漫画、アニメの版権を持つ角川書店の協力も得て、ネットでファンを募り、売り出したキャラクター商品のデザインや価格なども話し合って決めた。

このファンとの交流がこのブームつくりに多いに役立ったようだ。神社の鳥居の前に古民家を改造して「大酉茶屋」をオープン、町も神社のアニメのキャラクターに「特別住民票」を発行した。

7月7日には「柊姉妹誕生祭」、9月第1日曜日に門前どおりで開かれる「土師祭」では、千貫神輿と並んで「らき☆すた神輿」も担がれる。

1日午後2時過ぎ、東武伊勢崎線鷲宮駅に降り立つと、「らき☆すた」の幟が目立つ通りに長い参拝の列が続き、最後尾では「お参りに2時間以上かかるのでは」とガードマン氏。

神社の鳥居近くでは、埼玉新聞が元日第2部特集の「サイタマニアでいこう!」を売っていた。作者とのインタビューなどが掲載されていて、この原稿でも大変お世話になった。

経済効果は14年までに約20億円と試算され、このような町おこしを進めた鷲宮商店会(齋藤勝会長)は、その功績を買われ13年11月21日、全国約1700商工会が加入する第53回商工会全国大会で、最も顕著な実績を挙げた商工会に贈られる「21世紀商工会グランプリ」を獲得した。

このブームは、たとえ観光資源は乏しくとも、何か核になるものとアイデアさえあれば、新しい資源を開発できることを教えている。問題はこのブームがいつまで続くかである。


慈光寺 ときがわ町

2010年11月27日 14時04分16秒 | 寺社
慈光寺 ときがわ町

武蔵嵐山に紅葉狩りに出かけた翌日の小春日和の10年11月25日、今度も比企路は、ときがわ町の古刹「慈光寺」を、八高線明覚(みょうかく)駅を起点に徒歩で訪ねた。

いかにも抹香臭い名前ながら、「関東の駅百選」に選ばれた面白いデザインの駅である。すばらしい悟りを意味する「妙覚」のことだとか。

開山以来1300年。源頼朝が奥州藤原泰衡(やすひら)討伐を祈願、その寄進を受けて、75坊を持つ関東屈指の大寺院として栄えていた。

境内に東国最古の禅寺「霊山(りょうぜん)院」(臨済宗)があり、紅葉がすばらしい。この院は、慈光寺の塔頭(たっちゅう、高僧が引退後に住む子院)として創建されたという。

比企路と言っても、埼玉県人でも分からない人が多い。「日本スリーデーマーチ」のウォーキングで有名な東松山市を中心に比企郡の滑川、嵐山、小川、ときがわ、鳩山、川島、吉見の7町と秩父郡ながら県内唯一の村である東秩父村も入っている。

埼玉県は日本一、市の数が多い。ところが、比企地方で市は東松山だけで、自然が豊かな丘陵地帯が広がる。滑川は「国営武蔵丘陵公園」、嵐山は武蔵嵐山のほか、頼朝の御家人畠山重忠の館という「菅谷館跡」、小川は和紙、吉見は百穴で知られる。

「比企」の名は武蔵国比企郡を本拠とした比企氏にちなむ。比企禅尼が頼朝の乳母を務めたので、尼の子比企能員(よしかず)は頼朝の最も有力なご家人となり、権勢を誇った。北条時政との対立から「比企能員の変」が起こり、比企一族は滅亡する。

畠山重忠、比企能員に見られるように源氏ゆかりの武将が出た地で、嵐山町の鎌形八幡神社には木曽義仲の産湯の清水がある。

慈光寺を昔から知っていたわけではない。埼玉県に全国一数が多い板碑(青石塔婆)に興味を持って調べているうち、この寺の山門跡に1m余から3mに近い高さの9基の大型板碑が群立しているのを見て以来、一度は訪ねてみたいと思っていた。(写真)

板碑は武士だけのものと思いこんでいた。この9基はいずれも寺ゆかりの僧侶の供養や,生前、自らの死後の往生を願う、いわゆる逆修(ぎゃくしゅ)供養のために造立され、明治の初期に山中の僧坊から移されたという説明板があった。やはり実際に来てみるものである。

県内随一の古刹、慈光寺は武蔵国天台別院(本山の出張所)。関東屈指の天台宗寺院だった。有名な渡来僧鑑真の高弟、釈道忠が建立したと伝えられる。道忠は天台宗開祖の伝教大師最澄の布教を助けた僧で、朝鮮半島からの渡来人ではなかったかと言われている。

