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Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「マーニー」A・ヒッチコック

2008-12-14 21:53:59 | cinema
マーニー (ユニバーサル・セレクション2008年第5弾) 【初回生産限定】 [DVD]

ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン

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1964アメリカ
監督:アルフレッド・ヒッチコック
製作:アルフレッド・ヒッチコック
原作:ウィンストン・グレアム
脚本:ジェイ・プレッソン・アレン
撮影:ロバート・バークス
音楽:バーナード・ハーマン
出演:ショーン・コネリー、ティッピー・ヘドレン他


先日TVでやっていたので吹き替え観戦でしたよ。
2時間枠でやってたので、上映時間129分ということはカットされていたのだろう。
確かにはなしの繋がりがわからんとこもあって残念。

でもなにやら禍々しいサイコドラマの雰囲気は十分堪能したす。

赤いものに異様な恐怖心を覚えるマーニー
貧しそうな実家に帰っての母との会話のなんとも怪しげなところ
不気味なお母さん(笑)
赤い花をいきなり「捨てて!」とかいうあぶない娘マーニー
どうもなにやらトラウマちっくな感じ~

しかもどうやらマーニーは偽名を使ってあちこちでサギや横領を働いて生きているらしい。

それになぜか馬が大好き。
(なんなんだ?この設定は?)

そのおかしなマーニーに惚れちゃうのがショーン・コネリー
彼がマーニーの拒絶を受けながらも辛抱強く
時には強権的に
マーニーの秘密を暴いていくのだが・・・・

ヒッチコックの例によって
謎は案外あっさり披露されちゃう。
謎解きがゴールだとしたら、この映画はルール違反である~
(でもそこがなんか憎めないところ)

たとえば稲妻が窓に赤い光を投げかけるとか、
そりゃありえんだろお的色彩感覚とか、
マーニーがいつも赤の補色である緑色の服しか着ないとか、
金庫から金をくすねたあとに、そっとクツをぬいで階段を音もなく下りていくという描写が妙に念入りだったりとか
そういう細部の充実がサスペンスの構造を支えているような映画なのだろう。
そこには「謎解き」よりも魅力的な細部が満ちあふれているよ
といわんばかりのヒッチコックワールドを
堪能したよ^^


『鳥』の翌年、『サイコ』の4年後、『裏窓』から10年目の作品。


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「映画論講義」蓮實重彦

2008-12-14 01:46:17 | book
映画論講義
蓮實 重彦
東京大学出版会

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この本についての記事の分類をbookにするかcinemaにするか
ちょっと迷う(笑)

というのも、この本では蓮實先生が自身の映画評論の仕事を振り返り、映画を見る側ではなく「映画を撮るようにして」作家と向かい合ってきた、と述懐しているからである。
本書の読後感はまさにたくさんの映画を観たあとのような、記憶と思考が浮かんでは消え消えては浮かぶあの疲労感。思わずcinemaに分類したい欲求にかられる。

この本は、蓮實御大が各地で行った講演を中心に編まれているので、話もわかりやすく、ユーモアにあふれ、挑発的である。

冒頭の「モンゴメリー・クリフ(ト)問題」では、映画についての無知が映画関係者の間でさえ常態となっている現状に対して、映画史のカノン(聖典)をつくることは有効か?という問いに対する答えを述べている。若きゴダールを、あるいは若き著者を突き動かしたのは、ジョン・フォードを褒めてもよい、『サンライズ』という映画がある、初期のヴィスコンティを好きになってもよい、と複数の声でささやかれるような、共闘しているわけではないのに複数の声によって促されるような「場」を形成することが、映画にとって必要なことである、というのが答えだ。ただ一つの声である聖典を提示すべきではないという。
この場の複数性というのは、現代社会ではそれが許される余裕がなくなっているとも。これが許されるかどうかは別にして、多様性の中で自由に人が泳ぐことこそ必要なことだと。

今はブログの浸透で、膨大な数の人が映画について語り始めていて、もちろん蓮實先生はそんなことには一言たりとも触れたりはしないのだが、環境によっては観点の多様性と声の複数性というのがネット上で機能していく可能性はあるのだろうと思う。

「リアルタイム批評のすすめ」では、めずらしくご自分の仕事とはなんであったのかを総括していて、冒頭の「撮るようにして」もここで語られている。たくさん興味深いことが書いてあるんだけれど、
たとえば、現代は自分がまだ何を知らないかということを知らないまま生きてしまうことが可能な時代だとし、映画においてはデジタル化が進みどの時代の作品でも観られるという幻想に冒されつつあるが、たとえばプリントが消失してしまった作品は観られない。知らない作品があるということに人々は楽観的になっているとする。
この文脈で、映画を見るときの「動体視力」についても述べる。作品のすべてのショットを覚えようという意味のもとで映画を見ること。このことは、作品が現前させるものを見て知るということの重要性についていっているのだと思うが、例えば人々は小津安二郎について「知っている」と思っていて晩年の作品は「娘を嫁にやる男親の胸中をテーマにした」と言われているが、実際画面に映っているものを分析することでそこに「親に嫁に出される娘の葛藤」のようなものもまた表象されていることがわかる。観ていて知っていると思っていることでも実は見ておらず知らないのである。このような無知を自覚するところから批評は始まるべきだという。
それから、同時代批評の重要性。名画とされている作品も必ずしも公開当時の批評は芳しくないということが往々にある。その逆もしかり。とすると、我々は現在生み出されている作品について、真剣にがっつりと批評しておかないと、後々映画から大きなしっぺ返しを食うよと警鐘を鳴らす。その観点で、たとえばマイケル・マン、ジャームッシュ、トニー・スコットについて、まともな批評がないとあとで困ったことになると。DVDやアーカイブの時代になっても、映画の「現在」に関わっていくことは途方もなく重要だという。


