石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県奈良市小川町 伝香寺の地蔵石仏

2018-12-10 16:49:09 | 五輪塔、石仏などなど

奈良県奈良市小川町 伝香寺の地蔵石仏
 伝香寺は、筒井順慶の菩提所として再興され、現在、筒井氏の総菩提所になっている。境内には奈良三名椿のひとつ「散椿」があって、石造物があちこちに残されている。
 本堂西に一際存在感を示している大きな地蔵石仏は、
働(由留木)地蔵と呼ばれている。おそらく不安定でグラグラしていたことからそう呼ばれているのであろう。現状は後ろに鉄製の支えがあって安定が保たれている様子である。元々ここにあったのではなく、太田古朴氏によると明治初年に北方、眉間寺の門前から移されたものらしい。花崗岩製。大きい舟形光背面に地蔵菩薩立像を厚めに半肉彫している。右手に錫杖、左手に宝珠の通有のお姿で、宝珠が欠損し、宝珠の欠損部分にお供え物などが置かれている。光背面の頭上にキリーク、左右にカ、カン、マンなど三文字ずつ計六文字の梵字が刻まれている。これは地蔵、大日、釈迦、不動、普賢、文殊の種子らしい。種子の下、向かって右に「為三界万霊法界衆生…」左に「永正十二年乙亥七月廿五日…」の陰刻銘があり、さらにその下方にも結縁者名と思しき文字がたくさん刻んである。永正12年(1515)の造立で、三界万霊供養の古い事例と知られる。下端には複弁反花をめぐらせ、その上に覆輪付単弁請花の蓮座を設け、手足の指、衣文や錫杖の細かい部分もしっかり表現されているが、全体にやや頭でっかちなプロポーションで、面相も厚い唇に微笑を浮かべた屈託のない表情だが、丸いM字形の眉が上瞼からぐっと突出してお世辞にもハンサムとは言えない。この丸いM字形の眉は、奈良の石仏を歩くとしばしば見かけるお顔である。高さ255㎝、像高約180㎝もあって、写真で見るよりずっと大きく感じる。奈良付近でよく見かける室町時代の典型的な地蔵石仏の中でも屈指の大作で、保存状態もよく、紀年銘のある標準作としてよいだろう。
 もう一つ、飛行地蔵、飛雲見返り地蔵と呼ばれている石仏もご紹介したい。本堂西側の宝物堂には、
裸地蔵あるいは春日地蔵と呼ばれる裸形着装の地蔵菩薩立像(木彫)が安置されている。安貞2年(1228)の銘があり、春日明神本地仏として造立されたものらしい。その宝物堂の東側の軒先に小さい一石五輪塔とともに小ぶりの石仏が置いてある。石仏が載せてある側面を二区に輪郭を巻いた低平な方形台状の石造物も面白いもので、上端には繰形状の段形を設けている。笠塔婆の基礎か石造露盤の上端を削り取ったものかもしれない。いずれにせよ石仏と本来一具のものではない。この台石の上にある石仏が非常に珍しいものである。平滑に仕上げた石材の正面に地蔵菩薩立像がレリーフされているが、石仏が彫ってある石材は、下方は方形、上方が円形になって上端は欠損している。また、背面は粗く整えただけで正面だけを丁寧に仕上げている。この方形と円形は五輪塔形の地輪と水輪と見て間違いはなく、つまり石仏というよりは火輪部以上を欠損亡失した一種の半裁五輪塔とすべきであろう。下側も欠損している可能性もあるが、現状高さ38㎝、幅24㎝、像高25㎝。花崗岩製。像容は、薄肉彫の踏み割り蓮華に立ち、左手の宝珠を胸元に掲げ、右手の錫杖を肩に斜めに担いで、衣の袖裾を翻しながら左方にお顔を向けて振り返っているお姿である。躍動感のあるデザインで、確かに雲に乗って飛行しながら後ろを振り返っているように見える。大和には背光五輪塔や半裁五輪塔などの平板で二次元的な五輪塔は数多く見られ、中には像容をあわせて刻んだ例もたまに見かけるが、ここまで念の入ったレリーフを施した事例は他にないのではと思う。向かって右下に「妙法」の陰刻がある。紀年銘はないが、造立時期は室町中期と推定されている。同じモチーフの北御門町の五劫院の見返り地蔵には永正13年(1516)銘があり、その頃の造立と考えてよいだろう。脇の一石五輪塔は、ありふれたものだが、箱仏や背光五輪塔が大多数を占める奈良市内ではあまり見かけない。




