石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 大津市上田上桐生町 逆さ観音三尊磨崖仏

2013-04-30 15:13:09 | 滋賀県

滋賀県 大津市上田上桐生町 逆さ観音三尊磨崖仏
上田上(上から読んでも「かみたなかみ」下から読んでも「かみたなかみ」?)の上桐生地区、草津川を川沿いに進んでいくと、駐車場があり、付近は国有林を一般に公開した自然休養林(一丈野地区)のキャンプ場として、また金勝山ハイキングコースの入口として親しまれている。車を降りて案内標識に従って歩いていくと15分程で「逆さ観音」に着く。さらにそのまま行くと近江随一の立派な磨崖仏で有名な狛坂寺跡に至る。01_2
 渓流の右岸、橋や東屋が整備され立派な案内看板が設けられている。幅約5m、高さ約3m、奥行き約1.5mほどの花崗岩の岩塊に三尊石仏が刻まれている。天地を逆に転倒しているため、「逆さ観音」と呼ばれている。
元は背後の尾根の上にあったものが転落して今のような姿になったといわれている。全体に表面の風化摩滅が激しく、衣文や面相はほとんど確認できない。阿弥陀三尊とされているが印相や持物がはっきりしないので断定できないと考える。平坦な正面下端近くに沈線を引いて区画し、下端の沈線上に框を据え、その上に敷茄子状のものを挟んで蓮華座をレリーフし、その上に座す中尊は、台座下端から頭頂までの総高約148cm、膝下から頭頂までの像高は約100cm。頭頂に明瞭に肉髻があるので如来像である。框座の下端には反花があるように見える。02蓮華座というものの蓮弁は明確でなく裳懸座のように見える。半肉彫りで全体によくシェイプアップされた肉取り、肩幅があり頭部が大き過ぎずバランスのとれた姿は古調を感じさせる。右手は肩口に掲げ、左手は胸元にあるので、来迎印、施無畏与願印の可能性もあるが説法印のように見える。いかんせん手先が風化摩滅して確認できない。左右の脇侍は体を斜めにして中尊に寄り添う菩薩立像である。中尊からみて右の脇侍は総高約130cm。右手を腰の辺りにして、左手に蓮華のような持物を胸元に斜めに捧げているように見える。足元には小さめの二重になった蓮華座があるがはっきりしない。左脇侍は左半身を大きく欠損し、頭部から右肩・右手、胸部右半くらいまでしか残っていないが右手を胸元に捧げている。目を凝らすと目鼻立ちの整った優れた面相表現の痕跡が何とかうかがえる。
上部(現状では下部)にいくつか見られる小穴は懸造の屋根をさしかけた痕跡かもしれない。03
 造立時期は不詳とするしかないが、鎌倉時代初期とされている。古調を示すプロポーション、凝った台座の様式にとらわれない表現など、程近い狛坂磨崖仏に通じるところがある。
 なお、左脇侍の左側面は人為的に割られており、断面が新しく、ドリルのような機械を使って穿孔した痕跡が残っている。また、中尊の左肘付近のくぼみは矢穴を開けようとした鏨の痕のようである。こうした破壊の痕跡について、昭和49(1974)年4月25日発行の『民俗文化』127号に、地元古老の口伝として、興味深い話が載っている。明治時代、観音という場所に石仏があって、その台に良い石材が使ってあった。桐生に「鉄砲松」という無鉄砲な人物が石材業をしており、無謀にも石仏に性根()があれば起き上がる、性根が無いなら転がったままだ、と言って石仏の載っている台の石に発破をかけた。石仏には性根がなかったとみえて転がったまま起き上がらなかった。今では石仏を逆さ観音と言っている。発破をかけて採った石材はオランダ堰堤に使われた…というのである。伝承者として上桐生在住の明治32(1899)年生まれ(当時75歳)のY氏の実名が記載されているので、真偽はともかく、そういう言い伝えがあったことは間違いない。それにしてもずいぶん乱暴な話である。一般的には地震で尾根の上から転落したといわれているので、実際に尾根の上に登ってみたが、意外に尾根の稜線部分は非常に狭く馬の背部分は蟻の戸渡りのようで、あのような巨岩があったとはちょっと考えにくい。伝承のように発破までかけて石材を切り出したというのが本当ならば、その際にかなり地形が変ってしまったか、あるいは地滑りに遭っている可能性もある。付近には同様の岩塊や花崗岩の露頭はいくらでもあるのに、なぜあえて磨崖仏を破壊してまで石材を得る必要があっただろうか謎である。よほど石材として良質であったのだろうか。基底部下の石材を抜き取られて、不安定になった後に、地震等で転落した可能性もある。
 また、磨崖仏の西側にはかなり広い平坦地がある。寺院の跡かと考えたくなるが、明治の砂防工事の石切場だったというのであれば、ここに石切工事の作業場的なものがあったのかもしれない。

 駐車場からの道の途中にあるオランダ堰堤について触れておきたい。市指定史跡、日本の産業遺産300選、土木学会奨励土木遺産。01_3堤長約34m、高さ7m、基底部幅10.7m、天端幅7.9m~5.8m。0.55×0.33×1.2mの柱状の石材を20段、布積みに階段状する積み方は鎧積みと呼ばれる。柱状の石材の内側には裏込石を込め、中心部は赤土粘土と石灰のつき固めとしているという。下流側の平面形が、中央が薄く両袖部が厚いアーチ状になって中央に導水し、流水の勢いを階段部分で緩衝し、下流部の水叩部の洗掘を防止しているとされる。明治22年頃竣工(明治11年説も)、田邊義三郎設計で、所謂お雇い外国人で内務省土木局技術顧問であったオランダ人技術者ヨハニス・デ・レーケ(1842~1913)の指導助言のもと造られたとされている。120年を経てなお砂防施設として機能していることは驚きである。デ・レーケ02_3は、明治時代に活躍した港湾・河川改修や砂防・治山工事のスペシャリストで、日本砂防の父と称されている。明治24年には勅任官扱い(事務次官級)となっている。日本各地に彼の偉業を伝える土木事業の成果が今も残されている。このオランダ堰堤について、工事の経緯や時期を示す詳しい資料は残っていないそうで、実はデ・レーケの関与についてもよくわかっていないらしい。
田上地区の山は、元は良質の木材供給地として奈良時代以降、都や宮殿、大寺院の建築部材として盛んに木材が伐り出され、その後も薪木採取などが繰り返され、森林再生力の低い土壌もあいまって花崗岩と花崗岩が風化した山砂と赤土に覆われた地表面がむき出しになったはげ山となってしまったという。今も金勝山など一部で潅木が散在するような景観が広がっている。このため古くから水害や土砂災害に悩まされてきた。明治になって大阪湾をも含む淀川水系全体を睨んだ壮大な治水計画の一環として、デ・レーケを始めとするお雇い外国人の助言をもとに上流域の山林の涵養、砂防治山事業に取り組んだのだそうで、オランダ堰堤というのは、デ・レーケの故郷にちなんで名付けられた呼称とのことである。

 

