函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

風林火山・村上義清のその後!!

2007-09-24 | 歴史
いよいよ、晴信による村上討伐が始まりました。
調略によって次々に武田に下っていく信濃の小領主達
を見てさすがの義清も戦意を失くしてしまいましたね。
無事越後まで落ち延びた義清による援軍要請に答え、
遂に、出兵を決意した景虎、いよいよ長~い川中島の
戦いの始まりです

それにしても、負けた武将の家族は哀れなものです
次々に自害して果てる義清の妻玉ノ井や侍女を見てい
ると、歴史の狭間で人知れず死んでいった人のほうが
圧倒的に多い事を痛感させられます。
もし生きていたならば、歴史に名を残した人物も沢山
出ていたことと思いますが、人間の運命の分かれ目と
云ったところでしょうか

信濃の小領主達が次々に寝返るのも解る様な気がします。
自分の家族や身内を守る為、苦渋の選択をした領主も
さぞ多かったと思います
義理や人情だけでは生きられなかった時代なのです
普通に生きるのが難しかった時代なのです
個人主義が万延している今の時代では考えられない
事ですね
自分だけの事を考えて生きて行くなんて、時代が許さな
かったのです

信濃をほぼ手に入れた晴信、好むと好まざるとを得ず
越後の毘沙門天との戦いの始まりです
ガクト謙信、中々様になってきましたね
僕の中での謙信のイメージにぴったりです
これからが益々楽しみです。

ところで今回の主役村上義清ですが…
上田原の戦いでは板垣・甘利の両職を討ち死にさせたり
砥石崩れでは武田軍1200名を討ち死にさせたりと、二度
までも武田軍を打ち負かした武将は他にはいません。
武勇に関しては、信玄より上だったのかも知れませんね。
その義清のもっとも苦手だったのは調略だったようです。
戦場での実戦の駆け引きは相当のものだったと思います
前にも書きましたが、武田軍は唐突な戦いをする事など
殆ど無かったのです。
間者を放ち、完璧なまでに情報収集をし、その上で調略に
よって敵の武将を寝返えさせるのですから、いかに義清と
言えどもたまったものではありません
殆ど実戦らしき戦いも無く葛尾城から落ち延びる義清を
考えると、典型的な武田軍の戦い方に翻弄された感が
ありますよ。
それも、一度は自分が打ち破った真田幸隆の調略によって、
葛尾城まで失うとは、無念の極みだったと思うのです
「調略に勝る戦法無し」と云う事でしょうか。
その後、義清は謙信のもとに落ち延びて行くのですが、
謙信の助けを得て葛尾城を一時奪い返しますが直ぐに武田
に奪い返されてしまいす

一説にはその後、謙信の有力な家臣となったとの説があっ
たり、川中島の戦いで信玄の弟、信繁を討ち取ったと云う
話も残っていますが、どうも怪しい感じが僕にはするのです
どうやら、上杉謙信の家臣になり、越後根知城を与えられ
たらしいのですが、その根知城で病歿したと伝えられています。
遂に生まれ故郷に帰ることはなかったのです。

村上義清と云う武将は、裏腹なところがなく、正直で非常
に人情味があり信仰心も強い人物だったらしいのです
逆に、この正直で人情味があったところが彼の弱点だ
ったのかも知れませんね
僕は謙信ほどではないにしろ、義に厚く男気が強い
武将だったと確信しています
人間的には、信玄や謙信より僕は好きなのです
天寿を全うしたのがせめてもの救いです


コメント (3)
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