ほかにもいーっぱい興味深いことが書かれていて、ゴダールにノンという会の事務局長をやっている話とか(笑)ハワード・ホークス、ジョン・フォード、溝口健二のシーン分析とか、映画美学校の受講生を相手にした講義とか(これも面白い)、アメリカ人にやりこめられそうになったら「おまえマサチューセッツのスペリングできるか?」とやり返す話とか(笑)てんこもりで、大変刺激になりました。
と同時に、この人のして来た仕事の広さと深さにはあらためて恐れ入る次第です。

近年は自称「密輸業者」として国境を越えた映画の流通・場とネットワークの生成に奔走したという著者の名は、案外将来の映画史において発見されるべき名前としてこっそり残り続けるのかもしれないなと思った次第で。

****

批評家として映画に関わっていくときに考えるべきことがこの本には書かれていると考えていいと思うが、我々一介の自称映画ファンもまた、批評家の意見を参考にしながら見る映画を選んでいくこともあるわけだし、ある程度そういうことに自覚的であるべきなのかもしれない。
また、観た映画についてどんな感想を抱くのか、自分の感想をもまた批判的に思い直してみることも必要、というか楽しみの一つとしていければよいなあと思う。

特に、まさにフィルムによる一回性の体験だった映画は、今やいつでも停止・巻き戻しの可能な媒体による体験の可能なものになりつつあるという、もしかしたらすごい変転期にあるのかもしれず、そこを生きるワタシたちという自覚を持ちつつ感想を述べ合い、複数の声による場が形成できたらよいなとも思う。

(でも自分の力量はとうてい映画に貢献などと言うレベルではないことを痛感し、はなから白旗を揚げ、無自覚にだらだらと映画をみる悦楽というのも捨てがたいのである~~)


***

最後に、著者が引用しているヘーゲルの言葉を孫引きして終わりたい。
正確には、著者はゴダール『JGL/自画像』からこの言葉を引用しているので、ゴダールが正しいという前提に立つならば、ひ孫引きとなるのだが。
この言葉は、そっくり丸ごと某国の退職した某元幕僚長に贈呈したいと思う。

「精神が偉大さを持つとしたならば一つのことでしかない。それは否定的なるものをしっかりと見据える、その点においてだ」
(『精神現象学』)






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フェルメール展に行ったよ

2008-12-13 00:02:00 | art

フェルメール展@東京都美術館
2008.12.12fri

招待券があったので行かねばと思いつつ
会期最後の平日まで延ばし延ばしにして
やっと重い腰を上げました。
っていうと行きたくないみたいだなあ(笑)

午後一くらいに到着したんだけれど、
入口には長蛇の列。
ディズニーランドかと思いました。
50分待ちの札を持った係の人が最後尾に立っておりました。

平日でこれかあ・・・

結局30分くらいで入場できましたけどね。
こんなに人気があるのかフェルメール。。

*****

17世紀オランダの小都市デルフトを中心に
オランダが短い期間欧州の覇者だった時期と重なるように
絵画の黄金期が築かれた・・・

以前の宗教画から、次第に人物画・静物画・風景画・建築画などへ
絵画の主題は遷り、緻密な遠近法に繊細な光と写実的細部を持つ作品が残された。

ヨハネス・フェルメールはその時期の代表的な画家であるが、現存する作品は
30数点。
そのうちの7点が来日したということだ。
うち5点は日本初公開ということで。


ざっとこんな内容だったかな(おおざっぱすぎ)
確かにフェルメールの作品はすごかった。
室内画の窓からかすかに入る光のやわらかな広がり
それによって作られる調度品などの陰影の細やかさ
描かれる人物のちょっとした身振りの生命感
それでいて派手な主張がなく、まったりと、しかし芯を失わない
たおやかでなめらか、しかしちょっとした皮肉のようなものも隠し味として臭わせる、これぞ究極のメニューにふさわしい1品じゃ!!



フェルメールはタイムマシンで未来から来た画家だ、という
トンデモ話があるくらい、その作風は写真風
ハイパーリアリズムに光の魔術師的
この絵の床のモザイクタイルとかそこに落ちる光と影とか
後ろの壁の薄暗い光とか、ステンドグラスとか、
こういうのはどうやって描くんだろう??



*****

絵画を見るというのは
ミュージシャンのライブに行くような感覚と同じかもしれない。
写真(レコード)では味わえない絶妙な肌理を目の当たりにして
ああ、やっぱり本物は違うなと感動する。

ライブが巨大ホールよりは小さなライブハウスで聴くほうがずっといいのと同じで、
絵画もしかるべき環境でちゃんとした照明のもと見ると全然ちがうのだ。

で、今回のフェルメール展は、いわば大ホールクラスのライブだった。
箱はいいんだけど人の数が多いという点でね。
きっと休日は巨大ドームクラスになるだろう。
ヘタするとネットごし観戦になるかもしれん。

というわけで、ドームでポールマッカートニーを聴いたときのような気分で帰って参りました。
ま、それでもいいんですね。
なにしろ本物を見たんだから。


フェルメール展は12月14日(日)まで
あと2日しかありません。

ちなみに有名な「真珠~」や「牛乳~」は来ておりませんです。

あ、そういやグッズ売り場にリュートがおいてあったので
売り物か?!とか思って近づいたら
装飾用においてあるだけでした
そりゃそうだよな・・・




トビカンに行くとつい撮ってしまう写真↓



フラクタルな感じの冬の樹木~



コメント (2)
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「モンパルナスの灯」ジャック・ベッケル

2008-12-11 21:11:15 | cinema
モンパルナスの灯 [DVD]

東北新社

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1958フランス
監督:ジャック・ベッケル
原作:ミシェル・ジョルジュ・ミシェル
脚本:ジャック・ベッケル
撮影:クリスチャン・マトラ
音楽:ポール・ミスラキ
出演:ジェラール・フィリップ、リノ・ヴァンチュラ、アヌーク・エーメ、リリー・パルマー他