参考:清水俊明『近江の石仏』

   田村 博「狛坂寺跡案内記」『民俗文化』第127号

どうも天地逆というのは観察しにくいですね。受ける印象が違ってしまいます。足場か脚立持参でないと正面からの撮影も難しい困った磨崖仏です。写真で見た印象よりずっと傾斜が急で壁面に取り付くこともできません。数年前、金勝寺側から狛坂寺跡に行った時、ちょっと遠そうだしついでに見ようかどうか悩んだ末に見送った経緯があります。田上から行く方が全然楽で結果的に見送ったのは正解でした。
磨崖仏の一部が部材として使われているかもしれない問題のオランダ堰堤の近くにはヨハニス・デ・レーケさんの胸像が建てられて完全に既成事実になっています。むろん何らかの関与があったのは疑いないでしょうが、確実な資料が残っていないというのにどんどん既成事実化が進むというのは、良い悪いは別にしても歴史が間違った方向に進む第一歩のように思えてしまいます。確かに防災意識や国際交流意識の醸成にデ・レーケさんは非常にキャッチーですが…。平安や鎌倉の昔ことを思えば明治期はまだつい最近のことです。その頃の事が既にわからなくなっているとすれば中世のことなど所詮わかろうはずもないとすべきかもしれません。既成事実化を急ぐよりもまずは明治の土木工事の歴史をキチンと究明することにエネルギーを費やすのが順序のような気もしますが…いや、小難しいことをつべこべ言うのはよしましょう、鬱蒼とした樹木が少ないということは逆に明るい雰囲気でいい感じです。とにかく里山の自然が豊かないいところですから、若葉の季節、テルペン物質を満喫できた一日でした、ハイ。


滋賀県 湖南市岩根 岩根不動寺不動磨崖仏

2013-02-04 00:29:33 | 滋賀県

滋賀県 湖南市岩根 岩根不動寺不動磨崖仏
岩根山(十二坊)の山腹に位置する天台宗の名刹善水寺は、岩根集落の里坊の東側から石段を歩いて上るのが本来の行き方であるが、この石段の参道を東に回り込んで本堂近くまで上っていく車道が通じている。01この車道を上って進んでいくと、間もなく左手の小渓流の対岸山腹に花崗岩の巨岩が張り出す場所がある。02高さ6mはありそうな巨岩の南側に懸造の小堂が寄りかかるように建てられているのが不動寺である。現在は黄檗宗とのことだが、本来は善水寺の子院のひとつだろう。垂直に切り立った岩壁面に刻まれた不動明王の磨崖仏が本尊で、整備された階段を登って堂に入り、小窓からわずかにのぞく尊顔を拝するのである。この堂下にもぐりこむように降りて見上げるとその全容を目にすることができる。堂があるのと足場が悪いので正面からの観察は難しい。
岩壁面に高さ2.2mの縦長のだ円形の光背面を彫りくぼめ、内に像高約1.5mの不動明王の立像を厚肉彫りしている。光背面に火焔光背が刻まれていないため、清水俊明氏は火焔光背を彩色で表現していたのではないかと推定されている。04_2自然面を岩座に両足先を外に向けて佇立し胸を張って虚空を見据える姿で、正面はやや平板な感じだが、腰から下の衣文の表現は写実的である。03頭部は小さく体躯とのバランスもよくとれている。いかり肩で右肘を外に張って腰の辺りに添えた拳に利剣を握り、左手は肘をやや曲げて下に下げ、握りしめた拳は手の甲を見せるがあるべき羂索は見当たらない。拳に穴があるので、この穴に実際の縄を差し込んでいたのかもしれない。面相部は風化が進みはっきりしないが、左眼はよく残り、口元がにえつまったようなしかめっ面で牙をむき出した瞋怒の表情が見て取れる。また、お顔の向かって右側には結い纏めた弁髪が垂れている。
像の向かって右側に「建武元年(1334年)三月七日卜部左兵衛尉入道充乗再作之」と刻まれているというが、下から見上げる限りよくわからない。卜部はウラベと読み、充乗という人物は、名乗り方から在俗出家者のようだが、この姓は今も続くこの寺の代々の住職の姓だということである。文末の「再作之」は「造之」とする説もある。「再作之」とすれば、元の像が崩落などで失われたので改めて一から彫り直したのか、何らかの原因で一部が破損したのを加工補修したのかのいずれかと思われる。紀年銘も貴重な近江の不動磨崖仏の傑作のひとつである。
なお、堂下には一石五輪塔や小型の石仏龕が多数並べられているが、これらも室町時代の作である。
 
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
   清水俊明 『近江の石仏』
   
池内順一郎 『近江の石造遺品()
 

今年は善水寺の節分会が休日と重なったのを幸いにお参りしてきました。甘酒を馳走になり、本尊前に設えられた護摩壇を中心に厳かな修法の後、御住職の法話を聴いていると貧・瞋・痴の煩悩三毒の権化である青鬼・赤鬼・黄鬼がおどろおどろしい姿で奇声を上げながら乱入してきます。幼い子どもが泣き出して堂内は盛り上がりをみせます。02_2この三毒を御住職が布施・忍辱・智慧を象徴する御幣・錫杖・般若経により降伏し、餅や豆が撒かれます。最後には改悛した鬼達が参詣者一人ひとりに三つの徳を授けるという展開で、有難くも実に楽しい法会で貴重な経験でした。最前列に居並んだ黄色の法被を着た厄年の人達の背に鮮やかに描かれた本尊薬師如来の種子「バイ」の見事な刷毛書体が印象に残りました。毎年節分に行なわれますのでぜひ一度いらしてみてください。
善水寺は、湖南三山の一角として最近売り出し中ですが、南北朝時代の古建築の本堂(国宝!典型的な天台仏堂建築)を中心に優れた文化財の宝庫で、石造物も鎌倉時代末から南北朝頃の宝篋印塔・層塔・石灯籠等の残欠、室町期の一石五輪塔や磨崖仏などが境内に残されています。静かな佇まい、眺望、自然景観と古建築がマッチしてとにかくお勧め、いいところです。
また、岩根(十二坊)山から菩提寺山・三上山にかけての丘陵地帯には善水寺のように現役寺院も含め中世山岳寺院の跡がいくつかあってたいへん興味深い土地です。また岩根という地名が示すように、往昔は良質の花崗岩の産地だったらしく、見るべき石造物がいくつも残され注目されます。これらも追々ご紹介したいと思います。


滋賀県 湖南市針 廃法音寺跡不動明王石仏

2011-09-20 23:35:44 | 滋賀県

滋賀県 湖南市針 廃法音寺跡不動明王石仏

街道沿いの針の集落の南方、山寄りの高台にある種苗会社の試験研究農場の北に接した社宅の脇の一画に、草の生える広場がある。01北東約200mには飯道神社(2009年2月18日記事参照)がある。02広場の中央に小堂があって地元で子安地蔵堂と称されている。ここに祀られる地蔵菩薩半跏像(木造)は平安末期の作とされる市指定文化財。広場の北寄りには石仏や石塔が集積され、地蔵堂の周囲にも小型の五輪塔や宝篋印塔の残欠が散在していて、いかにもお寺の跡という雰囲気が漂う。ここにかつて少林山法音寺(報恩寺)と呼ばれた臨済宗の寺院があったというが明治期に廃寺となったそうで、現在は地蔵堂だけがぽつんと残されているに過ぎない。聖徳太子開基、夢想疎石の中興ともいうが不詳。「蔭涼軒日録」に“針郷内報恩寺”と出ているというから少なくとも室町時代にはそれなりの寺勢を誇ったものと思われる。03