道忠の弟子円澄は比叡山延暦寺に上って、最澄の弟子になった後、第2代天台宗座主(ざす)になった。円澄は壬生氏の出身で、武蔵国埼玉郡の人だったという。京から遠く離れた、こんなへんぴな地にある慈光寺と初期の天台宗や延暦寺との深い結び付きに驚くばかりだ。

この寺は、戦国時代には僧兵を持ち、近隣の城主と抗争を繰り返した。太田道灌が討ち入ったり、小田原北条家の臣下だった近くの松山城主の焼き討ちに会い、衰退した。

慈光寺は、この地の政治、経済、文化の中心だった。その伝統や技術は、林業が盛んなときがわ町の建具、小川町の手すき和紙、狭山茶などに生きているという。和紙は、寺の写経用の需要があった。

日本三大装飾経として知られる国宝の法華経一品(いっぽん)経を初め、関東最古の銅鐘など国指定の重要文化財が残っている。室町時代の木造多宝塔では唯一の、国重要文化財の開山塔、樹齢1100年を超すタラヨウの古木もある。

季節には参道に、シャガの群生や里桜(八重桜)の並木が花開く。里桜とは、野生の桜の園芸品種。1986年に最もポピュラーな「一葉」と「普賢象(ふげんぞう)」270本を植えたのが始まりで、自生の染井吉野を含め42種400本の里桜が咲く。珍しい「薄毛大島」とか「松前紅玉錦」などもあるそうだ。

「ソメイヨシノだけが桜ではない」と思う人には、お勧めしたい花見どころでもある。

慈光寺 ときがわ町の桜狩り

2010年11月25日 12時15分43秒 | 寺社
慈光寺の桜狩り ときがわ町

4月9日(11年)、埼玉県の比企郡ときがわ町にある慈光寺の桜を、仲間と見に行った。寺が1986年以来育てている参道の桜並木を見物しようというのである。事前に下見に出かけたリーダーの話だと、「ちょうど見頃かもしれない」というから勇んで出かけた。

この日、「埼玉県も初の夏日だ」という予報もあり、陽気に浮かれた桜が華やいでいるに違いない。

前回、慈光寺を訪ねたのは、有名な9基の板碑(いたび)が立ち並ぶ「青石板碑群」が狙いで、一人で駅から歩いた。その時、パンフレットで、寺と町が「里ざくらの里」づくりを進めているのを知ったので、春にはぜひ再訪したいと思っていた。

仲間たちが住むさいたま市(武蔵浦和駅周辺)では、すでにしだれ桜や染井吉野の盛りは終わっていた。

武蔵野線から東上線に乗り換え、小川町に近づくと、まだ染井吉井が満開。「あれ、さいたま市はやはり南なのね」。桜は、わずかな緯度、高度、温度の変化にも敏感だと実感した。遠出して桜を見るから分かることだ。

小川町駅前からときがわ町のカッコいいバス(昔の田舎のバスと違って新しくモダン)に乗り、ときがわ町の「せせらぎバスセンター」で乗り換え、慈光寺入り口で降りる。ここから2km坂を上り、1300年の歴史を誇る古刹「慈光寺」と関東最古の禅寺「霊山院(りょうぜんいん)に向かうのだ。

釈迦の慈しみの精神から「慈」の字がつく寺は多い。いつも間違うのは岩槻の「慈眼寺」だ。時々、ときがわ町のこの寺はどっちだったのかと迷うほど。

来る度に。こんなすごい寺が、なぜこんな田舎にあるのかと思う。西北の隣には、埼玉県でただ一つ残った「東秩父村」がある。

鉄道やバスが主要な交通機関でなかった時代は、脚だけが頼り。脚を基にした距離感があったのだろう。私の気にかかっているのは、一日40キロ歩いたとされる芭蕉の健脚ぶりである。

今回はリーダーの下調べのおかげで小川町からバスで慈光寺入り口下車。楽をしようと思ったらバスは慈光寺まで登る。

もらったパンフレットによると、ここの里ざくらは1986(昭和61)年、参道の両側に270本の八重咲きの「一葉」と「普賢象」を植えたのが初めてという。だから、登っていくうちにこの二つが多いのに気づく。

里桜は遅咲きなので、残念ながらまだ咲いていないのが多かった。早咲きの染井吉野は満開を過ぎようとしていて、花吹雪が舞っていた。

霊山院の参道にも里ざくらが植えられえていて、慈光寺から霊山院に回ってこの参道を下れば、25年かけて育てた33種の里ざくらが楽しめる。今年は、「陽光」「八重紅枝垂桜」「大山桜」「仙台屋」「稚木(わかき)の桜」の五品種が新規公開された。