不遇で夭逝の画家モディリアニの晩年を描いた
ベッケル晩年の作を体験。

売れない飲んだくれの自称画家にジェラール・フィリップ
強面なのに細面というよくわからん風貌が、強気と弱気が同居する若い芸術家にぴったりだったと思うが、欲を言えば格好良すぎか。

モディリアニと運命的な恋におちるジャンヌにアヌーク・エーメ
きれいだな~
ともさかりえに顔立ちが似ているな
顔のアップだけで、いいとこのお嬢さんで純真で一途というのがわかる。

この二人が恋に落ちるきっかけなんて、ほんの申し訳程度に描かれるにすぎず、
それ以前に、登場した時点でこの二人くっつくな!というのがもう見え見え。
案の定いきなり熱愛~結婚話と盛り上がる。
これぞ映画の愛すべきご都合主義、無条件の恋愛。
これを観て嘘くさいとか経緯が描かれていないとか無粋なことは言うまい。
それはリアリズムの病なのだ。
我々はこのふたりの純真な惹かれ合いを心から応援すればそれでよい。
モディリアニの静養先ニースの陽光の下に、家出をして来たジャンヌの姿を見た時に、我が事のように胸をふるわせればよい。

という恋愛話と並行するのは、画家としてのプライドと稼げない現実との間で苦悩する芸術家魂の移ろいだ。
絵を売りたいとは思っているが、アメリカのお金持ちが一山いくらで買い取って、商品の商標として絵を使う、という話に対しては、深い幻滅を味わい、結局取引をふいにしてしまう。
芸術至上主義な人生が物語に映えるということはあるだろうけど、大なり小なりこのような葛藤を表現者は味わうのだろう。

ふがいない自分を責めつつ、最愛のジャンヌの愛情すら重荷に感じてしまい荒れるモディリアニ。それでも妻の愛を最後には受け止め、なんとか1枚5フランの絵を売りあるいて稼ごうと出かけた夜に悲劇は起こる。

この芸術殉教者の物語に陰影をつけるのは冷酷な画商モレルの存在だ。
彼は冷徹な商売人としての嗅覚で、モディリアニの絵は生前は売れず、将来価値が出ることを予言する。
そしてモディリアニの生前には決して絵を買わず、モディリアニの最後を見届けたその足で、彼の絵を買いたたきに行く。
この人物像は、単に冷酷な画商という存在にとどまらず、モディリアニの功績を生前には発見し得ず、後世になって群がるようにあがめた画壇や世間の象徴であるように思う。
また同時に、モディリアニの運命を知り告げる超越者の代理のような存在なのだ。
この辺がなかなかうまい。

フランスはこういうコンパクトで小気味よい映画を撮っていたのだなあ。

****

出てくる女性はみなモディリアニに親切なのも面白い。
ジャンヌはもちろんのこと、以前に関係のあったベアトリスや、酒場の女主人、画廊の女主人、アパルトマンの管理人おばさん、ニースでの絵のモデル・・・
酒場の下働きみたいなまだあどけない面持ちの少女ですら、モディリアニのコートのボタンを繕ってやったりする。
これはどういうことだろか。
こうして空気のようにモディリアニのモテ度を充満させることで
モディリアニとジャンヌのいきなりの大恋愛もさもありなんと納得させる。
そんな手法なのかしらね。

それともやっぱりパリの女性はイケメンに弱いってことなのだろうか。

****

ジェラール・フィリップは、この映画の1年後に
なんとモディリアニの享年と同じ36歳で死去する。

アヌーク・エーメは後にフェリーニの『甘い生活』『8 1/2』などで活躍し、『男と女』で大ブレイクする。今も現役だ。ピエール・バルーの奥さんだったこともあるそうだ。

ベッケルはこのあと『穴』1960を撮るが、公開前に死去。



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「山椒大夫」溝口健二

2008-12-10 22:33:09 | cinema
山椒大夫 [DVD]

角川エンタテインメント

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1954日本
監督:溝口健二
製作:永田雅一
原作:森鴎外
脚本:八尋不二、依田義賢
撮影:宮川一夫
美術:伊藤憙朔
衣裳:吉実シマ
音楽:早坂文雄
助監督:田中徳三
出演:田中絹代、花柳喜章、香川京子、進藤英太郎

溝口健二の力作
だからというわけではないつもりだが、やっぱり見事な作品だと思ってしまう。
物語が非常にベタな世界なのだが、最近自分が歳をとってきたせいだろうか、こういう泣ける話が妙にしっくりきちゃったりする。
(いや、意外と若い頃から好きだったかも??)
そのせいもあって、よい映画だなあと思ってしまうのかもしれない。


冒頭、国分寺の礎石と思われる円形の石のアップが無言で示される。
これが中盤深い意味を持ってくるが、ここではなんだろうこれは?と不思議な感じだ。
それに続くのは、森の中、小川、けぶる空気の中、妖精のように白装束の男の子が奥から駆けてくる。それにつづき3人の女性が歩いてくる。
なんとも高貴な空気に包まれたショットで、これだけで高貴な身分の親子が厳しい旅を続けているということが伝わってしまう。
すごいなあ。

『山椒大夫』は、中世の説経節をもとに森鴎外が書いた小説を映画化したもの。話としては「安寿と厨子王」というほうが有名なのかもしれない。
で、この男の子、もちろん主人公のひとり厨子王なのだが、若き日の津川雅彦が演じている。う~ん、ぴちぴちの少年だ(笑)

