予約していたエンドウ製ク5000復刻版(ジュニア模型店発売)の発売を知らせるメールが届きました。ものは試しと1セット(4両)のみの予約でしたが、とりあえず今日入金してきたのでブツの到着を待ちたいと思います。台車は別売りですが以前スクラッチを考えていた時に買ったストック品があるのでそれを使います。
ところでク5000といえば、私の場合、中央線東小金井駅の印象がとても強く残っています。母方の実家が東京都小金井市にあったので、子どもの頃にそこへ遊びに行く際に101系の車窓からよく見ていたものです。そのク5000を送り出した貨物駅跡が今どうなっているのか気になり、昨日の午後に突然訪ねてみることにしました。三鷹~立川間の高架化が完成し駅周辺の区画整理も進むなか、果たして当時の面影を残すものはまだ残っているのか。まったくの空振りに終わることも覚悟して出かけてみたのですが・・・
東小金井駅は国内初の地元住民全額負担による請願駅として誕生したとされます。開業は1964年(昭和39年)9月10日。なんと東京オリンピックのちょうど1ヵ月前ということになります。開業時の様子がこちらの記事(かわら版まろん通信Vol.867;小金井市)にまとめられています。南北に階段が差し掛けられた質素な橋上駅ですが、マイ・ステーションということで近所の人たちが自主清掃に励むほほえましい光景も見られますね。
上で紹介した記事の写真にも写っている貨物駅は、少し遅れて翌1965年(昭和40年)4月5日から貨物営業を開始したとされています(Wikiより)。自動車輸送全盛期と思われる10年後の1975年(昭和45年)に撮影された航空写真を見ると、赤いク5000や黒貨車が何両も停まってる様子が見て取れます。左が高尾で右が東京方面になります。
(国土地理院・空中写真(1975年1月20日撮影)より)
しかし写真の撮影から約10年後の1984年(昭和59年)12月1日には貨物営業が廃止されてしまいます(Wikiより)。トータルでわずかに20年程度しか営業しなかったことになります。高速道路網の拡充という環境変化に加え、度重なるスト・遅延による不安定な輸送、そして運賃値上げ。これらによって荷主の信頼が大きく揺らいだことが直接的な原因であったようです。
現在、跡地は周辺も含めて土地区画整理事業が行われており、上空から見るとこのような感じになっています。一部で建物が建ち始めてはいますが、半分はまだ駐車場、駐輪場、資材置き場などの暫定利用となっています。
上り線ホームから旧貨物駅方向を写したものです。手前の駐輪場の左側が緩くカーブしていて当時の面影を残しています。このあたりを中心に歩いてみることにします。
駅北口広場ごしに駅を見たところです。駅舎は見違えるほどリニューアルされましたが、駅前広場やその周辺はまだ整備途上といった感じです。
区画整理に伴う道路の付け替えを知らせる看板に旧駅舎と貨物駅跡地の形がわかる地図が貼ってありました。これを拝借して写真の撮影位置を示します。赤矢印は元々看板に書いてあったもの、番号付き黒矢印が私が書き足したものです。
写真①:駅前から旧貨物駅方向を見たところです。右の線路寄りは空地、左側は駐輪場になっています。
写真②:駐輪場の入口です。左側のコンクリート柵が敷地境界であったことは明らか。
写真③:1本裏の道路を入ってしばらく歩くとまた柵が出てきます。駅方向を振り返ったところ。自転車が並んでいる部分が一般貨物用の積み込み線跡と思われます。
写真④:さらに進んで再び駅方向を振り返ったところ。う回道路が整備され、線路脇に続いていた道路は一部が閉鎖された状態になっています。ここもじきに整地が始まるのでしょうか。
写真⑤:荷さばき場となっていた広いコンクリート敷きの部分の残骸と思われます。場所的には旧敷地の中央部あたり。
写真⑥:そのすぐ脇には新築の一戸建てが建っていたりします。昔の面影が少しずつペイントで塗りつぶされていくようです。