この中で「仙台屋」と「稚木の桜」にはお目にかかったことがない。「仙台屋」は、高知市の仙台屋という店にあったもので、有名な植物学者牧野富太郎が発見して名づけた。山桜の栽培品種で、大山桜のような紅色の花を持つと、重宝している学習研究社の「日本の桜」(勝木俊雄著)にあった。

「稚木の桜」は、この図鑑にもなかった。インターネットで調べてみると、これも牧野富太郎博士が出身の高知県佐川町で発見した。山桜の一種で09年に地球に帰ってきた宇宙桜14種類の一つで発芽した、という。

日本人は勉強が好きだ。「美しい」だけでなく「これは何という桜」という疑問を持つ人が多い。ここの桜には一本一本に名前を大書した立て札があり、桜好きにはありがたい。

「鵯(ひよどり)桜」「雲珠(うず)桜」「水晶」「東錦」「永源寺」といったこれまた見たことがない桜もあって、開花期にまた来ようと思った。

立て札で名前を教えてくれる親切心もうれしい。新しい桜の名所が誕生しようとしている。

桜だけではない。ちょうど、この町の町花「ミツバツツジ」が至る所で満開、それに花桃、名物のシャガが加わって、桃源郷と呼びたくなるほどの場所もある。この写真は霊山院前のもの。ときがわ町は花の町である。

高麗神社 出世明神 

2010年11月01日 18時32分40秒 | 寺社
出世明神 高麗神社  

高麗神社を訪ねて、面白いのは、ここにどんな人が参拝したかを確かめることである。

京都、奈良、東京などの大寺社とは違う、このようなひなびた神社で、これほど過去の有名人の名が見つかるのは珍しい。

神社の木々の前に、献木の小柱が立っていて、名前が明記してあるからだ。首相経験者では若槻礼次郎、浜口雄幸、斉藤実、平沼騏一郎、小磯国昭、鳩山一郎の6人も来たらしい。小磯は、本殿に向かって左手の参拝した「名士芳名」の中の名札では「朝鮮総督」の肩書きが付いている。このように参拝者から総理大臣が続出したので、この寺は「出世明神」の名で一躍知られるようになった。

政界だけではない。法曹界も石田和人最高裁長官や検事総長になった人も二人いる。官界や財界にもご利益のあった人もいるようだ。歴代の埼玉県知事や日高市の市長、韓国大使も挨拶に姿を見せたことが、小柱を見ると分かる。

国民新聞を創刊した徳富蘇峰らも来ている。

暇に任せて、名士芳名を眺めると面白い。名士芳名の一番先の方に、「太宰治」「坂口安吾」「檀一雄」といった第二次大戦後の文壇を風靡した“無頼派”の面々の札も並んでいるのに驚く。(写真)この面々はどんな出世を願って来たのだろうか。「芥川賞が欲しい」と祈願したのだろうか。

ちょっと古くなるが、尾崎紅葉の献木ならぬ「歌木」の小柱もある。尾崎紅葉は歌人だったかなと考えてしまう。皇太子ら皇室の参拝も目立つ。

何度も書いてきたように、この神社は、716年に高麗郡が武蔵国に設置された際の初代郡司、高麗若光を祀る。以来60代、若光の子孫が宮司を務め、現在は高麗文康氏。

文康氏は13年、若光のことを「陽光の剣 高麗王若光物語」(幹書房)に書き記した。

その歴史年表によると、高句麗が新羅・唐の連合軍に滅ぼされたのは668年。若光はその2年前の666年に、高句麗遣使(副使)として来日、日本からの援助について交渉していた。来日中に祖国は滅びたわけである。

交渉の中で中大兄皇子(天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)とも知り合った。若光は「王」の姓を賜った。日本各地に散らばっていた高麗人1799人を武蔵国に移し、高麗郡が置かれたのは716年のことだった。

この高麗郡が2016年、建郡1300年を迎えた。ろくな観光地がない埼玉県にはまたとないチャンスである。奈良とはケタ違いとはいえ、1300年をどううまく利用するかは、知恵の絞りようだ。

日高市は、目玉として「高麗鍋」のPRに乗り出した。「キムチ味」で、「地場産の野菜と特産品が入っていて」、なんと「高麗(こうらい)人参も入っている」が三原則。「ピリ辛でもとってもヘルシーよ」「歴史のロマンをめしあがれ」というのが、うたい文句だ

私が高麗神社、いや神社のことがこれほど気にかかるのは、薩摩は隼人の出身で、「彬裕(よしひろ)」という難し過ぎて誰も読めたことのない私の名は鹿児島神宮(隼人)の宮司がつけたからである。神社には生まれた頃からなじんでいる。

