素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

🐾 湯河原・真鶴ジオサイトを歩く 🐾

2019年09月11日 | ジオパーク

意外と沢山ある、自分の住む地域の大地の遺産(ジオサイト)を知らない。 

平成 24年(2012)箱根町、湯河原町、真鶴町、小田原市の一市三町の領域が『箱根ジオパーク』に認定され、平成 28年(2016)には南足柄市が加わり二市三町に領域が拡大されました。 

                                            そこで南足柄ジオガイドの会のメンバーで湯河原・真鶴のジオガイドさんとの交流会に参加し、箱根ジオパーク内の二町のジオサイトを案内して頂きました。

市役所に集合し、南足柄市のマイクロバスで真鶴駅に向かい真鶴のジオガイドさんと合流。真鶴港に移動し、挨拶のあと徒歩でジオサイト巡りに出発。

                          

真鶴港から近く、禅僧の風外彗薫(ふうがいえいくん)和尚が住んだと言われる『天神堂』へ。

江戸時代初期寛永 5年(1628)ころ、一人の雲水が真鶴に住みついた。                 素性知れぬ異形なその僧侶は禅画(特に達磨絵)が巧みで、里人に絵を示して糧食と引き換えていたが、やがてその絵が知れ渡り、厄除け・縁起達磨と近在の評判となった。

その禅僧の名は風外彗薫(ふうがいえいくん)。                                  上野(こうずけ)国(群馬県)に生まれ、幼くして両親と死別。村内で寺修行の後、上州の禅刹雙林寺(そうりんじ)の寺僧になるが、30歳のころ諸国遍歴に出たまま行方が知れず、再び記録にあらわれるのは 50歳にとどく頃、所は相州豊川村(小田原市)成願寺住職としてである。      しかし、寺職を嫌って数年後には付近の山中の洞穴に隠棲、ほどなく真鶴の地に山居を求めて移住した。

これを知った名主 五味伊右衛門は彼を客僧として遇し、その要望にそい自家近くに天神堂を建てて庵住させた。                                            時に風外彗薫63歳。定住の意を固めた彼は、ここで数々の書画を残した。

                         

次に15分ほど歩いて『日和山』・『さば大師』へ。

真鶴港の東側の出崎は磯崎といわれている。その小高い丘が「日和山」であり、山頂広場には「生飯(さば)大師」が祀られている。                                    寛文12年(1672)の「真鶴村書上帳」によれば、真鶴湊に出入りする船頭・船主は、早朝この日和山に登ってその日の天候を判断したという。                           日和山は、当時の気象観測所の役割を果たした。

日和山として利用される地点は 港から近いこと あまり高くないこと 展望がきくこと=空や沖合いが良く見えて港内も良く見渡せること。が条件になっている。

村内の漁師も、当日の天候を占い「生飯(さば)大師」に豊漁を祈り、帰港すると感謝の意を込めて獲物の一部を奉納した。                                     こうした願いが今も4月17日と8月30日の「さば大師様のお祭り」として生き続けているとのことです。

さば大師のある日和山から白磯海岸へ下りる途中に赤茶けた(軽石)地層が見られ、白磯海岸では板状節理が見られるとのことでしたが、千葉県に大被害を与えた台風15号で倒木により道が寸断され、今回は歩くことができませんでした。

白磯海岸は遠くから見るのみで、岩海岸の方へ移動。

源平盛衰記、吾妻鏡には治承 4年(1180)8月27日、源頼朝主従が岩海岸を船出したと記されています。

                                                  『新編相模国風土記稿』には、敵の追跡を免れた頼朝が喜びのあまり「祝村:いわむら」と命名したという村人の伝承を記しています。                                          龍門寺に伝来する宝永 2年(1705)如来寺(現廃寺)の半鐘銘文にも「相州祝里」とあります。

真鶴半島唯一の砂浜の海岸で、県内でも水質が高く、波が静かな所です。海上には、岩大橋が架かっています。

                                              岩大橋 1980年9月1日に開通。 かながわの橋100選に選ばれているそうです。                                     全長595m、幅7.5mで形式はPC箱断面ラーメン橋、コンクリート製。

岩海岸の弁天島(岩)付近は、大浦と呼ばれており、この弁天島は、赤褐色の巨大な円丘状の溶岩塊で西湘海岸の風景の中にあっては、極めて異色の存在とのことです。

                                

 如来寺跡へ移動。                                              岩大浦と呼ばれる一角に如来寺の跡があり、境内の裏に山腹をくりぬいて造った洞窟があります。奥行15m、幅4mほどの大きさで中間がくびれ2部屋になっています。