******

安寿と厨子王の二人の子供、その母、付き人の四人で遠く父が左遷された地へ向う旅の途中のことだ。盗賊が出るという地で宿もなく野宿をしていた四人に、怪しげな巫女が近づく。それはそれは難儀なことで、うちへお泊まりなさい。と言葉巧みに四人をからめとる。実はこれは人買いの手先。翌朝舟で出立しようというとき、船頭たちによって親子は引き離される。激しい抵抗もむなしく、母は佐渡へ遊女として売られ、子供は丹後の国の荘園主山椒大夫のもとにとして売られる。
子供たちは苦しい使役に耐え、長じるも、厨子王は幼少の頃の純真さを失い希望を捨てたかのようだ。

ある日、衰弱した仲間を山奥に捨てに行く際、ふと逃亡のチャンスが訪れる。厨子王は安寿を連れて逃げようとするが安寿は兄だけを逃がそうとする。自分が行けば足手まといとなり結局二人とも捕まる。兄だけなら逃げられる。厨子王を逃した安寿は、山椒大夫に責められ兄の行き先を話してしまうのを恐れて・・・

一方、国分寺にかくまわれ逃げ延びた厨子王は、都へ出て関白さまに自らの身分とたちの境遇について直訴する。牢獄につながれるも関白の計らいにより救い出され、丹後の国の守となる。すごい出世だ!
厨子王はその地位を利用し、人身売買の禁止、奴婢の廃止、労働への対価の支払などのおふれを出し、山椒大夫を国外追放とする。
晴れて安寿の身請けに向った厨子王だが・・・

志を果たした厨子王は、母のいる地佐渡へ渡り、遊女となっているはずの母を捜す。前年に津波の被害にあったという海辺にいくと、貧しい成りの女が座っている。「あんじゅこいしやほ~れほれ ずしおうこいしやほ~れほれ」(ってなかんじの)歌を歌っているので、母とわかる。涙の対面。


ああ、泣けるなあ~~

***

親子が別れ別れになるまえの旅のシーンは、冒頭にあったように幽玄の世界。4人がすべるように歩く一面ススキの原。一斉にススキが風に揺れる様の見事なこと。
そして湖畔で遊ぶ子供たちの背景に広がる日本の野山の風景。
完璧な絵がある。

そして湖畔の小舟を舞台の親子の別離劇。

おかあさま!おかあさま!あんじゅ!ずしおう!
お金ならすべてさしあげます!どうか舟をお戻しください!
後生ですから!お戻しください!

いやいや~;;

『雨月物語』でも夫婦今生の別は湖畔の舟と岸で行われたが、ここでも別離は舟をモチーフとしている点に注目~~


後半は一転してたちの暮らす劣悪な環境をハイコントラストで描く。山椒大夫の過剰に立派な茅葺き屋根の屋敷と、その周りに広がるたちの掘建て小屋の対比。ぬかるんだ地面、貧相な服装、裸足。脱走を計るには、額に焼きごての刑が待っている。残忍な山椒大夫、絶叫する、見守るたち。みんな真剣だ。もはや演技を通り越している。すごい。

このバラックはオープンセットだそうだが、なかなかのリアリティだ。あのお屋敷もセットだというからすごい。
セットもすごいが、たちのいでたちや持ち物なんかも全く手抜きが感じられず、むしろ過剰なくらい凝っていて、まったくそのころの映画産業の底力を感じるよ。

なわけで、みどころは前半の幽玄と、後半の迫真のリアリズムよ。

****

そんななかで、母玉木を演じた田中絹代だけが、ちょっと芝居じみていたような気がするのはワタシだけ?(笑)一人だけ浄瑠璃か文楽かという盛り上げ方だったなあ。特にラスト。

安寿の成人してからを演じた香川京子は清楚でいいなあ。
日本映画界大活躍でまだ現役でいらっしゃる。

厨子王(花柳喜章)はまあまあいいんだけど、叫んだときの声が通らないのが残念でしたな。

1954ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞



そうそう、この話、なんでタイトルが「山椒大夫」なんだろう??
どっちかっつ~と脇役な気もするんだがのお
ま、中世に成立しちゃってるんでいまさらどうしようもないか(笑)

【追記】
それから、『雨月物語』で出て来たのと全く同じ朽ちた土壁が出てくる。
同じオープンセットを使っているのだろうな。


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「浪華悲歌」溝口健二

2008-12-10 00:30:32 | cinema
浪華悲歌 [DVD]

松竹ホームビデオ

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1936日本
監督:溝口健二
原作:溝口健二
脚色:依田義賢
出演:山田五十鈴、浅香新八郎、進藤英太郎、田村邦男、原健作、橘光造、志村喬


溝口健二を訪ねるシリーズ勝手に開催中

戦前の大阪を舞台に、貧富格差、男尊女卑的社会のなかで居場所を見失ってゆく若い女性綾子の物語。
浪華悲歌=なにわエレジー と読むそうだ。

*****

綾子はある会社の電話交換士(+雑用)として働く若い女性。多分19とか20とか。社内にちょっとつきあっている若い男がいるのだが、そこの社長も綾子に目をつけてなんとか囲ってしまおうとしつこく誘う。
綾子の家は貧しく、どうやら父親がどこぞの会社の金を横領したらしく、その返済やら、東京にでた息子の学費やらでお金がいるが到底手に入る当ては無し。
綾子はそんな家や父親に嫌気がさし、喧嘩同然で家出する。行き先はあのしつこい社長のとこ。囲われるかわりに金をせしめるということらしい。結局綾子は家族を思っているのだ。しかし、父親に送った金は、綾子からとは言わずに息子に渡してくれとの手紙付き。だから息子は自分が綾子の恩恵を受けているとは気づかず、家出した不良娘!と怒っている。家族は綾子を理解しないのだ。
結局囲われ生活もお金ができればその必要はなく、社長を脅して追い払い、若い男と一緒になろうとするが、社長もだまっているはずがなく、金を脅し取られたということで警察沙汰になる。
家に引き取られた綾子だが、兄は「家の敷居はまたがせん!」とかいうし妹は「おねえちゃんが新聞沙汰になって、うち、学校にもよういけん」とかいう。家にも居場所がなくなって、綾子は再び夜の街へ出る。橋の上で行く当てもなく放心する綾子を写して映画は終わる。

