石造美術紀行

石造美術の探訪記

石造関連サイト(ひとりごと)

2013-08-21 23:51:23 | ひとりごと

石関連造サイト(ひとりごと)
所詮石造はマニアックな世界、残念ながら、なかなか陽の当たる分野にはなりえていないのが実情です。それを反映してか同好の士が運営される関連サイトも決して多くありません。それでもキーワード検索にヒットするサイトをいくつかお気に入りに追加し、胸を躍らせながら毎日のようにチェックしています。ある時は貴重な情報を提供いただき、また目からウロコのお話を教えられ、うっかりや不勉強を痛感し、あるいは美しい写真を堪能しながら、何より同好の士の存在に心励まされています。時々はそうしたサイトを運営される先達からコメントを頂戴することもあり、たいへん嬉しい限りです。
インターネットは便利なツールで、斎藤彦松氏や若い頃の服部清五郎氏がそうであったように、昔なら手書きガリ版刷りで関係者だけにペーパー配布していたようなことも、一定の環境下で誰もが見られるネット上でやろうと思えば出来なくはないわけです。(まぁ、このお二人はあまりにも偉大で例えとしてはふさわしくないか・・・)
まぁ、石造のようにマイナー路線の情報や価値を発信していくために、ネットを活用するのも手だと思います。
また、関係する団体や機関のHPもお気に入りに入れています。むろん会員になって機関紙の購読というのが本筋ですが、ネット上でも会の活動そのものを発信される公式HPの存在は、小生などからすれば実に心強いものです。
そういえばお気に入りに入れてあった「史迹美術同攷会」のHP、最近つながらないのですがどうされたのでしょうか?気になります。


追伸
この記事のUP後、程なく無事につながるようになりました、「史迹美術同攷会」のHP。
ひと安心です、よかった、よかった。


滋賀県 栗東市高野 松源院宝塔(その2)

2013-08-20 23:22:06 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 栗東市高野 松源院宝塔(その2…2007年1月27日の記事の続編)
高野神社前の路地を左に歩いて行くと間もなく路地に面してその雄姿を現す見上げるばかりの大きい宝塔。相輪を失って層塔の初層軸部と思しい四方仏のある石材と宝篋印塔の笠石を代わりに載せてある。01_3完全でないのが惜しまれるが、基礎、塔身、笠石といちおう主要部分が揃い、宝塔の多い近江でも稀に見る巨塔である。03特色ある構造形式と優れた手法を示し、もっと注目されて然るべき優品と考える。褐色できめの細かい良質の花崗岩製。
基礎の下端が若干埋まっているが、笠石頂部までの現状高約229cm、これに見合う相輪はおそらく130cm程はあったと思われ、元は塔高約3.6mの12尺塔として設計されたものと考えられる。基礎はやや不整形な方形石材4つを田字状に組み合わせたもので、幅約132cm、下端が少し地中に埋まっているが現状高約41cm。幅に対する高さの割合が1/3程で非常に低平な基礎である。各側面は素面。基礎の石材どうしがぴったり接合しておらず、少々隙間が目立つ。元々一石であったものが4つに割れたか、あるいは本来の基礎が失われ適当な石材をあてがっている可能性も完全には否定できないが、とりあえず一具のものと考えておきたい。こうしたやや不整形な基礎を有する例として、湖南市廃少菩提寺や長寿寺の石造多宝塔、高島市満願寺跡の宝塔(鶴塚塔)がある。02いずれも塔高4m前後の巨塔で、鎌倉時代中期に遡る古い石塔である。ただし、これらの基礎はどれも一石で、上端に段形を作り出したものもある。一方、4つの石材を田字状に組み合わせる例として守山市懸所宝塔や大日堂層塔、愛荘町金剛輪寺宝塔がある。