イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

フリーランス翻訳者殺人事件 5

2009年01月31日 15時09分16秒 | 連載企画
殺人事件――。テレビを見なくなったわたしは、ニュース番組で殺人事件を知ることもなくなった。新聞は読んでいるから、殺人を始めとする犯罪のニュースは目にしている。だが、少なくともわたしにとって、テレビで報道される殺人事件は、聞記事で知らされるそれとはかなり異なるものだ。夕食時にリビングのテレビをつける。すると、ニュースキャスターがその日に起こった事件を読み上げる。毎日のように、日本のどこかで事件は発生する。今日何時頃、どこかで誰かが誰かによって刺殺された。刃物を持った誰かが、誰かの体を切りつけ、心臓を突き刺した。誰かは死亡し、騒ぎに気づいた近所の人が警察に通報。誰か、つまり犯人は逮捕される。犯人の動機は...。

全国の何千万人という人が、そんなおぞましいニュースを毎日のように聞かされる。来る日も来る日も聞かされる。なぜわたしたちは、そのようなニュースを毎日知らされなくてはならないのか。わたしには、その確固たる理由はわからない。何らかの事件が起きれば、当然それを知りたがる人がいるのはわかる。もちろん、わたしだって興味がある。殺人事件や犯罪事件のニュースは社会への警鐘であり、法を破り逸脱した行為をした者を許さないとする世間の共通意識を形成するのに役立っているのだろう。テレビの画面を見つめながら、誰もが加害者にも被害者にもなりたくないと思う。事件は自らの人生の蚊帳の外であってほしいと願う。たいていの場合、ほとんどの人は殺人事件とは縁のない人生を歩んでいるはずだ。だがそれが、殺人事件のニュースを毎日見ることが、どれほど影響しているのかは定かではないけれど。

世間の圧倒的多数の人たちは、まっとうな人生を歩んでいる。誰かをナイフで刺し殺したりすることは、ほとんどすべての人たちの人生とは無縁だ。にも関わらず、誰しもの日常のなかに、殺人事件のニュースが入り込んでいる。まるで、朝起きたら歯を磨くみたいに自然な形で。

ネガティブなニュースを目にすることで、人間心理にどのような作用が起きるのかはわからない。見た人が「自分はこのような凶悪な事件とはかかわりないところで生きていこう」と思うのであれば、ニュースはポジティブな働きをしているのだろう。実際、その効用は確実に存在すると思われる。だが、わたしはテレビで犯罪事件のニュースを見るのが好きではなかった。暗いニュースを聞かされる度に、人を刺殺するにいたった犯人の重苦しい人生を想像し、刺殺されてしまった人の不運に悲しみを覚えた。新聞記事なら、さっと走り読みするだけで済む。心が読むことを嫌がれば、すぐに別の記事に目を移せばいい。テレビを見ているときのように、逃げ場のない思いで数十秒間、あるいは数分間、悲しい事件に部屋全体の空気を支配されなくてもいい。

事件は今日も全国のあちこちで発生しているだろう。新聞では臨時ニュースは伝えられない。だからわたしは、近所で連続殺人が発生していようとも、それに気づけないだろう。ネットで知ることはできるかもしれないが、わたしがネットでニュースを読むのは多くて1日に2、3回だ。だから、もしNHKの受信料調査員を装った殺人鬼が近所を徘徊していることが臨時ニュースで報道されていたとしても、わたしはそれに気づけないかもしれない。彼がこの家のチャイムを鳴らしたら、わたしはいつものように仕事をする手をとめ、玄関までスタスタと走っていき、国立競技場に颯爽と姿を現した瀬古利彦のような笑顔で扉をあけるのだろう。そして、ジョン・リスゴーのナイフは、わたしの腹部を深くえぐることだろう。わたしは後悔するに違いない。テレビを見ていないことを。そして、にもかかわらずNHKの受信料を支払い続けていることを。

わたしが殺されたニュースは、その日のうちにテレビのニュースで全国のお茶の間に知らされる。「本日午後6時頃、東京都○×市の住宅街で、30代の男性が何者かによって刺殺されました――。」アナウンサーは、いつものように抑揚のないしゃべり方で、ニュースを伝えるのだろう。そしてそれを見るまっとうな人たちは、歯を磨くように当たり前にそのニュースを受け止め、自らの人生にはそのような悲劇が舞い込まないことを願い、眠りにつくのだろう。明日というまっとうな一日のために。

とはいえ、フリーランス翻訳者は、もっとも殺しの対象になりにくい職業のうちのひとつかもしれない。好き好んで翻訳者の息の根を止めようとするものなど、いるとは思えない。巨額の金を扱うわけでもないし、仕事上、人に恨みを買われるようなことだって稀だろう。もちろん、よくない翻訳のせいで、依頼者や読者に迷惑をかけてしまうことはある。だが、それが原因で暴力事件が発生することは、常識的に考えてまずあり得ないだろう。それに、フリーランス翻訳者は基本的に家に閉じこもっている。人目にさらされることも少ないのだから、偶発的に事件の被害者になる可能性だってかなり低いはずだ。

わたしの場合、殺されてしまう可能性として考えられるのは、ランニングの最中に暴漢に襲われるか、自宅を訪れた凶悪犯に刺殺されるかくらいだろう。車の往来の少ない道を走ってはいるものの、交通事故に遭う可能性は少々高いかもしれない。特に夜道を走っているときは。だが、仕事がらみで編集者から絞め殺されたり、翻訳会社のコーディネーターに階段から突き落とされたりするようなことはあるまい。あるかもしれないが、あってはほしくない。

そもそも――、とわたしは考えた。翻訳者を殺すには、刃物はいらない。翻訳者の死につながるもの、それは、質のわるい仕事であり、仕事の枯渇であり、それがもとで食べていけなくなることにほかならない。そして、日常に潜む孤独も。当然、わたしもそれらとは無縁ではない。特別に意識しているわけではないが、フリーランス翻訳者としてのわたしに忍び寄る死の影に静かにおびえながら、わたしは毎日を過ごしている。

わたしは仕事を再開することにした。こんなことを考えていても始まらない。心から恐れを取り除くには、仕事をするしかない。自分の技量をあらゆる面において高めていくしかないのだ。仕事場に戻ると、わたしはキーを打ち始めた。不安を打ち消すためには、1ワードでも多く翻訳することだ。仕事の結果は、文字としてコンピューターの画面のなかに現れる。文字が多ければ多いほど、わたしは不安から遠ざかることができるのだ。

ひとしきり仕事をした後、わたしは机の上に置いてあった名刺と封筒を手に取ってみた。ジョン・リスゴーの名刺には、当然のことながら『ジョン・リスゴー』とは記載されていなかった。わたしが目にしたのは『徴収 力』という奇妙な名前だった。ちょうしゅう りき。面白いじゃないか。力づくでも、受信料を徴収するということか。わたしは笑った。もしこれが彼の本名なら、彼の今の仕事は天職にちがいない。わたしは彼の名刺をもう一度眺めてみた。『NHK』の文字が見える。

次の瞬間、わたしは自分の眼を疑った。『NHK』の右横には、わたしの想像とは異なる6文字が記載されていた。


    NHK  日本翻訳協会

        徴収 力


わたしは、得体のしれない何かがこの身に迫ってきているのを感じた。



※この物語はちょっとだけフィクションです。登場する団体名・地名・人物などはいっさい現実と関係ありません。







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