*****

人物描写がはっきりしていてしかし芝居がかっていなくて面白い。商人はいかにも偏狭で余裕がなく使用人を見下すような人物だし、若い男はいかにも世慣れておらず、いざというときに情けない。貧しい父は理屈ばかりは威勢のいいいかにもダメ人間だ。ゴダール『勝手にしやがれ』のアフォリズムをふと思い出す。(密告者は密告するってやつね)商人は商売をする。医者は医者をやる。若いヤツは若いヤツである。このわかりやすさというか、冗長性のなさが映画のひとつの定石なのかもしれない。

この中にあって山田五十鈴(19歳!)演じる綾子だけが、定まらない人物像を生きる。誠意と向こう気の強さはあるが、それゆえにどんどん身の置き所がなくなっていく。

この人物像のコントラストが綾子を浮き立たせる。

物語的には、この「どこへもいくところがない」という浮遊感に綾子が落ちてゆくところまでダケを描いている。そこがこの映画のミソであろう。
昨今の映画ではこれだけでは皆満足しない。綾子が行き場を失ってから何をするのかをとことんまで描かないと企画は通らないだろう。

でもこの映画は、まさに綾子の困惑を共有するかのようにそこで困惑し、「終」の文字を出して停止してしまう。ここから先は描けません。なぜなら綾子もこの先どうしたらいいのかわからないから。
なにかそんな風に主人公と同じ目の高さでいる映画だと思う。

そのストーリーの欠如(もしくは余剰の回避)がむしろこの映画の生命を長く保っているような気がしないでもない。
行き場を失う若者の物語は、ある程度普遍性を持っているからだ。

******

古い映画を見るとどうしても時代の風俗にも目がいってしまう。

たとえば男は外を出歩くときはしっかり三揃えスーツに帽子だ。金持ちはもちろん貧乏人の父親でさえそうだ。

対して女性はほぼ和服。デパートの売り子さんからカフェの女給さんから、会社勤めの女性までみな和装。綾子も最初は和装で出るが、囲われてしばらくすると洋装になってくる。このへんもよく考えられている。

それから貧富の差はかなり激しいようであるが、貧しいながらもとりあえず住む家があり、子供を学校にやれたりしている。なんか戦前は格差の度は広いけれど、底辺層にもそれなりに生きる道というのがあったように思う。金子光晴の手記などを読んでも、無一文でもそれなりに海外旅行できてしまったりするしね。

綾子の一家が住むこぎたない住宅と、社長の住む純日本家屋と、綾子が囲われるモダニズムアパートと、3タイプの住居が出てくるところも時代の混交というかんじで面白い。

この時代、大阪を舞台とした映画は珍しいということだが、実際どの程度大阪を表象しただろう。関西弁はそれほどきつく響かなかったし、風景もそんなには映らなかった。関西の人が観たらどんな感想だろうか??

****

ワンシーンワンショットや、その一方でときおりはっとするようなカット割りがあるカメラワークと編集の妙技は見事・というか、自然すぎてあまり気にならない。

じっくり役者の演技を見せてくれるところはうれしい。

最後の闇へ向って頭を上げる綾子のアップも美しい。




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mayulucaレコ発ワンマン@bobtail

2008-12-07 01:10:29 | music

maylucaさんのアルバム「君は君のダンスを踊る」の発売記念ライブに
行ってきました。

mayulucaさんは発売をきっかけに名古屋/浜松/加古川にツアーにでかけ、
ツアーの最終地をmayuluca出発の地
池ノ上ボブテイルとされたのでした。

***

池ノ上に行くには渋谷で井の頭線に乗るので、
初めて鑑賞したのがこいつです「明日の神話」(だったっけ?)


芸術は爆発なのに、この絵はなにやらいいしれぬ怨念のようなものが感じられます。
怨念が通りにど~んと掲げられている。
これは実はすごいことなのかもしれない、と怨念に向けてケータイ写真を撮る。
みんな立ち止まって撮っていましたね。

****

さてmayulucaですが、
今回はギター2人を加えたトリオで始まりました。
トリオで音はどうなってしまうだろう?と期待/心配でしたが、
mayulucaワールドを大切に、柔らかでかすかな背景のような音作りでした。

これはこれで大変ふさわしいのですが、もうちょっと新しい、というか
意外な面も見えたら良かったような気もします。
ソロらしいソロを弾くとか?

そういう点では、たいていはアルペジオパターンで攻めるmayulucaさんのギターも
ときおりストロークも交え、やさしいなかでの力強さを見せていましたね。
そういう冒険?もこれからは面白いのかもしれません。

そうそう。今回は1曲コーラスをつけていましたね。
これもなかなかよい方向かもしれません。
ライブではmayulucaの声ひとりだけ、という孤独感も非常に捨てがたい魅力なのですが、アルバムではコーラスをばしばし決めていることもあるので、ライブでも何曲かはコーラスで彩ってみるのも面白いでしょう。

*****


冒頭に「君は君のダンスを踊る」「おひさまの居場所」「おうちへ帰ろう」と強力曲をやってしまったので、これからどうなるのか?と心配(いや、心配はしませんが)してたら、中盤から後半、アルバムに入っていない曲、新曲、おなじみ旧曲と、まったく飽きさせない展開で、大丈夫でした。

mayulucaのときはセットリストをメモらないことにしているので
もう曲名とか曲順がわかりませんが、
アルバム収録曲はだいたい収録順にやったように思います。

「おひさまの居場所」のような構成感のある新しい曲もとても好きですが、
今回感じたのは「花ヲ見ル」のような古い曲が
かなり深い説得力をもって聴こえてきたなあということです。
これは名曲です。
くりかえしライブで演奏を積み重ねて来た結果のよさなのではないでしょうか。
突然引き合いに出しますが、MISIAにおける「つつみ込むように」みたいな位置づけ?(唐突)