地蔵堂のすぐ南側、周囲より少し高く盛り上がったような土壇状の場所があってその上に不動明王の石仏がある。寺は廃れても地蔵堂とこの石仏に対する香華は絶えない様子で、今も地元の厚い信仰が続いている。04石仏は不動明王を刻出した自然石の左右に長方形の板状に整形した石材を立ててその上に蓋屋笠石を差し渡した簡単な構造の龕を伴う。石仏の背後にも自然石を立ててあるがこれは当初からのものかどうかはわからない。これらはいずれも花崗岩製である。不動明王石仏は下端がコンクリートに埋め込まれて確認できないが、現状高約170cm、最大幅約69cm、奥行き約27cmの細高い板状の自然石の平らな正面に右手に利剣を携える立像を半肉彫りしたもので、現状像高は約135cm。05全体に風化摩滅が激しく衣文や面相はハッキリしない。光背や蓮華座(瑟瑟座?)も認めらない。羂索を握るはずの左手の様子も明らかでない。頭部はやや縦長で頸が短く、肘の張った体躯は全体として概ね均衡が保たれている。右手の剣は幅が細く真っすぐで古調を示している。体側線左側には衣の袖先が膨らんだような部分が認められる。06側壁の石材は現状高約152cm、幅約40cmの長方形で、厚さ約15cm、正面と内側は特に入念に平らに仕上げている。笠石は間口の幅約143cm、奥行き約72cm、高さ約24cmとかなり低平な寄棟造で、頂部には幅約85cm、幅約12cm、高さ2cm程の大棟を刻出する。軒口は厚さ約6cmと薄く、隅増しをしないまま隅に向かって非常に緩く反転する。笠裏には約94cm×53cm、高さ約5cmの長方形の一段を設け、その内側を約75cm×42cm、深さ約7cmに彫り沈め石仏の上端がこのへこみにうまく収まるように設計されている。また、この笠裏の長方形段の両脇には浅い溝を彫って側壁石材を受けるような構造となっている。こうした構造から笠石と側壁が当初から石仏と一体であったことは疑いないだろう。簡単な構造の中にも石材の組み合わせ部分などに凝らされた工夫は注目すべきで、あまり類例がないスタイルの石仏龕として希少価値が高い。造立時期の推定は難しいが、ほぼ均整のとれた石仏の体躯や低平な笠石の緩い軒反りなどから鎌倉時代中期にまで遡る可能性が指摘されている。市指定文化財。

 

写真右上:笠裏の構造、写真右中:笠の上部、寄棟造です、写真左中:背後の様子、後ろに立っている石材は何なのかよくわかりません。

 

参考:川勝政太郎『歴史と文化 近江』

   池内順一郎『近江の石造遺品(下)』

     清水俊明『近江の石仏』

  『滋賀県の地名』平凡社日本歴史名体系25

 

文中法量値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。

風化がきつく像容面相が今ひとつはっきりしません。したがって現状では尊格不詳とするのが妥当かもしれません。縦長の頭部は髪を結い上げているようにも見えます。となれば菩薩や天部の可能性もあります。例えば虚空蔵菩薩や文殊菩薩も持物は剣ですしね。むろん不動明王像の可能性が一番高いことは間違いないわけですが…、やっぱ不動明王ですかね。


滋賀県 野洲市小篠原 妙光寺山地蔵磨崖仏

2011-09-13 21:22:49 | 滋賀県

滋賀県 野洲市小篠原 妙光寺山地蔵磨崖仏

美しいコニーデ形の山容が印象深い近江富士こと、霊峰三上山。そのすぐ北にある妙光寺山の中腹に優れた地蔵磨崖仏がある。別名「書込み地蔵」、傍らには「北尾三方地蔵」と彫った標石もある。01山麓の入口から案内板に従って狭い山道を登っていくと、ところどころに大小の岩塊が散在している。03やがて巨岩を組み合わせたような岩神竜神祠に到り、さらに右方に進むと程なく目的の磨崖仏に着く。わかりにくいとの記述もあるが現地のポイントポイントに案内表示板があり、山道は狭くかなり急ではあるが歩きやすいように整備されている。急斜面に露出する高さ幅ともに約6m余の巨岩のほぼ垂直に切り立った壁面に東面して縦約175cm、幅約95cm、深さ約15cmの長方形の枠を彫り沈め、内に像高約155cmの地蔵菩薩の立像を厚肉彫にしている。緻密な花崗岩で保存状態も良い。光背は認められず、長方形枠の外側に蓮華座がある。蓮華座は線刻のようでもあるが薄肉彫とすべきかもしれない。02蓮華座の蓮弁は大ぶりでよく整い、優美かつ力強い鎌倉調を示す。像容は右手に錫杖、左手に宝珠の通有の地蔵像で、頭の小さいすらりとしたプロポーションが印象的。04錫杖に添えた右手指先の表現や中空を見据えるような厳しい面相表現に写実性が看取される。体躯や衣文はやや平板ながら、破綻ないまとまりを見せる。袖裾は下に届かず、前方を向いた両足先は靴を履いている。錫杖の石突は衲衣の中に隠れるようになって下に届いていない。この短めの錫杖と靴が近江の古い地蔵石仏の特長とされる。そういえば湖南市の少菩提寺跡にある地蔵三尊と作風が似ているようにも見える。枠内、像の左右に各一行の刻銘がある。向かって右に「元亨四年甲子七月十日」、左に「大願主経貞」とあるのが肉眼でも確認できる。元亨四年は鎌倉時代末の1324年である。彫り込み枠の上方には壁面を断面L字型に加工した彫り込みが見られ、懸造り風の木造の屋根が載っていた可能性もある。06さらに地蔵の彫り込み枠の右側にも別に小さい彫り込み枠がある。田岡香逸氏の報文によれば縦約59cm、幅約37cm、深さは約4.5cmの大きさで、清水俊明氏によるとこの枠内には笠石に風鐸を吊るした笠塔婆が線刻され、その塔身部分にも刻銘があるという。05高い位置にあって足場も悪く肉眼では銘文はおろか線刻笠塔婆も確認できないが、清水氏の著書に載せられた写真には確かにそれらしいものが写っているのがわかる。

なお、岩塊の下には数基の箱仏(石仏龕)が集められており、中世墓の存在をうかがわせる。07霊峰三上山に抱かれたこの付近は、中世には福林寺や東光寺といった有力寺院が甍を並べた一種の聖地であったらしい。地蔵磨崖仏のある場所もあるいは山岳寺院の跡とも考えられるが、周囲にそれらしい平坦面などは見当たらない。急峻な山腹の岩壁に忽然と刻まれた磨崖仏のあり方を考える時、奈良春日山中の磨崖仏(夕日観音や朝日観音)が想起される。春日山中の磨崖仏でも可能性が指摘されるように、付近の山中が広く葬送の場所だったのではないかという気がしてならない。中世墓というより「屍陀林」である。葬送地の諸霊を引接する地蔵菩薩として惣供養的な目的で造立されたのか、はたまた何らかの供養や作善を目的に刻まれた地蔵菩薩に結縁を願う人々によって葬送の場となっていったのか、鶏と卵のような話だがその辺りの実態の解明は今後の課題であり、あるいはまったく別の可能性も含め造立の背景に関しては後考を俟つほかない。ともあれ、作風優秀で保存状態も良好、加えて紀年銘があるとなれば資料的価値も高く、近江の石仏にあって屈指の優品ということができる。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   田岡香逸「近江野洲町の石造美術(前)-小篠原・妙光寺-」

              『民俗文化』第102号

   清水俊明 『近江の石仏』

 

写真右二番目:目を細めて遠くを見つめるような眼差しが見るものを惹きつけます。

右最下:向かって右側に小さい彫り沈め枠があるのがおわかりでしょうか?

