イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

フリーランス翻訳者殺人事件 3

2009年01月29日 23時11分33秒 | 連載企画
わたしが、「テレビは持っていない(つまり、NHKの番組はもちろん、民放の番組も見ていない)。だが受信料は払っている」と伝えると、彼は「そうですか」と困惑した表情を浮かべて呟いた。

彼が戸惑うのも当然だろう。普通「テレビは持ってない」というセリフ――その人が本当にテレビを持っていようと、見え透いた嘘であろうと――に続くのは「だから受信料は払いません」になるだろうからだ。「テレビはない。だけど受信料は払う」なんていう矛盾した主張をするわたしのようなパターンはごく珍しいだろう。考えてみたら、わたしも大人げなかった。受信料を払っていないのならともかく、そうではないのだからテレビがないことをいちいち彼にアピールする必要はなかったのだ。彼にしてみれば、わたしがテレビを持っていようがいまいが関係のないことだ。単に「受信料は支払っています」と言ってあげればよかったのかもしれない。わたしはいつも、とっさの常識的な判断ができない。世間という海をうまく泳ぐことができないのだ。

だが、わたしは彼を困らせようとしたわけではないし、実際そうではないはずだ。すくなくともこれで彼はわたしのことを問題のない相手だと思ってくれただろう。「受信料を払わない」と言っているわけではないからだ。彼は毎日数百件の家庭を訪問するなかで、さまざまな難敵に出くわしているのだろう。「受信料は払わない」と主張する人たちの、その実に多彩なエクスキューズを聞かされているのだろう。毒蛇のように牙をむくものもいれば、ライオンのように吠えさけぶものもあるだろう。その点、わたしなんて可愛いものだ。彼の眼には、わたしは穏やかな森のなかで静かに草を食む小鹿のように無害な存在に映っているに違いない。

「そうでしたか……実はわたくし、皆様のご自宅を訪問して、衛星放送が視聴されているかどうかを調査しておりまして」と彼が言った。

そうだったのか。衛星放送。確かに、わたしの家のベランダには、衛星放送を受信するためのアンテナが設置されている。だがこれは、まだテレビがありし頃、スパカーを受信するために購入したものだ。NHKの衛星放送は見ていないし、受信料も払っていない。そもそも、衛星放送を見れる設定にしていないから、見たくても見れなかった。そのくらい、いちいち家庭を訪問する前に調べられないのだろうか。口頭で質問して確認しなければならないのだろうか。わたしは彼に説明した。このアンテナは「まだテレビがあった頃に」スカパーを見るために購入し、設置したものです――。嘘をついているわけではないのに、なぜだか妙に後ろめたい気持ちになってしまう。テレビがないとのたまっておきながら、ベランダにはアンテナが設置されたままだ。客観的にみたら、やはりわたしは相当に怪しい。なぜだ。なぜわたしは無実の罪で彼に疑いの眼を向けられなくてはならないのだ。

「よければ、家のなかに入って見ていただいてもかまいません」わたしは言った。そうだ。何も怪しいところはないのだから、堂々と彼にその眼で証拠を見てもらえばいい。わたしは、一瞬にして失われかけた自尊心が、一瞬にして回復していくのを感じた。

だが彼は「いえ、家のなかには入れない規則になっておりまして」と言って首を振った。なるほど。たしかに屋内に入って黒白をはっきりさせようとするのは、トラブルのもとにもなるのだろう。テレビがないと言い張る人は、テレビがリビングに堂々と鎮座していたって、ないと言い続けるのかもしれない。あるいは、テレビがあるのがバレた瞬間に、「NHKは見ない」と主張を変えるかもしれない。「NHKは電波が悪くて受信できない」と言うのかもしれない。そもそも、誰だっていきなり他人に家のなかに踏み込まれたら気分を悪くする。さまざまな問題が発生するに違いない。NHKの人だって、身の危険を感じるだろう。下手をしたら、酔っ払って寝ていた親父が眼を覚まし、驚いて包丁を片手に襲いかかってくるかもしれない。お爺さんもおばあさんも飛び起きて、二階からは柔道部の高二の息子も降りてきて、くんずほずれつの殺傷沙汰にだってなりかねない。