 長い事サボっていました、久しぶりの記事です。先日、奈良市内に泊まるついでがあったので、伝香寺さんを訪ねました。激レアの飛行地蔵(半裁五輪石仏レリーフ)は、太田古朴さんの著書を見て、前から気になっていましたが自動車だとなかなか立ち寄れなかったところです。幸い、宿から徒歩で行ける距離だったので行ってきました。
元は、鑑真和上の高弟思託律師が建てた実円寺というお寺だったそうですが、筒井順慶の母堂が檀越になって再興、伝香寺と改称されたそうで、現在も律宗(西大寺ではなく唐招提寺流)だそうです。時間の都合もあってかけあしの見物、じっくり観察というわけにいきませんでした。文中法量値は『奈良県史』第7巻石造美術編によります。境内の筒井家の墓域とされる一画にある「元の定次の五輪塔」と言われている大きい五輪塔は、反花座と地輪だけの残欠で紀年銘はありませんが、筒井定次の時代よりもっと古い時代のものと思われます。四方に梵字があって、上端に枘穴があります。反花座の蓮弁が一辺当たり7葉もあるのはちょっと珍しいのではないでしょうか。実円寺時代の遺物かもしれません。同区画の中央奥にある六字名号碑は五輪塔レリーフの中に南無阿弥陀仏を大きく刻み、大永4年の紀年銘のほかに八万四千本供養…逆修結衆…という少々気になる字句があります。ほかにも面白い石造物がありますが、時間の関係でまた今度ということで…。ちなみに散椿は散り方が潔いため武士椿とも呼ばれるそうです。奈良三名椿のほかは、東大寺開山堂の糊こぼし椿、百毫寺の五色椿だそうです。

【参考】
清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術 昭和59年
土井 実  〃   第16巻 金石文(上) 昭和60年
太田古
朴『美の石仏』 昭和37年


滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その3)

