茶道千家流の始祖となった千宗易、一般的には利休と呼ばれていますが、
利休の号は宮中茶会を開催した折り天皇から頂いた号だとか?
その事一つとっても利休がいかに重要な立場にあったかを物語っています
ね
極限まで無駄を削る侘び茶を完成させた利休ですが、当たり前の事こそが
最も難しいと言ったとか?
凡人の僕には分からない境地です
茶人で政治家でもあった利休が何故?切腹しなければならなかったのでし
ょか?
ドラマでは官兵衛の身代わりに利休が秀吉に諫言したかの様に描かれて
いましたが、かなり違和感を覚えます
派手好みの秀吉が茶道にまで派手さを持ち込もうとする事に我慢できなか
ったとか?
秀吉が利休の娘(吟)を側室にしようとしたのを断ったとか?
大徳寺の山門に利休の木像を掲げたとか?
諸説ありますが、どれも決定的な感じがしません。
木像に関しては後に磔にされていますので信憑性は高そうですが、重箱の隅
を突っついているだけの様な気がしないでも…
もし、この事が原因だとすれば大坂の陣の引き金となった方広寺事件とだぶり
ます
家康は国家安康の文字にケチをつけ豊臣家を滅ぼすのでから因果応報と言わ
ざるを得ません
歴史は繰り返すと言う事なのでしょうか?
利休切腹を命令したのは秀吉ですが、そう仕向けたのは豊臣政権を牛耳りたい
石田三成の策謀のような気がします
秀吉の弟・秀長が存命中は流石にそこまでは…
欲が無く忠実で律儀な秀長、秀吉が一番信頼していた秀長との間に入る事は三
成でも出来る筈かありません。
策謀家の三成がいくら策を弄しても秀長失脚は難しかった筈です
秀長の死によってその箍が外れたのです
秀長亡き後、利休さえ失脚すれば豊臣家を意のままに動かせると
悪い事に三成はトップに立とうとする意志は無く、豊臣家の安泰だけを考え、秀吉
の威光を背景に№2として実質的な権力を掴みたいだけなのでなおさら始末が悪
いのです。
策士策に溺れると言いますが、結果的に三成は自分の才能に溺れた過ぎたのか
も知れませんね
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