石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市中ノ川町 中ノ川の辻の地蔵石仏ほか

2013-06-26 23:08:13 | 奈良県

奈良県 奈良市中ノ川町 中ノ川の辻の地蔵石仏ほか
笠置街道(県道33号)沿い、中の川のバス停のある辻に吹さらしの覆屋に保護された地蔵石仏がある。01_3花崗岩製。舟形光背を背負った厚肉彫りの立像で、自然石の台石(本来の一具ものか否かは不詳)上に立つ。03総高約120cm、像高約91cm。全体のプロポーションはまずまず整い、やや撫肩ながら体躯の横幅があって計測値より大きく見える。転倒して何か固いものにでも激突したのであろうか、お顔の中央付近で光背ごと折損し、折損面に沿って顔面部分が深く欠落して目鼻は完全に失われている様子が何とも痛ましい。ただ、頬から顎にかけてのふくよかな感じが少し残っているのはせめてもの救いである。光背面上端には諸尊通有の種子「ア」が陰刻され、下端の蓮華座は縦長の覆輪付の単弁が並ぶ。持物は右手に錫杖、左手に宝珠の通有形で、あまり大きくない錫杖頭は彫り出しが薄くあっさりした表現で、錫杖下端は蓮華座に達せず足元辺りの裳のところで終わっている。衣文は簡素で平板な表現であるが袖裾は蓮華座に届かず、裳の間からは両足先がのぞく。05光背面向かって右に「奉造立地蔵菩薩逆修慶圓」左に「永正十四年丁丑六月廿四日」の陰刻銘が肉眼でも確認できる。04_2永正14年(1517年)は室町時代後半、願主は慶円という法名の人物で、逆修とあるから自身の生前供養の目的で造られたものと知られる。このほか覆屋内には、箱仏(石仏龕)、舟形背光五輪板碑、舟形背光宝篋印塔板碑、像容板碑などが置かれている。この種の石造物は大和ではありふれたもので特に珍しいものではないが、逆に大和ならではの石造物ということもできる。簡単に触れておくと、石仏の真後ろにある舟形背光五輪塔板碑は、全体を舟形に整形し正面に輪郭を設けて内に五輪塔形を平板陽刻し、「キャ・カ・ラ・バ・ア」の五大の梵字を各輪に陰刻する。地輪部には紀年銘らしい痕跡があるがすっかり摩滅して判読できない。その向かって左隣にある像容板碑は、碑面中央を舟形に掘り沈めて来迎印の阿弥陀と思しい如来立像を半肉彫りする。頭が大きく稚拙な造形ながら可憐な表情に好感が持てる。先端の山形がかなり鈍角で二段の切り込みも鉢巻き状になって板碑ならではの鋭利感はすっかりなりを潜めてしまっている。03_2五輪塔板碑の右隣の宝篋印塔板碑は、上端部分を少し欠損するが全体が舟形で正面に輪郭を設ける手法は背光五輪塔と同様で、五輪塔のかわりに宝篋印塔がレリーフされる。同じレリーフでも宝篋印塔は五輪塔に比べ意匠が複雑な分だけ制作に手間がかかるであろうことは容易に推察できる。レリーフされた宝篋印塔は上六段下二段の笠の段形、緩い弧を描いて外反する二弧の隅飾、塔身には大きい月輪内に梵字「ア」を薬研彫りする。基礎は上二段の素面で、大和系の宝篋印塔の特長をよくとらえている。塔身の左右にも小さい梵字があるように見える。この種のものとしてはまずまず出来ばえのものであろう。下方は地面に埋まっているが、基礎部分の向かって右側に天正…、中央に慶順…、左側に十月…の陰刻銘が見られる。16世紀も末頃のものでレリーフ塔の特長だけを考慮するともっと古くてもよいように思うが案外新しい。04_3この種の舟形背光の石塔レリーフ板碑が大和を中心にたくさん造られたのは16世紀後半頃から17世紀前半頃で、むろん多少のデフォルメもあろうがレリーフ塔と本物の石塔の様式観や年代観を短絡的に結び付けて考えるべきではないのかもしれない。そもそも舟形背光石塔レリーフ板碑は、身近にあった古い立派な本物の宝篋印塔や五輪塔を手本にして、本物の石塔造立の盛時(概ね13世紀後半から14世紀中葉頃)からはずいぶん後になって造られはじめたと考えるべきなのだろう。02_2大和では五輪塔や宝篋印塔に加えて宝塔をモチーフにした例もしばしば見られる。地蔵石仏の向かって左側にある石仏龕は、箱型の石材正面を隅を切って彫り沈め、内に錫杖宝珠の地蔵菩薩と来迎印の阿弥陀如来の立像を並べて配した双仏の箱仏で、上端には笠石を載せていた痕跡の枘が残る。像容の造形はごく稚拙でさほどとりたてて述べるほどのものではないが、同様の石仏龕が非常に多く残されているのが大和の地域的な特長でもある。室町時代中葉から後半頃のものだろうか。
辻の地蔵から南東方向に直線距離にして約200m余のところ、国道369号から北西側の脇道に入り25m程坂道を歩いて下っていくとブロック塀を背にして墓標や石仏が並んだ一画があって中央の地蔵石仏が一際目を引く。こちらは中ノ川墓地の地蔵石仏と呼ばれるが、立派な五輪塔のある共同墓地とはぜんぜん別の少々わかりにくい場所で、墓地としての機能や祭祀はもはや廃絶していると言ってよいような状態になっている。中央の地蔵石仏は、舟形光背に地蔵菩薩の立像を厚肉彫りし、総高約137cm、像高約101cm。右手に錫杖、左手に宝珠の通有形で、頭上の光背面に地蔵菩薩の種子「カ」を陰刻する。05_3像容向かって右に「大永四稔観實観圓識春圓観」、左に「甲申三月廿四日慶圓識賢圓禅三郎四郎」の陰刻銘があり、肉眼でも確認できる。大永4年(1524年)は、辻の地蔵石仏から7年後の造立。観実、観円…は願主・結縁者達の法名で最後の三郎四郎のみ俗名である。あるいは石工名かもしれない。願主の一人、慶円は辻の地蔵の願主と同一人物であろう。持物を執る左右の手の小指を立てているのが面白い。下端は厚みを残して覆輪のない縦長の単弁の蓮弁を並べた蓮座がある。全体のプロポーションや衣文表現は辻の地蔵によく似ているが足元の裳裾と足先の表現が異なる。鼻先の欠損や若干の風化摩滅もあるが目鼻立ちが整い、目元の涼しい表情が見て取れる。この顔つきは大和のこの頃の地蔵石仏にしばしば通有する表現のように思う。地蔵石仏の手前の台石に見える苔むした方形の部材には上端に枘穴のようなものがあり、側面に「ア」、「アー」、「アン」、「アク」の種子が大きく薬研彫りされている。欠損も目立つがかなり古い層塔の塔身か五輪塔の地輪と思われる。このほか周囲には石仏龕、名号碑、像容板碑、近世の宝篋印塔などが見られる。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術
      望月友善編 『日本の石仏』第4巻 近畿編
 