わたしはまた常識はずれなことを言ってしまった。冷静に考えれば、彼が家のなかまで入って衛星放送の受信状態を調べるなんてことはまずありえない。でも、繰り返すが、わたしにはとっさの常識的な判断ができないのだ。

でもよく考えればおかしな話だ。わたしは彼にテレビがないと言った。なのに彼は馬耳東風で、衛星放送を見ているのかどうかと真顔で訊いてきた。おかしいじゃないか。テレビがないのに、どうやって衛星放送が見れるというのか。わたしは馬鹿なのか。いや、彼は単にマニュアル通りの質問をしているだけなのかもしれない。落ち着け。それでも、彼がわたしが言ったことを信じていないという可能性は捨てきれない。わたしはそんなに信用できない男の顔をしているのだろうか? まあいい。「まず眉にツバをつけよ」の精神でないと、彼の仕事は成り立たないのだろう。わたしも大人だ。そんなことで腹を立てたりはしない。

ジョン・リスゴーは、衛星放送についてはそれ以上突っ込んでこなかった。彼は次の質問に移った。「ところで、最近の若い方はパソコンでテレビを見る方が増えておりますが、パソコンでテレビは見ていらっしゃいますでしょうか?」

思わず、「はい」と答えそうになった。いや違う。わたしはパソコンにテレビチューナーは付けていない。テレビは見ていない。「Youtubeならしょっちゅう見てますが」と言いそうになるのをぐっとこらえた。それに、そもそもわたしはもう「最近の若い方」ではないと思う。わたしは、パソコンでもテレビは見ていないと言った。

家のなかまで踏み込めない以上、彼もわたしがNoと言った限りは、それ以上打つ手はない。わたしのことを信用していようがいまいが、彼はここでひきさがるしかないのだ。しかし、わたしは受信料を払っている。にもかかわらず、なぜパソコンでテレビを見ているのかどうかを彼に追及されなくてはならないのか。わたしはどうして言い逃れめいた説明をしなければならないのか。まあいい。彼はマニュアルに従っているだけなのに違いない。若い彼を責めるわけにはいかない。

彼は任務終了といった顔つきになった。「よろしければアンケートにご協力いただけますでしょうか。この封筒に用紙が入っています。書かれている質問に答え、郵送か電子メールで返送ください。お手数ですが、どうぞよろしくお願いします。それからこれは私の名刺です。何かあればご連絡ください」と彼は言った。わたしは封筒と名刺を受け取った。彼は礼をし、次の訪問先へと向かって行った。おそらくは、わたしの隣の部屋だろう。

わたしは扉を閉め、小さくため息をついた。NHKに関しては、テレビもないのに受信料を払っていることで、いいことをしているつもりでいた。善意のつもりだった。だから、彼が来たとき、わたしの気分は少しだけ大きくなった。だが、予想外に彼に追い詰められてしまった。予想外に狼狽してしまった。ひょっとしたら、彼は結局、わたしのことを信用していないのかもしれない。彼の記録には「テレビを持っていないと主張、かなり怪しい」などと書かれているのかもしれない。なんてこった。でもかまわない。これが世の中なのだ。わたしは真実を語り、彼は業務上「疑わしきは」の精神を貫いただけだ。

わたしはハンコを台の上に置き、宗茂のように顔を少しだけ傾けた走法でスタスタと廊下を駆け、デスクに戻ると仕事を再開した。ジョン・リスゴーの名刺と封筒も机の上に置いたが、中身を見ようとは思わなかった。アンケートには、答えるつもりはなかった。

つもりはなかった――のだ(続く)。


※この物語はちょっとだけフィクションです。登場する団体名・地名・人物などはいっさい現実と関係ありません。




最新の画像もっと見る