南方系と朝鮮半島系、遺伝子も違う。それでも親近感を覚えるのは、無神論者ながら、神社への親しみとともに、遠く離れた故郷への郷愁があるからである。

高麗神社 高麗王若光

2010年10月30日 18時35分52秒 | 寺社
高麗神社 高麗王若光 日高市

「高麗神社」の額は、よくよく見ると、「句」の字が「高」と「麗」の間に小さな字で挟まっていて、「高(句)麗神社」のことだと分かる。

この神社と近くの高台にある「聖天宮(しょうでんぐう)」は、高麗郡(こまごうり)の基礎を築いた高麗王若光(こまのこきし・じゃっこう)を祀っている。「こま」とは「高麗」の日本読み。「こきし」とは「王」のことだ。

高麗神社前の「天下大将軍」「地下女将軍」の男女一対の守護神も堂々と石像になって立っていた。天下とは「地上」という意味だとか。地上と地下の両方の面倒を見てくれるというのだ。

朝鮮半島では「将軍標(チャンスン)」と呼ばれる魔除けである。

同じ村を守るといっても、道しるべの性格が強くものやさしい感じのわが道祖神よりも、二将軍の歯むき出しの大きなその姿は、頼りになりそうな気がする。

この神社は、朝鮮半島の雰囲気が漂っていて、私の好きなところだ。韓国の国花「木槿(むくげ)」も咲いている。

近くの高台にあるのが、聖天宮。若光の菩提寺である。正式には、「聖天院勝楽寺」。若光に仕えた僧、勝楽らが建立した(751年)。若光の守護仏である聖天(歓喜天=かんぎてん)からその名がついた。

聖天院は2000年に、総檜造りの新本堂が完成、その裏には立派な「在日韓民族無縁仏慰霊塔」が立っている。

山門脇には、朝鮮様式の小さな古い多重塔がある。若光の墓である。境内には若光の像が立っている。(写真)

若光とは何者か――今流に言えば、668年に唐と新羅に滅ぼされた「高句麗」の政治亡命者である。日本の奈良時代のちょっと前の話だ。

若光は難民を率いてきたのではない。高句麗が滅ぶ2年前、訪日使節団の中にいた、まだ若かった「玄武若光」だと考えられている。その上に「二位」がついているから偉かったのだろう、国が滅ぼされたので日本にとどまるほかなかった。

それ以前から日本と高句麗の関係は深かった。推古天皇の時代になると、595年には聖徳太子の仏教の師とされる高句麗僧の慧慈(えじ)が来日、605年には高句麗王から黄金300両が贈られ、飛鳥寺の日本最古の仏像飛鳥大仏を造るのに使われた。610年には同じ高句麗僧の曇徴(どんちょう)が紙や墨の製造技術を伝えたという。

若光は703年、朝廷から「王(こきし)」の名を贈られた。「高麗王若光」である。日本では「従五位下(じゅうごいげ)」という貴族の位階を与えられていた。日本の官人として出仕していたのだろう。

「高麗」は氏、「王(こきし)」は姓(かばね)だという。「こきし」とは、飛鳥時代に作られた姓(かばね)の一つで、百済王族ら少数の帰化人に与えられた。

716年、1799人を率いて高麗郡に移住した時は、来日から50年、若光はすでに白髪の翁であった。「白髭明神」と伝えられるのは、その風貌のせいであろう。没したのは748(天平20)年というから、事実なら32年高麗郡にいたことになる。韓国の田舎を尋ねると、白髭の老人に出会うのは、ご存知のことだろう。

来日以来数十年留まっていたのは飛鳥時代の都「飛鳥」(現明日香村)である。朝鮮半島では百済が滅び(660年)、高句麗が滅び、多くの帰化人が飛鳥に滞在していた。高句麗からの帰化人は高麗人(こまびと)と呼ばれた。

若光一行はどのようなルートで高麗郡にたどり着いたのか――。高麗神社を訪ねた際、神社で「ALOSデータによる渡来人の足跡調査の研究」が展示されていた。

ALOSとは、日本の陸域観測技術衛星「だいち」で、三次元画像で見られるので、地形の細部や建造物の高さも観測できる。そのデータを古文書などと照合して、若光の足跡をたどろうというのである。「宇宙人文学」という新しい学問だという。

1799人はどのような人たちで、どう連絡して、どこに集合したのか、謎は多い。神奈川県大磯に高麗神社(現在は高来神社)があることなどから、若光は奈良から大磯に移り住み、高麗郡に向かったとされているが、宇宙考古学はどこまで謎を解明できるか。

