石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市春日野町 洞の地蔵石仏並びに仏頭石

2011-09-29 00:19:08 | 奈良県

奈良県 奈良市春日野町 洞の地蔵石仏並びに仏頭石

奈良県新公会堂の前を過ぎて春日大社の神苑を西に進み、若草山と春日山に挟まれた谷から流れる水谷川(みやがわと読む)を遡っていくとやがて道路は未舗装になり、04_5さらに少し歩けば道路の北側に、「天然記念物春日山原始林」と刻まれた大きい石柱が立てられている。01その奥、道から山側に15mばかり入った斜面上の木立の下にあるのが洞の地蔵と仏頭石である。どちらも古くから知られた著名な石仏で、北東側に立つ石柱状の方が仏頭石、その南西側に横たわる平らな自然石に刻まれたのが地蔵石仏で、両者の間に高さ約50cm程の小型の地蔵石仏2体がある。付近は紅葉の名所として知られるが石仏は忘れられたようにひっそりと佇み、周囲は木柵と金網で囲まれて保護されているがそれも朽ち果てつつある。

「洞の仏頭石」は現状高約109cm、下端は地表下に埋まって確認できないが、さほど深く埋まってはいないようである。04花崗岩の六角柱の上端に仏頭を丸彫りし、こけしのように見える特異な形状を示す。あるいは石幢の一種と考えるべきかもしれない。柱部分側面は現状高約69cm、横幅約20cm。各面とも下端近くに水平方向に一条の線を陰刻し、その上に蹲踞し対向する一対の狛犬を線刻する。しったがって狛犬は6対、合計12体になる。春日大社の神苑という場所も考慮すれば、この狛犬は神仏習合を示唆するものと考えていいかもしれない。さらに狛犬に守護されるように円光背を伴った観音菩薩像をその上に薄肉彫りで表現する。05_3観音像は各面ごとに異なり、正面から左回りに十一面、准胝、如意輪、聖、千手、馬頭の六観音像とされている。立膝をついて座る如意輪観音以外は蓮華座上の立像で、像高約35cm内外。如意輪観音像だけは蓮華座の下に波紋のような複雑な凹凸が表現される。やや表面に風化が見られるものの、いずれも温雅な面相でプロポーションも悪くない。六観音は六地蔵と同様に六道輪廻の衆生を救うとされ、それぞれ地獄道=聖観音、餓鬼道=千手観音、畜生道=馬頭観音、修羅道=十一面観音、人道=准胝観音、天道=如意輪観音とそれぞれ受け持つ世界が決まっている。02准胝観音を採用するのは真言系で天台系では不空羂索観音がこれに代わるという。正面十一面観音像の向かって右に「□仙権大僧都覚遍木食」左に「永正十七年(1520年)庚辰二月日」、准胝観音像の向かって右下方に「円空上人」と陰刻銘がある。07肉眼でも部分的に判読できる。「木食」とあるのは穀断ち戒を守る「木食上人」のことと思われ真言系の修験者の関与を示唆するものとして注目される。上端の仏頭は肉髻のある如来形で完全な丸彫り。螺髪の一つひとつを刻出し、額には白毫がある。頸部の三道までが表現されている。やや角ばり平板な面相はお鼻がにえつまって表情も硬い感じであまり眉目秀麗とは言えない。観音菩薩は阿弥陀如来の脇侍であり、六道抜苦救済の延長には欣求浄土があると考えられることから一説に阿弥陀如来とされるが、頭部だけでは判断できない。三道の下、胸元に当たる場所に約19cm×約3.5cm、深さ内側で約5cm、外側で約2cmの溝が彫ってあり何かを載せたりするための造作とも思われるが不詳。一般的に石造物の没個性化や粗製化が蔓延する室町時代中期にあって、六角柱に六観音、狛犬を配し、丸彫りの仏頭を頂く類例のない独創的な造形と凝った意匠は特筆すべきものである。01_2

