石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 野洲市吉川 安楽寺宝塔

2008-06-18 00:42:11 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 野洲市吉川 安楽寺宝塔

野洲市吉川(旧中主町)は野洲川北岸の河口部に近く守山市小浜町の北に接する集落である。08_2現在の野洲川河口部は昭和54年に付け替えられた姿で、かつては蛇行しながら大きく北に向かう北流と西に流れる南流とに分かれ河口にデルタ地形を形成していた。付近の地図を見れば旧河道の痕跡をたどることが出来る。吉川は旧野洲川の北流の西岸にあたる。非常に寺院の多いところで、天台真盛宗安楽寺はその中のひとつ、集落の南端に近い場所に位置する。南北に走る道路に面した境内南東隅の植え込みの一角に石仏や石塔の残欠類が寄せ集められている。その中央に石造宝塔がある。当初から元位置を保っているかどうかはわからないが、現在は直接地面に置かれている。全体に表面の風化が進む。花崗岩製で現高約140cm。元は6尺塔であったと考えられる。基礎は側面四面とも素面、基礎は幅約61cm、高さ約33cmと低い。下端はやや不整形で埋めていた可能性があるので、幅:高さ比を検討する場合に高さは少し差し引いて考えないといけないかもしれない。上端幅よりも下端幅が広く安定感がある。塔身は軸部と首部からなり、框座や扉型などは見られない。軸部はほぼ円筒形で、四方を面取り風に平らにしてあるように見え、やや上寄りに舟形光背形を彫り沈め、その中に半肉彫坐像を配する。光背部は像容に比較して少し小さい。風化が進み蓮華座の有無、面相・印相は不明。やや頭が大きく体躯のバランスはあまりよくない。04_2首部は素面でかなり太くしっかりしている。笠は全体に扁平で、軒幅約55cm、軒口は割合厚く隅の軒反の強さもまずまず。四注に隅降棟は見られず頂部には低い露盤を刻みだしている。笠裏は素面で垂木型や斗拱型はない。相輪は伏鉢と下請花から上で折れ九輪の内5輪までがセメントで接いである。6輪以上の先端を欠くものの相輪全体は笠に比してサイズ的にやや小さいようにも見える。素面の低い基礎、円筒形の軸部と首部のみよりなる飾り気のない塔身、笠裏や四注の装飾表現の見られない低い笠、これらはいずれも古い特長を示す。田岡香逸氏はこうした古調を認めながらも四方仏の存在とその表現を以ってやや新しい要素とされ1299年頃のものと推定されている。また、舟形光背の彫り方や相輪が退化傾向を示すとする見方もあるようである。小生としては、全体の古調はやはり鎌倉中期風、一方、厚めの軒、軒反や屋だるみに鎌倉後期の盛期の調子が垣間見えるように思えることから鎌倉中期も終わりに近い頃、13世紀後半でも中葉に近い頃の造立と推定したい。いずれにせよ吉川安楽寺塔は相輪先端を除く主要部分が残り、塔身に四仏を刻む古い宝塔の例として貴重な存在といえる。市指定文化財。

参考:田岡香逸 「近江守山市と中主町の石造美術―守山市田中と中主町吉川・六条・五条―」

  『民俗文化』98号

   滋賀県教育委員会『滋賀県石造建造物調査報告書』144ページ

※野趣に富み、飾らない魅力に溢れる石造宝塔といえます。ここにも近江の名塔のひとつに数えられる優品がありました。いつまでも眺めていたい、立ち去り難い気分にさせてくれます、ハイ。

※近江の石造宝塔をこれまで見てきた感想として、この手のあまり装飾的でない素朴な宝塔の系統と、守山市懸所宝塔に代表される整美で装飾的な宝塔の系統があり、概ね前者が古く、さまざまな試行錯誤を経ながら構造形式や意匠表現が完成、定型化して後者につながっていくというのが大雑把な流れかなと思います。試行錯誤の過程においては両者が並行して造られていた時期もあったかもしれないですが、後者が退化して前者になっていくということはちょっと考えにくい。もちろん例外もあれば一事が万事ともいえません。もっと個々の事例をしっかり観察し特長をよく把握して比較検討していかないとまだまだハッキリしたことは言えないわけですが、とりあえず現時点のおぼろげな感想です。これまで見てきた近江の宝塔はまだまだありますので追々紹介していきます。