看板地図の外になるので撮影位置番号はありませんが、これは旧貨物駅の先端だったあたりで、JR(国鉄)の変電所の一部に食い込んだような形になっている部分です。現在はJRの関連施設の建物が建っていて昔の痕跡はありませんが、門の先の広場が1975年の航空写真でク5000が停まっていた場所をわずかに想像させます。
さて、こうして歩いてみると、レールこそ残っていませんがまだまだ昔をしのばせるものが多く残されていることがわかりました。貨物営業が廃止されてから実に35年が経過しているにも関わらずなぜこうした状況にあるのか。それは、旧貨物駅跡を含む「東小金井駅北口土地区画整理事業」が反対運動や資金不足などによってうまく進んでいないためのようです。しかし中央線が高架になって高架下には多くの店舗が立ち並び活況を呈しています。駅周辺も遅れていた時間を取り戻すように整備が進んでいくものと思われ、ク5000の居た頃を偲ぶのは今がラストチャンスではないでしょうか。
ところで今回改めて東小金井駅の設置にまつわる歴史を知り、ひとつ疑問に思う点が出てきました。冒頭に「初の住民による請願駅」と書きましたが、であれば駅舎とホームがあればよく貨物駅は必要ありません。しかも自動車輸送の拠点駅となれば企業が要望するものであって、住民が要望するたぐいのものではありません。それがなぜセットで整備されたのでしょうか?
今回、旧貨物駅跡地散策と併せて立寄った場所があります。駅から徒歩5分ほどの所にある「東小金井駅開設記念会館(マロンホール)」です。そのネーミングから開設の歴史にまつわる展示などがあるミニ資料館をイメージしたのですが、行ってみると全然違っていて、会議室、和室、ギャラリースペースなどがある普通の市立公民館でした。
せっかくなので受付の方に話を聞いたところ、詳しい事はわからないが、こちらに駅設置の経緯が書かれています・・・と、3枚つづりのレジメを手渡してくれました。
会館前には同じ文面を記した記念碑が置かれ、その詳細はこちらのサイトに詳しいので割愛しますが、念願かなって新駅設置が認められたときの状況について次のように書かれています。
「(前略)しかしこの暁光を喜びながらも続いて本会による資金金額の支払い、貨物駅併設の難題出現等苦悩の重来があって思わぬ長年月を費やしたが、(後略)」
そうです。貨物駅を併設するという話は、どうやら後から持ち出されたようなのです。
ここから先は想像になりますが、新駅を設置する条件として、あるいは資金不足を補うために貨物駅用地を差し出すように求められたのかも知れません。
時すでに高度経済成長の真っただ中。この後約20年間にわたり、国民の豊かさの象徴たる「マイカー」がク5000に乗って全国に送り出されてゆくわけですが、その陰にはこうした地元住民の努力と葛藤のドラマがあったのだなあと思うと胸が熱くなります。
(新駅設置の功労者 宮崎金吉氏胸像と記念碑;東小金井駅開設記念会館(マロンホール)玄関前)
東小金井はいま、武蔵小金井の"ムサコ"と並んで"ヒガコ"の愛称で親しまれているとのこと。駅周辺はまだ空地と駐車場だらけの残念な風景ですが、街並み整備が完了してさらにパワーアップした"ヒガコ"が誕生したとき、新駅設置に奔走した当時の関係者の方々も枕を高くして眠れるのではないでしょうか。
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ところでク5000といえば、私の場合、中央線東小金井駅の印象がとても強く残っています。母方の実家が東京都小金井市にあったので、子どもの頃にそこへ遊びに行く際に101系の車窓からよく見ていたものです。そのク5000を送り出した貨物駅跡が今どうなっているのか気になり、昨日の午後に突然訪ねてみることにしました。三鷹~立川間の高架化が完成し駅周辺の区画整理も進むなか、果たして当時の面影を残すものはまだ残っているのか。まったくの空振りに終わることも覚悟して出かけてみたのですが・・・
東小金井駅は国内初の地元住民全額負担による請願駅として誕生したとされます。開業は1964年(昭和39年)9月10日。なんと東京オリンピックのちょうど1ヵ月前ということになります。開業時の様子がこちらの記事(かわら版まろん通信Vol.867;小金井市)にまとめられています。南北に階段が差し掛けられた質素な橋上駅ですが、マイ・ステーションということで近所の人たちが自主清掃に励むほほえましい光景も見られますね。
