本書は、2003年に出版された同名の本の増補新版である。
「旧版は私の著作のなかでは、珍しく評判がよく版も重ねることができた。また、韓国語版、中国語版が出され、とりわけ中国では大学の教科書にも採用され、また時をおかず重版となった(増補新版あとがきより)」と著者が述べているように、旧版が出版された時点から日本のみならず中韓でも評価が高かったという。
私は今回初めてこの本を読んだが、評価が高かった理由が判った。それは、木簡・竹簡と真摯に向き合い、そこに書かれている文章を解読・解説しながら、その果たしている役割を紙と比較しながら分析し、当時の中国古代専制国家の文書による統治の一端を明らかにしているからである。つまり、「書写材料としての木簡・竹簡の特徴」を、生き生きと描写しているのである。
表紙の写真は、最後の簡に綴りの紐の余りがついた敦煌出土の簿。
竹簡は書写材料の主役
日本人は木簡について、よく知っている人が多い。その発端は、1988年(昭和63)に「長屋王邸(奈良市)で大量の木簡発見」のニュースが広く報道されて人々の注目を集めたのをきっかけに、その後も続々とつづく各地での木簡発見の知らせを、メディアが大きく取り上げたからである。現在も木簡に関する展覧会が奈良県の研究施設や博物館を中心によく開催されるし、新しい木簡発掘のニュースは大きく取り上げられる。
しかし、木簡が現在までに38万点以上も見つかっているのに対し、不思議なことに竹の豊富な日本で竹簡が出土していないのである。なぜか?
「日本で竹簡が出土しないのは、木簡と竹簡が書写材料として使われていた時期に差があるからである」と著者の冨谷至氏は言う。「竹簡は、中国で紙の発明される以前につかわれた書写材料であり、日本に文字が大量に伝わった時代には、すでに中国には紙があった」。したがって日本へは竹簡の書物や文書は伝わらなかったのである。
竹という材料は、節のあいだが約25~30センチが普通で、節を切り落として割ると、タテにスパッと割れ、まっすぐな材料を作りやすい。その代り、幅を広くとると丸みが出るので、幅広のものは作りにくい。そこで書写材料としての竹は幅の狭いものになる。だから、竹簡一本には文字が一行分しか書けない。
竹簡の長さは標準形で漢代の1尺(23センチ)、幅1~2センチ、厚さ2~3ミリ、と本書にある。(標準簡の他に、皇帝が使用する簡は1尺1寸(約25センチ)、儒教の経典である経書は2尺4寸(約55センチ)だったという)。
私は趣味で竹かご作りをしていたことがあり、竹の細工には慣れているから、この大きさの竹簡の復元はすぐできる。厚さ2~3ミリにするには、割った竹に小刀を皮と同じ方向に食い込ませて「へぐ」という動作をする。しかし、「へぐ」ためには、幅2センチというのは、相当太い竹を用意しないと作りにくい。実物を見ていないが、竹簡は1センチ幅に近いものが多いと思われる。
冨谷氏はさらに竹簡に関して「殺青サッセイ」という言葉を紹介している。殺青、つまり「青を殺す」とは、青竹の色を殺す、すなわち青竹を火であぶって脂気をぬく工程である、という。脂をぬくと竹は黄色っぽくなる。竹細工でも上等な籠をつくる竹は、脂抜きをした竹を使う。これをしないと必ずといっていいほど虫がつくからである。大切に保存する竹簡は殺青をした竹を使ったと知り、なるほど、と思わずうなずいた。
「同じサイズ(長さ・幅・厚み)のものを大量につくれるということになれば、木よりも竹の方が断然適している。冊書(一つ一つの簡を綴じた書)を作るには、やはり竹簡が最適であったのである。そもそも簡という文字自体が竹がんむりである」と著者は述べている。(簡の解字は、漢字の音符「間カン」を参照してください)
「韋編三絶」とは、なめし革の紐がきれたのか?
