イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

ゴルゴ38  Part V

2008年09月15日 22時40分12秒 | 連載企画
前置き(?)が非常に長くなってしまったのだが、そもそも今回何を言いたかったのかというと、それは端的に言って、ゴルゴ13の製作者集団である「さいとうたかをプロ」の手法に、翻訳も学ぶところがあるのではないかということなのであった(じゃあ最初からそうしろというツッコミが聞こえてくるようですが・・・・・・)。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「用件は、早く言えっつーの」

さいとうたかを氏が、それまである種の作家主義が幅を利かせていた漫画界に、映画の手法――すなわち、分業制を取り込むことを目指したのはとても有名な話だ。

同プロでは、脚本担当、人物担当、背景担当、銃器担当、そしてゴルゴの顔担当(さいとうさん)など、細かく仕事がわけられている(特に、銃器担当というのがいいですね)。そこにあるのは、従来の作家先生と、その他大勢のアシスタント、という枠組みではない。プロとして他人には侵されない職務領域がそれぞれにはっきりしている。だから、さいとうさんは決してスタッフのことをアシスタントとは呼ばないそうだ。

一般論に従えば、専門性が深まれば、それだけ技術力も上がる。もちろん、さいとうたかをプロでこの分業制のシステムが成功しているかどうかは、ゴルゴ13シリーズを初めとするヒット作の数々を見れば一目瞭然だろう。ゴルゴ13だけを例にとっても、おそらく――否、あえて言えば間違いないなく――、さいとうたかを氏一人では、シナリオから銃器の描き込みまでの多様な作業を、すべてこなすことはできなかったはずだ。

もちろん、一人の漫画家がストーリーから作画まですべての責任を負うスタイルが主流であることは、さいとうたかを以後の世界にも変わらず存在している。だが、そのスタイルの是非を問うことには意味がない。様々なスタイルがあり、それぞれに特長があって、素晴らしい作品が生み出されている。前述したように、問題はシステムや関わる人の数ではない。あくまで問われるべきは作品の質なのだ。

ただし、さいとうたかをプロの手法が漫画作品を制作するための一つの有効な方法論であることは、もはや動かしがたい事実だといっても過言ではないだろう。そして、いきなりいろんなことを端折って強引に論を進めてしまえば、翻訳の世界にだって、さいとうたかをプロの手法で訳される訳書があってもいいではないか、1人のデューク東郷がいてもいいではないか、というのがようやくたどり着いた今回のテーマだったのだ(続く)。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「今日自転車置き場で財布を落としたら、拾って僕の家まで届けてくれた人がいた。ありがとうございました。名前も告げずに立ち去ったあのおじさんは、人間の鏡です」

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