上で紹介した記事の写真にも写っている貨物駅は、少し遅れて翌1965年(昭和40年)4月5日から貨物営業を開始したとされています(Wikiより)。自動車輸送全盛期と思われる10年後の1975年(昭和45年)に撮影された航空写真を見ると、赤いク5000や黒貨車が何両も停まってる様子が見て取れます。左が高尾で右が東京方面になります。
(国土地理院・空中写真(1975年1月20日撮影)より)
しかし写真の撮影から約10年後の1984年(昭和59年)12月1日には貨物営業が廃止されてしまいます(Wikiより)。トータルでわずかに20年程度しか営業しなかったことになります。高速道路網の拡充という環境変化に加え、度重なるスト・遅延による不安定な輸送、そして運賃値上げ。これらによって荷主の信頼が大きく揺らいだことが直接的な原因であったようです。
現在、跡地は周辺も含めて土地区画整理事業が行われており、上空から見るとこのような感じになっています。一部で建物が建ち始めてはいますが、半分はまだ駐車場、駐輪場、資材置き場などの暫定利用となっています。
上り線ホームから旧貨物駅方向を写したものです。手前の駐輪場の左側が緩くカーブしていて当時の面影を残しています。このあたりを中心に歩いてみることにします。
駅北口広場ごしに駅を見たところです。駅舎は見違えるほどリニューアルされましたが、駅前広場やその周辺はまだ整備途上といった感じです。
区画整理に伴う道路の付け替えを知らせる看板に旧駅舎と貨物駅跡地の形がわかる地図が貼ってありました。これを拝借して写真の撮影位置を示します。赤矢印は元々看板に書いてあったもの、番号付き黒矢印が私が書き足したものです。
写真①:駅前から旧貨物駅方向を見たところです。右の線路寄りは空地、左側は駐輪場になっています。
写真②:駐輪場の入口です。左側のコンクリート柵が敷地境界であったことは明らか。
写真③:1本裏の道路を入ってしばらく歩くとまた柵が出てきます。駅方向を振り返ったところ。自転車が並んでいる部分が一般貨物用の積み込み線跡と思われます。
写真④:さらに進んで再び駅方向を振り返ったところ。う回道路が整備され、線路脇に続いていた道路は一部が閉鎖された状態になっています。ここもじきに整地が始まるのでしょうか。
写真⑤:荷さばき場となっていた広いコンクリート敷きの部分の残骸と思われます。場所的には旧敷地の中央部あたり。
写真⑥:そのすぐ脇には新築の一戸建てが建っていたりします。昔の面影が少しずつペイントで塗りつぶされていくようです。
看板地図の外になるので撮影位置番号はありませんが、これは旧貨物駅の先端だったあたりで、JR(国鉄)の変電所の一部に食い込んだような形になっている部分です。現在はJRの関連施設の建物が建っていて昔の痕跡はありませんが、門の先の広場が1975年の航空写真でク5000が停まっていた場所をわずかに想像させます。
さて、こうして歩いてみると、レールこそ残っていませんがまだまだ昔をしのばせるものが多く残されていることがわかりました。貨物営業が廃止されてから実に35年が経過しているにも関わらずなぜこうした状況にあるのか。それは、旧貨物駅跡を含む「東小金井駅北口土地区画整理事業」が反対運動や資金不足などによってうまく進んでいないためのようです。しかし中央線が高架になって高架下には多くの店舗が立ち並び活況を呈しています。駅周辺も遅れていた時間を取り戻すように整備が進んでいくものと思われ、ク5000の居た頃を偲ぶのは今がラストチャンスではないでしょうか。
ところで今回改めて東小金井駅の設置にまつわる歴史を知り、ひとつ疑問に思う点が出てきました。冒頭に「初の住民による請願駅」と書きましたが、であれば駅舎とホームがあればよく貨物駅は必要ありません。しかも自動車輸送の拠点駅となれば企業が要望するものであって、住民が要望するたぐいのものではありません。それがなぜセットで整備されたのでしょうか?