一方、横たわる地蔵石仏は「洞の地蔵」と称される。03_2安山岩の一種で三笠山付近に産出する在地の石材である「カナンボ石」の板状の自然石の表面に地蔵菩薩立像を薄肉彫りする。石材の長径は約135cm、最大幅約57cm、厚さ約20cm。像高は約77cmで頭光背、身光背を負い蓮華座上に立つ。蓮華座は斜め上から見たようなデザインで、蓮弁が反花状になっている点は珍しい。持物は右手に錫杖、左手に宝珠の通有の姿で、胸元には瓔珞が表現され錫杖頭も大きく細密に描かれている。02_3面相は目鼻立ちが大振りで温雅な中に厳しさを秘める。特に浅く彫り沈められた切れ長の眼が印象深い。衣文表現も的確で、肩幅が広く手足が大きいので力強い迫力があり、意匠表現全体に伸びやさや奔放さが感じられる。

像容の向かって右、身光背部分に「建長六年(1254年)八月日」、左側は光背の外に「勧人多門丸」と比較的大きい文字で印刻されているのが肉眼でも容易に判読できる。「勧人」は勧進者の意味と考えられている。07_2足元向かって右側の周縁部に若干の欠損があるようだが硬質の石材のせいもあって表面の風化は少なく保存状態は良好。作風も優秀で、13世紀中葉、鎌倉時代中期の紀年銘が貴重。奈良市街近辺の在銘の地蔵石仏では平安後期の春日山石窟仏を除くと最古のものである。05_4

なお、現在は横たえてあるが古い写真を見るときちんと立っている。下端が細く不安定な形状なので倒れやすいが、本来は地面に差し込むようにして立っていたのであろう。あるいは龕を伴うことによって安定を図っていた可能性もあるかもしれない。

元々原位置を保つものではないらしく、仏頭石とともに付近から移されてきたとのことであるが不詳。それでもあまり遠くない場所にあったと思われる。

 

参考:川勝政太郎『日本の石仏』

     〃  新装版『日本石造美術辞典』

   田岡香逸・辰巳旭『美の石仏』

   清水俊明『奈良県史』第7巻石造美術

 

 今更小生が紹介するのもおこがましい古くから知られる著名な石仏ですが、若草山まで来てこれに触れないわけにはいきませんのでいちおうご登場の運びとなりました。

 六観音は次第に六地蔵に取って代わられてしまうので例が少なく珍しいものです。春日大社の本地仏や興福寺南円堂、さらには東大寺三月堂本尊のことを思うと准胝観音でなく不空牽索観音でもよさそうな気がしますが意外や天台系で採用するんですね。地蔵さんは素晴らしいの一言です。伸びやかで迫力があります。

 

法量数値、寸法をコンベクスによる実地略測値に改めました。H23/9/30

コンベクスで採寸すると従前から言われている数値より2~3cm程大きいようです。何故でしょうか。先学は拓本から測定値を出したので乾いて縮んだ分小さくなったのでしょうか?小生の測り方に問題があるのかもしれませんが念のため確かめてみることも大切だと思います。石の凹凸だけでも数mmの違いは当然あります。対象の大きさにもよりますが精緻な実測図を作るための測定でなければだいたい1cm以下の違いは誤差の範疇としてよいと考えています。まぁ、いつも申し上げているように所詮コンベクス略測ですので、多少の誤差はお許しください。

そういえば「木食(木喰)」、「円空」は江戸時代の有名な仏彫家の呼称、こっちは永正ですから関係はありませんが、偶然とはいえ面白いことです。


奈良県 奈良市春日野町 若草山地蔵石仏

2011-09-24 17:29:07 | 奈良県

奈良県 奈良市春日野町 若草山地蔵石仏

若草山の山麓、土産物店の並ぶ道から少し東に入った場所にある。01(若草山の入山料を支払わないと近くには行けない。02_2南側の入山口からすぐ東の木立の下に見える。)高さ、幅とも3m余の岩塊の平滑な西側面に地蔵菩薩立像を線刻する。像高約183cm。「カナンボ石」と称される安山岩の石材は、三笠山周辺に普遍的に見られるため「三笠安山岩」と呼ばれる。硬くきめが細かいが打撃には脆いところがあり、古来奈良近辺では古い寺院の礎石などの石材として利用されてきたものである。真新しい割面は滑らかで鮮やかな黒色だが表面が風化するとざらついた茶褐色になる。同じ安山岩で石器の材料となったサヌカイトにちょっと似ているがあれ程は緻密でない。線刻の跡が黒々としているのはそうした岩質のためで、観察には好都合である。

