イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

ゴルゴ38  Part VII

2008年09月21日 23時45分11秒 | 連載企画
「翻訳版さいとうたかをプロ プロジェクト」は、こんな感じで実現してみたい。プロジェクトの構成メンバーをあれこれと考えてみた。

まず、翻訳者。これは、第一線級の腕自慢(死語)を、少なくとも3人は用意したい。そして、3人がそれぞれ丸まる1冊翻訳を行なう。つまり、この3人で1冊を分担するのではない。「N章は誰々さん、N章は誰々氏、N章は誰々ちゃんね。じゃあ、よろしくちゃん。終わったら打ち上げね!」という風なやり方ではない。全員が、魂を込めて丸々一冊翻訳する。たとえて言えば、ロバート・デ・ニーロの出演が決定している状況で、あえてダスティン・ホフマンにも出演してもらう。ロビン・ウィリアムスにも出てもらう。主役級を、惜しみなく並べて使う。さらに、ウィリアム・デフォーにも出てもらう。クリストファー・ウォーケンも外せない。きりがない。もちろんそこにあるのは、上訳と下訳という関係ではない。3人なら3人が、魂を込めて翻訳する。そして途中の段階では、一切お互いの訳を見ない。見ると、影響されてしまうからだ。

下訳されたものに上訳者が手を入れるというのは、有効な翻訳手法の一つだ。早く翻訳作業を進めることができるし、下訳のなかにキラリと光る訳文があれば、それを上訳者が活かすことで、合作ならではの妙味を出すことができる。しかし、もし可能であるならば、上訳者も自分で一から訳文を作るべきだと思う。なぜならば、やっぱり下訳上訳というシステムでは、どうしても下訳の訳文がベースとなってしまい、本当の上訳者の訳文とはどうしても味わいが変わってくると思うからだ(上訳者が相当に丁寧に文章を書き換えれば、そうはならないとは思う)。それに、下訳が残してしまったエラーに、上訳が引きづられてしまうことも考えられる。だから、上訳者は上訳として(しかし、この「上訳」という言葉にはなんとなく違和感がある。いつまでたっても馴染めない。。。)訳文を作って、それで、下訳のなかからよい部分を吸収したり、訳のニュアンスを確認したりする。その方が、本来は望ましいのだと思う。つまり、下訳者を文字通り「下働き」させるのではなく、本物の「影武者」として機能させるのだ。ちょうど、舞台の主役のバックアップとして、主役を張れるだけの人間に、いつでも同じ役を演じられるように稽古させ、控えさせておくように。

で、さいとうたかをプロ プロジェクトでは、それぞれが主役級の訳者が、それぞれに翻訳を行なう。それをどうまとめるかというのは、非常に難しいところだが、やっぱりそのうちの誰かの訳をベースにするべきだとは思う。その決定は、事前に決めておくもよし、訳文の出来をみて決めるもよし、ともかく、よい訳にするための最善の選択をする(そこらへんは、新規プロジェクトだけに、未確定なのであった)。ただし、選ばれなかった他のふたりの訳文も決して無駄にしたりはしない。よいものがあればどんどん正式の訳文に取り入れていく。

言葉というものは生き物であるから、一人の人間が持つリズムのなかに、他人の言葉をねじ込むことの弊害もあるだろう。だが、Aという翻訳者の訳文がBという翻訳者の訳文より優れているというとき、すべての面においてAの訳がよいというわけではない。部分的には、Bの訳の方がよいと思えるところがたくさんある。だが、総合的にみて、Aの訳の方がよいということで、A>Bという図式が成り立つのだ。そのため、AにもBにも訳文を作らせ、Aの訳にBのよいところを取り入れるというのは、決して無意味な方法論ではないと思う。両者の原文解釈の違いを比べることで、ただしく内容を理解できているかどうかのチェック機能を持たせることもできる(力尽きたので、今日はここまで)。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「どんな人の訳にも、キラリと光るものがある。そこから学ぶことはたくさんあるはずだ」

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