今回、旧貨物駅跡地散策と併せて立寄った場所があります。駅から徒歩5分ほどの所にある「東小金井駅開設記念会館(マロンホール)」です。そのネーミングから開設の歴史にまつわる展示などがあるミニ資料館をイメージしたのですが、行ってみると全然違っていて、会議室、和室、ギャラリースペースなどがある普通の市立公民館でした。
せっかくなので受付の方に話を聞いたところ、詳しい事はわからないが、こちらに駅設置の経緯が書かれています・・・と、3枚つづりのレジメを手渡してくれました。
会館前には同じ文面を記した記念碑が置かれ、その詳細はこちらのサイトに詳しいので割愛しますが、念願かなって新駅設置が認められたときの状況について次のように書かれています。
「(前略)しかしこの暁光を喜びながらも続いて本会による資金金額の支払い、貨物駅併設の難題出現等苦悩の重来があって思わぬ長年月を費やしたが、(後略)」
そうです。貨物駅を併設するという話は、どうやら後から持ち出されたようなのです。
ここから先は想像になりますが、新駅を設置する条件として、あるいは資金不足を補うために貨物駅用地を差し出すように求められたのかも知れません。
時すでに高度経済成長の真っただ中。この後約20年間にわたり、国民の豊かさの象徴たる「マイカー」がク5000に乗って全国に送り出されてゆくわけですが、その陰にはこうした地元住民の努力と葛藤のドラマがあったのだなあと思うと胸が熱くなります。
(新駅設置の功労者 宮崎金吉氏胸像と記念碑;東小金井駅開設記念会館(マロンホール)玄関前)
東小金井はいま、武蔵小金井の"ムサコ"と並んで"ヒガコ"の愛称で親しまれているとのこと。駅周辺はまだ空地と駐車場だらけの残念な風景ですが、街並み整備が完了してさらにパワーアップした"ヒガコ"が誕生したとき、新駅設置に奔走した当時の関係者の方々も枕を高くして眠れるのではないでしょうか。
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たまにマスコミにも取り上げられますが小金井市の財政事情は芳しくないようですね。おっしゃるように北口の景色が子どもの頃に見たのとあまり変わっていません。武蔵境は先日降りましたがずいぶん変わりましたね。
本文で「ここから一気に進むのでは」と書きましたが、そう簡単には行かないのかも知れませんね。
同じ頃に私は親に手を引かれて電車乗って、三鷹電車区と東小金井のク5000に見入ってたことになりましょうか。(笑)
中央線自体は高架化で一気に近代化した感がありますが、地上へ降りてみると、まだまだ古い面影が残っている場所は多いように思います。
私は武蔵境の利用者なので、その西側へ行くことはほとんど無いですが、武蔵境は、子供の頃の趣なんて、ほぼ残ってないです。この辺、所在地の財政格差が顕著に見られます。
ちなみに、東小金井貨物駅は、小学校低学年の社会科見学で行きました:-)
高校3年間、三鷹~武蔵小金井を通っていて、車窓から搭載作業も見た記憶があります。
「中央線 駅と街の120年(JTBパブリッシング)」を引っ張り出してみたり・・
最近は立川行きも西国分寺経由なので、良いレポを見せていただきました。