コメントについて

2008-06-15 23:58:20 | お知らせ

ご意見、ご指導・ご叱正、情報提供等々建設的なコメントを募集いたしております。ご愛顧いただいております皆様、ぜひコメントくださいますようお願い申し上げます。

 なお、いただいたコメントは、小生が「承認」をクリックするまでは掲載されない設定になっております。掲載までに若干時間がかかる場合がございます。また、当然、厳しいご意見やご叱正であっても、いただいた場合はそのまま「承認」しますが、コメントをされた方が掲載を希望されない場合や悪戯・誹謗中傷の類は「承認」いたしません。恐惶謹言

 

 

当サイトは石造美術、石造物がテーマですので、原則として頂くコメントはこのテーマに関する事柄に限定させていただきます。

遺漏や間違いのご指摘、訂正あるいは追加すべき点、情報提供、薀蓄を語っていただく等々の建設的なコメントを歓迎します。記事に関するご質問等も受け付けます。

なお、サイトへの掲載を希望されない場合はコメントにその旨をお書きください。

テーマと無関係なコメントや意味不明のコメント、誹謗中傷、所謂スパムの類やプライバシーを侵害するような悪意のあるプログラム等を包含する可能性のあるコメントと判断される場合には勝手に削除しますので、悪しからずお願いします。(2011年1月3日追記)

 

※ スパムコメント防止のため、一部記事については、当分の間コメント投稿ができないよう設定しましたのでご諒承ください。


滋賀県 高島市安曇川町横江 地蔵堂(旧崇禅寺)石造宝塔は今どこへ?

2008-06-15 23:53:36 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市安曇川町横江 地蔵堂(旧崇禅寺)石造宝塔は今どこへ?

先頃、高島市安曇川町横江の布留神社の石造宝塔を紹介しましたが、同じ横江にもう一基、石造宝塔があったとの情報があります。昭和49年発行の近江史跡会編『近江文化財全集』下巻334ページに旧崇禅寺石造宝塔(横江地蔵堂所在)として写真が載っているのがそれです。写真だけなので「崇禅寺」という寺院のこと、法量や材質など詳細は不詳ですが、竹薮を背景に立派な宝塔が写っています。隣には近世の墓標が少し写っています。基礎側面の様子は不詳、比較的低そうな感じ。背の高い塔身は首部と一石よりなり、框座はなく、樽形の軸部には舟形光背に彫りくぼめ半肉彫り坐像が見えます。笠は全体に扁平で軒はあまり厚くなく反りも穏やかな印象。斗拱部の段形が一段見えます。相輪は九輪の大部分が残っており、上請花と宝珠が欠損しているようです。写真だけではハッキリしませんが、鎌倉後期でも早い頃のものと見受けられます。昭和59年の『安曇川町史』にも布留神社塔とともに名前が出るだけですがわずかに記述があります。しかし、残欠を除けばかなり悉皆的な調査記録でもある平成5年の滋賀県教委編の『滋賀県石造建造物調査報告書』には記載がありません。横江の集落中程にある地蔵堂に行きました。無住で地元で管理されているようなお堂があり、よく手入れされた境内は写真にあった竹薮やお墓があるようなシチュエーションではなく、近世の大きい宝篋印塔と若干の中世石造物の残欠があるだけで石造宝塔はありませんでした。思い切って地蔵堂横で畑仕事をされていた地元のお婆さんに尋ねましたが「よく知らない」とのことで要領を得ません。別の場所に運ばれたのでしょうか?万一散逸したとすれば遺憾の極みです。どなたか安曇川町横江の地蔵堂にあったという石造宝塔の行方をご存知ではないでしょうか?