 

文中法量値は清水氏の著書に拠ります(一部田岡氏)。これも諸書に取り上げられ今更小生が紹介するまでもない著名な磨崖仏ですね。思ったより行きやすかったのでお勧めです。それにしても右側の枠内の線刻笠塔婆と刻銘が気になります。どなたか詳細についてご存知ではないでしょうか?

さて、妙光寺山とその周辺には福林寺跡の磨崖仏群、東光寺の法脈を受け継ぐ不動寺の不動磨崖仏や重美指定の石灯籠をはじめ優れた石造物が残る宗泉寺などがあって石造マニアにとって興味の尽きないエリアです。ただ、この地蔵磨崖仏の周囲は個人の松茸山のようで、山道沿いにロープが張られ無粋な立入禁止の札がたくさんぶら下がってました。罰金10万円!だそうです。無用のトラブルを未然に防止する意味からも訪ねられるのは冬場から春先がよいでしょう。


滋賀県 大津市大石富川町 富川磨崖仏(その1)

2010-11-07 01:47:33 | 滋賀県

滋賀県 大津市大石富川町 富川磨崖仏(その1)

琵琶湖唯一のアウトレットである瀬田川が南下し大石で西向きに流れを変える。その手前に架かる鹿跳橋を渡り国道422号を信楽川に沿って遡ること3km余り、標高432.9mの笹間ヶ岳の南約1km、大石富川町の西端で渓流が大きく北向きに流れを変える所、案内看板に従って川側に下り、すぐに架かっている岩屋不動橋を北岸に渡る。03_2漁協の建物のある広場を経て山道を10分ほど登っていくと高さ25mはあろうかと思われる花崗岩の巨岩が露呈する場所に着く。01巨岩は南面して垂直に切り立った壁面となり、総高6.3m余の阿弥陀如来坐像を中心に観音、勢至両菩薩の立像、西側に少し離れて不動明王の立像が刻まれている。この磨崖仏は古く戦前に佐々木利三氏や川勝政太郎博士が紹介され広く知られるようになったものである。ここに岩屋山明王寺という寺院があったと伝えられている。詳細は不明だが現地には不自然なテラス面がところどころにあって寺院跡というのも首肯できる。02中央の阿弥陀如来像の像高は目測でおよそ4m、頭光円を浅く彫り沈め、さらに仏身のアウトラインを約15~20cmの幅で外から内に向かうに従って深くなるように彫り沈めて像を浮き立たせ、像容本体が平板陽刻の板彫風にする特異な手法をとっている。像の向かって右側壁面は像容面より少し高くなって段差があり、段差面にも鑿痕が認められることから、像容面が平らになるよう下処理されていると考えられる。06平板ながら折り重なる衣文の襞が下向きに急角度に鎬立てるように段を設けているので影が下側にでき見上げる者にとって視認しやすく配慮されているようである。螺髪は表現されず、側頭部が張って肉髻が大きい。髪際線が真っすぐでなく中央を低くした曲線を描くのは宋風の影響を受けた鎌倉時代以降の特長とされる。眉間の穴は白毫であるいは玉石が嵌め込まれいたかもしれない。つりあがった切れ長の両眼とあぐらをかいた大きい鼻も平板陽刻で、下唇が薄く、窄ませているかのようにも見える口は小さい。04よく見ると口元と顎には髭がある。お世辞にも眉目秀麗とは言い難い面貌であるが、その表情に独特の厳しさを漂わせている。左眼(向かって右側の眼)中央には瞳状のくぼみがあるが右眼(向かって左側)には同様のものは確認できないのでウインクをしているようかのようである。05しかしよく見ると右眼にも下瞼に接して瞳のような浅い彫り沈めらしいものがある。恐らく左眼の瞳と見えるのは自然にできた欠けであって本来の形をよく残しているのは右眼と考えるべきかもしれない。首はやや細く三道が鮮やかで、撫肩だが肘が張って身幅は広い。定印を結ぶ手先も巧みに表現され、結跏趺坐する体躯は全体に破綻なくよくまとまっている。像下には線刻と平板な薄肉彫りを組み合わせ雄大な単弁蓮華座を描く。各蓮弁の曲線は柔らかくふくよかで写実性を兼ね備え優れた表現といえる。さらに蓮華座の下には、幅約135cm、高さ約39cmの横長な長方形の彫り沈めを2つ並べ、それぞれ内に格狭間を配してあたかも二区輪郭の須弥壇側面のようにしている。07長方形区画は外側にだけ幅10cm弱の一段を設けている。横長の長方形区画に制約されるために格狭間は自ずと低平にせざるを得ないが花頭中央をあまり広くとらず外側の弧をやや大きくしている。肩は下がらず側線にも概ね硬さはないが下半が若干たわんだようになり、脚間は広くとっている。向かって左の頭上から肩口を通り膝下中央に向かって大きいクラックがあり右耳付近からは水が滲み出て石肌が変色している。このためか俗に「耳垂れ不動」とか「耳不動」などと呼ばれ、耳の病に効験があるとされる。09この磨崖仏の前の錐を持ち帰り自分の耳を突くまねをすると効験があるといわれている。そしてお礼参りの際に新しい錐を納めるのだそうである。中尊の前には小祠があり香華が絶えない様子で周囲も掃き清められている。ただ、この小祠は最近新調設置されたようで、それに隠れて中尊の蓮華座以下を正面から見ることができなくなったのは残念である。もっとも中尊は阿弥陀如来で不動明王ではない。両脇侍は通常の薄肉彫りで蓮華座と頭光は線刻である。また、像容面を平らにする下地処理は基本的に行なわず、壁面の凹凸にはおかまいなしに彫り込んでいる点は中尊と異なる。いずれも踏み割りの蓮華座に立ち、顔と体を少し中尊の方に向け、外側の手を胸の辺りに差し上げて蓮華を執り、内側の手は下に垂らして掌を見せている。大きさや手足の位置、持物印相などほとんど左右対称に作られ配されているが、向かって右の観音菩薩は宝冠上に化仏、左の勢至菩薩は水瓶を飾っている。観音菩薩が蓮台を捧げ、勢至菩薩は合掌する形が多い阿弥陀三尊であるが、ここの脇侍はそれと異なる。ただ、こうした形も古い事例に見受けられるとのことである。像高は中尊とほぼ同じくらいなので4m近くあると思われる。宝冠、瓔珞などの細部に抜かりはなく足指の爪まできちんと表現されている。また、衣文にも形式化したようなところは見受けられない。体躯は雄偉でバランスもよく、むしろ小さい頭に比して下半身がやや大きいように感じられる。特に観音菩薩の表情には見るべきものがある。(つづく)

 

 