                                           如来寺の開山については、江戸時代に編纂された『新編相模国風土記稿』と岩、半田家所蔵の『古書類写集』に収められている延宝4年(1676)の岩村明細帳に書かれています。                                                                                                                                    本尊を阿弥陀如来としながら、禅宗の瀧門寺の末寺となっている。                  石仏の作者は、木食僧但唱(たんしょう)

                                            洞窟入口近くに閻魔大王をはじめ、地獄の裁判官十王像や奪衣婆、善悪人頭杖などの六道の還啓した石像が祀られていました。

                          

11時半、瀧門寺入口に建てられた宝篋印塔(ほうきょういんとう)前に到着。

                                           高さ6.5mの巨大な石塔で、真鶴溶岩類の新小松石を刻んで作られていました。                 明和 4年(1762)瀧門寺13世 宝永鳳州了梧和尚が人々の幸せな生活を願って多くの人々の浄財と労力奉仕によって建立されたと刻まれています。

                           

 長い石段を上がって瀧門寺境内へ 

                                           瀧門寺は天正元年(1573)林屋(りんおく)という僧によって中興開山された曹洞宗の寺院。 山号は多宝山、本尊は釈迦如来。                                                                                          本堂の横には土屋大次郎氏の 墓石がありました。

土屋大次郎は、岩村出身で石材業を営む土屋家に養子に入り、その後築地などに石材業を開業し東京市街電車の舗装用石を大量に受注するなど実績を残した。                      53歳の時、第10回総選挙に出馬、衆議院議員に初当選したが2年後に病で急死した。

                         

 午後は湯河原駅で湯河原のジオガイドさんと合流。

湯河原町は箱根外輪山の南麓で、千歳川と新崎川の二つの河川の沖積低地にあり、相模灘に面しています。                                               背後の外輪山、鞍掛山(1004m)、大観山(1012m)、白銀山(993m)の山々は箱根からの寒風を遮るので、気候は温暖で相模灘に面した丘陵地はミカン栽培の適地になっています。   二つの河川は水源の山々から水平距離でせいぜい 7~8Kmと短く、川は随所に滝を交えつつ相模灘に流れ込んでいます。                                           湯河原から小田原に向かう西相模地域は外輪山が相模湾に面している急峻な地形です。

車道から 400mほど下った『しとどの窟(いわや)』に 14時 10分到着。

窟は高さが約 5m、幅約 12m、奥行き約 11mですが、関東大震災等で崩壊したため、当時より入口が大分広くなったとのことです。                               しとどの窟は「土肥椙山巌窟」として、神奈川県で史跡文化財に指定されています。

                                             1180年に石橋山合戦で平家に敗れた源頼朝が 、この地にあった窟に身を隠し、箱根権現別当のもとに逃れた後、真鶴のしとどの窟から安房国(あわのくに)へ脱出したと伝えられています。                                          また、「しとどの窟」の由来は追手が「シトト」と言われる鳥が急に飛び出してきたので、人影がないものとして立ち去ったためだと言われています。                         しとどの窟周辺は箱根外輪山の溶岩と火山砕屑物(噴火で放出された石や砂など)からできており、窟は固結した火山砕屑物の部分が削られてできた洞です。

石橋山の合戦にて大敗した源 頼朝は、主従わずか 8名で山中に逃れ、湯河原近辺を領地とする土肥実平、遠平親子の案内で洞窟や大木の洞に隠れて敵の追手をかわしました。               土肥 実平とは相模国の豪族、中村氏の出で平安末・鎌倉初期に活躍した武将です。      土肥郷(現在の湯河原町)を本拠としており、JR湯河原駅から成願寺の辺りに実平の館があったと言われています。                                            この後、頼朝は実平が手配した小舟で安房国に渡って、再起を図り、敗戦の一か月半後である 10月 7日、大軍を率い堂々と鎌倉へ入りました。

吾妻鏡の記述には《・・・その時、頼朝は御髻(おもとどり)の中の正観音像を取り出され、ある岩窟に安置された。実平が頼朝のお考えを問い申したところ、仰ることには「自分の首が景親等の手に渡る日にこの本尊を見れば、源氏の大将軍のすることではないと人は恐らく後々まで避難するだろう」・・・》とある、❝ある岩窟❞がここと考えられている所です。

を覚悟していたことが伺われます。土地勘を持った郷土の武士土肥 実平の導きが大きかったにせよ、この地域の地形も命を救った要因と言えるのではないでしょうか?                      

 

 

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