石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 相楽郡和束町湯船 湯船熊野神社跡宝篋印塔

2011-05-26 17:46:49 | 京都府

京都府 相楽郡和束町湯船 湯船熊野神社跡宝篋印塔

和束町の東に位置する湯船は和束川沿いの山深い場所である。信楽方向に抜ける道路を進み湯船の五ノ瀬地区にさしかかると北側の山手に樹齢数百年はあろう杉と銀杏の巨木が並んで聳えているのが目に入る。07_5その巨木を目途に道路から少し北に歩いていくと広場があり中央に不動明王を祀る小堂が建っている。ここは熊野神社の故地で、広場の東寄りに石積みの区画と神社跡を示す石碑が残る。01_2広場の東端、巨木の根元近くに立派な宝篋印塔が建っているのがすぐにわかる。早くから知られた著名な宝篋印塔で諸書に紹介されている。石積み基壇の上にあるがこれは新しくしつらえたもので、塔の基礎は基壇上端にコンクリートで固着されている。台座や古い元々の基壇らしきものは見当たらない。当初の相輪を失って後補のものが載せてある。04笠上までの現存塔高は約139cm、元は七尺塔であろう。花崗岩製。基礎は上二段で各側面とも素面、幅約65cm、高さ約45.5cm、側面高は約36cm、段形上端の幅は約42cmである。基礎西側の側面に陰刻銘があり、「弘安十年(1287年)/丁亥八月/二日願主/佐伯包光」と四行にわたり刻まれているのが肉眼でも何とか確認できる。銘の彫りは浅いが文字は大ぶりで筆致も力強い。このように銘の文字を割合大きく刻むのは鎌倉中期に遡るような事例にまま見られる古い手法とされる。03塔身は幅約37cm、高さ約38.5cm、わずかに高さが勝る。各側面には径約31cmの月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫りする。種子は力強いタッチで雄渾に表現される。四仏の現状方位は正しく、西側キリーク面は他の面に比べるとやや摩滅が激しい。笠は上六段、下二段の通有のもので、軒幅約63.5cm、高さ約52cm、軒の厚みは約7.5cm、軒と区別して少し内に入ってから立ち上がる隅飾は二弧輪郭式で基底部幅約15cm、高さ約19cmである。02_3素面の輪郭内は平板にせず中央に少しふくらみを持たせている。側面素面で段形式の基礎、雄渾な塔身の種子、内側が素面の二弧輪郭の隅飾といった特長は大和系の宝篋印塔に多くみられ、南山城にあって峠のすぐ向こうは近江信楽であるこの地の石造物に大和の影響が及んでいたことを示す事例と考えられている。二弧輪郭の隅飾を持つ在銘の宝篋印塔では最も古い例で、隅飾の二弧輪郭が少なくとも13世紀後半に遡ることを示している。

側に近接してもう1基、ほぼ同規模の宝篋印塔がある。基礎と笠だけの残欠で笠の隅飾は全て欠損している。表面の劣化も激しいので火中した可能性もある。花崗岩製で基礎は上二段、幅約65cm、高さ約50cm、側面高は約38cm、各側面とも素面。笠は特に破損が激しく、段形上部は原型をとどめないが、元は上六段、下二段であったと思われる。06_3軒幅約63cm、現状高約44cm、軒の厚さ約7.5cmである。笠の上には五輪塔の部材が重ねて載せられている。わずかに残る西南側隅飾突起の基底部から、本来は軒から少し内に入ってから立ち上がり、輪郭を巻いていたことが推定される。基礎の二面には陰刻銘があるらしく一面は「正応四□/五月十日/願主□□/山村氏女/大工行長」、もう一面は「□□阿□/□□□□/東塔一□/西塔一□」とのことである。風化摩滅が進み、現在はかすかに文字の痕跡らしいものが認められる程度である。05正応4年は1291年。「大工行長」とあるのは、長野県飯田市、文永寺にある五輪塔を覆う石室(弘安六年(1283年)銘)に名を刻む「南都大工菅原行長」と同一人物と推定されており非常に興味深い。また、「行」は伊派石工名によく用いられる文字であり、伊派の通字とも考えられることから菅原行長と伊派石工との関連も考慮すべきかもしれない。ただし、吉野鳳閣寺宝塔などの作者として知られる名工「伊行長」の活躍時期は14世紀中葉から後半頃で、その間約百年弱の隔たりがあり別人である。生駒付近の石造物に名を残す13世紀末~14世紀初頃に活躍した「伊行氏」と永享二年(1430年)銘の奈良市霊巌院の弥陀三尊石仏龕にある「大工行氏」も別人であり、2代目、3代目のような名乗りがあったのか、伊派の始祖である伊行末にちなんでか単に「行」が石工名によく用いられる文字だったのか、そのあたりの真相はわからない。

