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妻沼の聖天さま 斎藤別当実盛 熊谷市

2011年06月12日 12時35分50秒 | 寺社
妻沼の聖天さま 斎藤別当実盛 熊谷市

「平家物語」は、中学生の頃から好きだった。吉川英治が「週刊朝日」に連載していて、単行本になるたび一冊残さず読んだ。日本の超長編小説の魅力に魅かれたのはこのシリーズからで、「大菩薩峠」や「富士に立つ影」にも挑んだ。

「平家物語」の中で、不思議に強く印象に残っている武蔵武士が二人いる。熊谷次郎直実と斎藤別当実盛である。直実の場合は、姓が熊谷なのですぐ分かる。実盛が同じ熊谷出身だったとは、この歳になるまで知らなかった。いい歳をして知らないことばかりだ。

聖天さまは仏教の宗派で言えば、高野山真言宗で、その準別格本山。縁結びのご利益があるとかで、地元の商工会などは「縁結びのまち」として盛り上げようと、縁結びキャラクターの「えんむちゃん」も、商工部青年部が公募して登場した。。

聖天さまを入ってまずくぐるのが貴惣門。横に回って見上げると、大小の切妻屋根三つに破風(はふ・合掌型の装飾板)がついている重層の組み合わせで、全国的にも例が少ないという。国指定重要文化財だ。

くぐるとすぐ右手に、左の手に鏡を持った老人の座像が目に入る。白髪と鬚(ひげ)を染めている、最後の出陣前の姿だ。これが1179年、この寺を創建した武将実盛である。この銅像は1996(平成8)年建立された。

尋常小学校の唱歌に

年は老ゆとも、しかすがに 弓矢の名をば くたさじと
白き鬢鬚(びんひげ)墨にそめ 若殿原(ばら)と競ひつつ
武勇の誉を 末代まで 残しし君の 雄雄しさよ

という「斎藤実盛」の歌があったという。

昔の小学生は難しい文句を歌わされていたものだ、ほとほと感心する。

実盛は悲劇の主人公である。
1111年、越前生まれ。13歳で長井庄(ながいのしょう)と呼ばれていた妻沼の斎藤実直の養子になる。

保元の乱(1156年)では、熊谷直実らと源氏の源義朝に従い出陣、武勲を挙げた。平治の乱(1159年)では、平家の平清盛に敗れ、長井庄は清盛の二男宗盛の領地になる。宗盛の家人になって、宗盛に代わる別当として長井庄を管理する。

1179年、実盛は仏教の守護神の一つである歓喜天を祭った聖天宮を、長井庄の総鎮守として建立する。東京・浅草の待乳山(まつちやま)聖天、奈良・生駒市の生駒聖天とならぶ「日本三大聖天」の誕生である。

待乳山聖天は、浅草寺の子院のひとつの本龍院のことである。

1180年、富士川の戦では、平家側に参戦、周知のとおり、平家勢は水鳥の羽音に驚いて敗走する。

1183年、木曽義仲を討つため、平家軍に従った実盛は生まれ故郷越前に向かう。しかし、平家軍は倶梨伽羅峠の合戦に大敗、篠原(現加賀市)で義仲軍と戦い、また敗走する。「篠原の戦い」である。篠原は、実盛一族同門の地だった。

義仲軍の武将手塚太郎光盛は、侍大将が着る萌黄威しの鎧(もえぎおどしのよろい)の下に、錦の直垂(ひたたれ・鎧の下に着る)を着用した老武将と一騎打ちになる。名乗るよう求めても「木曽殿はご存じである」としか、答えない。

光盛は討ちとって、首を義仲の前に持参した。白髪を洗わせて、実盛と分かった時、義仲は人目をはばからず号泣する。

実盛と義仲の縁は1155年にさかのぼる。この年、鎌倉に住んでいた源氏の棟梁源義朝と大蔵館(埼玉県嵐山町)に住む弟の義賢は武蔵国をめぐって対立、大蔵館の変が起きた。

義賢は義朝の長男悪源太義平に討ちとられる。「殺せ」との命に背いて、義賢の遺児で二男の駒王丸は、畠山重忠の父重能と実盛の情に助けられ、信州の木曽に落ちのびた。成人したのが木曽義仲である。

2人とも、当時2歳だった幼児を殺すに忍びなかった。実盛は義仲の命の恩人だったのだ。嵐山町の鎌形八幡神社には「木曽義仲産湯の清水」の石碑が立っている。武蔵武士の本拠地だけに埼玉県には源氏関係の遺蹟が多い。

この実盛の話は、平家物語だけでなく、「源平盛衰記」や歌舞伎、謡曲に取り上げられ日本人の琴線に触れてきた。

無役の実盛が侍大将の身なりをしていたのは、生まれ故郷に帰るのに衣装だけでも錦を飾りたいと、宗盛の許しを得たもの。髪などを黒く染めたのは、年老いた武士とあなどられないようにとの配慮からだった。死に装束だった。享年73歳。

500年後、この篠原の古戦場を訪れた松尾芭蕉は

むざんやな 甲(かぶと)の下のきりぎりす

と詠んだ。

義仲もその翌年、範頼の軍に攻められ、粟津(滋賀県大津市)で一生を終えた。


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