こうして竹簡は紙が発明され、さらに改良されて、書写材料として使われるまで、正確には把握しがたいが一千年以上、文書材料の主役として使われた。本書では、書物や帳簿として用いられた竹簡の特徴について述べているが、私がなるほどと思ったのは次の点である。
一つは、冊書にする竹簡は紐で連結するため、結ぶ箇所の左右がすこし削られて幅が狭くなっていることである。これは竹簡どうしの間が開きすぎないためにも、また、紐がずれないためにも必要なことであろう。興味深いのは、「韋編三絶イヘンサンゼツ」という四字熟語の解釈に異論を唱えていることである。韋編三絶というのは、孔子が晩年『易経』を愛読し、何度も読み返したため、その巻を綴った「なめし革」の紐が切れてしまったという故事から、同じ書物を繰り返して読むことを言う。冨谷氏は、「紐が残っている竹簡は数が少ないが、それらはすべて縄紐であり革紐は一つもない」という。そして中国の林小安氏が、韋編の「韋」は、「緯」に通じ、横糸のこと、縦糸を意味する「経」に対する「緯」でもあるという論文に接し、これこそすっきりした解釈であると、支持を表明している。
二つ目は、巻物にした木簡は、書物の形と、ファイルの形式になった帳簿類の形の二つに分けられるが、このふたつは綴じ方が微妙に違っているという。書物の巻物としての竹簡は、先頭の竹だけ題名などを書いた部分が裏側に書かれており、綴じて巻いたときに、その巻の書名がわかるように工夫されているという。すなわち、書物木簡は最後から巻き始め、先頭の竹簡は一番上に来る。すると、最初の札は裏向きになるから書名がわかるのである。
これに対し、ファイル形式の帳簿類は、逆に最後の竹簡の裏側に文書名がついているという。帳簿類は一つ一つ後から追加してゆく形式のものであり、こうしたファイル類は、追加した後ろの竹簡を見る機会が多かったのであろう。したがって、書物木簡とは逆に、最初の簡から巻き込んでゆき最後の簡を巻いたときに書名が表に出て、わかるようにしているという。本書の表紙の写真(冒頭に掲載)は、最後の簡に巻物の紐がついた敦煌出土の「簿」で、写真には写っていないが、最後の簡の背面に表題が記されているという。最初の簡から巻き込むと最後の簡の裏が表題になる。しかも、この簡だけ二倍の幅がある。最後の簡についた紐で、まるめた巻物を結んだものと思われる。
木簡の役割
では、中国で木簡はなぜ作られ、どんな用途に使われたのか。一つの理由は、竹の育たない西北辺境で、竹の代わりの材料として使われた場合だという。敦煌の木簡などがこれに当たり、タマリスク(御柳。ギョリュウ科の落葉小高木)などの木で作られた。したがって、この木簡は竹簡の代用品である。ところが極度の乾燥という砂漠地帯の自然条件が、木簡を朽ちることなく存続させ、20世紀の初頭になって二千年の眠りから覚めたように続々と世に出てきた。これらの発見が契機となり、各地で発掘が続くと、墓に埋葬されていた竹簡も続々と発見され、20世紀は木簡と竹簡(両者をあわせて簡牘カントクという)の大発見の世紀となった。発見からわずか1世紀の間に、簡牘の数は10万件をこえ、20万件に達しようとしているという。
では、竹の生育地域で木簡はどんな役割をはたしていたのか? 竹簡が書写材料として優勢な地域で、木簡は木の板の特性を生かした使われ方をしたという。木は竹に比べると細工がしやすい。角を容易に丸くできたり、穴をあけたり、溝をうがつこともできる。木簡は、紐で一つ一つ綴られて文書になるのでなく、単独で用いられる単独簡の使用が多いという。
その用途の一つは日本では使われることのない「検ケン」である。検とは、竹簡に書かれた文書を送る際に、封緘フウカン(封をすること)の役割をする木簡で、巻いた竹簡文書が他人に見られることなく運ばれる工夫である。具体的には、普通より短め(10~20センチ)で幅広く厚みのある木簡に、宛先や送付方法を書いたのち、その一部にあらかじめ作られている凹み(璽室ジシツ。印を押すくぼみの意)に紐を通し、巻いた竹簡に結えたのち、凹みに粘土をつめてその上に印を押すのだという。粘土が乾くと封泥フウデイとなる。いったん封泥された文書は開封されると封泥が壊れる(または紐が切られる)ので、すぐ分かる。そして、封泥された木簡は、まとめて袋に入れられ、そこにも行き先の宛名を書いた木簡がさらに付けられるという。さすが文書行政を造り上げた中国ならではのシステムと言える。