せっかくなのでこの際中ノ川の石造の主だったところはご紹介しておこうと思います。次は牛塚の石造物の予定。


滋賀県 蒲生郡日野町村井 杜家墓所三尊板碑

2013-06-23 11:00:27 | 板碑

滋賀県 蒲生郡日野町村井 杜家墓所三尊板碑
馬見岡綿向神社の北東方約400m程のところにある地域の共同墓地の一画に、代々綿向神社の宮司を務めた社(やしろ)家の墓所といわれている埋墓(所謂さんまい)があり、01その奥まった場所、丘陵尾根の麓に立派な板碑がひっそりと立っている。02花崗岩製、米石と呼ばれる地元産のキメの細かい良質の花崗岩とのことである。正面を西に向け、現状地上高約220cm、現状基底部の幅は約40cm、奥行きは約38cmを測る。額部の幅は約30.5cmと下端付近に比べ上端近くをかなり細く薄くしているので、直立安定性を得るとともに実際以上に背を高く見せる効果がある。先端を山形に整形し、二段切り込みは深くしてその下の額部は薄い。平滑に仕上げた碑面の上端近く、中央に三尊の種子を薬研彫りしている。中央は阿弥陀如来の種子「キリーク」、その下方、向かって左に配された梵字は「ボロン」。これは一字金輪仏頂尊の種子であろうか。向かって右下の「カ」は地蔵菩薩の種子と考えられる。さらに三尊種子の下には5行の陰刻銘がある。彫りが浅く文字の線も細いが、光線の加減で何とか肉眼でも確認できる。中央に「右率都婆志者為」、向かって右端に「二親幽霊並法界」、中央右に「衆生成佛得道也」、中央左に「延慶三年十月十六日」、左端に「願主内記重吉」とある。03左右どちらかの端の行から読むのではなく、中央⇒右端⇒右中⇒左中⇒左端の順に読んで文意が通る07。つまり「右率都婆志者為、二親幽霊並法界衆生成佛得道也、延慶三年(1310年)十月十六日、願主内記重吉」となる。社氏の先祖の一人と思われる内記重吉という人物が、造塔供養の功徳により亡くなった両親の霊魂並びに法界の衆生が輪廻を脱し解脱の境地を開く、あるいは極楽往生を遂げることを祈念したものであることが知られる。平滑に仕上げられた正面に比して、背面の彫成は粗く、側面から正面にいくにしたがって彫成はより丁寧になる。正面も本尊種子部分から刻銘部分は特に丁寧に細かく叩いて仕上げてあるように見える。花崗岩という石材の性質上、節理の関係で板状に整形しやすい緑泥片岩のように扁平に作ることができないため、ある程度の厚みを持たさざるをえないわけだが、本例は正面観をいかにも板状に見せることに成功していると言ってよい。こうした意匠表現、技術は見事というほかない。保存状態は極めて良好で、地衣類の付着もほとんどなく良質の石材とあいまって正面観は非常にシャープで美しい。貴重な造立紀年銘と合わせ近江では傑出した板碑として早くから世に知られた優品である。石造美術の宝庫である近江では、宝篋印塔や宝塔に比べると板碑は必ずしもメジャーな存在ではないが、この板碑は近畿地方でも屈指の板碑として数えられよう。
 