写真右上から2番目:中尊の蓮華座と格狭間です、格狭間ははっきり言っていまひとつかなぁ…逆に蓮華座は抜群です、写真右上から3番目:踏み割り蓮華座に立つ観音菩薩、写真左上から3番目:観音菩薩のお顔がいいです、写真左一番下:勢至菩薩はちょっと表情が硬い。写真右一番下:口元と顎に注目、S字状に薄い帯状のものがあります。西陽の斜光線で判明、おひげがあったんですね。どことなくお顔に宋風の趣きがあるように感じます。

 

 これもいまさら小生がとやかくいうようなものではない著名な石造美術ですが、前に磨崖仏の話が出たついでにご登場いただくことにしました。笠置寺や大野寺のように流麗典雅なものではありませんが、ゴツゴツした岩肌によくマッチする磨崖仏ならではの味わいがあります。静かな山間にある割りに車なら交通の便がよくお薦めできる一級ポイントです。続編にも請うご期待。参考図書類は続編でまとめて掲載します。なお、法量について一説に中尊1丈2尺(約3.6m)、両脇侍1丈3尺(約3.9m)とあるそうです。もっと大きく見えますが…ともかく像自体が高い位置にあるのでコンベクスで測るのは到底ムリです。梯子が要りますね。


滋賀県 長浜市西浅井町黒山 黒山道二体地蔵石仏

2010-10-09 17:16:14 | 滋賀県

滋賀県 長浜市西浅井町黒山 黒山道二体地蔵石仏

JR湖西線永原駅の西方約400m、黒山に向かう道路が山裾に沿ってカーブする場所の南側、07道路に沿って黒山川がすぐ南を流れる道路脇に幅約250cm×奥行き約110cm、高さ約125cmの不整形な長方形の花崗岩の岩塊が少し唐突な感じで置かれている。01この岩塊に注目すべき石仏が彫られている。昭和49年4月、大津市在住の石仏研究家であった川端菊夫氏によって紀年銘が確認され『史迹と美術』に発表されて以来注目を集めることとなった石仏である。岩塊北西側、幅約230cmの広く平らな壁面の中央に、ほぼ同じ大きさ同じ手法で2体の石仏が並んで刻出されている。いずれも舟形光背形を彫り沈めた中に地蔵菩薩の立像を厚肉彫りしており、向かって右側の舟形光背形は高さ約80cm、最大幅約35cm、同じく左側で高さ約78.5cm、最大幅約37.5cm。05像高は右側で約69cm、左側で68.5cmである。舟形光背形の彫り沈めの下側にはそれぞれ蓮華座が刻出されている。ともに太い陰刻線で縁取った蓮弁を浮き出させるような手法であるが蓮弁の形状が左右で若干異なる。向かって左側のものの方が蓮弁を大きく表現しており、右側に比べてふっくらとした印象を受ける。03_2この点は川端氏が指摘されている。右側の蓮弁は幅がやや狭いが描かれる曲線は柔らかい。印相持物も異なっており、右像は合掌、左像は右手に柄の短い錫杖を執り左の掌に宝珠を載せている。それ以外の肉取りや衣文表現などは一致しており、同じ石工により刻まれその時期もほぼ同じと考えてよいだろう。頭部が大き過ぎずスマートな体型で、像容表現は一見すると、ややもすれば稚拙とも感じられるが、袖裾が長くならないで膝下付近にとどまっている点や裳裾から両足にかけての表現に写実的なところを残している点など細部は古調を示している。02表面の風化摩滅が進み左像面相は辛うじて眉から目元にかけて痕跡をとどめ右像の面相はほとんど確認できない。右像の舟形光背形の向かって右側に陰刻銘があるのが肉眼でも認められる。川端氏は「…立嘉元二年(1304年)二月十八日」と判読されている(「年」「月」「日」の3文字は伏字)。嘉元二は肉眼でも確認できるが「嘉元二」と「年」の間が少し離れており、干支があったのかもしれない。たが肉眼では「年」は「十」にも見え、川端氏の報文に掲載された拓本を見ても同様である。川勝博士、清水俊明氏ともにこの点には特に触れておられないが、あるいは十二月十八日の可能性もあるように思うがいかがであろうか。いずれにせよ古い在銘の石仏が必ずしも多くはない近江にあって鎌倉時代後期、14世紀初頭の紀年銘は貴重。近江の石仏を考えていくうえでの基準資料として見逃せない石仏である。かけがえのない故郷の遺産としていつまでも後世に守り伝えていってもらいたいものである。また、我々はこの石仏の特長、例えば蓮華座の形状や柄の短い錫杖、裳裾の処理の仕方といった細部をしっかり観察しておくことが大切であろう。

 

参考:川端菊夫 「湖北黒山道の二体地蔵石仏」『史迹と美術』第444号 1974年

      清水俊明 『近江の石仏』 創元社 1976年

      川勝政太郎  新装版『日本石造美術辞典』 東京堂出版 1998年

 

 川端報文によれば、地元の人の話として昭和40年代前半頃にそれまで川の土手に転がっていたのを引き上げたとのことです。

 ところで広い意味では磨崖仏も石仏の一形態ですが、普通の石仏と磨崖仏の違いは何かというと、動かせるか否かということです。石仏は運搬が可能ですが、岩盤に彫られた磨崖仏は動かせませんよね。つまり動産と不動産みないなものでしょうか。ですから、許されない行為ですが理屈上は岩盤を割ったり刳り抜いて動かせるようにしてしまうと磨崖仏が石仏になってしまいます。この黒山道の地蔵石仏の場合は巨岩の部類に入る岩塊の壁面に彫られているので磨崖仏といえなくもないわけです。しかし容易ではないにせよ移動させることは可能で、現に川から引き上げられていますので川勝博士をはじめ諸先達は磨崖仏とは呼んでおられませんね、ハイ。それから例により文中法量数値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。

 なお、川端氏について、この方は本職は小学校の先生で校長先生をなさってみえた由。川勝博士と同年の明治38年のお生まれですが川勝博士に師事され石造の中でも特に石仏に力を入れられたリスペクトすべき近江の石造美術の大先達です。

追伸:

サイトUPを機に再訪したところ、方角が少し違っていましたので修正しました(すみません…)。二体地蔵石仏は岩塊の西側ではなく北西側にあります。08_2 再訪の際、たまたま花を供えにきてみえた地元のご高齢の女性にお話をうかがうことができました。嫁いで来てかれこれ50年以上になるとの由、岩塊が本当に移動されたのかお尋ねしたところ、本当だとのことでした。元は5~10m程下流側の川の対岸の土手にあったとのことで、土地改良か河川工事かの関係で移動させる必要が生じ、「どかた」(工事関係者か)の人達がやっとこさで移動させたとのお話でした。さらに岩塊北側の側面に作りかけのまま放置された石仏の頭部らしいものがあることをこの女性に教えてもらいました(右の写真中央に丸い部分があるのがおわかりいただけますでしょうか…)。周囲を彫り沈め径10cm程の丸い地蔵菩薩の頭部のような部分が刻出されているように見えます。いわれると確かに人為的な感じを受けました。何かの事情で製作途中で放置されたのでしょうが、詳しいことはわかりません。二体地蔵石仏に加えここにも花が供えられています。花を供え石仏にぬかずかれるこの女性のお姿に接し、地元の信仰に厚いほとけ様だということに改めて気付きました。貴重なお話を聞かせていただいたうえに、遠いところからよく訪ねて来てくれたと喜んでいただき恐縮した次第です。謹んで感謝の意を表したいと思います。