二つ目の用途は、木札に穴をあけたり、左右に刻み目を入れて、そこに紐をかけるようにした木簡である。表面に物品の名、文書の名などが書かれており荷札の役割をする。この種の木簡が日本でよく使われ、発掘される木簡の主流をなしている。そのほか、名刺の代わりに使われた木簡、旅行者の身分証明書となった木簡、割符として二枚一組となる木簡があるという。そして、これらの木簡を付けた文書が、中央の皇帝から地方まで、どのようなルートを通じて伝達されてゆくか、また、伝達機関としての「郵」と「亭」などについて詳細に述べている。
紙の普及と木簡・竹簡
ここまで述べて、すでに大幅に紙数を使ってしまった。ここで旧版の三分の二である。後半は、紙の発明と普及が、木簡・竹簡にどのような影響を与えながら変化したかを実証的に論じている。紙は2世紀の初めから書写材料として使われ始めたが(紙の発明自体はさらに100年から150年前だが、包装紙としての用途が中心であった)、3,4世紀に入っても木簡・竹簡は書写材料としての地位を保持していたという。
紙はその後、徐々に普及したが、では、どのようにして木簡・竹簡は、紙にその座をゆずっていったのか。本書では実例を挙げながら詳細に検討されているが、結論だけ述べると、最初に紙に置き換えられたのは、書物の竹簡だという。書物は、初めから終わりまで通して読んでゆくから、紙に置き換えやすい。それに比べて、なかなか変わらなかったのはファイル形式の木簡・竹簡だという。この形式は、命令の伝達、報告、簿籍、文書逓伝の確認など、すべて文書により執り行われ、文書によりチェックされるシステムが構築されているので、変えるのがむずかしかったのだという。すべてが紙の時代に適応した国家は唐の時代であるという。
増補新版の補論
旧版が品切れとなった機会に、新版を出すことになり、今回、増補の論文が追加された。一つは、「簡牘カントクの長さと文書行政」である。旧版で簡単に触れていた簡牘の長さについて、1尺(標準簡)と1尺1寸(皇帝が使用する簡)が分かれた経緯、2尺4寸(経書が書かれた簡)については、武帝の時代に経学重視の政策との関連で論考している。
二つ目の補論は、「漢簡の書体と書芸術」である。漢簡には、懸針ケンシン(上から下に筆を運び、下部に行くに従い、力をいれて太く長く伸ばす運筆)や、波磔ハタク(右下に撥ねるとき、太く力をいれて伸ばす運筆)とよばれる独特の筆運びなど、書体の技巧化が進んだものが出現する。これらは書芸術の直接の芽生えではないが、漢簡で書記たちが築き上げた書体がもとになり、その外縁に書芸術が生み出されてきたことを論考している。
(冨谷至著『木簡・竹簡の語る中国古代 書記の文化史 増補新版』2014年刊 274P 岩波書店 3000円+税)
「旧版は私の著作のなかでは、珍しく評判がよく版も重ねることができた。また、韓国語版、中国語版が出され、とりわけ中国では大学の教科書にも採用され、また時をおかず重版となった(増補新版あとがきより)」と著者が述べているように、旧版が出版された時点から日本のみならず中韓でも評価が高かったという。
私は今回初めてこの本を読んだが、評価が高かった理由が判った。それは、木簡・竹簡と真摯に向き合い、そこに書かれている文章を解読・解説しながら、その果たしている役割を紙と比較しながら分析し、当時の中国古代専制国家の文書による統治の一端を明らかにしているからである。つまり、「書写材料としての木簡・竹簡の特徴」を、生き生きと描写しているのである。
表紙の写真は、最後の簡に綴りの紐の余りがついた敦煌出土の簿。
竹簡は書写材料の主役
日本人は木簡について、よく知っている人が多い。その発端は、1988年(昭和63)に「長屋王邸(奈良市)で大量の木簡発見」のニュースが広く報道されて人々の注目を集めたのをきっかけに、その後も続々とつづく各地での木簡発見の知らせを、メディアが大きく取り上げたからである。現在も木簡に関する展覧会が奈良県の研究施設や博物館を中心によく開催されるし、新しい木簡発掘のニュースは大きく取り上げられる。
しかし、木簡が現在までに38万点以上も見つかっているのに対し、不思議なことに竹の豊富な日本で竹簡が出土していないのである。なぜか?