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
   日野町史編纂室編『近江日野の歴史』第5巻 文化財編
   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』
 
夕暮れ時に一人で訪ねるにはちょっと薄気味悪い場所にありますが、立ち去り難い気分にさせてくれる素晴らしい板碑です。いつまでもこの場所にあって泉下の代々社家の人々と我々法界の衆生の後生安穏を見守っていてほしいと思います。なお、最近吉川弘文館から出版された『日本石造物辞典』からは漏れています。何故だ!?


奈良県 奈良市中ノ川町 中ノ川共同墓地五輪塔ほか

2013-06-12 00:44:44 | 五輪塔

奈良県 奈良市中ノ川町 中ノ川共同墓地五輪塔ほか
中ノ川(なかのかわ)町は、奈良市東郊の山手に位置し、北方はすぐ京都府の旧加茂町(現木津川市加茂町)に接する。つまり山向うは浄瑠璃寺や岩船寺で著名な当尾の里である。07_3いうまでもなく当尾は石造美術の聖地でもある。03中ノ川集落の北西の山林中には実範律師が開いた中川成身院の跡がある。実範(?~1144)は平安時代後期の高僧で、後に解脱上人貞慶を経て唐招提寺覚盛、西大寺叡尊らにつながる戒律復興の種をまいた人物である。中川成身院は中近世を通じて興福寺の末寺として法灯を繋いできたが明治初期に廃滅したとされ、仏像や梵鐘など優れた文化財が各方面に流出している。寺跡には子院跡を示す小字が残っているらしく、尾根や斜面などに平坦地や石組などの遺構が残っているようだが現地は鬱蒼たる笹、小竹、雑木に覆われ到底進入困難で確認できない。寺跡の一画には実範上人の供養塔とされる立派な五輪塔が残されている。五輪塔は今も興福寺の管理下にあって供養が続けられているそうである。そうした土地柄を裏付けるように集落とその周辺には古い石造物もたくさん残されている。
集落北方の山林中に地区の共同墓地がある。06_2墓地は南北に細長い尾根上にあり、ほの暗い木立の中に近現代の墓標に交じって中世に遡るような古い石塔や石仏が多く残されている。04奥まった北側に進むと尾根のピークは埋墓(さんまい)であろう、朽ちかけた木製の卒塔婆が林立するその中央に非常に立派な五輪塔が建っている。花崗岩製。半ば地面に埋もれかけた反花座は、一辺当たり主弁4枚、間弁(小花)付きの見事な彫成の複弁反花座で、四隅に小花を配するのは大和に多いタイプ。その上に建つ五輪塔は、塔高約180.5cm、六尺塔であろう。地輪幅約64.5cm、高さ約48cm、水輪径約63.5cm、高さ約50cm、火輪幅約62.5cm、高さ約41cm。05_2空風輪高さ約48.5cm、風輪径約36.5cm、空輪径約36cm。反花座をあわせた総高は200cmを越える。重厚な火輪の軒口、隅の反り方にも力がこもっている。水輪や空風輪の曲面はスムーズで直線的なところはあまり目立たない。地輪が高過ぎず水輪の裾の窄まり感が顕著でないので安定感がある。各輪とも素面で無銘だが、鎌倉後期の五輪塔の特長を遺憾なく発揮しており、
造立時期は14世紀前半を降ることはないだろう。保存状態も良好で、手堅い意匠表現と優れた彫成が特筆される美しい五輪塔であるが、地輪と反花座の間に小石を挟んでいるのが少々目障りである。01_3これは、反花座が東方向に傾いてきたので、塔の倒壊を防ぐために地輪との間に小石を挟み込んで均衡を図っているのであろう。反花座が地面に沈み込むということは、地下に何らかの埋納空間か何かが設けられている可能性があるだろう。
周囲には小型の宝篋印塔の残欠(笠、塔身)、六字名号を陰刻した半裁五輪塔、背光五輪板碑などがある。このほか、墓地の古い石造物でいくつか目に付いたところを簡単に紹介すると、入口の六地蔵の後ろにあった角塔婆。先端部は四方を斜めに切り落とし方錐形に尖らせ、その下に二段の切り込みを入れる。側面観を板碑と同じにする手法である。側面四方に五輪塔を薄くレリーフし、それぞれ五大の梵字の四転を刻む。現状地上高さ約66cm、幅約23cm。あまり見かけない珍しいもの。その近くにあった半裁五輪塔。現状地上高約90cm、幅約23cm。水輪部に、阿弥陀の種子「キリーク」を月輪内に刻む。どちらも花崗岩製、造立時期は室町時代後半頃だろうか。