*****

最後の曲はしっとりと「ひかりの時間」
これもいい曲ですが、人生が終わるときの走馬灯がよきものであるようにという思いを込めた(そんな感じだったと思うんですが)というお話で、そう思って聴くとますます胸にしみいりますね。
歌詞は途中飛んじゃって、最初から歌い直し~というのもご愛嬌^^
というか、この時点ではじめてmayulucaさんがすべての歌をカンペなしで歌っていたことに気づくワタシ。
これはすごいと思う。神レベル>ワタシの記憶力基準

そして、失敗したときは
「何事もなかったかのように曲を最初からやり直す」
これが大事だと思うんですね。
失敗も含めてパフォーマンスであるべきで、それでめげないこと、
見る側もハプニングを受け入れること。
これが大事だと思う。
mayulucaさんはそれをちゃんとクリアしていてさすがである。


アンコールはワタシは見るのが初の
ギタレレでスキャット曲を。
mayulucaさんはちょっと前に入院されていて
病院にいるあいだに作った曲ということで
仮題「ホスピタル」だそうです(笑)

******

終演後、mayulucaさんがヒマになるのを待ちつつ
ぽつんとすわっていると、
見かねたのかギターの前原さんがソーセージをくれた
「食べませんか?」
いや~いい人だ(食べ物をくれたから?)

前原さんは50年代のギブソンフルアコを
DIをとおして直接卓につっこんでたので、
ソーセージを機会にそのへんの話をすこし聞く。

mayulucaさんのギターもいつもいい音がしているので
できればそのへんのお話もいつか聞いてみたいと思うのだが
なかなか機会がないのが残念。

最後にmayulucaさんにCDにサインをいただき
ニコニコ^^
いつかmayulucaさんが有名になったら自慢しよう!

う~~む、ちゃんとした感想になりませんでしたが
こんなところで

**********

期待していたボブテイルのカレーが今日はなかったので
かえりに渋谷駅コンビニでおにぎりとワッフルと紅茶花伝を買って帰った。
ミルクティーだと思って買ったら「クリーミーいちご」だった。
いちご!甘!

自宅入口に最近クロネコ一家が深夜座ってるので
写真を撮ろうと思うが近づくと逃げちゃうんだよね
なにもしないのにぃ

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「イントゥ・ザ・ワイルド」ショーン・ペン

2008-12-06 00:26:57 | cinema
イントゥ・ザ・ワイルド [DVD]

Happinet(SB)(D)

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2007アメリカ
監督・脚本:ショーン・ペン
原作:ジョン・クラカワー
出演:エミール・ハーシュ、マーシャ・ゲイ・ハーデン、ウィリアム・ハート、ジェナ・マローン、キャサリン・キーナー、ヴィンス・ヴォーン、クリステン・スチュワート他

とらねこさんのおすすめで鑑賞。
すっかり世間的には遅い鑑賞ですが、
まだ劇場でやっていましたよ。

この映画、題材はすごくいいよ、好みというか、
自分もすべてなげうって北へ旅立ちたい。
この「北」というのはちゃんと調べるといろいろと面白いと思うんだけど、
北へ行けば何かがある、もしくは、北を運命の地と思う
そういう発想の伝統ってたぶんあると思う。

グレン・グールドが北への憧憬ということをよく発言していたようだし、
彼はニューヨークとかにいながら夏もコートを着込んだ北指向な人物だった。
先日観た『ランド・オブ・ザ・デッド』のライリーも、生活にうんざりして「北へ行く」と言っていた。
北方信仰のようなものがきっとあるとみた。

主人公のクリスが道中出会うさまざまな人との交流と別れも
実にいい話だし深い。
16歳の女の子シンガーとのほのかな恋とか、
妻子をなくした老人との親子のような友情とかは
ほんとによい話だ。

*******

という題材の良さは十分に認められるのだが、
映画としてどうでしょうかねえ

まず情報量が多すぎて気分が悪くなってしまったのですよ

たとえばカット。
どうしてあんなにカットをひっきりなしに細かく割るんだろう。
せっかく雄大な景色がひろがっても20秒も見せてくれない。
カットが切り替わる度に、そこにあったであろう静止や運動の持続を
もっと見てみたいという欲求不満にかられつつ、次のカットの中身も見なければいけないし~でいそがしい

それから言葉が多すぎるかも
画面で十分語れるはずなのに、やたらとナレーションが入る。
字幕もしかり。
画面で語ればいいってもんじゃないにしても、あまりに「左脳的」である。

カメラの移動も非常に多い。
すぐ360度ぐるぐるまわったりする。
すこしじっとしていてもらいたい。
緩急あってはじめて移動は生きるのだと思うが。

あとは、まったく理解できないのは、
ひっきりなしにかかる音楽。ロック。
どうして荒野をさまようときにBGMがロックなのか?
土やがれきを踏みしだく音を、草木をなぎ払う音を、遠くを抜ける風の音を、たったひとりさまようクリスの息づかいを、もっとちゃんと聴かせるべきではないのか?


というわけで、映画的にほとんど共感できず、
非常に息苦しい140分だった。
これはリュック・ベッソンの初期の作品でも感じた息苦しさで、
アレ以来どうしてもベッソンの映画を見る気にならないのだが、
ショーン・ペンさん、今後も監督業を続けるだろうか?
ペンの名をみると食わず嫌いしてしまいそうなワタシでありました。

う~む、残念!