二基の宝篋印塔に加え、周囲には火輪や水輪を礎石や手水鉢に加工した中型の五輪塔の残欠があり、山深いこの場所にかなり有力な寺院があってこうした石塔が林立していたであろうことは想像に難くない。その背景にはこの地が近江と南山城、大和を結ぶ交通路であったことも考慮しておかなければならないだろう。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   川勝政太郎・佐々木利三 『京都古銘聚記』

   川勝政太郎 新版『石造美術』

   田岡香逸 「近江石造美術の源流―南山城和束町と加茂町の石造美術―」『民俗文化』147号

 

文中法量値は例によりコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はご容赦ください。

それにしても格狭間や蓮弁などの装飾は見られず、質実剛健というか、実にシンプルな意匠の塔ですが各段形の彫成は鋭く精緻で造形に力がこもっているように感じられます。こうした印象は拓本や実測図ではなかなか伝わりにくいものですが、現地で実物を間近に見れば容易に体感できると思います。後補の新しい相輪はちょっとへんてこでいけません。それと新しい基壇ごと巨木の根に押されて少し傾いてきているのが気になります。

初めてこの宝篋印塔を見たのはもう5年以上前になりますが、残雪の残る寒い冬の日で、五ノ瀬という以外に詳しい場所がわからず、あてずっぽうに霜柱を踏みながらうろうろと歩いて、巨木の下で静かに建っている姿を見付けた時の印象は忘れえないものがあります。

ここ和束町は南山城でも山深い僻遠の感のある別天地ですが、この湯船塔の他にも、金胎寺宝篋印塔、撰原峠地蔵石仏、白栖磨崖仏など釈迦入滅2千何年というような銘のある鎌倉時代の石造があって注目すべきところです。そういえば、正元元年銘の生駒市輿山往生院の宝篋印塔もそうでしたよね、これらの石造の謎を紐解くきっかけが見え隠れする気がします…。


滋賀県 蒲生郡日野町原 原共同墓地宝篋印塔

2011-05-05 23:15:24 | 宝篋印塔

滋賀県 蒲生郡日野町原 原共同墓地宝篋印塔

日野町の北東の山手に原地区があり、集落の南側の丘陵裾に地区の共同墓地がある。墓地の奥、少し高くなった場所に、名号碑が立ち、棺台のある吹さらしのスレート葺きの覆屋が見える。01この覆屋の東側に小型の宝篋印塔2基と三界万霊塔が並んでいる。06これらの石塔は元々、集落内の満徳寺(万徳寺)の故地にあったもので、寺が廃寺となり地区の会所となって貯水槽を設けるに際して現在の場所に移されたものとされている。三界万霊塔は自然石を利用した近世のものだが、宝篋印塔2基はともに中世に遡るものである。中央にあるのが今回紹介する宝篋印塔である。花崗岩製。相輪を失って五輪塔の空風輪と思しきものが代わりに載せてある。基礎下には幅約49cm、高さ約14cmの台座がある。反花座にあるはずの蓮弁が見られないので、いちおう繰形座である。塔本体と風化の程度や石材の質感がやや異なるように見え、四角型の石灯籠か何かの残欠を転用している可能性もあることから、この台座が本来の一具のものと断定するにはやや疑問が残る。02基礎下から笠上までの残存塔高は約66cm、元は1mに満たない三尺塔と思われる。基礎は上二段、側面左右の束部分を地覆と葛石と区別する壇上積式で、各側面とも羽目部分に格狭間を入れ、東側面を除く三面は格狭間内に三茎蓮のレリーフがある。東側面のみは開敷蓮花のレリーフとなっている。基礎は葛、地覆部で幅約30.5cm、束部の幅約29.5cm、高さ約25.5cm、側面高約20cm。束部分の幅は約5cm、地覆部、葛石部分の幅はともに約3.5cm、段形上段の幅は約20cm。05三茎蓮は基部に宝瓶が表現される。三茎蓮の茎は、直立する中央茎を左右の茎部が交差し、左側はぐるりと一回転して花弁部分は上を向き、右側は外反する弧を描いている。こうした三茎蓮は「熨斗結び」式とも称される一風変わったスタイルのもので、南北朝以降に出現するとされている。西側の左花弁部分は二重円で表され、南側は中央茎の左右に簡略化された散蓮と思われる文様を描いている。凝った意匠だが写実性には乏しく、図案化が進んだ表現と考えてよい。開花蓮もかなりデフォルメされている。格狭間はあまり整ったものとは言えず、花頭部分の外側の弧が大きく、側線は膨らみ過ぎで、脚部は短く脚間はかなり狭い。塔身は幅、高さとも約16cm、各面とも種子を浅く陰刻するが文字が小さく風化摩滅も手伝って判然としない。田岡香逸氏は金剛界四仏としているが疑義もある。西面は「キリーク」で間違いないが、肉眼で見るかぎり北面は「サク」、南面「ア」、東面「ウーン」に見える。池内順一郎氏は、北面を「アク」、南面「ア」、東面「バイ」と推定されている。光線の加減もあり何ともいえないが採拓してしっかり確認すればはっきりするかもしれない。03月輪や蓮華座は伴わず筆致も拙い。端正で雄渾な種子を大きく刻む大和などと異なり、近江では塔身の種子が小さく拙いものが多い傾向があるが、その近江にあってもかなり貧弱な種子である。西面、北面の種子左右に造立銘が陰刻されている。肉眼での判読はかなり厳しくなっているが、西面に「道円(因?)禅師/法心禅尼」、北面に「明徳元年/八月廿五日」とあるらしい。明徳元年は南北朝時代最末期、1390年に当る。笠は軒幅約27.5cm、高さ約25cm、軒の厚みは約3cm。上五段、下二段で各段形は上に比べ下が低い。隅飾は惜しくも1つが欠損しているが、残る3つは割合残りがよい。軒から少し入って直線的にやや外反しながら立ち上がり、基底部幅約9cm、高さ約12cm。04三弧輪郭で、輪郭内には蓮華座上に円相月輪を平板陽刻し、内に種子を小さく陰刻している。月輪内の種子はごく小さいので肉眼で確認するのは難しいが、格面とも違う種子で、田岡香逸氏によれば、「バ」「シャ」「ビ」「オン」「ア」「ウーン」というから、なかなか細かいところまでこだわりが感じられる。また、通常六段の笠上を五段とするのは近江ではさほど珍しくない。寄集めの疑いもあるが、風化の度合い、石材の質感、大きさのバランスなどから推して一具のものと考えて不都合はない。三尺塔と宝篋印塔としては小品ながら、壇上積式の基礎、近江式装飾文様、三弧輪郭の隅飾、隅飾内の荘厳など近江系宝篋印塔の各アイテムを備え注目される。近江系宝篋印塔の主要なアイテムを揃えたものとしては最も新しい在銘品で、近江系宝篋印塔の基準資料として貴重である。