懸所塔や金剛輪寺塔も4m近い巨塔である。これらの石塔の基礎は相応に整形され、側面には輪郭と格狭間を有する点で松源院塔とは異なる。松源院塔のように、やや不整形で、かつ田字状に組み合わされた基礎の類例は今のところ管見に及んでいない。塔身高は約132cm、軸部の高さ約95.5cm、基底部付近の直径約94cm、肩部付近の径約92cm。縦断半裁された構造で、内部は中空になっており、何らかの納入物があったと思われる。ただ、わずかな隙間から内部をのぞき込んでみても特に何も見えない。軸部側面の四方に大きい扉型が薄い陽刻突帯で表現される。鳥居型のように見えたので2007年1月27日の記事ではそのように書いたが、上部中央の鳥居でいうと額束にあたる部分から縦の突帯が下に伸びて下端の框状につながっている。04鳥居でいうと貫から下がちょうど「Ⅲ」字のようになっているので、鳥居型というより、やはり扉型の方がよい。別石の勾欄部は、車のタイヤのような低い円筒形で、側面には架木や束、平桁が陽刻されている。また、構造的には二分割される塔身軸部をつなぎとめる役割を持っている。上端径約70cm、下端部径約78cmで高さは約25cm。さらに勾欄部から上部に続く首部は、基底部径約58cm、笠石との接合部分の径約54cmで高さは約11.5cm。先端を笠裏に空けられた円形の穴に枘のようにはめ込むようになっている。05_2笠裏には垂木型や斗拱型は一切刻まず、広い面積を粗面のままとしており、これに比較して首部がやや細く見える点を考えれば、別石の斗拱型を首部との間に挟んでいたとしても不思議ではない。もっとも笠裏の枘穴構造が本来のものであれば、別石の斗拱型は元々無かったと考えるべきかもしれない。笠石は軒幅約135cmもある。それに比べ高さは約56cmとかなり低平である。軒口の厚みは中央で約13cm、隅では約16.5cm。135cmという軒幅に比して軒口はあまり厚いとは言えない。軒反りは緩く穏やかで、軒口の隅増しも顕著でない。軒の一端が欠損している。笠上端に通常同石で刻みだされる露盤は見られない。削り取られたのか、元々作り付けられていないのか、笠頂部に載せられている層塔の塔身をどけてみれば何らかの手がかりが得られるかもしれないが現状では不明とするほかない。露盤は、相輪と同石とするなど笠と別石とする事例もないわけではない。現状の笠上端の幅は約38cm。笠上端から四注の隅降棟にかけては宝塔の特徴である突帯がある。隅降棟の突帯の断面は凸状ではなく、鈍角の△状を呈する。隅から約7.5cm入ったところでこの突帯は収束し、突帯先端には鬼瓦を表現したと思われる突起がある。
刻銘、紀年銘はないが、低平でやや不整形な基礎、背の高い塔身とほとんど横張りのない円筒状の軸部、低平で伸びやかな笠石の造形などは古調を示す特徴と判断して特に支障はないだろう。隅増のほとんどない穏やかな軒反の様子は廃少菩提寺多宝塔にも通じる。また、隅降棟の断面形状や素っ気ない笠裏の作りなど、定型化した宝塔には見られない特徴といえる。一方、大きい扉型の上品な陽刻突帯などはかなり洗練された意匠表現である。こうした特徴を総合的に勘案すると、造立時期は鎌倉時代中期の終わり頃から後期の初め頃、概ね13世紀後半頃とするのが穏当なところではないかと思われる。
基礎、塔身軸部、勾欄部と部材を分割して組み合わせる構造形式は特異で、特に塔身を縦断二分割する手法は非常に珍しい。こうした分割方式は、本塔のような大型塔の運搬上の便宜を図るための策と考えることもできよう。なお、笠上の層塔の初層軸部や宝篋印塔の笠もなかなか立派なもので鎌倉時代後期頃のものと思われる。このほか境内には小型の五輪塔や宝篋印塔の残欠、石龕仏等がいくつか集積されている。