滋賀県 東近江市佐野町 善勝寺無縫塔ほか

2010-07-20 23:23:49 | 滋賀県

滋賀県 東近江市佐野町 善勝寺無縫塔ほか

善勝寺は曹洞宗で山号は「繖山」。東近江市佐野町(旧能登川町)集落の南方、観音寺山(繖山)から北に伸びる山塊尾根の北端に近い猪子山(標高267m)の北側山腹に位置する。01かつては70余の子坊を数える天台の大寺院であったとされ戦国末期に焼亡し曹洞宗として復興したといわれるが詳しいことはわかっていない。本堂東側の一段高くなった場所に境内墓地がある。02その正面奥の歴代住職の墓塔が並ぶ一画、向かって左手に一際異彩を放つ無縫塔がある。花崗岩製。下からそれぞれ別石で基礎、竿、中台、請花、塔身の5つの部位から構成される。総高約96.5cm、基礎は直接地面に据えられ、平面八角形で各コーナーの下端には小さいながら二段階に持ち送る脚部を備えていることから当初は切石の基壇上に据えられていたのではないかと思われる。各側面は方形輪郭を巻いて内側を彫り沈め格狭間を配する。格狭間内は素面。基礎上端には低い一段の框を設けてから複弁反花を置いて竿受座に続いていく。竿は八角柱状で、ひとつおきに蓮華座上の三弁宝珠のレリーフを配してしている。中台も平面八角形で低い竿受から下半部はやや反りを持たせた小花付単弁請花とし、側面は二区に枠取りして彫り沈めた中に各々割菱紋を陽刻する。中台上端面にも基礎上端と同様の複弁反花を置き、中心には平らな受座を円形に作っている。中台上の請花は中央に稜を設け覆輪のある小花付単弁で上端面外縁には弁先の形に沿って山形の凹凸を設け、丸い棗型の塔身を載せている。無銘ながら中台側面の菱形紋、整った格狭間の形状など手の込んだ意匠表現が随所にみられる。基礎の側面高が割合に高く、基礎上と中台の反花がやや平板で、単弁請花が剣頭状で側面に膨らみが見られない点などから室町時代初め頃、15世紀前半代のものと考えられる。無縫塔は僧侶の墓塔として一般的なものであるが、ほとんどが竿や中台を伴わず塔身が細高い近世以降の単制のもので、重制の無縫塔は珍しく、中世を通じ禅宗系の開山塔等に多く採用される。石造物の宝庫とされる近江においても本格的な重制無縫塔は指折り数える程しか残されていない。本塔は風化摩滅も少なく遺存状態が良好で、各部欠損なく揃っている点も貴重である。また、向かって右手、近世の無縫塔の基台に転用されている石塔の基礎がある。03_2花崗岩製で風化や細かい破損がみられるが、上端面は平らで宝篋印塔に特有の段形が見られないので宝塔ないし層塔の基礎と考えられる。幅約80.5cm、高さ約40.5cmとかなり大型で、幅に対する高さの比が小さく低い。各側面には輪郭を巻いて格狭間を配し、格狭間内に三茎蓮の浮き彫りを表現する。低い基礎に輪郭の幅が狭いのは寛元4年銘の近江八幡市安養寺跡層塔や建長5年銘の米原市大吉寺跡宝塔などの事例に鑑み古い特長と考えてよさそうである。04格狭間は左右の束との間をやや広くとって全体によく整い、花頭部分の肩があまり下がらず側辺の曲線がスムーズで概ね古調を示している。三茎蓮の構図は大きく、彫りがしっかりしていて下端に宝瓶口縁部と思しき部分を表現している。茎や葉が伸び伸びとして気宇の大きさを感じさせる。左右と裏面は中央茎上を蕾としているが正面のみ花弁上に座す小さな像容を刻んでいる点は非常に珍しい表現である。造立時期について、田岡香逸氏は上記のごとく低い基礎や格狭間の形状などから鎌倉時代後期の初め、13世紀末頃と推定されている。無銘の基礎だけの残欠であるが、像容を表現した珍しい意匠の三茎蓮を備えた比較的大型の石塔で、細部の手法にも古調を示す注目すべきもので見逃せない。このほかにもこの境内墓地には一石五輪塔や石龕仏などの中世石造物が多数残されている。

参考:田岡香逸「近江能登川町の石造美術(1)」『民俗文化』55号 1968年

   嘉津山清「無縫塔-中世石塔の一形式-」『日本の石仏』№83 1997年

無縫塔の塔身が載る請花上端面のギザギザは応永28年(1421年)銘の竜王町鏡の石燈籠の中台上のギザギザを髣髴とさせる手法でこのあたりも造立時期を考えるヒントになるのではないでしょうかね。最古の無縫塔は京都泉涌寺の俊芿塔で安貞元年(1227年)示寂後間もない頃の造立と推定されています。このように没年の明らかな高僧の墓塔であるため造立時期を比定できるケースが多い無縫塔ですが、鎌倉時代に遡るものは案外、数が少なく嘉津山氏によれば紀年銘のあるものは未確認とのこと。在銘では栃木県宇都宮市の伝法寺塔の南北朝期に入る観応二年(1351年)銘が最古だそうです。意外ですね、ハイ。


滋賀県 甲賀市甲南町杉谷 息障寺奥の院不動磨崖仏

2010-05-31 23:40:49 | 滋賀県

滋賀県 甲賀市甲南町杉谷 息障寺奥の院不動磨崖仏

甲南町杉谷を新名神高速道路の高い高架をくぐって南の山手に向かって進んでいくと三重県伊賀市との県境間近い山間に天台宗岩尾山息障寺がある。Photo県道からお寺の標柱のある三叉路を西に曲がり、さらに坂道を登っていくと突き当たりにお寺がある。裏山の奥の院に向かう急峻な石段を登っていくと山腹に累々たる巨岩がいたるところに露出している。忍術修業の場と言われるのも肯けるが、実際は修験の業場であろう。尾根のピークまで登りきると一際大きい巨岩がそそり立つ場所に出る。この付近が奥の院である。最近岩石の崩落があったらしく石段補修の後が真新しい。さらに崩落防止のため岩山全体を網の目状のワイヤーで厳重に補強してある様子はちょっと異様な情景である。巨岩の一画、垂直に近い壁面に不動明王の磨崖仏が彫られている。像高はおよそ5mほどもあろうか。かつて磨崖仏の正面の岩の間に奥の院の小堂があったが土石の崩落に遭って壊滅してしまった模様である。火炎光を負い、倶利伽羅剣と牽索を手にする線刻の立像で、顔面のみは半肉彫りとする。厳しいお顔の表情にはかなり迫力がある。ただ全体に体躯のバランスはあまりよろしくなく、特に下半身の手法が貧弱で雄偉な上半身と釣り合っていない。左右に開いた両足の表現も少々稚拙である。伝教大師最澄の作というのは後代の付会と思われるが天台修験との関係を示唆しているのかもしれない。造立時期は作風から室町時代初め頃とされている。上半身の出来栄えに比して下半身は今一つの感が拭えないことから、もう少し時期は降るかもしれない。なお、奥の院に向かう石段の途中、左手の露出する岩壁面に舟形光背を彫りしずめ内に地蔵菩薩と推定される坐像を刻出した石仏がある。大きいものではなく像高約32cm。像の左脇に刻銘があるが肉眼では判読は難しい。これは「至徳第二(1385年)丑乙十一月廿四日沙弥道尊」と二行にわたる紀年銘とのことである。また、長い石段の耳石にも多数の刻銘があるようだが判然としない。