滋賀県 甲賀市甲賀町相模 慶徳寺宝塔

2008-06-11 01:26:19 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 甲賀市甲賀町相模 慶徳寺宝塔

慶徳寺は相模の集落の北端、公民館の北約150m、鳥居野との境を流れる大原川の南岸にある。01南面する本堂前向かって右手の境内墓地に、色々な部材を積み上げた寄せ集め塔がある。一番下は近世の墓石の台石だろうか、何かはわからない。その上に石造宝塔の基礎、さらに塔身、五輪塔の水輪を挟んで宝塔の笠、一番上に宝篋印塔の笠が載せてある。このうち宝塔は相輪が失われているが主要部分は一具のものと思われる。基礎は幅:高さ比はかなり拮抗し、幅がやや勝る程度、四方側面とも輪郭を巻き、楕円形ないし舟形光背形に彫りくぼめた中に尊格不詳の坐像か俗形を半肉彫りする。蓮華座の有無は肉眼でははっきり確認できない。輪郭内の彫りは深めで、光背形の彫りくぼめは上部が輪郭上端の葛で水平にカットされ、窮屈そうに見える。像容は頭が大きく体躯のバランスもあまりよろしくない。北側束の左右に「天文十五年(1546年)/六月五日」の紀年銘があり、肉眼でも何とか確認できる。塔身は全体に球形に近く、軸部、縁板(框座)、匂欄部、首部を一石彫成する。軸部は裾すぼまりの背の低い樽型で側面には二重の線刻で扉型風の格子を四方に刻み、四面とも中に稚拙な書体で陰刻した阿弥陀の種子キリークを配する。円盤状に高く張り出す框座を挟んだ無地の匂欄部は軸部の上端に比して径の減じ方が大きい。角は丸めているものの匂欄部の側辺は直線的で「く」字に折れてから「L」字に短い首部を立ち上げている。笠は全体に背が高い印象で笠裏には2段の段形で斗拱型を表現し、軒は下端がほぼまっすぐで上端だけが隅に向かって反りを見せる。頂部には高い露盤があり、四注隅降棟は断面凸状の突帯で、露盤下で左右が連結する。012軒幅に対する露盤部の幅の比が大きく、それだけ軒の出が小さく屋根の勾配が急になっている。現存部の高さ約93cm、基礎は幅約38cm、高さ約31cm、笠の軒幅約41cm、框座の径は約42cmある。各ディテールの退化傾向は著しいものの、いちおう近江の石造宝塔の塔身の特長をひととおり備えている。花崗岩製。各部のバランスが良くないので、基礎を五輪塔の地輪と見る向きもあるが、石材の色や質感、風化の様子などから、当初から一具のものとしてよいと考える。同様に退化傾向の甚だしい石造宝塔として紹介した竜王町岩井安楽寺塔(2007年2月17日記事参照)では、基礎側面が輪郭・格狭間式だが、輪郭内に半肉彫像容を配する例は甲賀町大原上田の慈済寺に、また輪郭はないが半肉彫像容を配する例が竜王町山之上の西光寺にあり、これらが近江でも例が少ない像容を配する五輪塔地輪をたまたま偶然に宝塔の部材と寄せ集めたとする可能性は極めて低いと思われる。やはりこの時期の宝塔のひとつのスタイルと考える方が自然である。この点は早く池内順一郎氏の注目されたところであり、池内氏の言われるとおり、室町期の石造宝塔を考えるで、紀年銘を有する本塔は極めて貴重である。

ついでに塔身と笠の間の挟まって非常に目障りな水輪についても少し触れておくと、上下のすぼまり感が強く、そろばん玉に近い形状というとイメージしやすい。また頂部の宝篋印塔の笠は極めて小形のもので、上6段、下2段、軒と区別する隅飾はやや外傾し、輪郭や弧の様子は小ささと風化によってあまりよくわからない。いずれも室町末期ごろのものだろう。

参考:池内順一郎『近江の石造遺品』(下)164ページほか

写真下はデジタル写真にちょっと手を加え邪魔な水輪を除いた合成写真です。何となく五輪塔っぽい感じがします…。でも同サイズの五輪塔に比べれば非常に手の込んだものであるのがわかります。この手の退化した宝塔の意匠には、鎌倉期のものに感じられる「威厳」というものがまるで感じられません。そのかわりにコミカルというかコケティッシュというか、稚拙さがかえって素朴な外連味のなさにもつながり、何となく”かわいい”感じの魅力的な宝塔です、ハイ。それにしても水輪は目障りです。