函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

漁夫の利を得た清盛!!

2012-07-23 | 歴史

平治の乱とはいったい何だったのでしょうか??

信西に対する二条天皇親政派と信頼派の争いだったのでしょうが、

気が付いたら誰も居なくなっていたのです

普通の争いだと勝者と敗者が歴然としていますが、平治の乱では

勝者が二転三転

元々戦に関わっていなかった清盛が漁夫の利を得た事になります

そればかりではありません。

美福門院や藤原忠通など乱の後に朝廷の実力者達も次々と亡くなっ

てしまいます

朝廷の実力者逹が居なくなったのですから清盛が台頭するのはある

意味必然なのかも知れません

時代の風が清盛に吹いていたのでしょうね。

 

平治の乱の後、一触即発だった後白河上皇と平家ですが、滋子のお

蔭で取り敢えず争いは避けられたようです。

滋子がいなければ対立は決定的なものになっていた筈です

高みに登ろうとしている平家にとって朝廷や公卿の橋渡し役としての

滋子の存在はかかせません。

暫くは対立の収まっていた後白河と清盛ですが、滋子が亡くなった途

端対立が再燃

そのこと一つ見てもいかに滋子の存在が大きかったか分かります。

女性としての滋子の魅力が対立を防いでいたと言う事でしょうかね

 

ところで

後白河上皇の妃になった滋子は清盛の妻・時子の妹なので後白河

上皇は清盛の義弟と言う事になります。

上皇と清盛は義理の兄弟となった訳ですが、ついている時には運が

向こうから転がってくるものですね

 

絶世の美女と言われている滋子ですが、女官達でさえ「この世にこん

な美人がいたのだろうか??」とか「若々しく言葉にできないほどの美

人!!」と言われていたのですから男から見ると尚更です

美人で博学、作法も完璧に身に着けていて控えめな性格とくれば引手

あまた。

そんな滋子を清盛や姉の時子が利用しない手はありません。

藤原摂関家が隆盛を得たのと同じ方法で権力を得ようとしていたようで

す。

いち早く滋子に目をつけたのが後白河上皇

その寵愛振りは半端でなかったと言われています

その寵愛のお蔭で清盛との対立が表向きにでも避けられたのですから、

滋子の存在は平家にとってなくてはならないものだった筈です。

 

滋子が生んだのが後の高倉天皇ですが、清盛は15歳になる娘・徳子を

11歳の高倉天皇に嫁がせます。

摂関家と全く同じ方法で権力を維持しようとする清盛

公卿が政治を動かしていた時代も終わろうとしていた時代に公卿化した

平家の権力も長くは続く訳もありません

いままでと違う政治体制を作れなかったのが清盛の限界だったのでしょう

か??

結局摂関家と同じ道を辿り急速に衰退する平家ですが、もし、滋子が長寿

だったら…

平家の世ももう少し長く続いていたのかも知れませんね

 

 

 

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