ジャン=リュック・ゴダール 映画史 全8章 BOX紀伊國屋書店このアイテムの詳細を見る |
ゴダールによる、無数の映画やテキストの引用からなる「映画史」。
8章のうち、1章を再見。
ビデオ編集技術を駆使してめまぐるしく入れ替わりオーバーラップする映像と音、文字とナレーションの嵐は、さらにわたしたちの場合二箇所に出現する字幕も相俟ってもうえらいこと。
さあ、どう楽しもう。
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もともと映画が引用と編集によって成り立つという仕組みを十二分に逆手に(いや順手に?)とって、引用と編集のなかにこそ映画史を現出させようというこころみなのだと思う。
それは引用者および編集者の独断と偏見を強く反映するとともに、その反映をあたかも自然の摂理であるかのように隠蔽しようともする。
そうした映画自身の作用の魔法をすら現してやろうというゴダールの熱意(反旗?)を感じるこの作品は、当然のごとく難解でかつ退屈である。(笑)
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わかりやすく退屈でない映画が映画の表の意識(氷山の一角)だとすると「映画史」はなんちゅうか、映画のエゴだのイドだのスーパーエゴだののマップ(氷山の海面下)という感じでしょうか。
映画を、それがはらむ記憶や物語や意図や無意識やそういうものを可視化(可視聴化)しようというスーパーホログラフなのだと思って、五感で(いや二感で)ひたりきることこそがこの「映画」の体験なのだ。
と思うとなんだかSFちっく。
また、「存在した映画史だけでなくあったかもしれない歴史、複数の歴史についての記述の試み」ということは、オルターエゴまでを含むマップなのだ、なにやら量子力学的決定論、もしくはパラレルワールドの歴史に肉薄しようという、これもまたSF的試みと考えることができるかもしれない。
映画史=SF
他の作品にも見られるゴダールの編集の叙情性はこうしたSF的志向の結果なのかもしれないな。
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そのホログラムにはナチズムの台頭とジェノサイドが織り込まれている。これは映画史という文脈で何を意味するのか?いや、文脈での意味を探ることはこの際空しいことなのかもしれない。全体主義と映画はともに20世紀の発明であり事件なのだ。避けては通れないというゴダールの直感なのだ。
コミュニズムもそうだ。レーニン。マオイズム。5月革命(これはちょっと違う?)20世紀の事件。
映画史=20世紀の事件=映画+ジェノサイド+コミュニズム
この認識(偏見・オブセッション)
(言及されていない事件はどうなんだろ。
相対性理論、量子力学、宇宙開発、遺伝子工学、生命工学
20世紀の発明)
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いすとわーる(歴史=物語)というのもなんだか皮肉っぽくてよいなあ。映画の表層たる物語(説話)の要素を極限まで拒否した(いや、平準化したというべきか)編集によってこそ物語(歴史)が現れるのだという確信(直感?)
あとは刺激的な言葉たち。
「映画は世界を置き換える。その欲望のとおりに。」
「映画=銃と女(gun/girl)」
などなど。
1B以降も楽しみだ。
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第1章の1Aと1Bは以前wowwowで放送したが、そのときのバージョンとDVD版はかなり違っているようだ。
これまた「もうひとつの映画史」?
DVD版は3000ページに及ぶ引用の解説を参照でき、労作。
この解説を読むだけでかなり楽しめる。
値段のことはあるな。
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