朝鮮半島からの渡来人が武蔵国や関東地域に来たのは、高麗郡が初めてではない。6世紀の末頃から始まったと言われる。

758年には 帰化した新羅人74人を武蔵国に移し、「新羅郡」を置いた(後に新座郡に改称)。新羅郡は、現在の新座、和光、朝霞、志木市あたりである。

武蔵国には、高麗郡、新羅郡より前の7世紀後半から熊谷から深谷市にかけて、新羅系の秦氏と関わりのある「幡羅(はたら)郡」があったようで、渡来人の郡が三つもあった勘定だ。

武蔵国にこのように渡来人の郡が置かれたのは、未開地だったこの地を新技術で開拓させ、東北の蝦夷(えみし)に備える目的があったようだ。

渡来人は、養蚕、須恵器(土器)、瓦づくり、土木工事など新技術を持っている技術移民だった。日高市の巾着田は渡来人が最初に田を作ったと言われ、和同開珎の自然銅を発見したのも渡来人とされる。

古代の武蔵国と朝鮮半島との関係の深さが分かる。


高麗神社 広開土王碑 日高市

2010年10月30日 16時12分28秒 | 寺社
高麗神社 広開土王碑 日高市

巾着田を訪ねた後、高麗神社に足を伸ばした。神社に「広開土王碑」の碑文の拓本を貼った角柱があった。(写真)

この名を聞くのは、中学校の歴史の教科書以来である。「好太王」とも呼ばれる「広開土王」は、4世紀末の391年に即位した高句麗最盛期の国王で、その版図を朝鮮の歴史上最大に広げたことで知られる。

韓流ドラマファンなら、「大王四神記(だいおうしじんき)」という歴史ファンタジードラマを覚えている人もおられよう。人気のペ・ヨンジュンが演じた主役の「談徳(タムドク)」がこの大王である。

このドラマの人気で、高麗神社に参拝客が増え、地元ではおみやげ用に「四神カステラ」や「四神ドレッシング」ができたほどだ。

「高麗」と「高句麗」(こうくり ハングル読みではコグリョ)は同じことで、高麗は古代の日本語。高句麗は現地名だ。当時まだ朝鮮にはハングルはなく、漢字を使っていた。

高麗は、日本語では「こま」と読む。高句麗とともに朝鮮の三国時代を競いあった百済、新羅を「くだら」「しらぎ」と日本読みするのと同じだ。

「こま」には、「狛」、「巨麻」の字も当てられ、東京都の狛江市や山梨県の巨麻郡も高麗と関わりがある。

「四神」とは、中国神話に登場する世界の四方向を守る聖獣。 東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武。日本の大相撲の吊り屋根にも、方向を示す四隅に四色の房が下がっている。これも四神。東の青は青龍、南の赤は朱雀、西の白は白虎、北の黒は玄武で、土俵を守護している。

四神は日本の高松塚古墳、キトラ古墳にも描かれている。四神は高句麗様式の古墳の特徴になっている。高句麗の古墳群は世界遺産に指定されているほどすばらしいもので、ツングース族の騎馬民族が創った国だったので、馬に乗った騎射の姿の壁画など、色も鮮やかで美しい。

「広開土王碑」の碑文は、1802字の漢字からなり、好太王の業績などが記されている。注目されるのは、三国時代の日本の朝鮮半島進出とそれに対する対応が文字で書き残されていることだ。

・日本は391年、海を渡り百済・加羅(伽耶)・新羅を破り、臣下とした

・399-400年には新羅に侵入、太王は5万の大軍を派遣して救援した

・404年には黄海道地方(現在の北朝鮮の南西部)に侵入したので、太王はこれを討ち大敗させた

などと記されている。

この碑は、現在の中国吉林省集安市の好太王陵の近くにあり、高さ約6m、幅約1.5m。日本と朝鮮半島の古代史の貴重な資料である。

この高句麗も、668年に唐・新羅の攻撃で滅亡した。これより8年前の660年、百済も滅んでいる。百済、高句麗の亡国で多くの渡来人が来日することになった。三国のうち、最後には新羅が唐を追い出し、朝鮮半島を統一した。

高句麗の渡来人は、朝廷の命で、現在の日高市周辺に出来た武蔵国高麗郷(こまごうり)に移され、開拓に当たった。日高市は高麗村と高麗川村が合併して日高町となり、その後、市に昇格した。高麗神社は、そのリーダー「高麗王若光(じゃっこう)」を祀る神社なので、「広開土王碑」を模したものが立っているわけである。

高麗神社は言わば、古代朝鮮と日本との接点なのである。