Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「スパイの妻 劇場版」黒沢清

2020-11-06 02:03:58 | cinema

黒沢清の新作はなるべく劇場にて!
を近年のモットーにしているのでいってきましたシネ・スイッチ銀座。

近年の作品と共通するのは、
特に女性が変容する映画だということでしょう。

人が変化していくというのはなんというか
力場を生み出すようなことであって
たくさんのエネルギーが伝わってくる感じ、
生き生きとするとともにどこか禍々しく
なまめかしいことであるように思える。

それを表現するのに、黒沢清的なもの
ホラー的な、非日常的な、ミステリアスな、
そういう感覚はとても適していると思うのよね。

「散歩する侵略者」でも、長澤まさみは彼女らしい「普通の人感」を極限まで保ち続けるんだけど、
あるタイミングで一気にみるからに変容する。
その「見た目」が魅力的かつ恐ろしい。

「スパイの妻」でも同様の禍々しい感じを持っている。

また「この感じ」は常に映画全体を貫いてもいる。
それがとても重要なのだと思う。

人物はつねに普通のリアルな人として演じるんだけど、
同時にどこかこの世の人でないような、
ほんとうに君が今しゃべっているのか?みたいな非現実感がある。

そこでは役者の演技が上手いとか必然性があるとかリアルとか
「迫真の演技」とか
そういうこととは違う、
好むと好まざるとに関わらずそこにただ在った存在が写って残ってしまった
というような恐ろしさが演出されている。

その不安定な、現実感があるようなないような感じが、
常に映画に変容へ向かう力というか可能性を与えているのだと思う。

 

ということであるので、
常連となっている東出くんなどは
もういるだけで超怪しいし現実的でない点で実にふさわしいし、
毎度ひょいと出てきては全てをさらっていく感がある笹野高史などはもう
まってました的ななにかであるわよもお〜

『スパイの妻<劇場版>』90秒予告編

 

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さて、ここからはネタバレ満載です!
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●個人映画

冒頭あれっ?てなる映画内映画の撮影風景(入り組んでいていいねえ)
の扱いが脚本的にも素敵よね。

この体験がある意味彼女の変容の鍵となったということが、
まず中盤で鮮やかに効いてくるのがよいし。
さらには、この個人映画が作中で数度繰り返されることを通じて、
我々は最後にあの映像の「入れ替わり」を見るだけで
瞬時にすべての種明かしを、説明なしに理解できるわけだから。

でしかも、その鮮やかに理解できた瞬間に我々が心の中で呟いてしまうセリフを、
ほぼ同時に劇中の蒼井優が心の底から吐き出すのであって、
もうこうなると二重三重に「お見事!」ですのお。

で、蒼井優さんが映画内で仮面を外すところで
観てるひとが「おお〜〜」てため息をつくのを2回もやるのが
とても好き。
きっと制作チームみんなもおお〜って思ったんだろうとか想像する(笑)

 

●裏

よくわからないけど、「裏の部屋」とか裏側にはなにやら別の世界、
別の時間、別の事柄があるというような感じがあると思う。

「クリーピー」では顕著に裏側の世界が描かれていたが、
あれと同じ感じであの会社の倉庫だか書庫だかがある。
表の活気ある造作と打って変わって、倉庫の中はなんか青灰色なかんじ
寒いし、変。

あそこは暗い世界との接点。
誰もいない会社で夫妻が秘め事をやらかしたと思しきときにさえ
倉庫への風景は闇、もうホラーだったし。。

 

●車

変容のメタファーというか変容に伴って常に描かれるのが
車での移動と車外の風景の異様。
なんだが、今回は車もあるけど、路面電車での移動に変奏されているのだろうか。
車外はもう真っ白で、光にみちているのかなんなのか、
存在が白い闇に浸食されそう。

以前は非常に禍々しく撮られていた車移動も
だんだん派手さを秘めるようななってきてないかしら(笑)

で、なーんかジブリ「千と千尋〜」ぽい感じ。
あれも変容というか世界の移動みたいな移動に電車(電かな?)

 

●たしなみ

というか、「問題の映像」を最初に聡子さんがみるところは、
個人的にはマイケル・パウエル「血を吸うカメラ」を
あるいはポランスキー「ローズマリーの赤ちゃん」を瞬時に思い出したんだけど、
決定的な場面、目撃した内容を、観客には直接見せないという
近年はあまりみない気がするたしなみ。

映画におけるスリルとは何かということ。

 

●タルコフスキー

とっても個人的な考えだけれども・・・

タルコフスキー「ストーカー」に、
少女が座っているテーブルの上の食器などが振動するシーンがあり、
しばしば「超能力少女」という見方をされているのだが、
タルコフスキーが実際どう思っていたかはさておき、
個人的には超能力としてしまうのはどうもつまらない。
だったらなに?という感じがする。

のちに「サクリファイス」でもミルク壺の振動のシーンがあるが、
あれはミサイルだか戦闘機だかなんだかの飛来に伴う振動であることが比較的明示されている。

これは、個人の力、知覚を大きく超える作用によって変化が訪れるときには、
その予兆は神秘的な出来事と同じようなことになるだろう
という、この世の現実についての洞察というか実感を表現しているものなんだろうと
個人的には考えて、面白がっている。

そのほうが、タルコフスキー的、映画体験的に素敵なテーマだと思う。

で、「スパイの妻」で終盤現れる振動シーンは、
まさにそのようなシーンとして(「サクリファイス」的に)描かれていて、
個人的にとても盛り上がったところでした。

「予兆」でも振動シーンがあり、こちらは超能力的な感じかもしれんけど。
医療系の器具をみると揺らしたくなるのかも(笑)

 

こんな感じかしら。

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