道円(因?)、法心というのは、おそらく在俗出家の夫婦で、造立主の両親もしくは自身夫妻と思われ、その供養のために造立されたものと考えられる。キリーク面に法名を刻んだのも阿弥陀浄土への往生を意識したものだろうか。

北側の宝篋印塔はほぼ同大で、相輪と隅飾を全て失い、基礎も破損が目立つ。塔身は後補。基礎上が蓮弁式で、格狭間内は三面が開花蓮、一面が三茎蓮で、開花蓮の張り出しが大きい。一見すると似た感じだが、よく見ると意匠表現はずいぶん異なる。時期もだいたい同じ頃のものと思われるがこちらの方がやや古いと見たい。

 

参考:田岡香逸『近江の石造美術(3)』

   池内順一郎『近江の石造遺品(上)』

 

日野町は石造美術の宝庫である近江にあっても特にコアな場所で、いたるところに見るべき石造物が残され見飽きません。ここからすぐ近く、杉の大屋神社や川原の妙楽寺跡には完存する宝篋印塔があります。いずれも無銘ですが14世紀前半頃のものと考えられています。

妙楽寺跡にあった応安二年(1369年)銘の石灯籠は、早く国の重要美術品に指定されていましたが、去る昭和50年、基礎を残して盗難に遭い現在行方不明とのこと。どこかの資産家の庭にでもおさまっているのでしょうか…。まさに許せぬ暴挙、憤りを禁じえません。身近にあって等閑視されがちな石造物ですが、祖先の思いや祈りを伝えるかけがえのない遺宝、同じものはふたつとない貴重な歴史的資料です。その地域にあって子孫に守り伝えていくべき地域の財産であり、好事家の所有欲を満たすために盗まれ取引されるなんてことはあってはならないことです!こうしたことを根絶するには、盗人には当然厳罰(&仏罰&天罰)ですが、ブローカーや所蔵者も盗品との認識の有無にかかわらず、強制的に没収できるようなルールが必要ではないでしょうかね?所有者が転々するうちにロンダリングされてしまうというのであれば、例え善意であっても売買に関与した者は処罰の対象としてもいいかもしれません。逆にそれで地下に潜るというのであれば、おとり捜査とかしてじゃんじゃん検挙すればいいんじゃないでしょうか!

いやはや、ちょっと興奮しちゃいまして申し訳ありません。とにかく早く見つかって無事に元に戻されるのを祈ってやみません、ハイ。