「日本で竹簡が出土しないのは、木簡と竹簡が書写材料として使われていた時期に差があるからである」と著者の冨谷至氏は言う。「竹簡は、中国で紙の発明される以前につかわれた書写材料であり、日本に文字が大量に伝わった時代には、すでに中国には紙があった」。したがって日本へは竹簡の書物や文書は伝わらなかったのである。
竹という材料は、節のあいだが約25~30センチが普通で、節を切り落として割ると、タテにスパッと割れ、まっすぐな材料を作りやすい。その代り、幅を広くとると丸みが出るので、幅広のものは作りにくい。そこで書写材料としての竹は幅の狭いものになる。だから、竹簡一本には文字が一行分しか書けない。
竹簡の長さは標準形で漢代の1尺(23センチ)、幅1~2センチ、厚さ2~3ミリ、と本書にある。(標準簡の他に、皇帝が使用する簡は1尺1寸(約25センチ)、儒教の経典である経書は2尺4寸(約55センチ)だったという)。
私は趣味で竹かご作りをしていたことがあり、竹の細工には慣れているから、この大きさの竹簡の復元はすぐできる。厚さ2~3ミリにするには、割った竹に小刀を皮と同じ方向に食い込ませて「へぐ」という動作をする。しかし、「へぐ」ためには、幅2センチというのは、相当太い竹を用意しないと作りにくい。実物を見ていないが、竹簡は1センチ幅に近いものが多いと思われる。
冨谷氏はさらに竹簡に関して「殺青サッセイ」という言葉を紹介している。殺青、つまり「青を殺す」とは、青竹の色を殺す、すなわち青竹を火であぶって脂気をぬく工程である、という。脂をぬくと竹は黄色っぽくなる。竹細工でも上等な籠をつくる竹は、脂抜きをした竹を使う。これをしないと必ずといっていいほど虫がつくからである。大切に保存する竹簡は殺青をした竹を使ったと知り、なるほど、と思わずうなずいた。
「同じサイズ(長さ・幅・厚み)のものを大量につくれるということになれば、木よりも竹の方が断然適している。冊書(一つ一つの簡を綴じた書)を作るには、やはり竹簡が最適であったのである。そもそも簡という文字自体が竹がんむりである」と著者は述べている。(簡の解字は、漢字の音符「間カン」を参照してください)
「韋編三絶」とは、なめし革の紐がきれたのか?
こうして竹簡は紙が発明され、さらに改良されて、書写材料として使われるまで、正確には把握しがたいが一千年以上、文書材料の主役として使われた。本書では、書物や帳簿として用いられた竹簡の特徴について述べているが、私がなるほどと思ったのは次の点である。
一つは、冊書にする竹簡は紐で連結するため、結ぶ箇所の左右がすこし削られて幅が狭くなっていることである。これは竹簡どうしの間が開きすぎないためにも、また、紐がずれないためにも必要なことであろう。興味深いのは、「韋編三絶イヘンサンゼツ」という四字熟語の解釈に異論を唱えていることである。韋編三絶というのは、孔子が晩年『易経』を愛読し、何度も読み返したため、その巻を綴った「なめし革」の紐が切れてしまったという故事から、同じ書物を繰り返して読むことを言う。冨谷氏は、「紐が残っている竹簡は数が少ないが、それらはすべて縄紐であり革紐は一つもない」という。そして中国の林小安氏が、韋編の「韋」は、「緯」に通じ、横糸のこと、縦糸を意味する「経」に対する「緯」でもあるという論文に接し、これこそすっきりした解釈であると、支持を表明している。
二つ目は、巻物にした木簡は、書物の形と、ファイルの形式になった帳簿類の形の二つに分けられるが、このふたつは綴じ方が微妙に違っているという。書物の巻物としての竹簡は、先頭の竹だけ題名などを書いた部分が裏側に書かれており、綴じて巻いたときに、その巻の書名がわかるように工夫されているという。すなわち、書物木簡は最後から巻き始め、先頭の竹簡は一番上に来る。すると、最初の札は裏向きになるから書名がわかるのである。
これに対し、ファイル形式の帳簿類は、逆に最後の竹簡の裏側に文書名がついているという。帳簿類は一つ一つ後から追加してゆく形式のものであり、こうしたファイル類は、追加した後ろの竹簡を見る機会が多かったのであろう。したがって、書物木簡とは逆に、最初の簡から巻き込んでゆき最後の簡を巻いたときに書名が表に出て、わかるようにしているという。本書の表紙の写真(冒頭に掲載)は、最後の簡に巻物の紐がついた敦煌出土の「簿」で、写真には写っていないが、最後の簡の背面に表題が記されているという。最初の簡から巻き込むと最後の簡の裏が表題になる。しかも、この簡だけ二倍の幅がある。最後の簡についた紐で、まるめた巻物を結んだものと思われる。
木簡の役割