 

参考:元興寺文化財研究所編『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告
   清水俊明『奈良県史』第7巻

 
久しぶりに行ってみたところ、あちこちにゴミ処理施設反対!の看板が立てられ何やらゴタゴタがあるようです。もとよりよそ者の小生がとやかくいうことではありませんが、平安の昔、実範上人が仏に献ずる花を摘みに来て気に入り成身院を建てたというこの地の環境がなるべく保たれるといいなぁと思います。あと石造ファンとしては地域の貴重な宝である石造物が後世に残し伝えられることを祈念するのみです。それと、できればいまひとつ実態の明らかでない中川成身院跡の遺構の確認と保存は期待したいところです。


奈良県 奈良市大慈仙町 真如霊苑墓地五輪塔及び板碑三種

2013-06-10 23:52:52 | 五輪塔

奈良県 奈良市大慈仙町 真如霊苑墓地五輪塔及び板碑三種
奈良市街から東方、柳生、忍辱山方面に向かう国道369号、東方の円成寺までは1.2Km程のところ、国道から南に100m程入ると地元の共同墓地である"真如霊苑"がある。01墓地は東南から北西に伸びる尾根の先端に位置し、手入れの行き届いた明るい場所にある。02木立に覆われた尾根のピーク部分に平坦地があり、中央に大きい五輪塔がぽつんと建っている。花崗岩製。五輪塔の周囲は古い埋墓(所謂さんまい)のようである。長方形の板状の切石を組み合わせた方形基壇を設え、その上に間弁(小花)付きの複弁反花座を据える。四隅に間弁を配した典型的な大和系の反花座で、一辺あたり主弁は4枚である。反花座の一辺の中央下端に径5cm程の奉籠穴があり、切石基壇の下には納骨のための空間が設けられ大甕か何かが埋けられている可能性がある。反花座の上端の受座と地輪の収まりはまさにピッタリ、ジャストフィットで、当初から一具のものと考えてよい。蓮弁の彫成はまずまずの出来で手馴れた作風。その上に建つ五輪塔は、各輪とも素面、無銘で、塔高約168cm、五尺半塔であろう。03地輪高さ約39cm、幅約57cm、水輪径約55.5cm、高さ約45.5cm、火輪幅約55cm、高さ約37cm、風輪幅約㎝、空輪幅約32cm、空風輪高さ約46.5㎝。地輪は高からず低からず、水輪は裾の窄まり感が強くやや重心が高い。04火輪の軒口は総じて重厚だが、軒反りがやや隅寄りで中央の直線部分が長い。四注の屋だるみにもやや直線的な部分が勝るように見える。軒隅の一端を大きく欠損するのが惜しまれる。空風輪は全体としてよく整った形状ながら風輪の側面の曲線に少し直線的なところが見られ、空輪はまずまず完好な曲線を見せる。宝珠形先端の尖り部分がわずかに欠損する。五輪塔は全体として手堅くまとめてある印象で、規模も特に大き過ぎず小さ過ぎず、逆にこれといった特長に欠けるが大和の五輪塔の一典型と言えるだろう。05造立時期について、水輪や火輪の軒口の形状から鎌倉時代にもっていくのはやや無理があり、南北朝時代に降ると思われ、おそらく14世紀中葉頃とみて大過ないものと思われる。

