Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「コズモポリス」デヴィッド・クローネンバーグ

2013-05-12 01:57:12 | cinema
コズモポリスCOSMOPOLIS
2012フランス/カナダ
監督・脚本:デヴィッド・クローネンバーグ
原作:ドン・ゲリーロ
撮影:ピーター・サシツキー
音楽:ハワード・ショア



同じような時期に同じくリムジン映画を撮ってしまったクローネンバーグとカラックスの不思議な出会い。
どちらも現代のいわゆる先進国社会で生きることの歪な形を、リムジンという移動する閉鎖空間をベースに外界と内界の境界や因果律が曖昧となる奇妙な生活によって禍々しく彫り出してみせる。

どちらも映画作家としてひと頃の旬でアナーキーな製作期間は終わったとすら目されてしまうような微妙な作風を持ち、特に比較的コンスタントに作品を放つクローネンバーグにおいては前作『危険なメソッド』などにおいて、これが彼の作品?とクエスチョンマークさえ誘発してしまう近年の動向の中で、なおさら「衰退した」印象を抱かせてしまう本作。
この「問題作」でクローネンバーグ映画はどこに向かおうとしているのか?

・・・と書き出してみたのだが、どこへ向かおうとしているのかって、全然わからないw


クローネンバーグの特に初期の作品は、世界あるいは人間の持つ奇形的な側面を、あっけらかんと可視化し、五感に(そう、匂いですら感じさせる)訴える生理的な具現化の実験に費やされてきたと言ってよいと思うのだが、本作はそういう作風ではなく、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のように、むしろ視覚化されない奇形性についての映画なのだ。


【ここからたぶんネタバレです】


リムジンに乗って町を横断したところにある床屋に向かう主人公エリック君は、
映画中ではほぼずっとリムジンに乗りっぱなしなのだが、
話の中で普段もおそらくはオフィスにこもりっぱなしで、
リムジンかオフィスのどちらかにしかいないと思われる。

そういう環境における「現実」は、外から招き入れるスタッフがもたらす「情報」である。
「情報」を判断し処理することによって巨額の富を得たと思われる主人公は、
現代のある種の人々の生き方をデフォルメした姿なのだ。

大規模なデモ(ほとんど暴徒)がリムジンの外を通り、リムジンにスプレーでラクガキされまくっても、
それは外界の出来事であって、エリック君にはたいした問題ではない。
それより、ときおり車内に呼び寄せられる、常人離れした才能を持っていそうなブレインたちのもたらす、為替の先読みやら相場パターンやらコンピュータシステムのセキュリティやらの抽象的な事柄の方が重要。

あとはセックスも重要みたい。
リムジンを降りる数回のほとんどが女性がらみ。

自分に向けた暗殺の強迫もあまり現実味を感じていないようだ。
(もちろんセキュリティを万全にした上で)



エリック君の受難は、終盤リムジンを降りセキュリティから離れて銃も持たずに閉店後の床屋さんを訪れるあたりからはじまるのだけど、映画的にはこの辺からがらっと雰囲気がかわって、なんというか、面白くなるw
リムジンが車庫に入りエリックが無防備になったところから、エリックの日常にはない体験が始まる。

しかし、これはエリックが殻から出て冒険したり成長したりする物語ではない。
殻から出たとたんに、外界の暗い側面に出会って破滅する(んだと思う)。
そういう点で全く希望のない映画なのだと思う。


***

ジアマッティさんが演じているあの人は、エリックを強迫していたヤツなんだろか?
でもエリック襲撃の最中にタオル顔に巻いてトイレに行ったりはしないと思うんだよね(笑)
たまたまかつての雇い主に出会った、怨念貯め込んだ元従業員ていうことでどうかね?
たまたま出会うというのもありそうにはないけど。


エリックのロバート・パティンソンはなかなかの「クローネンバーグ顔」をしており良い雰囲気だ。

奥さんのエリーズ(サラ・ガドン)はすごい美人さんだし、エリックと同じくらいどこか壊れてる感じが出ててよかったね。巨額の損失の話が出たとたんに「私たちの関係は終わりね」とか言って退場しちゃうし・・

ジュリエット・ビノシュは歳を取ったね、と言いたいがワタシより若干年下である。。。



@新宿武蔵野館
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