2017-12-31 18:13:52 | 五輪塔、石仏などなど

滋賀県東近江市石塔町 石塔寺三重層塔ほか(その3)
 三重層塔を取り囲むように集積された無数の石造物について、これまでに誰か数えた人がいるだろうか、埋もれたものや若干の増減もあるだろうから、本当に正確な数字を出すのは至難の業だろう。ざっと見た限りでも千の単位ではなく万をもって数えるべき数量に思われる。
 つらつら見ていていくつか気付いた点を述べたい。総数は数万
基と推定されるが、その9割方は小型の石五輪塔と小型の石仏で占める。一石五輪塔と火輪以上と水輪以下を分けるスタイルの三石五輪塔で1割程、そのほか宝篋印塔、宝塔、層塔なども若干あるが合計しても1%に未たないだろう。五輪塔をはじめ複数の部材からなる石塔の大部分は寄せ集めである。組み合わせを原形に戻すのは天文学的なパターンのパズルである。
 五輪塔の空風輪や火輪の残欠の形状が一様でない。低平で軒の薄い火輪、重心の低い空輪も見られ、鎌倉時代でもかなり古い時期のものだろう。逆に軒口の上方の反りが大きく下端が水平な火輪や宝珠の先端の尖りが妙に大きい空風輪などは近世にさしかかる頃のものだろう。玉石混交状態である。ちょっと見は似ているが古いものと新しいものの間には4~5百年くらいの開きがある。
 一石五輪塔は概して粗製で地輪の長いものが目立つ
小型の五輪塔の空風輪には枘があり火輪上端に枘穴があるが、なぜか水輪に枘がない。したがって地輪上端と火輪下端に枘穴がない。水輪の上下は平らにカットしたままで、作る手間はかからないが枘がない分安定を欠き倒壊の確率が高い。三石五輪塔も同様に枘がない。大和などでは小型の五輪塔でもたいていは枘があるのと異なる。
 三石五輪塔の火輪の四注が短くにえ詰まったような感じは一石五輪塔のそれに共通する。量産化・簡素化の一端を示す手法であろう。石仏龕の屋根にもこれと共通する意匠を見て取れるものがある。
 石仏も多種多様だが、石仏龕タイプが目立つ。阿弥陀座像を刻むものが多いが、三尊像や五輪塔や宝篋印塔をレリーフするものもある。笠石は別石としたり作り付けたりで、屋根の形状も多様である。
 意匠表現に優れた大型の優品から量産される小型の粗製品への移行は、石造物が一部の貴顕や高僧だけのものから庶民層のものに近づいた結果であり、量産される小型の粗製品の実態を解明することが往時の社会や人々の生活を紐解くことに直結するはずである。今後
詳細な調査と分析検討が進むことに期待したい。
 なお、石塔寺にある大量の石造物の集積について、
昭和2年~6年、宗教団体の福田海が主導し、地元の協力も得ながら石塔寺周辺から石塔や石仏が集積されたとのことである。地元では石仏奉賛少年団まで組織されたという。福田海は宇治浮島大層塔の復元でも知られる。丘陵斜面の松林などで地面を金棒で細心の注意を払って探索し、金棒にコツコツ当れば勇躍して掘り出したという。深さは30㎝から深いものでは2m余も掘ったという。一列横隊に約100m、一か所に5・6個から10個程度、六文銭も出たらしい。こうした作業が昭和6年まで断続的に3次にわたって繰り返され、石塔寺に石塔石仏がうず高く集積されたニュースを伝える当時の新聞記事もあるらしい。(当時きちんと県の許可を得たとのことですが、今なら組織的な中世墓の破壊盗掘に他ならない気がします…)
 層塔の背後にある地蔵菩薩像の台石には、
福田海が竣工記念として昭和6年
に造立した旨が刻まれている。八万四千結願とあるから、本当に数えたのかもしれない。
 石塔寺は、中世以前の様子はハッキリしないが、江戸時代の初め、慶安元年に朱印状をもらっていることから、江戸時代以降名の知られたお寺であったことがわかる。それは江戸時代の紀年銘を持つ奉納された石灯籠や石段などからも伺うことができる。幕末の蘭学者、司馬江漢は、寛政2年(1790)に当地を訪ね、石塔村の集落や周辺至るところに石塔の残欠が見られる旨、また、寺の石段や三重層塔の周囲にもたくさんの石塔がある旨を旅日記の『西遊旅譚』に記しているという。福田海の集積事業以前の大正時代刊行『近江蒲生郡志』に掲載された写真では、層塔の周囲は石柵で囲まれ、今日とは様子が異なっている。しかし、既に小型石仏などが取り囲んでいる様子がうかがえる。幕末頃既に層塔の周辺にはある程度小型石仏や石塔が集積されていたところに、福田海が寺や集落周辺に散在していたものや丘陵斜面などの中世墓跡から大量に運び、整然と並べ置いて今日の景観が出来たのであろう。おそらくその後も近在で工事や耕作のたび石仏などが出土するとここに運び込まれてきたのであろう。
【参考】
田岡香逸「続近江蒲生町の石造美術」(前)(中)(後)『民俗文化』第1771791978
    野村 隆「近江石塔寺三重石塔の造立年代」『史迹と美術』第5581985
    川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』東京堂出版1998年
    蒲生町国際親善協会編『石塔寺三重石塔のルーツを探る』サンライズ出版2000
    池内順一郎『近江の石造遺品』(上)サンライズ出版2006

見渡す限りの石仏、石仏、石仏…


こちらは五輪塔、五輪塔、五輪塔…


火輪と空風輪がくっついた三石五輪塔。近江ではちょくちょく見かけるが、よそではあまり見ない…


層塔背後の地蔵菩薩像。昭和6年福田海の結願記念と知られる。


三尊石仏龕。大日、阿弥陀、釈迦だろうか…?屋根が変わっています。推定室町…


石仏龕タイプの五輪塔レリーフ。水輪に金剛界大日の種子「バン」が絶妙なアクセント。推定室町…


石仏龕タイプの六字名号とダブル五輪塔レリーフ。下端が未成形で埋け込み式と知られる。推定戦国期…


小型の石仏。いい表情されておられます。シンプルな作りですがこういうのが意外と古い。推定鎌倉…


地輪に二体の像容を刻む一石五輪塔。変わり種。推定戦国期…


枘穴がない(地輪)。


枘穴がない(三石五輪塔)。

 石塔寺は言うまでもない近江石造美術の雄、今更何をか言わんやの感も否めませんね。石段を上がると一面に広がる無数の五輪塔と石仏、そして巨大な三重層塔の威容に圧倒されます。五輪塔や石仏は大部分が高さ60㎝~90㎝程度の小型のもので、いくつかのブロックごとによく似たサイズ、同じような形状のものを集めてあります。五輪塔は五輪塔、石仏は石仏ばかりでまとめてある感じです。このほか八十八ヵ所巡礼コースが設けてあり、立派な石造毘沙門天像や巡礼寺院の本尊と弘法大師を並置したと見られる半肉彫り石仏が点在しています。これらは近世以降のものと思われます。いずれにせよ石造ファンにとって石塔寺はまさに聖地…ですね。
 それでは皆様、どうか良いお年をお迎えください。六郎敬白