この女の子の歌はすごいよかったけどね(クリステン)





原作本は読むつもり。(もう買ってあるもんね)
荒野へ (集英社文庫)
ジョン クラカワー
集英社

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「ランド・オブ・ザ・デッド」ジョージ・A・ロメロ

2008-12-04 14:54:01 | cinema
ランド・オブ・ザ・デッド ディレクターズ・カット [DVD]

ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン

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2005アメリカ/カナダ/フランス
監督・脚本:ジョージ・A・ロメロ
出演:サイモン・ベイカー、デニス・ホッパー、アーシア・アルジェント、ロバート・ジョイ、ジョン・レグイザモ、ユージン・クラーク



ゾンビについて考えるキャンペーン(自分だけ~)なので鑑賞

この作品では、なんつーかな、
ゾンビが前提となった社会において、その前提が変化しつつあるときの
人間の行動を描いたドラマ
という感じでしたね。

変化するゾンビ側にはそれなりに物語があって
(ゾンビの歩みにふさわしく緩慢な物語であるけれど)
その変化に影響を受ける人間側にも物語がある
(ちょっと勧善懲悪的な)

どちらを描きたかったのだろうというともちろん両方なんでしょうけど、
想像するに、ゾンビが変化する~というアイディア一発でそれにうっとりして作り上げちゃったのかな~と
つまり人間側のドラマは全然面白くないと(笑)

花火ど~んと打ち上げてそれに見とれて動きが止まるゾンビという設定に
きっとうきうきしてとりくんだでしょうし、その設定を最後に生かすというアイディアも思いついたときには、やた!と手を打ち鳴らしたでしょう(笑/想像)

ゾンビ愛の映画

****

冒頭から笑わせてくれるのは、「少し前」とかクレジットされて、ゾンビが発生した旨を知らせるメディアの音声とかをちょろっと流して、すぐに「現在」とかいって本筋に入っちゃうとこ。
「ゾンビってモノがいます。皆さん知ってますよね?はい、では本編です。」
てな、すごい図々しい横着なつくり(笑)

こういう図々しさがなんだか気に入った。

どうやらゾンビのいる世界では、人間は大都市に囲いを作って住み、雇われ者が地方都市(ゾンビが闊歩している)に残された食料とかを集めて来てそれで生計が立っている社会を形成しているらしい。
雇われものたちは当然地方都市へ赴く際はゾンビとの戦いになるのだけれど、常套手段は、派手な装甲車で集落に乗り付け、まず花火をど~ん!と打ち上げる。
花火があがっている間は街行くゾンビたちは見とれて動きが止まるので、物資を集める間は花火をばんばん上げ続けるわけ。
だから基本戦闘は無しなんだけど、なかには野蛮な?好戦的なヤツがいて、やたらとゾンビを撃ちまくる。野蛮のリーダー格は「チョロ」とかいう名前で、変な名前だ。チョロは組織的な物資の調達の他に、数人で徒党を組んでえらい人に横流しするための酒とかタバコとかを個人的にくすねる。変なところに忍び込んだりするんでいきなりゾンビに襲われて仲間を危険にさらしたりするんで、組織のリーダー格で正義漢のライリーはチョロを快く思わない。

この調子で書いてくと切りがない~~

上流階級の連中は川の中州みたいなとこに要塞都市を作って、異様に豪勢な暮らしをしている。チョロはそこの一員になんとかして潜り込みたいという野心を持ってるわけだ。で、都市の大ボス・カウフマン(デニス・ホッパー!)にいろいろ貢ぎ物をして取り入ろうというわけだが、もちろんカウフマンはそんな小物は相手にしない。
で怒ったチョロがちょろちょろと悪巧みをする、それを退治するためにライリーとその友人スラック(アーシア・アルジェント!)達がカウフマンに雇われる。

でもそういう人間たちのイザコザとは関係なく、度重なる虐殺行為にゾンビたちは怒りを覚えて、「生前の習慣を繰り返すだけの能無し」から一歩踏み出し、銃の使い方を覚えちゃったりして、人間への復讐を始める。
膨大な数のゾンビが要塞都市に向って集結する!

そのさなかにイザコザを処理しなければ行けないライリーやチョロは、人間同士の戦いの上に、途中途中でゾンビの群れとも戦わニャいかんので、もうわやわや。

すべてに嫌気がさしてきたライリーは、カウフマンに加担するつもりは毛頭なく、チョロの装甲車を奪って北へ行こうと思ってるので、別にチョロなんか実はどおでもいい。
結局チョロは墓穴を掘ってああいうことになっちゃって、カウフマンに仕返しに向う。

都市に押し寄せてきたゾンビは、まず越えられないだろうと思われていた川を、勇気を出して?渡ってみたら、なんだ、渡れるじゃん、というわけで、都市の柵もめりめりおしやぶって侵入する。
いや~、人間を襲うは引き裂くわ食いつくわの大騒ぎ

なんとかこの事態を収めようと都市に引き返したライリーにももはや打つ手無し。
逃げようとしたカウフマンも派手に死ぬ。

ああ、結局ゾンビの世界になるのね・・ここも・・・

****

というお話でした。

なんかこう、ゾンビ自体の恐怖というのは一歩後退して、
ゾンビ変奏曲の一つとして、いちおう人間ドラマを乗せてみましたが、
実はまあゾンビの変化を撮りたかったんだろうなあという感じです。

ゾンビが意思を持つについて、目覚めたゾンビを描くことによって、これまではどれもワンオブゼムだったゾンビに、特権的なやつが出て来たことが面白い。
ビッグ・ダディと呼ばれる体格のいい黒人ゾンビとか、頬が避けている女性ゾンビとか、特定のヤツが主導者格っぽくなんども画面に映り、叫んだり威嚇したりする。
これによって、ゾンビに人格感が付与されている。人物の意思の表現とと映像的特権化にはこういう関係があったんだなあと、あらためて感じる。

と、同時に、これまでの非特権的クラウドとしてのゾンビが持っていた「他者感」がちょっと薄れている感じもする。

こういう「他者感」は映像表象的には根深い問題を持っていると思う。例えば欧米映画において、イスラム世界、アジア、先住民、オリエントが、時として人格レベルではない像=他者として描かれることがあるように(いや、別に欧米映画だけの問題ではないけれど)。