では、中国で木簡はなぜ作られ、どんな用途に使われたのか。一つの理由は、竹の育たない西北辺境で、竹の代わりの材料として使われた場合だという。敦煌の木簡などがこれに当たり、タマリスク(御柳。ギョリュウ科の落葉小高木)などの木で作られた。したがって、この木簡は竹簡の代用品である。ところが極度の乾燥という砂漠地帯の自然条件が、木簡を朽ちることなく存続させ、20世紀の初頭になって二千年の眠りから覚めたように続々と世に出てきた。これらの発見が契機となり、各地で発掘が続くと、墓に埋葬されていた竹簡も続々と発見され、20世紀は木簡と竹簡(両者をあわせて簡牘カントクという)の大発見の世紀となった。発見からわずか1世紀の間に、簡牘の数は10万件をこえ、20万件に達しようとしているという。
では、竹の生育地域で木簡はどんな役割をはたしていたのか? 竹簡が書写材料として優勢な地域で、木簡は木の板の特性を生かした使われ方をしたという。木は竹に比べると細工がしやすい。角を容易に丸くできたり、穴をあけたり、溝をうがつこともできる。木簡は、紐で一つ一つ綴られて文書になるのでなく、単独で用いられる単独簡の使用が多いという。
その用途の一つは日本では使われることのない「検ケン」である。検とは、竹簡に書かれた文書を送る際に、封緘フウカン(封をすること)の役割をする木簡で、巻いた竹簡文書が他人に見られることなく運ばれる工夫である。具体的には、普通より短め(10~20センチ)で幅広く厚みのある木簡に、宛先や送付方法を書いたのち、その一部にあらかじめ作られている凹み(璽室ジシツ。印を押すくぼみの意)に紐を通し、巻いた竹簡に結えたのち、凹みに粘土をつめてその上に印を押すのだという。粘土が乾くと封泥フウデイとなる。いったん封泥された文書は開封されると封泥が壊れる(または紐が切られる)ので、すぐ分かる。そして、封泥された木簡は、まとめて袋に入れられ、そこにも行き先の宛名を書いた木簡がさらに付けられるという。さすが文書行政を造り上げた中国ならではのシステムと言える。
二つ目の用途は、木札に穴をあけたり、左右に刻み目を入れて、そこに紐をかけるようにした木簡である。表面に物品の名、文書の名などが書かれており荷札の役割をする。この種の木簡が日本でよく使われ、発掘される木簡の主流をなしている。そのほか、名刺の代わりに使われた木簡、旅行者の身分証明書となった木簡、割符として二枚一組となる木簡があるという。そして、これらの木簡を付けた文書が、中央の皇帝から地方まで、どのようなルートを通じて伝達されてゆくか、また、伝達機関としての「郵」と「亭」などについて詳細に述べている。
紙の普及と木簡・竹簡
ここまで述べて、すでに大幅に紙数を使ってしまった。ここで旧版の三分の二である。後半は、紙の発明と普及が、木簡・竹簡にどのような影響を与えながら変化したかを実証的に論じている。紙は2世紀の初めから書写材料として使われ始めたが(紙の発明自体はさらに100年から150年前だが、包装紙としての用途が中心であった)、3,4世紀に入っても木簡・竹簡は書写材料としての地位を保持していたという。
紙はその後、徐々に普及したが、では、どのようにして木簡・竹簡は、紙にその座をゆずっていったのか。本書では実例を挙げながら詳細に検討されているが、結論だけ述べると、最初に紙に置き換えられたのは、書物の竹簡だという。書物は、初めから終わりまで通して読んでゆくから、紙に置き換えやすい。それに比べて、なかなか変わらなかったのはファイル形式の木簡・竹簡だという。この形式は、命令の伝達、報告、簿籍、文書逓伝の確認など、すべて文書により執り行われ、文書によりチェックされるシステムが構築されているので、変えるのがむずかしかったのだという。すべてが紙の時代に適応した国家は唐の時代であるという。
増補新版の補論
旧版が品切れとなった機会に、新版を出すことになり、今回、増補の論文が追加された。一つは、「簡牘カントクの長さと文書行政」である。旧版で簡単に触れていた簡牘の長さについて、1尺(標準簡)と1尺1寸(皇帝が使用する簡)が分かれた経緯、2尺4寸(経書が書かれた簡)については、武帝の時代に経学重視の政策との関連で論考している。
二つ目の補論は、「漢簡の書体と書芸術」である。漢簡には、懸針ケンシン(上から下に筆を運び、下部に行くに従い、力をいれて太く長く伸ばす運筆)や、波磔ハタク(右下に撥ねるとき、太く力をいれて伸ばす運筆)とよばれる独特の筆運びなど、書体の技巧化が進んだものが出現する。これらは書芸術の直接の芽生えではないが、漢簡で書記たちが築き上げた書体がもとになり、その外縁に書芸術が生み出されてきたことを論考している。
(冨谷至著『木簡・竹簡の語る中国古代 書記の文化史 増補新版』2014年刊 274P 岩波書店 3000円+税)