像容は蓮華座に立つ真正面を向いた声聞形の地蔵菩薩像である。胸前に上げた右手は錫杖を執らず人差指と親指で輪を作る。左手はみぞおち辺りで横にして中指を曲げ親指の先にあてて輪を作っているように見える。05あるいは曲げた中指と見たのは掌にある宝珠かもしれない。07_308錫杖を持たないこの印相の地蔵菩薩像は矢田寺式の地蔵とも呼ばれる。矢田寺(金剛山寺)の本尊と同じ形であることからこのように呼ばれる。指で輪を作る印相は阿弥陀如来の来迎印と同じで、地蔵と阿弥陀の両性を具有する像容と考えられる。地蔵菩薩に引接され阿弥陀如来の西方浄土に迎えられたいと願う信仰の現れなのだろうか。像容表現に優れ、蓮華座の形状も概ね整い、均整のとれた体躯、重なり合う衣文表現は極めて写実的で、端正な面相とあいまって洗練された絵画的な趣きを示している。一方でどことなくぎこちなく線に元気がないようにも感じられる。フリーハンドで奔放に描いたというより下絵をトレースしたような感じというと伝わりやすいかもしれない。また、光背が表現されていない点も迫力が感じられない一因と思われる。

像容の左右に造立銘がある。向かって右側に「天文十九年(1550年)庚六月日好淵敬白/南無春日大明神」、左側に「奉造立供養地蔵菩薩/勧進衆等乃至普利」と達筆な書体で陰刻されているのが肉眼でも確認できる。03_2春日大社の主祭神のひとつ天児屋根命の本地仏が地蔵菩薩であることから、春日明神を供養するための作善で、好淵という法名の人物が関わり勧進の手法により造立されたことが知られる。地蔵、阿弥陀そして春日明神への信仰が混然一体となって少々複雑な様相を呈する神仏習合のひとつの現れであろう。

04_2石造物も粗製乱造の時代と言える室町時代も後半の作であるが、流石に藤原氏の氏神、春日大社のお膝元にふさわしい洗練された典雅な表現で、この時代の一般的な石仏とは明らかに一線を画する優れた作品と言えよう。恐らく石工のフリーハンドではなく絵師の描いた下絵を元に丁寧に鏨を当てていったであろうと推測される。作風優秀で造立紀年銘が貴重ではあるが、こういうケースでは蓮華座の形状、衣文の表現など一般的な石造物の様式観はそのまま当てはまりにくいだろう。

また、岩塊の向かって右側面にも「南無阿弥陀佛」の六字名号が陰刻されており気になるが、筆致がやや拙く恐らく後刻と思われる。さらに背面には支えになるようにしてふたまわりほど小さい石があり、そこにも刻銘があるがこれは新しいものである。倒れていたものを立て直した際の記念か何かであろうか、詳しくは後考を俟ちたい。

なお、"元の木阿弥"の逸話で有名な筒井順昭が亡くなったのがちょうど天文19年の6月であるが何か関連があるのだろうか。

 

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

      清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術

 

写真左下:写真では今ひとつ伝わりませんが若草山の鮮やかな芝の緑をバックにした素晴らしいロケーションです。写真右中:刻銘、肉眼でもぜんぜんいけます。右下:後ろから見たところはこんな感じです。画面左手の小さい石にも刻銘があります。

 

自由奔放な表現と対極にある没個性的で型にはまった表現がちょうどこういうお顔なのかもしれません。同じように写実的な地蔵像でも、程近い場所にある鎌倉中期の"洞の地蔵"のお顔と比べると、端正ですが何というか覇気、迫力がない気がします。これは感覚的な印象なのかもしれませんが実物を前にするとわかると思います。実測図や写真、拓本等ではなかなか伝わりにくい感じだと思います。

ただ、こうした「感覚的」なものを「非科学的」と決め付けて一概に排除してしまう風潮はいかがなものかと思います。むろん「客観性」や「合理性」は非常に重要ですが、「モノに対する感受性」というものはやはり養ってしかるべきかと思います。そのために石造美術においては「標準的なものをなるべくたくさん見る」ことだと川勝博士は書かれています。その言葉を胸に精進していきたいと思います、ハイ。


