石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 甲賀市水口町岩坂 最勝寺宝塔の被害について

2013-09-29 21:36:12 | お知らせ

滋賀県 甲賀市水口町岩坂 最勝寺宝塔の被害について
情報提供して頂いた信じがたいようなショッキングなコメントの内容に、矢も楯もたまらず現地に行ってきました。残念ながらコメントの内容は事実でしたのでご報告します。02_2
お寺の南西方向100m程の地点の山腹が幅30m程にわたって土砂崩れを起こし本堂を直撃、本堂は全壊。土砂は本堂に隣接する庫裏をかすめて本堂前にあった石造宝塔を飲み込んでそのまま東方向の谷筋に沿って流れ下り、寺の東側の緩斜面でやや勢いを減じ、下流の治山ダムと砂防ダムの堆砂敷で止まった…というような状況でした。03
台風18号の風雨が強かった9月16日未明に発生したとのことです。災害からは2週間ほど経過していますが、現場はまさに手の付けようがないといった有様で、ほぼ放置状態でした。
宝塔の基礎には鎌倉時代中期末から後期初頭にあたる弘安8年(1285年)の紀年銘が刻まれていました。ちなみに、この年はちょうど霜月騒動が起きた年です。近江の石造宝塔では長浜市の大吉寺塔に次ぐ古い在銘塔で、惜しくも相輪上半を亡失していますが主要部分が揃い、塔身に珍しい意匠の扉型と四方仏を刻み、低い基礎と重厚な軒口、全体にどっしりとした安定感のある優れた造形で、近江では屈指の石造宝塔として早くから世に知られた優品でした。01甲賀市の指定文化財にもなっていたようです。
境内は東側の石垣から上、かつて緑鮮やかな苔に覆われ、閑静な佇まいを見せていた本堂前の広場は一面土砂や倒木に覆われ近づくこともできません。本堂はまさに全壊状態で石造宝塔はひとたまりもなく倒壊・流出したものと思われ跡形もありません。仏像や什具類も土砂の下に埋まっていると思われます。まさに見るも無残な有様です。
土砂や倒木で埋まった渓流沿いに歩くと、下流側100m程のところに宝塔の塔身が半ば土砂に埋まった状態で横たわっているのを見ました。現れている部分を見る限り、塔身自体大きい欠損はないように見えるのは不幸中の幸いです。塔身の外形はほぼ円筒形なので、あるいは回転しながら転がり落ちたのかもしれません。とすれば、その上に載っていた笠石や相輪は倒木や転石に紛れて土砂に埋まってしまったものと思われます。ひょっとすると基礎だけは元の位置に残っているかもしれません。
いずれにせよ流出した宝塔の部材は、下流側の一定の範囲の何処かに確実に埋まっています。例えは悪いかもしれませんが、盗難で行方不明というとまったく雲をつかむような話ですし、谷全体を埋めてしまうような大規模な深層崩壊となれば絶望的ですが、今回の土砂崩れはそこまでの規模でもないように思われます。何とかなりそうな範囲、土量ではないかとお見受けします。慎重に倒木や土砂を撤去していけばきっと見つかるのではないかと思います。むろん、地元の皆さんやご住職(兼務)の個人レベルの力で探し当て復元するのは到底困難で、公的な補助が不可欠でしょう。
全壊した本堂や行方が心配される仏像や什具類の復旧は勿論ですが、石造ファンとしては、かの石造宝塔が一刻も早く従前の雄姿を取り戻してくれる日が来ることを期待してやみません。なお、残された塔身も「火事場泥棒」や更なる災害に遭わないよう応急の措置が急がれます。
 

写真上:風情のある石段の参道が伸びていた場所は土砂に覆われ流水に浸食されて爪痕のような裂け目が痛々しい様子です。
写真中:本堂の様子。全壊状態で土砂と倒木の間に変形してあらぬ方向を向いた屋根の一部がのぞいています。辛うじて庫裏だけは旧状をとどめています。苔むして落ち着いた佇まいを見せていた本堂前の広場はもはや見る影もありません。
写真下:宝塔の塔身。土砂に埋まった渓流の泥水に洗われています。かつての威容を知る者としては言葉がありません…。このままではいけません。とりあえずでも一刻も早い応急措置が必要ではないかと思います。

 


追伸<o:p></o:p>

 

平成25年10月14日、またまた現地に行ってきました。当代石造研究の大家Y川博士が視察され、石造宝塔の保護に向けたお話を進めていただいているようです。倒壊した本堂の後片付も進んでいる様子で、仏像や什具類も土砂の中から救出されつつあります。やはり無傷というわけにはいきませんので損傷部分もかなりあるようですが原型は何とかとどめた仏像が多いようにお見受けしました。気になる石造宝塔の塔身も応急保護の方向に向かっているようで何よりです。本堂前広場から下流側にかけての一定の範囲の何処かに必ず埋まっているはずの基礎や笠石、相輪もきっと見つかるものと信じたいですね。むろん実際にはなかなかいろいろと難しい課題もあるようですが、地元の皆さんの熱意、お寺さんや文化財保護に携わっておられる皆さんのご理解とご尽力、そして災害の話を聞いて駆けつけていただいたという石材業関係の皆さんの心意気に支えられて、必ずいい方向に向かうに違いありません。<o:p></o:p>

 


滋賀県甲賀市水口町岩坂の最勝寺が土石流で崩壊!!