参考:川勝政太郎『歴史と文化 近江』

最近再訪しコンべクス略測をしたので粗々の法量値を記載します。あくまでコンべクス略測ですので多少の誤差はご寛恕願います。なお、2007年1月27日の記事に現状高217cmとあるのは『歴史と文化 近江』の記述に依ったものです。今回は自分で測りました。とにかく一目見た時の
大きいなぁという印象が強く、かねがねサイズについてはもう少し詳しく紹介したいと考えておりました。前にも触れましたが宝塔の前にある説明看板はちょっと目障りですね。素晴らしい宝塔の正面にあるのに宝塔には一切触れていないというのはちょっとどうかと思います…。


滋賀県 米原市朝妻筑摩 朝妻神社宝篋印塔及び層塔(その2)

2013-08-05 22:15:54 | 宝篋印塔

滋賀県 米原市朝妻筑摩 朝妻神社宝篋印塔及び層塔(その2)
(最近再訪し、コンベクス略測を行ったので粗々の法量値を参考までにご報告します。詳細は2007年1月8日の記事をあわせてご参照ください。)ま
ず、宝篋印塔について、02_2現状の地上総高約191cm、笠石上端までの現状地上高は約160cmで、上二段の基礎は幅約89.5cm、現状高約41.5cm、現状側面高約33.5cm、段形下段の下端幅約71.5cm、上端幅約68.5cm、上段の下端幅約56.5cm、上端幅は約54cm。06_2ちなみに基礎下端は概ね10cm程度地中に埋まっていると思われる。塔身は幅約44cm、高さ約45.5cm、月輪の直径約34cm。月輪内の梵字は「ア」の四転、すなわち「ア」「アン」「アー」「アク」で、宝幢、開敷華王、無量寿、天鼓雷音の胎蔵界四仏であろう。種子の彫りは浅く、風化磨滅のせいですっかり角が取れて鋭利感は失われているが薬研彫と思われる。近江では概して宝篋印塔の塔身種子は貧弱なものが多いが、その近江にあっては雄渾な種子の範疇に入れてもいいであろう。笠は上六段、下二段、笠上の段形最上端面は幅約40cmで、中央に径約34cm、高さ約11cmの伏鉢が同石で刻み出されているのは非常に珍しい手法である。また、笠下の段形最下端面の幅は約50.5cm、軒の幅は約82.5cmで軒の厚みは約9cmである。伏鉢を含めた笠全体の高さは約73cm。07三弧輪郭付の隅飾の基底部の幅約25cm、高さは約35.5cmと長大で軒口からの入りは約1cm。隣り合う左右の隅飾の先端の間の距離は約83cmである。また、隅飾の輪郭の幅は約3cmと大きさの割りに狭い。輪郭内は素面。相輪は九輪部分を五輪ほど残すのみで、残存高約31cm。径は下方で約19cm、上部の径約17.5cm。当初から一具のものと考えて特段の支障はない。01_4この相輪の本来の高さは1m近くあったと思われ、とすれば、塔の本来の総高は2.7m程と推定され、元は九尺塔として設計されたものと考えられる。近江に残された宝篋印塔でも屈指の規模を誇るものの一つに数えられる。
一方、層塔は、上に載せられた別物の小さい五輪塔を除く現状地上高約167cm、素面の基礎は幅約58cm、現状地上高約35
.5cm、初層軸部(塔身)の高さ約44cm、幅約37.5cm。各側面に刻まれるのは像容四方仏だが、風化磨滅が激しく衣文はおろか印相も肉眼では確認しづらい。彫沈めた舟形光背を背にした蓮華座に坐す如来坐像と思われる。像高は各約30cm。蓮華座の蓮弁はすっかり磨滅して明らかでない。現状初層の軒幅約68cm、二層目の軒幅約61cm、三層目で約52cm。傍らには外に2層分の笠石と最上層と思しい笠石が置かれている。このうち最上層笠石の軒幅は約44cm、隅棟の突帯から宝塔の笠石との指摘もあるが、突帯断面が凸形でなく、全体にやや低平な形状から層塔の最上層と考えることも可能で、これを含めれば都合6層分の笠石になるが、六重塔というのは考えられない。元は五重もしくは七重であったと考えられる、というのは案内看板にあるとおり。笠の逓減の様子からは七重以上であった可能性がより高いだろう。基礎がやや小さ過ぎ、寄せ集めの疑いも払拭できないにしても、付近には外に層塔の部材などは見当たらず、わざわざ傍らに置いているのだからまぁこれら笠石も一具と考えるのが自然ではなかろうか。この辺りについては後考を俟つほかない。

 
2007年1月28日付の記事の中で「神社の南方の民家庭先の畑中に周囲よりやや高くなった荒地があり、層塔、宝篋印塔など石塔類が集められているのを見かけたが、あるいは関連があるのかもしれない?」という記述をしましたが、これらはすべてセメント製だというご指摘をさる斯道の大先達の方から頂戴しました。Photo_2早速、現地に行きまして、左の写真のとおり確かにセメント製の現代のものだということを確認してきましたのでご報告します。01_5どうやら、ご近所の方が石塔を模してセメント製の造形を作られ庭先に陳列されておられたようで、朝妻神社の宝篋印塔の造立の背景を考えるうえで特に関係はなさそうです。逆にセメント塔の造立の背景に朝妻神社の宝篋印塔の存在があるかもしれません…。小生のいい加減な記事のせいで、現地で無用のご足労をおかけした由を承り、たいへん恐縮しております。謹んでお詫び申し上げますとともに、拙い記事をご覧頂き、わざわざ有益なご指摘を頂戴しお礼申し上げる次第です。今後ともご指導賜りますようお願いいたします。なお、2007年1月28日の記事文中「朝妻王廊」というのも間違いで正しくは「朝妻王廟」です。朝妻神社と、北方を流れる天野川を挟んだ世継集落にある蛭子神社には、雄略天皇皇子と仁賢天皇皇女の悲恋の物語に七夕伝説を結びつけた面白い伝説があるとのことで、蛭子神社には皇女の墓とされる「七夕石」があり、朝妻神社の宝篋印塔は「彦星塚」と呼ばれているそうです。また、世継集落内にある浄念寺の境内には宝篋印塔や宝塔、層塔などの石塔残欠がいくつか集められており、中でも層塔の初層軸部(塔身)(写真右)は火中したと思われる破損が痛々しいものですが、像容の四方仏を刻んだ背の高い立派なもので、おそらく鎌倉時代中期を降らない時期のものとお見受けしました。また、宝篋印塔や宝塔も概ね14世紀前半代頃を降らないものと思われます。湖畔に程近いこの地に残された古い石塔類は、往昔の朝妻湊の繁栄や原風景を偲ばせる貴重な遺物と言えるかもしれません。