でもゾンビ(というか、見た範囲でのロメロのゾンビ)は、その表象の非特権化による他者性の湧出を、うまく恐怖や「居心地悪さ」と結びつけることで成立していたように思う。映像的非特権~絶対他者~恐怖というつながり。

そういう点ではこの映画は、その他者性に基づくゾンビ的気味悪さが損なわれていると思う。
人格を得たゾンビは固有名詞を与えられ、それに親近感を持つファンもいることだろうが、ワタシはどちらかというと、根源的居心地悪さを備える第1作などのほうが好みである。

******

第1作『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』では、冒頭田舎道をクルマが走る姿を遠景でずっと追って行く、あのショットだけでこれからおこるであろうことの禍々しさを十分予告していたと思う。

本作ではそういう心に残る秀逸なショットがないのが残念だ。

また、ゾンビの匿名性に基づく根源的恐怖は、新作『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』では回復されていると思う。新作ではまるではじめてゾンビという設定を思いついたかのような、フレッシュな視点があると思う。この点も新作を気に入った理由の一つです。

*****

あとは、そうすね~、ゾンビと人間の境界にいるような男チャーリーの設定が中では居心地の悪い要素でしょうか。あれはなにか新しいものを感じますね。チャーリーをたどってどこへ行けるのか、よく考えないとわかりません。

アーシア・アルジェントは、役所としてはあまり活躍せずちょっと残念。
添え物的になっちゃって。キャラ的にも一時期のウィノナ・ライダーとかシガニー・ウェーバーとかとかぶるかも?


ま、こんなところです。



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「晩春」小津安二郎

2008-12-01 23:42:42 | cinema
晩春 [DVD]

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1949日本
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
出演:笠智衆、原節子、月丘夢路、杉村春子

くったくなく笑わせていただきました
もちろんしっとりした情感のようなものを味わいながら
小気味よいカットのつなぎの妙技を味わいながら
脚本のはしばしで現れる「遊び」を心で楽しみました。

****

笠智衆のよさなのかもしれませんが、
言葉のしつようなくりかえしが随所にみられ、
それが妙に面白いのでした。

杉村春子を相手に今様のお嫁さんの結婚式での「食べっぷり」について
「そりゃ食べるよいまの若い人は
あんただって今だったら食べるね」
「そうかしら」
「いや食べるよ」
「でもあんなにあっけらかんとされたんじゃ」
「いや食べるよ、食べるね、うん、食べる」

とかいう会話をひょうひょうとされると思わずこちらも声を出して笑ってしまう。
映画館だったら密かな連帯感とともに満場で含み笑いをするだろう。
いい感じだ。

(あと、のりちゃんのお婿さんの名前についての会話もなかなかに笑えるが、みてのお楽しみだ。)

こういう会話も、対面切り返し、人物の背面から、二人をやや遠景から、等のショットのつなぎで構成されているので、役者のアドリブとかではない、綿密に計算されて撮られていることがわかる。
意外とテンポのよいリズミカルな編集で、派手ではないが見ていてノリのようなものが出ている。

のりちゃんと父の住む家の中も、さまざまなアングルでカメラが据えられており、その切り替えがすばらしい。どんな間取りなんだろうと興味を抱くような構成感がある。

****

1階の居間と父の仕事場は和風だが、2階ののりちゃんの部屋にはしゃれた椅子とテーブルがあって、さりげなく世代間の違いを表しているのも面白い。

二つの物語が撚り糸のようになっていると思う。
●娘を嫁にやる父親の物語

●父親に嫁に出される娘の物語
それぞれに結婚という機に思うことがあり、それぞれよく感じられるつくりになっているのがうまい。
糸が撚ってあるのは、やや近親愛めいた親子間の近さによる。
それと終幕、父親と娘のりちゃんの友人とでかわされるお酒によって二つの世代はゆるやかにつながりを持つ点によって。

のりちゃんの旦那となるひとはついにスクリーンには登場しないのもよい。
よく出来ている。

****

あと、顔の演技。
原節子は冒頭、茶会で礼をしたあとふと上げる顔から、
周囲から一つ抜きん出た満面の笑みを見せる。
ここで印象づけた笑顔がずっとのりちゃんの印象を支配するのだが、
父親の再婚話がでたときから、表情は一変する。
彼女はほとんど顔による演技だった。

一方、笠智衆は一貫してほとんど同じ表情をしている(笑)
一世一代の嘘をつくときもひょうひょうと同じ顔をしている。
彼はほとんど演技をしていない。
周りがどんどん動いていくことで、彼の相対的な動きが感じられるとでもいうべきか。

杉村春子はサイフを拾う(笑)
あのシーンはほんとに面白い。
最後までサイフを届けたかどうかわからないし
拾った直後におまわりさんが通りかかるのも
不思議でよい。

どこまで考えられているのかと考えると、
もう隅々まで考え尽くされた作りなのだとわかるのだが、
見ているとそのことを忘れてしまう。

忘れないで対抗して、そこに込められた表現のための労力を思うことで、
この映画はますます暖かくなるように思う。

****

舞台は主に鎌倉にある家なのだが、父の助手さんとノリちゃんが自転車でちょっと遠出するシーンがあり、七里ケ浜から鵠沼、辻堂あたりの海岸線の風景が映し出されるのが、個人的には感無量。

そこはワタシの育った場所。しかもこの時代、そこには海岸砂浜以外なにもない。近くに見える江ノ島にも灯台(展望台)の姿はない。原風景のさらに前時代の風景なのだった。滂沱。

あのあたりは占領軍の演習場になった過去があり、そのため周辺のちょっとした標識なども英語表記だったのだが、それもしっかり映っていた。

時は去り、二度と戻らない。。


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