参考:清水俊明 「近江の石仏」1976年 創元社

写真はわかりにくいですが、ワイヤーの網に捕まってしまったような不動明王様です。写真にカーソルをあててクリックしてもらうと少し大きく表示されます。上方中央に不動さんの怖い顔があるのがおわかりいただけるでしょうか?ちなみにこの写真を撮るのにはかなり「命がけ」のアングルどりをしたんです。直下から見上げることを計算に入れてあえて胴長にし、足の方はわざと手を抜いたのでしょうか???。巨岩の上に続く山道があって登ると甲賀から伊賀にかけての山々を一望できる絶景が広がり、息をついて急な石段を登った疲れも吹き飛びます、ハイ。


滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その1)

2009-08-29 23:34:19 | 滋賀県

滋賀県 蒲生郡竜王町鏡 西光寺跡石燈籠及び鏡神社宝篋印塔(その1)

竜王町の北端を東西に通る国道8号線が、中世の東山道、近世の中山道にあたるとされている。鏡は街道沿いの宿場町として古くから栄えた場所である。国道沿いの鏡神社には南北朝頃の社殿や石燈籠が残り、付近には源義経の元服の場所と伝えられている場所がある。01南方には歌枕としても有名な鏡山(標高384.8m)があり、山麓一体に古代の窯跡群が分布することでも知られる。鏡山から北に派生する尾根の先端にあるピークは「星ヶ峰」と呼ばれ、佐々木源氏の一族とされる鏡氏の城跡と伝えられる遺構が残る。01_2この星ヶ峰の東麓、ちょうど最近できた道の駅付近から山腹にかけての西側一体は星宿山西光寺という寺院の跡とされている。西光寺について正確なことはわかっていないが、平安時代の創建の天台寺院で、往時は300坊を数える程の寺勢を誇り、幾度かの焼亡と再興を繰り返した後、元亀年間の兵火によって廃滅したと伝えられている。さて、道の駅西側の小道を登っていくと小堂があり、ここに石造金剛力士像が1体祀られている。西光寺の遺物と考えられている。本来仁王さまは一対のものだがもう1体は行方不明。土砂崩れによって山麓の池に梵鐘とともに沈んでしまったとの伝承があるらしい。閉ざされた戸の格子から覗いた石造仁王像は、花崗岩製と思われ、概ね等身大の厚肉彫で金剛杵を持つ右手を高く掲げた阿形。02_2目鼻の大きいなかなか力のこもった表情で、恐らく室町時代は降らないものと思われる。能勢丑三氏によれば、この仁王像は元は少し南に離れた場所にあったらしく、そこが山門の跡地である可能性を指摘されている。また、吽形のものと思しき枘のある台座もあったとのこと。06さらに小道を上っていくと突き当たりに吹きさらしの覆屋で保護された変形石燈籠が立っている。西光寺の鎮守社とされる八王子神社(赤宮、八柱神社、若宮王子神社とも…)にあったものを保存修理のため平成13年にこの場所に移建された由である。現地は確認していないが八王子神社の社殿は大正末頃に倒壊し廃されたらしく、今は行方不明となった棟札に、天文11年(1542年)と寛永2年(1625年)の再建修理の記録が記されていたという。石燈籠は高さ282.4cm。花崗岩製で基礎から笠まで平面八角。一見すると重制の石幢に見える。03_2真新しい基壇は修理に際して設置されたものと思われる。基礎は各側面輪郭を区画して内を浅く彫り沈めているが羽目部分は素面で格狭間や近江式文様は確認できない。側面上は低い一段を経て上端を複弁反花としその上に八角形の竿受座を設けている。反花は膨らみを持たせた細長く傾斜の緩いもので、各辺の中央に主弁、各コーナーに主弁と遜色ない大きさの間弁をそれぞれ1枚づつ配している。竿は異常に細高く、素面の八角柱状で通常石燈籠にみられるはずの節がない。西側の一面に大きめの字で「応永廿八(1421年)辛丑八月八日願主敬白」と刻んだ銘が確認できる。中台は下端に低い竿受を刻みだし、側面を持たない蓮台式。05丸みをもたせた大ぶりの単弁請花を大きく表現し、花弁の先端近くに山形の線刻を施して弁間には小花を配している。上端は八角形の低い火袋受を中央に置き、その周囲は請花の弁先の形のままにギザギザの凹凸をつけている点は面白い意匠である。火袋は縦3区に区画し、大きい中央区に火口を設けた面と、縦長の長方形に浅く彫り沈めた区画内に蓮華座に立つ半肉彫の立像を配置し、上に火口面と通有の小区画を設けた面を交互に配している。04 火口面の上小区画は縦連子、下小区画内には格狭間を入れている。また、像容面の上の小区画には東側のみ散蓮、残りを花菱文のレリーフで飾っている。像容は頭が大きく稚拙な表現で風化も手伝って尊名の特定は難しい。地蔵菩薩という説もあるが如来像にも見える。この点は後考を俟ちたい。笠は蕨手がなく、全体にあまり背が高くない。軒の軽い反りと突帯のない隅棟部分や素面の笠裏があいまって非常にすっきりとした印象を与える。笠頂部には低い円形の受座を刻みだし別石の請花付宝珠を受けている。請花付宝珠は平面円形である。請花は覆輪付の単弁で小花を挟み上端を弁先にあわせたギザギザの凹凸にしているのは中台と共通する意匠である。請花と宝珠の間には下拡がりの首部を設けている。宝珠は重心が低く整った曲線を描いてスムーズに先端の尖りにつながる。特長をおさらいしておくと、①平面が八角形である点、②竿が異様に高い点、③竿に節がない点、④笠に蕨手がない点などで、特に③、④は石燈籠というよりも重制石幢に多い手法で、石幢の手法を取り入れたあまり例のない特殊な石燈籠といえる。重要文化財指定。(続く)

参考図書は後編にまとめて記載します。写真右上:仁王様です。石造の仁王様は大分県に多いようですが、このあたりでは珍しいものです。というか、この石幢風石燈籠も、後述する「鳥影」宝篋印塔も珍しさでは引けをとりませんね。写真上から2番目:基礎の様子、写真左中:中台と火袋部、写真上から3番目:中台の上端、ギザギザが面白い、写真左下:笠上方の様子、写真右下:請花と宝珠、川勝博士も指摘されるように室町時代にしては出色の出来でここもギザギザになってます。それにしても近江というところは山岳寺院というか山手にある中世の寺院跡とされる場所がたくさんあって、そこには関連しそうな石造物が豊富にある。しかも城跡などがセットになっていて何とも興味の尽きない土地柄です。それらにまつわる史料や伝承が混在して残っている。伝承の類はたいてい後世の怪しい付会が多いんですが、(西光寺にしても最澄創建で嵯峨天皇勅願、往時は300坊云々などははなはだ怪しい…)近江では何というか、まんざらでもないところが多い。そしてそれらの実態が今日でもあまり解き明かされていないわけで、底知れない潜在性に鑑み将来が楽しみであると同時に現時点においては保存保護に一層の配慮が必要だと痛感します、ハイ。