滋賀県 湖南市針 廃法音寺跡不動明王石仏

2011-09-20 23:35:44 | 滋賀県

滋賀県 湖南市針 廃法音寺跡不動明王石仏

街道沿いの針の集落の南方、山寄りの高台にある種苗会社の試験研究農場の北に接した社宅の脇の一画に、草の生える広場がある。01北東約200mには飯道神社(2009年2月18日記事参照)がある。02広場の中央に小堂があって地元で子安地蔵堂と称されている。ここに祀られる地蔵菩薩半跏像(木造)は平安末期の作とされる市指定文化財。広場の北寄りには石仏や石塔が集積され、地蔵堂の周囲にも小型の五輪塔や宝篋印塔の残欠が散在していて、いかにもお寺の跡という雰囲気が漂う。ここにかつて少林山法音寺(報恩寺)と呼ばれた臨済宗の寺院があったというが明治期に廃寺となったそうで、現在は地蔵堂だけがぽつんと残されているに過ぎない。聖徳太子開基、夢想疎石の中興ともいうが不詳。「蔭涼軒日録」に“針郷内報恩寺”と出ているというから少なくとも室町時代にはそれなりの寺勢を誇ったものと思われる。03

地蔵堂のすぐ南側、周囲より少し高く盛り上がったような土壇状の場所があってその上に不動明王の石仏がある。寺は廃れても地蔵堂とこの石仏に対する香華は絶えない様子で、今も地元の厚い信仰が続いている。04石仏は不動明王を刻出した自然石の左右に長方形の板状に整形した石材を立ててその上に蓋屋笠石を差し渡した簡単な構造の龕を伴う。石仏の背後にも自然石を立ててあるがこれは当初からのものかどうかはわからない。これらはいずれも花崗岩製である。不動明王石仏は下端がコンクリートに埋め込まれて確認できないが、現状高約170cm、最大幅約69cm、奥行き約27cmの細高い板状の自然石の平らな正面に右手に利剣を携える立像を半肉彫りしたもので、現状像高は約135cm。05全体に風化摩滅が激しく衣文や面相はハッキリしない。光背や蓮華座(瑟瑟座?)も認めらない。羂索を握るはずの左手の様子も明らかでない。頭部はやや縦長で頸が短く、肘の張った体躯は全体として概ね均衡が保たれている。右手の剣は幅が細く真っすぐで古調を示している。体側線左側には衣の袖先が膨らんだような部分が認められる。06側壁の石材は現状高約152cm、幅約40cmの長方形で、厚さ約15cm、正面と内側は特に入念に平らに仕上げている。笠石は間口の幅約143cm、奥行き約72cm、高さ約24cmとかなり低平な寄棟造で、頂部には幅約85cm、幅約12cm、高さ2cm程の大棟を刻出する。軒口は厚さ約6cmと薄く、隅増しをしないまま隅に向かって非常に緩く反転する。笠裏には約94cm×53cm、高さ約5cmの長方形の一段を設け、その内側を約75cm×42cm、深さ約7cmに彫り沈め石仏の上端がこのへこみにうまく収まるように設計されている。また、この笠裏の長方形段の両脇には浅い溝を彫って側壁石材を受けるような構造となっている。こうした構造から笠石と側壁が当初から石仏と一体であったことは疑いないだろう。簡単な構造の中にも石材の組み合わせ部分などに凝らされた工夫は注目すべきで、あまり類例がないスタイルの石仏龕として希少価値が高い。造立時期の推定は難しいが、ほぼ均整のとれた石仏の体躯や低平な笠石の緩い軒反りなどから鎌倉時代中期にまで遡る可能性が指摘されている。市指定文化財。

 

写真右上:笠裏の構造、写真右中:笠の上部、寄棟造です、写真左中:背後の様子、後ろに立っている石材は何なのかよくわかりません。

 

参考:川勝政太郎『歴史と文化 近江』

   池内順一郎『近江の石造遺品(下)』

     清水俊明『近江の石仏』

  『滋賀県の地名』平凡社日本歴史名体系25

 

文中法量値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。

風化がきつく像容面相が今ひとつはっきりしません。したがって現状では尊格不詳とするのが妥当かもしれません。縦長の頭部は髪を結い上げているようにも見えます。となれば菩薩や天部の可能性もあります。例えば虚空蔵菩薩や文殊菩薩も持物は剣ですしね。むろん不動明王像の可能性が一番高いことは間違いないわけですが…、やっぱ不動明王ですかね。


滋賀県 東近江市木村町 柳之宮神社宝篋印塔

2011-09-15 22:00:59 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市木村町 柳之宮神社宝篋印塔

木村町集落の北西、水田の中にこんもりした社杜が見えるのが柳之宮神社である。名神高速道路がすぐ北側を通っている。02付近一帯は木村古墳群で、東方約500mに復元整備された天乞山古墳と久保田山古墳が残る「悠久の丘 蒲生あかね古墳公園」がある。07ケンサイ塚という一番大きい古墳が久保田山古墳と神社の間にあったが高速道路建設に伴う土地改良工事で消滅したという。

社殿の向かって右手、一段高く石積みで設えた一画に石の柵に囲まれて宝篋印塔が祀られている。基壇や台座は見当たらず平らな割石の上に据えられている。相輪を失い五輪塔の空風輪が載せてある。花崗岩製でキメの粗い斑岩質と見受けられる。笠下を請花にする田岡香逸氏のいうところの「特殊宝篋印塔」である。笠上までの現存高は約93cmで元は五尺塔と思われる。基礎は幅約47.5cm、高さ約35.5cm、側面高約28cm。上二段で上端の幅約27cm。各側面とも輪郭を枠取りし、北側を除く三方はいずれも輪郭内に格狭間を配し、格狭間内は開敷蓮花のレリーフで飾る。輪郭は束部、葛部はともに幅約4cm、地覆部で約4.5cm。開敷蓮花のレリーフはかなり厚手に彫成され、側面のツラよりも1.5cm程盛り上がっている。03_2格狭間は概ね整った形状であるが両肩が下がり側線がふくらみ気味で茨の出が大きい。05北側面のみは輪郭内素面とする。こういう場合ここに刻銘を刻む例がまま見られるが何も確認できない。正面並びに左右側面観のみを意識して荘厳したことは明らかで、死角になる裏面は手を抜いたものと考えられる。逆に考えればレリーフで飾らないこうした面があるおかげでその反対側が正面だろうとわかるのである。塔身は高さ、幅とも約24.5cm、側面に金剛界四仏の種子を月輪、蓮華座を伴わないで直に薬研彫りする。06_2文字は小さく筆致はやや拙い。笠は軒幅約44.5cm、高さ約33cm。軒の厚さは約5cmとやや薄く、軒から上に比べて軒以下が薄い(低い)。笠上は五段、隅飾は二弧輪郭式で軒端から約1cm入って立ち上がる。基底部幅約13.5cm、高さ約17cm。カプスの位置が少し低く上の弧が細高い印象を受ける。笠下の請花は素面の単弁で隅弁の間に主弁3枚、弁間には小花がのぞく。04_2下端には幅約27.5cm、厚さ約1.7cmの塔身受座を作り出している。枘穴は径約9cm、深さ約4cm。基礎上を段形に笠下を蓮弁にするのは先に紹介した箕川永昌寺塔と同じタイプで、規模もよく似ている。ただ、隅飾の段形への擦り付け部分や基礎輪郭の彫り込み、段形の彫成のシャープさなど造形的にはこちらの方がより丁重である。無銘であるが造立時期については諸先学の見解はほぼ一致しており南北朝時代の前半、つまり14世紀前半から中葉頃と考えられている。なお、基礎側面の格狭間内を、開花蓮レリーフを中心に極端に膨らませるのは近江では鎌倉末期から南北朝頃の石塔の基礎にしばしば見られる手法である。なお、石柵の入口には同じくらいの大きさの基礎だけの宝篋印塔が転がっている。基礎上蓮弁で側面に格狭間内に開敷蓮花のレリーフがある。造立時期も概ね同じ頃と思われる。

 

写真右上:輪郭内が素面なのがおわかりでしょうか、ここに銘があってもいいんですが見当たりません。写真左中:わかり難いかもしれませんが格狭間内が開花蓮を中心に大きく盛り上ります。

 

参考:川勝政太郎『歴史と文化 近江』

   川勝政太郎「近江宝篋印塔補遺 附、装飾的系列補説」『史迹と美術』380号

   田岡香逸「近江蒲生郡の石造美術-柳宮神社と託仁寺の特殊宝篋印塔を中心に-」

       『民俗文化』第41号

   池内順一郎『近江の石造遺品(上)』

 

文中法量値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。

「特殊宝篋印塔」というのは田岡香逸氏が唱えられた呼び方ですが、池内順一郎氏のおっしゃるように「特殊」という概念の規定がどうもいまひとつで、単に笠下を請花にした宝篋印塔とか笠下が蓮弁の宝篋印塔でいいと思います。

さて、神社の入口に古墳の石棺材を利用したと思われる手水鉢があります。木村古墳群の中のどれかから出たものに相違ありません。そういえばここから程近い川合地内の街道沿いには石棺材に地蔵を刻出した石棺仏もあります。石造物にしても古墳にしても祖先のさまざまな思いや営みを顕著に伝えるモニュメンタルな遺産で、似たものはあっても同じものはふたつとない地域に根ざした文化資源です。その価値を明らかにして後世に大切に守り伝えていくのが今を生きる我々のつとめです。消滅したケンサイ塚古墳は古墳群中最大規模を誇りましたが、応急的な発掘調査をしただけであっさり破壊されてしまったそうです。もったいないことでした。規模のうえからは二番手三番手が立派に復元整備されたのは結構なことですが、一番大きかった古墳の破壊を許してしまった過去を思うと何とも皮肉なことに思えてなりません。


滋賀県 野洲市小篠原 妙光寺山地蔵磨崖仏

2011-09-13 21:22:49 | 滋賀県

滋賀県 野洲市小篠原 妙光寺山地蔵磨崖仏

美しいコニーデ形の山容が印象深い近江富士こと、霊峰三上山。そのすぐ北にある妙光寺山の中腹に優れた地蔵磨崖仏がある。別名「書込み地蔵」、傍らには「北尾三方地蔵」と彫った標石もある。01山麓の入口から案内板に従って狭い山道を登っていくと、ところどころに大小の岩塊が散在している。03やがて巨岩を組み合わせたような岩神竜神祠に到り、さらに右方に進むと程なく目的の磨崖仏に着く。わかりにくいとの記述もあるが現地のポイントポイントに案内表示板があり、山道は狭くかなり急ではあるが歩きやすいように整備されている。急斜面に露出する高さ幅ともに約6m余の巨岩のほぼ垂直に切り立った壁面に東面して縦約175cm、幅約95cm、深さ約15cmの長方形の枠を彫り沈め、内に像高約155cmの地蔵菩薩の立像を厚肉彫にしている。緻密な花崗岩で保存状態も良い。光背は認められず、長方形枠の外側に蓮華座がある。蓮華座は線刻のようでもあるが薄肉彫とすべきかもしれない。02蓮華座の蓮弁は大ぶりでよく整い、優美かつ力強い鎌倉調を示す。像容は右手に錫杖、左手に宝珠の通有の地蔵像で、頭の小さいすらりとしたプロポーションが印象的。04錫杖に添えた右手指先の表現や中空を見据えるような厳しい面相表現に写実性が看取される。体躯や衣文はやや平板ながら、破綻ないまとまりを見せる。袖裾は下に届かず、前方を向いた両足先は靴を履いている。錫杖の石突は衲衣の中に隠れるようになって下に届いていない。この短めの錫杖と靴が近江の古い地蔵石仏の特長とされる。そういえば湖南市の少菩提寺跡にある地蔵三尊と作風が似ているようにも見える。枠内、像の左右に各一行の刻銘がある。向かって右に「元亨四年甲子七月十日」、左に「大願主経貞」とあるのが肉眼でも確認できる。元亨四年は鎌倉時代末の1324年である。彫り込み枠の上方には壁面を断面L字型に加工した彫り込みが見られ、懸造り風の木造の屋根が載っていた可能性もある。06さらに地蔵の彫り込み枠の右側にも別に小さい彫り込み枠がある。田岡香逸氏の報文によれば縦約59cm、幅約37cm、深さは約4.5cmの大きさで、清水俊明氏によるとこの枠内には笠石に風鐸を吊るした笠塔婆が線刻され、その塔身部分にも刻銘があるという。05高い位置にあって足場も悪く肉眼では銘文はおろか線刻笠塔婆も確認できないが、清水氏の著書に載せられた写真には確かにそれらしいものが写っているのがわかる。

なお、岩塊の下には数基の箱仏(石仏龕)が集められており、中世墓の存在をうかがわせる。07霊峰三上山に抱かれたこの付近は、中世には福林寺や東光寺といった有力寺院が甍を並べた一種の聖地であったらしい。地蔵磨崖仏のある場所もあるいは山岳寺院の跡とも考えられるが、周囲にそれらしい平坦面などは見当たらない。急峻な山腹の岩壁に忽然と刻まれた磨崖仏のあり方を考える時、奈良春日山中の磨崖仏(夕日観音や朝日観音)が想起される。春日山中の磨崖仏でも可能性が指摘されるように、付近の山中が広く葬送の場所だったのではないかという気がしてならない。中世墓というより「屍陀林」である。葬送地の諸霊を引接する地蔵菩薩として惣供養的な目的で造立されたのか、はたまた何らかの供養や作善を目的に刻まれた地蔵菩薩に結縁を願う人々によって葬送の場となっていったのか、鶏と卵のような話だがその辺りの実態の解明は今後の課題であり、あるいはまったく別の可能性も含め造立の背景に関しては後考を俟つほかない。ともあれ、作風優秀で保存状態も良好、加えて紀年銘があるとなれば資料的価値も高く、近江の石仏にあって屈指の優品ということができる。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   田岡香逸「近江野洲町の石造美術(前)-小篠原・妙光寺-」

              『民俗文化』第102号

   清水俊明 『近江の石仏』

 

写真右二番目:目を細めて遠くを見つめるような眼差しが見るものを惹きつけます。

右最下:向かって右側に小さい彫り沈め枠があるのがおわかりでしょうか?

 

文中法量値は清水氏の著書に拠ります(一部田岡氏)。これも諸書に取り上げられ今更小生が紹介するまでもない著名な磨崖仏ですね。思ったより行きやすかったのでお勧めです。それにしても右側の枠内の線刻笠塔婆と刻銘が気になります。どなたか詳細についてご存知ではないでしょうか?

さて、妙光寺山とその周辺には福林寺跡の磨崖仏群、東光寺の法脈を受け継ぐ不動寺の不動磨崖仏や重美指定の石灯籠をはじめ優れた石造物が残る宗泉寺などがあって石造マニアにとって興味の尽きないエリアです。ただ、この地蔵磨崖仏の周囲は個人の松茸山のようで、山道沿いにロープが張られ無粋な立入禁止の札がたくさんぶら下がってました。罰金10万円!だそうです。無用のトラブルを未然に防止する意味からも訪ねられるのは冬場から春先がよいでしょう。


滋賀県 東近江市箕川町 永昌寺宝篋印塔

2011-09-11 12:10:41 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市箕川町 永昌寺宝篋印塔

旧永源寺町箕川は山間の寒村で、集落東寄に臨済宗永源寺末の永昌寺がある。01石段を上りささやかな境内に進むと本堂前の庭に宝篋印塔がある。02山景をバックにして宝篋印塔をメインに据えた苔むした庭の風情には趣がある。もっとも苔は石造物の観察には適さないが勝手に取り払うわけにもいかない。田岡香逸氏の報文によれば、寺は元々西北方、谷を隔てた山裾の寺屋敷と呼ばれる場所にあったのが後に現在の場所に移され宝篋印塔も一緒に移建されたとされる。さらにその後の道路拡幅でも1mばかり移動しているとのこと。花崗岩製で基礎から相輪まで完存する。高さ約142cm、基壇や台座は見られない。基礎は上二段で幅約44cm、高さ約35cm、側面高約26.5cm。各側面とも輪郭を巻いて内に格狭間を配し、本堂側の東側面には二葉の散蓮レリーフが施される。北側面にも同様のレリーフがあるが、南側と西側の格狭間内は判然としない。川勝政太郎博士は一面は三茎蓮で残る三面が散蓮とされ、田岡香逸氏は散蓮があることは触れられているが他の側面のレリーフには言及されていない。03_2池内順一郎氏は二面が散蓮、二面が格狭間内素面とされている。基礎は風化も進んだうえ苔むしており、先学の見解も分かれているので詳しい観察が必要であるが果たせなかった。塔身は幅約22.5cm、高さ約21.5cmでやや幅が勝り、側面に薬研彫りされた金剛界四仏の種子は小さく力の抜けた表現になる。04笠は軒幅約45cm、高さ約30cm、軒厚約4.5cm。基礎幅より笠軒幅がわずかに大きいので別物の可能性も無くはないが、この程度は許容範囲として差し支えないだろう。笠下が段形にならず請花になる所謂「特殊宝篋印塔」で上は五段。隅飾は二弧輪郭式で輪郭内は素面。基底部幅約14cm、高さ約14.cm、軒端からは約0.5cm入って立ち上がる。隅飾の笠上段形への擦り付け部分が大きく段形も傾斜ぎみで細かい部分の彫成はやや粗くシャープさに欠ける。笠下の請花は素面の単弁で、隅弁と中央主弁の間に大きい小花を配する。相輪は枘を除く高さ約54cm。九輪は沈線状で請花は上下とも単弁のようである。造立時期は南北朝時代、14世紀中葉~後半頃と考えられている。市指定文化財。笠下を請花とする宝篋印塔は、大和では13世紀代に遡る例があるが、近江では鎌倉末期と推定される愛荘町東円堂の真照寺塔(2010年9月9日記事参照)が今のところ最古と考えられ、唯一の在銘品が旧蒲生町外原の正養寺塔(康永四年(1345年))。近江では概ね14世紀中葉から後半がその盛期と考えられる。基礎上を反花にして塔身の上下を反花と請花で荘厳するものと本例のように基礎上を段形とするものがありこの点注意を要する。

 

参考:田岡香逸「近江東小椋の石造美術(1)」『民俗文化』第36号

   池内順一郎『近江の石造遺品(上)』

   川勝政太郎『歴史と文化 近江』

 

文中法量値は田岡報文、池内報文に基づき0.5㎝単位に揃えたもので実地略測ではありません。

 

さて宝篋印塔を観察していると地元の方が声を掛けてきました。「何をしている?ちゃんと許可を取ったのか?」とのこと。これこれしかじかと来意を説明しても意に介せず、許可が要るんじゃないのか一点張り、聞く耳をもたない。こっちも「そこまでおっしゃるのなら致し方ないので退散します」。そんで側面の格狭間内を確認することも出来ないまま退散の憂き目に。したり顔をしてステテコ姿で歩き去るおっさんの後姿の憎憎しいことといったらありませんでした。…おっさんは自分ではいいことをしたと思っている…

確かに許可が必要かといわれれば必要かもしれない。普通はご住職に一声かけるのが常道です。でもここの場合一見する限り無住なのです。本山にでも問い合わせて兼務の住職なりの連絡先を調べてお願いをして、教育委員会にも連絡し、自治会長にも説明して了解をもらって…そんなことをしてたらそれだけで何日もかかるし、許可が得られるかどうかも不透明です。オフィシャルな本格調査ならいざしらず、一石造マニアの個人的な石塔見学にいちいちそのようなことを強要するのはナンセンスです。境内立入禁止の表示でもあればやむをえませんが、門は開かれており、境内に立ち入ることにいちいち許可が必要とは思わなかったわけです。ここも過去に2度程来ていますがこのようなことを言われたのは今回が初めてでした。

ところで「一見卒塔婆/永離三悪道」という偈頌をご存知でしょうか。塔婆を一目見ただけで三つの悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道ないし貪、瞋、癡)から永遠に離れることができるという意味です。この後「何況造立者/必生安楽国」と続くのですが、鎌倉時代の板碑等にも刻まれる有名な卒塔婆(いうまでもなく卒塔婆はストゥーパの音訳で仏塔の総称)の功徳を謳う偈頌です。であればつまり石塔を見ることも参拝の一形態と解されるわけです。実測図の計測をしたり拓本したりする場合は参拝の範疇を超えた調査なので許可が必要だと思います。しかし本堂に手を合わせ、境内の石塔を見学する限りにおいていちいち許可が必要だとは思いません。

一方、過疎の村の無住寺院等では仏像什器類の盗難は深刻な問題です。善意の来訪者・参拝者までも排除してしまうこうした住民の過剰とも思える反応は、皮肉にも防衛手段としては有効と考えざるをえません(かといってこれが正常な状態だとは思えませんが…)。確かに訪れる者もない山間の無住寺院の庭先でうろうろしている小生は傍目には不審者に映るのも無理からぬことだと思います。しかし不審者が即不法侵入者や泥棒ではない。来意をきちんと説明しているんですから、わかって欲しかったなぁ…。やり場のない不愉快な思いと無力感に苛まれ、握る帰路のハンドルは実に重かったです。

まぁ石造見学をしているとこういうことはよくあります。知り合いの石造の大先輩は調査中に警察まで呼ばれて大騒ぎになってたいへん困惑したという話をされていました。めげずに取り組んでいくしかありません。

むろん多くのお寺では「ようこそお参り」が基本姿勢ですし、地元の方も遠方からわざわざ石塔を見に来たというのでいろいろと貴重なお話を聞かせて頂くことも少なくありません。