石造美術紀行

石造美術の探訪記

古典などに登場する石造(その3)

2016-01-05 00:21:39 | うんちく・小ネタ

古典などに登場する石造(その3)「石仏の妖けたる事」『平仮名本・因果物語』巻六の六

 今回は石仏がばけるというお話。だいたい次のような内容です。京都の中京区、坂本町の牢人が、雨の夜更けに横町の小門(挿絵によれば木戸のような所)を通ると門の鴨居に唐傘がくっついて離れない。引っ張っても動かないのを何とか引きはがして家に帰って見てみると、笠の先端部分が引きちぎられていた。「くやしい、化物に唐傘を取られたと笑われるのは恥ずかしい。もう一度戻ってみよう。」と大小を差して勇んで出かけた。傘が鴨居にくっついた横町の小門のところに来ると、何者ともわからない身の丈九尺(約270㎝)ほどの大入道が牢人の腕を捩じ上げて刀を奪うとかき消すように見えなくなった。刀を取られた牢人は力なく家に帰ったが、その後原因不明の病にかかって30日程寝込んでしまった。取られた大小の刀は翌朝、例の小門の近くの水筒桶の上に十字に重ねて置いてあったという。その後もたびたび付近で怪しいことが起きたという。何かの拍子に水筒桶の下に古い石仏を敷石にしてあるのが発見され、妖怪はこの石仏の仕業だったのかと掘り出して大炊の道場に持って行ったところ、その後は怪しいことは起きなくなったと嶋弥左衛門という人が語ったという。
 この話は高田衛編・校注『江戸怪談集』(下)にあり、高田氏の解説によれば、著者は不詳で、鈴木正三の門人といい、寛文年間以前の刊行とされる『片仮名本・因果物語』に新たに巻四以降の話が付加されたものらしい。師の鈴木正三が蒐集した怪談をまとめたものとされています。ともかく時代設定は江戸初期頃と考えていいと思われます。横町というのが何処かわかりませんが、坂本町も大炊の道場も今の中京区、御所御苑の南、竹屋町通の付近なので、そのあたりかそう遠くないところだろうと思います。
 肝心の石仏に関する記述がまるでないのですが、大きい水桶の敷石になるくらいだから、そこそこの大きさだったのではと思います。九尺ほどの大入道というのがそれを示唆しているように思います。
 京都では今も墓地に立派な古い石仏をちょくちょく見かけます。小さい箱仏のようなのも辻に祀られていたりします。このあたりは京でも御所に近い町中で、石仏があるのは少し不思議な気もしますが、交通の要衝に設けられる木戸のようなものだったとすれば横町の小門というのも謎を解くヒントかもしれません。大炊の道場というのも気になります。いずれにしても、何かいわくありそうな古い石仏が、江戸時代の始め頃には既に人々の記憶から忘れ去られ、水桶の敷石に転用されていたということに注意したいです。嶋弥左衛門も不詳。どうも大阪の陣でも活躍した武士らしい。鈴木正三(15791655)は江戸初期の禅僧。元は大阪の陣で活躍した三河武士で、旗本の立場を捨てて出家し、因果物語のような説話を活用するなどして衆生教化に努めた人物。嶋弥左衛門とは旧知の間柄だったという設定でしょうか。大炊の道場というのは聞名寺で、時宗の念仏道場として著名だったところ。江戸時代中頃の火災で移転し今は左京区東大路仁王門通上ルにあります。境内に千本の石像寺(釘抜き地蔵)のレプリカのような立派な「叡山系石仏」が残されています。鎌倉時代の作とされていますが、ま、まさかこれではないでしょうね…。
高田衛編・校注『江戸怪談集』(下)岩波文庫
川勝政太郎『京都の石造美術』


※聞名寺の石仏
二重円光背に小月輪種子を並べた手法が「叡山系」。面相は穏やかでややしもぶくれ気味。
石像寺の凛とした雰囲気がない。頭部、右手、両手先に補修痕があり、うまく継いでますが後補の可能性も否定しきれないようにも思われます…。
「はて、因果物語?大炊の道場はたしかに今はここじゃが、わしゃなんも知らんよ…」


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