墓地整理に際して集積されたと思われる多数の石塔、石仏がある。全ては紹介しきれないのでここでは板碑3種を挙げる。07
(1)六字名号板碑。花崗岩製、高さ約180cm、上端を山形に整形しその下の二段の切り込みを設けた圭頭稜角式のもので、背面と側面は粗く整形したままだが、側面の正面に近い場所はやや彫成が丁寧になる。碑面中央を長方形に浅く彫り沈め、独特の書体で「南無阿弥陀佛」の六字名号を大書陰刻し、名号下の枠取り内に蓮座を平板陽刻したレリーフを配置する。向かって右の輪郭部分に、室町時代後期、弘治三年(1557年)丁巳、左に十一月十二日の陰刻銘がある。さらに輪郭下の下端近くに結縁者と思しい十数名分の法名が刻まれている。保存状態良好で良質の石材のせいもあって非常にシャープな印象を受ける典型的な大和系の板碑として見落とせない。
(2)弥陀三尊種子板碑。名号板碑の隣に立つ。06_2山形の頂部と二段の切り込みの稜角式の板碑で、山形の先端が急角度で大きく正面に枠取りを設けない。碑面上端近く中央に阿弥陀如来の種子「キリーク」を陰刻し、その下の左右に観音・勢至の両脇侍の種子「サ」・「サク」を配置する。月輪や蓮座は見られない。三尊種子の下の広い碑面にも刻銘が認められるが、彫りが浅く風化摩滅している。清水俊明氏によれば紀年銘と多数の結縁法名があるらしいが紀年銘は判読できないとのことである。こちらもシャープで美しい外観。造立時期は室町時代後期と推定されている。六字名号板碑よりはやや遡るのではないかと思う。花崗岩製、高さ約155cm。
(3)像容板碑。同様のものが多数あって高さ約65cm前後と名号板碑や三尊板碑に比べてずいぶん小さい。上端を山形に整形するが二段の切り込みは省かれた剣頭式で、正面中央の碑面は上・下端より浅く沈め、枠取りは設けずに中央に来迎印の阿弥陀如来立像を半肉彫する。蓮座は省略されているようで衣文も簡略化が進み、やや頭が大きく稚拙な出来だが、作りはこなれており愛嬌のある面相には好感が持てる。一見すると一般的な舟形光背の石仏のように見える。むろん石仏の範疇に入れることに異論はないが、上部の山形に注目すれば、やはり板碑の一種と解することができる。花崗岩製。概ね16世紀末から17世紀初め頃のものと思われる。これら三種の板碑は、それぞれ形状や大きさが異なるものの、いずれも阿弥陀如来を本尊とする点で共通する。同じ墓地で名号、種子、像容と本尊の表現方法の相違が興味深い。
 
参考:元興寺文化財研究所編『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告
   清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術
   稲垣晋也「奈良県」『板碑の総合研究』2地域編

 
文中五輪塔の法量値は『五輪塔の研究』によります(勝手ながら数値は5mm単位で丸めました)。また、『奈良県史』には何故か五輪塔の記述がありません。奈良県の東山内などでは地区ごとに、共同墓地の惣供養塔として同様の五輪塔があり「郷塔」と呼ばれています。基本的に「さんまい」の中央にでんと構えており、古いものは鎌倉後期からあって、南北朝時代のものが多いようです。特定の個人の墓標ではなく、大勢が資金を出し合って造った墓地全体の供養塔だといわれています。塔下には火葬骨片を収納する施設があって、結縁者(造塔出資者)達の骨だと考えられています。それが大和ではところどころに今も残されているのだから驚きです。
墓地の歴史がそれだけ古いことを物語っているとともに、祖先達が大きい五輪塔を造れるだけの経済力と信仰を紐帯とした強い結束力を持ち合わせていたということを今に伝える貴重な遺産だと思います。なお、奈良県は、石仏では地蔵像が圧倒的に多い土地柄ですが、大慈仙墓地では阿弥陀像も少なからずあります。まったく余談ですが大慈仙(だいじせん)とはかっこいい地名です。