滋賀県 長浜市野瀬町 大吉寺跡の石造美術(その1)

2008-09-17 00:22:14 | 滋賀県

滋賀県 長浜市野瀬町 大吉寺跡の石造美術(その1)

野瀬集落に入ってしばらく行くと、辻に四天王寺出口常順管長揮毫による「寂寥山大吉寺」と大書された石碑が立っている。01さらに東の山手に狭い道を行くと最も奥まった渓谷に現在の大吉寺がある。静かな山寺で風情のある佇まいを見せ、特に庭園の造作には見るべきものがある。自動車はここに停め、ここからは徒歩で登山になる。渓流沿いにしばらく進み、途中で右に折れ、九十九折になった急峻な山道をどんどん登っていく。やや開けた尾根上にある仁王門の跡を過ぎ、さらにしばらく登るとようやくにして本来の大吉寺の跡に着く。田岡香逸氏によると仁王門は旧長浜市内に移築されているとのことだが不詳。山裾の寺からは健脚でも片道1時間以上の道程である。振り返ると眼下に小谷山の向うに琵琶湖が広がり、竹生島が浮かぶ絶景が広がる。標高918mの天吉寺山山頂から南に延びる尾根の東側斜面に位置し、標高は700mくらいだろうか、寺跡といっても建物は何も残っていない荒地になっている。雑木が多く全体を見渡せないが整地した平坦面が点在し、中心伽藍の跡とされる場所はかなりの規模で、上下2段ないし3段に分かれ、ところどころに石積も見られる。方形に区画され一段高い土壇状になった本堂跡には自然石の礎石が整然と並び、5間四方の規模が想定される。本堂西側には自然石を組み上げた立派な石階段があって往時をしのばせる。このほか塔跡、経蔵跡、鐘楼跡と伝えられる低い方形土壇が点在し、自然石の礎石が残っている。本堂跡の東側にも広い平坦面があり、そこから東に少し上がった尾根の斜面に南北に長い平坦面があり、その北寄に覚道上人入定窟なるものがある。05西斜面に開口する古墳の横穴式石室によく似た構造の自然石を組んだ石室内に花崗岩の板石を組み合わせた龕を設けたもので、龕の入口には左右観音開の扉がある。扉内側を水磨きで仕上げ、罫線を薄く陰刻して8行にわたる銘文を刻む。02「星霜五百歳之刻/沙門覚道悲遺法/遠祈薩淂忽霊/夢告遂渡唐迎一、(以上向かって右扉、以下左扉)切経安当寺速欲/待三会之暁写影/於石而己/正応二年(1289年)己丑十二月七日沙門覚道」とあり、覚道という僧が中国から一切経を請来し、弥勒再生の竜華三会の時を待つために石の自肖像を刻んだ旨がわかる。03龕奥壁に高さ約29cmの覚道上人の像がある。丸彫りに近い写実的な表現で、風化もほとんど見られず、袈裟の細部まで良く残っている。右手にした払子を左手前に横たえ、半肉彫りした曲彔という椅子に端座する頂相風の雰囲気。目鼻が大きく唇厚く自信に満ちた表情がうかがえる。頭上には左右に円相を彫り沈めて蓮華座、舟形背光の如来坐像を薄肉彫りしている。向かって左は定印なので阿弥陀で問題ない。右は諸仏通有の施無畏与願印と思われ、特定は難しいが銘文の趣旨に鑑み川勝、田岡両氏とも弥勒如来とされている。入定窟というと、洞窟に篭り結跏趺坐したまま成仏するイメージを受けるが、龕内部は幅高さ奥行きとも40cmに満たず人が入るには小さ過ぎ、外側の石室も龕部と一体となった構造であることから、「入定窟」は適切な表現ではない。04_2あるいは廟所的な遺構と考えることも可能かもしれない。龕部の地下や奥壁の向うなどに上人の火葬骨など納めた施設等がないとは言い切れないが、田岡氏によればそうしたものは確認できないとされる。入定窟という言葉のイメージによって「死去」が連想されるが、銘文からは上人が正応二年12月に没したということは読めない。石像安置のための石室と考えるのが穏当との田岡氏の説に従いたい。上人が生涯をかけて請来した一切経は、残念ながら大吉寺の伽藍とともにこの世から消え去って久しいが、上人の強い信仰心と熱い思いが700有余年を経た今日も石に刻まれた肖像と銘文を通じて我々見るものに伝えらていることに感銘を禁じえない。大吉寺には銘文を裏付けるように、弘安8年(1285年)覚道上人が一切経の勧進を催したとの勧進状が残っているらしい。大吉寺は、貞観7年(865年)天台の安然(円)和尚開基、本尊は観音菩薩と伝える。また、天台座主慈恵大師良源(元三大師、角大師として有名)は、母堂が当寺に祈願して授かったと伝え、天元5年(982年)母の遺誡に従って当寺で百箇日護摩法を修法したとの記録が残っているらしい。さらに、嘉吉元年(1441年)成立、真偽不詳の「興福寺官務牒疏」にも「在同国浅井郡草野郷、号天吉山、僧坊五十七宇、天智天皇六年、役氏入峰、然后、桓武帝延暦九年、橘朝臣奈良麻呂本願也、始天台宗、後一条帝万寿元年(1024年)、秋篠寺霊円僧都中興、自是為法相宗、真言兼宗、本尊浮木観音大士」との記載がある。平安期のこうした伝説・伝承の類は真偽不詳で確かめようがないが、地元草野庄司家との強い結びつきのもと、平安時代から知られる天台の古刹であったということはほぼ間違いないのではないかと思う。平治元年(1159年)16歳の源頼朝が、平治の乱に敗れ落ち延びる父義朝一行とはぐれて当寺に匿われたことが「吾妻鑑」に見え、これを契機に鎌倉幕府の庇護を受けた模様で、さしずめ覚道上人は鎌倉期の中興といった位置づけになろうかと思われる。建武元年(1334年)に兵火に罹ったため、暦応元年(1338年)にも勧進が催されている。さらに観応の擾乱に際して近江に入った足利尊氏に味方したらしく、観応2年(1351年)同寺衆徒宛の尊氏の御教書などが残るという。鎌倉・室町時代を通じて幕府の庇護のもと寺勢隆盛を極め堂宇の整備が進んだものと思われる。平坦地が随所に見られることからも多数の子坊を擁したことはまず疑いない。大永3年(1523年)には浅井氏の台頭につながる京極家の内紛である「大吉寺梅本坊の公事」事件の舞台となり、大永5年(1525年)には六角氏と京極氏の戦いによる兵火で壊滅的な被害を受けたらしい。その後は浅井氏の庇護を受けて復興したらしく、元亀3年(1572年)7月には織田信長の命により、木下藤吉郎に攻められたことが「信長公記」に見える。このように、中世を通じて極めて興味深い歴史を今に伝える大吉寺であるが、度重なる兵火をかいくぐって盛衰を繰り返しながら営々と法灯が守られてきたこと、そして山上の寺跡が極めて良好に保存されていることは、まことに注目すべきことで、まさに当地域の誇りとすべきことといえる。かけがえのない文化遺産、後世に守り伝えていかなければならい地域資源である。(その2へ続く)