Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「さらば、愛の言葉よ」ジャン=リュック・ゴダール

2015-02-12 02:50:26 | cinema
さらば、愛の言葉よ
adieu au langage
2014フランス
監督・編集・脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ファブリス・アラーニョ
製作主任:ジャン=ポール・バタジア
出演:エロイーズ・ゴデ、カメル・アブデリ、リシャール・シュヴァリエ、ゾエ・ブリュノー、ジェシカ・エリクソン、クリスチャン・グレゴーリ、ロクシー・ミエヴィル



ゴダール最新作観てきました。
話題の3D作品ということで、劇場でしかたのしめないのよね。
3D対応TVとソフトがあれば家庭でもいけるのかしら。

3Dの商業映画は近年徐々に定着しつつあるようですけど、
そのなかで急速に固まりつつある3D作法に対して、
ちょっと待てよそれはお行儀よすぎるだろうといわんばかりに
規範を覆していく作品でありまして、
資料によりますと「通常」の視差よりも広い間隔で組み合わされた2台のカメラをメインに
「通常」よりも特に近距離において過剰な立体感を醸し出して
鼻先が異様にこちら側に出てくる犬(ロクシー)のアップとか
樹木を手持ちカメラでなめて揺れ動く3D映像とか
ついには左右の映像にまったく異なるものを当てたりして
これでもかというやりたい放題なのであります。

規範が映画の文脈を支える安定した構造を保つために要請されるものだとするならば
それはつまり言語なわけですね。
言語により分節化された世界を我々は認識しているわけで
同様に言語により分節化された映画を我々は認識するのですね。
ここで分節化される以前の世界=映画を仮定してみるというのが、
さらば言語よという映画の野心なのでしょうね。
はじめにことばありき
なので、「言語以前」を仮定すること、それが映像=イメージならできるとすること、は、
おそらくは素朴なあこがれであって、実際は言葉と認識はどこまでも不可分なのでしょう。
が、それでもあえてふと言葉を失った世界、存在みたいなものをふと感じてしまうかのようなものを
映画はとらえてしまうのだよと
素朴にかつ果敢に挑戦してみせるのがゴダールなのでしょう。
その心意気に非常に感動せざるを得ないのであります。


・・・が、
そういうこととは別に、
鑑賞中のワタシの心を支配したのは、
「うわ、ゴダール世界が立体になってる!!」という喜びでして(笑)
いつものように人物が本を読みながらぶつぶつなにがしかの引用を口ずさみ
人がいったりきたりしつつ無駄に?裸になっていたり
車が近づいては去って行ったり
そういうものがとにかく立体になってる!!という面白さというか
素朴に3Dであることの驚きを楽しんじゃっていたのです。

伝説のリュミエール兄弟による列車の到着で逃げ出した観客の気分を
純朴にここで体験してしまった。
こういうことが起こるとは思っていなかったので、
批評性とかそういうことはそっちのけで実に楽しかったのです。

ワタシの視力とか乱視の度合いとかそういうものと
この映画のちょっと規格外の立体感がうまくマッチしているのか、
ほかの3D映画では感じたことがないほどに
いい具合に人物や樹木や犬が目の前に実際にいるかのように浮き出てきていたのです。
(特に女性の裸体が手が届きそうなところに立ち現われたのには密かにおおおおっと思っちゃったのは内緒です)

おかげで?全体の説話的な構造なり解釈なり
そういうことにはほとんど関心が届かず
それでいいのかと思いつつも、ほんとうに「さようなら言葉よ」的な体験として
観ちゃったので、
いや~これでいいのかなあ?
タイトルはこういうことでいいのかなあ??とか
なんだか申し訳ないような気分です(笑)


時間があったらもう一度観たいなあ。
水面や水中を撮ったり、いろいろと面白い映像が満載なのよね。。




難しいことはこちらの本を!

ユリイカ 2015年1月号 特集=ゴダール2015
クリエーター情報なし
青土社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする