石造美術紀行

石造美術の探訪記

宝篋印塔について(その2)

2007-04-18 23:27:47 | うんちく・小ネタ

宝篋印塔について(その2)

宝篋印塔(今更ながらですがホウキョウイントウと読みます)の「篋」は小箱のことである。宝篋とは宝の小箱(七宝の貴い小さい方形の容器)を意味するが、この変わった名前はどこから来ているかというと、宝篋印陀羅尼経(「陀羅尼」と「神咒」は同義)という密教系の経典から来ている。正式には「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経」というらしい。宝篋印塔とは、つまりこの経典を納める塔ということになる。この宝篋印陀羅尼経は遅くとも9世紀初頭までには唐に伝来し有名な不空が漢訳しており、早く空海や円仁・円珍により東密、台密ともにわが国に招来していた密教経典である。それは石造宝篋印塔が成立したとされる13世紀前半よりもずっと古く平安前期にまで遡る。では、宝篋印陀羅尼経と「宝篋印塔」と呼ばれるあの隅飾をもった四角い塔がどのように結びついたのだろうか。キーワードになってくるのが阿育王の故事、そして銭弘俶の八万四千塔なのである。一方、隅飾をもった四角い塔形は、実はずっと古く、中国でも北斉ごろから、日本でも法隆寺金堂の多聞天が捧げ持つ小塔や長谷寺の銅版法華説相図など飛鳥~白鳳時代に見ることができる。これらは「原始宝篋印塔」として扱われるが、石造宝篋印塔との直接の関連はいまひとつ明らかでない。(続く)


宝篋印塔について

2007-04-15 23:50:30 | うんちく・小ネタ

宝篋印塔について

宝篋印塔は五輪塔に次いで最もポピュラーな石塔のひとつである。鎌倉時代から中世を通じ盛んに造立され、江戸時代以降も衰えることなく各地で造立されている。 現代の墓地でも凝った墓石に採用されているのをよく見かける。

01_6 宝篋印塔について、川勝政太郎博士は『石造美術入門』で次のように説明されている。「宝篋印塔は、平面方形の一重の塔で、笠の4隅に隅飾の突起を作り、笠上部には数段の段形とする。密教系の塔で、鎌倉前期から石造の遺品が出現し、やがて宗派を越えて、わが国石塔の主流のひとつとして、五輪塔と並んで流行した。この塔形のもとは、わが国平安中期のころ、中国の呉越王銭弘俶が作った8万4千塔(銅・銀・鉄製の方形の小塔)にある。塔身にはやはり密教の四仏をあらわすものが多い。宝篋印塔という名称は鎌倉時代から行なわれている。これは塔中に宝篋印神咒経を納めることから出た名であるが、法華経などを納めた場合もある。…後14略」 

現在知られている在銘最古のものは、杉浦丘園氏から譲られ川勝博士が所蔵されていた鎌倉市某ヤグラ出土の宝治2年(1248)塔で、大形のものでは奈良県生駒市有里輿山墓地の正元元年(1259)塔が最古である。無銘では、京都梅ヶ畑栂尾町の高山寺明恵上人廟所の高山寺塔が暦仁2年(1239)の造立で最古とされ、 また旧久我妙真寺塔をわが国石造宝篋印塔の初現とする説も有力である。

わが国の石造宝篋印塔の起源については、古くから諸説があり、近年再び議論が活発化している。詳しくは追って説明したいが、確かに言えるのは、奈良時代の遺品が残る層塔や平安後期に出現した宝塔や五輪塔に比べ、その初現は鎌倉時代であり、ポピュラーな石塔の中では比較的新参者であるという点である。(続く)

写真上:完存する中世の宝篋印塔(滋賀県多賀町高源寺 南北朝)

写真下:高山寺式宝篋印塔(京都市右京区梅ヶ畑栂尾高山寺 鎌倉中期)


一粒で二度おいしい?石造美術探訪

2007-04-15 11:44:18 | お知らせ

一粒で二度おいしい?石造美術探訪(複数の石造美術をまとめて見学)

滋賀県はさすがに石造美術王国といわれるだけあって、1つのお寺に複数のみるべき石造美術がある場所が何ヶ所もあったり、ごく至近距離に石造美術が何ケ所も集まっているような場所が多いですよね。(とりわけ東近江市や高島市とその周辺は顕著)限られた時間でなるべくたくさんの石造美術を見たい小生のようなわがままな者には、たいへんありがたいことです。最近紹介している場所は、そういうところが続いています。記事をご覧になった皆さんにも一粒で二度おいしい便利なところやなるべく近い場所に集まっている事例をまとめて紹介できればと考えています。ここ数年来訪ね歩いた近畿地方の石造美術はまだまだたくさんありますので適宜アップしていきたいと思っています。うんちくコーナーもアップして石造美術の魅力をアピールし、マイナー路線を少しでも拡大できればと思ってますので、よろしくお願いします。 猪野六郎


滋賀県 甲賀市甲南町竜法師 金龍院宝篋印塔

2007-04-15 09:44:55 | 宝篋印塔

滋賀県 甲賀市甲南町竜法師 金龍院宝篋印塔

甲賀流忍術屋敷(甲賀武士53家の筆頭、望月出雲守の住宅を利用した観光施設、この付近の丘陵は甲賀武士達が築いた中世城館群が密集している)から200mほど南方にある金龍院の山門を入ると左手墓地の入口に建つ宝篋印塔がすぐ目に入る。02_5(墓地の南北に2基の宝篋印塔があるので北塔と呼ぶ。)現高約210cm、花崗岩製。反花式の台座を直接地面に置く。コンクリートで固めている。その下に切石基壇のようなものは確認できない。反花座がとりわけ立派である。側面はかなり低く、反花の弁先がオーバーハング気味に側面と同一面までせり出す。反花部分は、奥行きを広くとり、傾斜の緩い穏やかな曲線を示す。手の込んだ花弁は手が込んでいて通常の複弁の中にもう1重のトリムがあって3重になっている。一辺あたり主弁が5枚あり、間弁も根元まできっちり彫刻され、その先端もまっすぐ切ってヘの字にするのではなく奥行きをもたせている。隅が間弁になっているのは大和系の意匠。さらに塔本体の基礎を受ける方形受座を2段にしており、反花から続く低い一段を経てもう一段高く受座を設けているのは非常に珍しい。台座は中央で「田」の字状に前後左右4石に別れており、中央に向かって落ち込み気味になってセメントで補修されている。Photo_6 台座下の地盤がしっかりしていないことに起因する現象と思われ、①別の場所から移動した際に地盤の緩みを計算していなかったか、②台座下に埋納空間があってそこに落ち込みかけているのかどちらかであろう。いずれにしても、台座下の基壇は明確でないものの、断面の様子を見る限り当初から意図的に台座を分割していると思われる。こうしたケースはほかでもしばしば見かけるが、反復継続し塔下の空間に火葬骨などを落とし込むような埋納行為のため、隙間を開け閉めする便宜を図る目的で可動しうる分割式にしたと考えられる。基礎は上2段、側面は四方素面で、基礎の幅に対するは高さの比率は高いものではないが、台座の基礎受座と一体に見えるので、一見すると高いように錯覚してしまう。南側の右寄りに小さめの文字の刻銘が認められる。佐野知三郎氏は「嘉元三年己巳十二月廿□日/大願主沙弥□□□/阿闍梨道□/敬白」と判読されている(※1)。肉眼での観察でも嘉元3年(1305年)12月は何とか判読できる。塔身は四面とも月輪を線刻ではなく円形に彫り沈め、その中に大きく金剛界四仏の種子を薬研彫している。(方角が左に90度ずれている。)種子は力強くしっかりした筆である。笠は上6段下2段、各段はほぼ垂直に立ち上がり、丁寧な仕事がしてある。隅飾は二弧輪郭付きで輪郭内は素面。軒と区別し緩くカーブを描きながら少し外反する。隅飾は笠全体からみれば小さく低い。4つの隅飾のうち1つは先端が少し欠けている。笠上2段目と接着させカプスの位置はほぼ中央で1段目に相当する高さにあって先端は3段目の高さに至らない。笠上の段型は逓減が大きく全体に幅があって安定感がある。相輪は九輪の5輪目以上を欠損する。下請花は単弁のようで、九輪は単なる線刻式ではないが凹凸を強く刻み出されていない。ただし相輪が外の部分に比べ少し小さい気がするので、別物の可能性は否定できない。相輪を復元すれば8尺、台座を含めると9尺はあろうかという大型塔(※2)。反花座が特に優秀で、相輪を除けば全体として保存状態も良好、しかも紀年銘を有する点は貴重で、もっと注目されて然るべき名塔である。金龍院にはもう1基、優れた宝篋印塔がある。墓地の南端、フェンス際にあって南塔と呼んでおく。(北塔に比べ目立たないので見落とさないでいただきたい。かく言う小生は一度見落とし訪ね直している。06_4)北塔よりひとまわり小さい。半ば埋まった反花座は南西方向に向かって沈み込み、塔をまっすぐに保つために基礎との間にセメントを詰めて補修してあるが、その後も落ち込みが進行したのか隙間が空いてきている。基壇部分は確認できない。この反花座も立派で、一辺あたり4弁の複弁反花、傾斜を緩やかにして反花部分の面積を広くとり、間弁もしっかり根元まで表現され、隅が間弁になる大和系の特徴は北塔と同様だが、こちらは隅弁をちょうど宝塔の隅棟に稚児棟を設けたように二段重ね式にしている。08_3目立たない部分だが凝った意匠で珍しい。基礎は上2段の四方側面とも素面で、刻銘は確認できない。高さに比べ幅が勝って安定感がある。塔身には陰刻月輪内に雄渾なタッチで金剛界四仏の種子を薬研彫する。笠は上6段下2段、隅飾は2弧輪郭付き、輪郭内素面で4つとも大きな欠損なく残る。立ち上がりは垂直に近いが軒と区別し微妙な曲線を描いて外反する。笠上2段目と接着し3段目の高さに至る。北塔に比べ隅飾は通常の大きさである。笠全体に幅があって笠上段型の逓減が大きく安定感がある。相輪は失われ五輪塔の空風輪で間に合わせている。笠上までの高さは約116cm。元は反花座を含め7尺塔と思われる(※2)。花崗岩製。反花座の沈下が激しく放置すれば塔が倒壊するおそれがある。甲賀市屈指の優れた宝篋印塔のひとつであり、文化財指定の有無は知らないが、間に合わせのような応急措置ではなく、きちんとした保護措置が望まれる。(それにしても稀にみる優秀な反花座にセメントを塗ってしまうのはいかがなものかと思いますがねぇ。)造立時期は、北塔よりもやや基礎の幅に対する高さの割合が増し、隅飾や反花座が通例に近づいていることから、嘉元3年より少し遅れる頃、14世紀前半でも早い頃と推定するがいかがであろうか。

参考

※1 佐野知三郎 「近江の石造美術(二)」 『史迹と美術』 590号

※2 池内順一郎 『近江の石造遺品』(下) 271~278ページ

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 158ページ


滋賀県 東近江市中羽田町 多聞院宝篋印塔

2007-04-09 22:46:57 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市中羽田町 多聞院宝篋印塔

多聞院は、雪野山古墳で有名な雪野山山頂から北西に続く山塊の東麓、雪野山トンネルの南側の山手に少し登った林の中にある。その名の示すように多聞天つまり毘09_1 沙門天を祀る。石段を登って本堂の左手前の一画に小石仏や小型の五輪塔の残欠などに囲まれ大小2基の宝篋印塔が並んでいる。ともに花崗岩製でどちらも地面に直接置かれているようである。東塔は高さ約150cm余の5尺塔で、基礎は壇上積式、側面は四面とも格狭間を配し、泥が付着し下方が埋まっていて確認できないが、3方に開蓮華を入れ1面は格狭間内素面のようである。格狭間はやや両肩が下がり気味である。基礎上は抑揚のある複弁反花式で側面2弁に左右の隅弁の一辺あたり4弁で、弁先は低く、側辺との隙間は広く、上に塔身受を高めに削り出し、抑揚のある反花式基礎としては古いスタイルとみる。塔身は金剛界四仏の種子を比較的大きくしっかり薬研彫しており、月輪の陰刻は見られない。笠は上6段、下2段で、薄めの軒からやや入って二弧輪郭付の隅飾が直線的に外反しながら立ち上がる。茨の位置はやや低く、輪郭内は素面のようである。相輪は、九輪の最上輪で折れているが、その上の請花と宝珠も残っている。下の請花は低く、曲線的な複弁を表している。上の請花は単弁で、宝珠はやや重心が高く大きめである。一方、西塔は一回り大きく高さ約180cm余で6尺塔であろう。基礎は壇上積式、左右の束の幅がやや狭く基礎上2段の11_1段形に奥行きがある。側面四方とも開蓮華入りの格狭間を配する。格狭間は、花頭部分の肩は下がらないが左右の側線はふくよかさにやや欠ける印象。塔身は月輪を陰刻し、「アク」の代わりに「バン」とし左回りに「ウーン」、「キリーク」、「タラーク」と続く変則的な金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子は小さく彫りも浅い。笠は上6段、下2段。薄めの軒と区別して大きめの隅飾は二弧輪郭付で直線的に外反するが外反の程度は小さい。輪郭内は無地。相輪も完存するが、九輪の3段目で折れたのを継いでいる。伏鉢はやや高めで、複弁の請花の曲線はやや弱い。上の請花は単弁で、宝珠との間のくびれが大きい。宝珠の曲線は良好である。2段形と反花式で基礎の形状は異なるが、どちらも鎌倉末期から南北朝頃、ほぼ相前後する造立時期と思われる。閑静で独特の雰囲気のある多聞院境内の木蔭にひっそりと兄弟のように仲良く佇む宝篋印塔との出会いは、実に感慨深いものがあった。あまり知られていない穴場的なスポットだが、石造ファンならずとも心を癒せる場所として訪ねられることをお勧めする。なお、江戸時代(寛政期)の宝篋印塔が少し離れて立っている。それぞれの時代に合ったモード、嗜好とでもいうものがあるのだろうが、同じ宝篋印塔でも江戸時代になるとこうまで趣向が違うものかと感心する。