2013-09-26 00:35:07 | お知らせ

滋賀県甲賀市水口町岩坂の最勝寺が土石流で崩壊!!!
コメントを頂戴しました。信じられないようなショッキングな内容です。平成25年9月16日未明、台風18号の影響により、岩坂の最勝寺が土石流の被害を受け崩壊!石造宝塔も流出してしまった模様です。石造宝塔の宝庫である近江、その近江の石造宝塔の白眉とも言われてきた最勝寺の石造宝塔が・・・。塔身は100m下流で発見されたとのことですが、どうやらバラバラになってしまったようです。石造宝塔がこれでは、仏像や本堂も無事ではないはず、言葉がありません。


伊賀の石仏拓本展に行ってきました

2013-09-26 00:12:32 | うんちく・小ネタ

伊賀の石仏拓本展に行ってきました
伊賀の石仏拓本展に行ってきました。
中ノ瀬磨崖仏、清岸寺阿弥陀石仏龕、新堂寺如来石仏、長隆寺阿弥陀石仏、新大仏寺石造須弥壇、日神石仏群、蓮福寺双仏石、蓮花寺十三仏、北山応安地蔵、寺田毘沙門寺文亀箱仏、射手神社裏山明応散蓮地蔵、咸天狗社磨崖鬼子母神…等々、01_3総高4m近い見上げるような磨崖仏から小さな箱仏まで、伊賀の石仏の代表選手ともいうべき有名どころをはじめ知る人ぞ知る隠れた名品も含め、市田進一氏が採拓された大小の貴重な拓本三十数点を間近に見ることが出来ました。
写真では伝わりにくい、実物を現場でしげしげと眺めても気づきにくい特長も、拓本になってはじめて見えてくることも少なくありません。02_5特に石仏は、造形が単純な石塔類に比べ、表情や雰囲気といった伝わりにくい特長があって、実測図でもそこはなかなか及ばない。拓本ならではの表現力というものに改めて感心させられました。さらに、会場では市田さんご本人から興味深いお話を直接うかがうこともできました。
会場は伊賀上野城の大天守閣一階で10月20日まで、おすすめです。
 伊賀上野城は、大和から転封された筒井高次が築き、筒井家改易の後、津藩領に組み込まれ、藤堂高虎が大幅に改築してほぼ現在の姿になったとされています。30mの高石垣は大阪城と1・2を争う高さを誇り、昭和の復興天守閣が威容を見せています。平地に囲まれた小高い台地を利用した平山城で、天守は早くに失われ再建されることはなかったようです。現在の復興天守は三層の所謂模擬天守で、五層の層塔型であったと推測される藤堂高虎築城当時の姿を正しく伝えるものではありませんが、白亜の城壁は「お城」の雰囲気を盛り上げるのに一役買っていることは確かです。また、松尾芭蕉の遺徳を偲び城跡の一角に建てられた「俳聖殿」は、屋根の曲線が独特の檜皮葺の重層建築で、日本建築史の泰斗、かの伊東忠太博士の設計になる建築です。なお、筒井氏の拠点が置かれる以前、この付近に平楽寺という中世寺院があったとも言われています。そのせいか城跡には石塔の残欠が散在し、小型の五輪塔や宝篋印塔の笠石などが集められている箇所もあります。中には室町時代の紀年銘も確認されているそうです。


「伊賀の石仏拓本展」について

2013-09-04 19:26:03 | お知らせ

「伊賀の石仏拓本展」について
「伊賀の石仏拓本展」が開催されます。
 平成25年9月21日~10月20日(開館時間9:00~16:30)、場所は三重県伊賀市上野丸之内106、伊賀上野城大天守閣一階です。
 伊賀市在住の郷土史家である市田進一氏が採拓された伊賀地域の石仏の貴重な拓本の数々が展示されます。(市田さんは昨年『伊賀の石仏拓本集』を自費出版されています。)01_2

 伊賀というとすぐ忍者を連想される方が多いかもしれませんが、実は日本有数の中世城館の密集地帯で、優れた石造物にもまた恵まれた土地です。三重県は東海地方に属していますが、こと伊賀地域に限っては、大和、山城、近江に隣接し、ほぼ近畿文化圏にあるといって過言ではありません。
 古くから東大寺などの荘園が開かれ、重源上人が伊賀別所を置き、西大寺の有力末寺もありました。そのせいかどうかはさておき、中世の石造物に関しては大和の強い影響下にあったと考えられています。伊賀に残された石仏の細部の意匠にも大和の石仏との共通点が見いだせると思います。東国への玄関口でもあり、石造物の伝播や文化圏を考えるうえでも非常に興味深い土地柄です。その伊賀の石仏の拓本展とくれば、石造ファンならずとも行かない手はありません。
 数多い石仏の中でも、特に中ノ瀬磨崖仏(写真)の拓本は圧巻で、前代未聞、空前絶後の労作。阿弥陀三尊を中心に不動明王、地蔵菩薩などで構成され、鎌倉時代の作と考えられています。川沿いの切り立った岩壁に刻まれた像高3m近い雄大な磨崖仏を拓本するのは事実上不可能と思われていましたが、これをたったお一人で敢行された市田さんの熱意と行動力には、ただただ敬服するのほかありません。小生などは見学するだけで不審者呼ばわりされることも少なくないのに、気候やタイミング、作業や技術上の難しさやご苦心は勿論ですが、拓本に至るまでの様々なご苦労を慮ると言葉がありません。中ノ瀬磨崖仏のほかにも、丹念に伊賀の石仏を訪ね歩かれ、採拓された作品群が一挙に展示されるとのこと、これはもう是非とも行かねばなりませんぞ。