参考

八日市市史編纂委員会編 『八日市市史』第2巻中世 635ページ

川勝政太郎 「近江宝篋印塔の進展」(5) 『史迹と美術』362号


滋賀県 東近江市建部下野町 弘誓寺宝篋印塔

2007-04-07 12:17:10 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市建部下野町 弘誓寺宝篋印塔

白壁に囲まれた立派な境内に入り、本堂向かって右方、墓地の入口に近世の歴代住持の無縫塔が並ぶ一画があり、その中央に高さ2mを越す宝篋印塔がある。扁平な切石を基壇状に敷いた上に建ち、背の高い基礎上は反花式で、側面は四面とも左右が広い輪01_4郭を巻き格狭間を入れる。3面は格狭間内を無地とし1面には三茎蓮を飾っている。格狭間の形状は全体に縦長で、上部は、中央の花頭形は幅を失って収縮し、 脚先が直角に高く立ち上がって退化形式といえる。反花は高さのある抑揚のある複弁タイプだが全体的に彫成は平板である。中央に1弁、左右の隅弁の一辺当たり3枚で、中央弁の左右の間弁は先がのぞく程度になっている。弁先に高さがあって、側辺面との距離はかなり詰まって退化した形式となっている。塔身は月輪をずいぶん上に偏って陰刻し、上方は塔身上端からはみ出すくらいになっている。金剛界四仏の種子を浅く小さく陰刻するが、これも上に偏っている。笠上6段、下2段で、軒がかなり薄く、隅飾は二弧の薄い輪郭を巻き、茨の位置が低く軒からはかなり入って立ち上がり、直線的に外反する。下側の弧の幅が広く隅飾間が狭い。輪郭内は無地のようである。笠上の6段は逓減率が小さめで露盤にあたる頂の幅が広い。相輪は完存しており、伏鉢の側面は直線的で、請花との間のくびれが急で深くV字形を呈する。下請花は複弁で高さに比して上の径が大きい。九輪は逓減が大きくかつ短く、所謂「番傘」スタイルに近づいている。上の請花は単弁でやや押しつぶしたような半球形で、宝珠とのくびれは大きく、宝珠は重心をやや上に置いて曲線に削り込みが足りず筒状に近い。先端の尖り部分を少し欠損するが尖りの程度がやや目立つ。基礎の三茎蓮のある面の輪郭左右に「永正14(1517)年丁丑11月1日敬白/志施勧進□算」と銘文があるという。永正の文字は肉眼でも容易に確認できる。川勝博士は“志施”という表02_4現は古い時代にはみかけないとされている。(※1)花崗岩製、高さ約208cm(※2)で7尺塔と思われる。南側の築地塀沿いにもう一基、小ぶりの宝篋印塔がある。欠損する 相輪の先端を除く高さ109cm(※2)で元は4尺塔と思われる。2段の切石基壇の上に建ち、基礎は壇上積式で、束石の幅がやや広め、四面とも側面に格狭間を設け、内に三茎蓮を入れ、基礎上2段となっている。格狭間の花頭形の中央が幅を失って萎縮ぎみで側辺の曲線もやや角張りスムーズさに欠ける。塔身は金剛界四仏の種子を薬研彫する。キリークはなぜか月輪からはみ出している。笠は上6段、下2段で、軒と区別して二弧内部無地の輪郭を巻き、軒と区別して直線的に外反する。相輪は九輪の8輪目から上を欠損する。伏鉢は高すぎず低からず、曲線もまずまず良好。下の請花は複弁でやや高めだがスムーズな曲線を保っている。九輪の凹凸はハッキリしないタイプである。花崗岩製。小型だが全体のバランスがよく、永正塔よりは古いものと思われるが格狭間の退化形式などから南北朝期のものと思われる。

参考

※1 川勝政太郎 「近江宝篋印塔の進展」(六) 『史迹と美術』368号

※2 八日市市史編纂委員会編 『八日市市史』第2巻中世 636~637ページ

※ 滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 126ページ