石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 長浜市西浅井町大浦 大浦観音堂五輪塔ほか

2010-09-30 23:13:42 | 五輪塔

滋賀県 長浜市西浅井町大浦 大浦観音堂五輪塔ほか

琵琶湖の最北端、南に向かって細長く突き出した葛篭尾半島の付け根の西側に位置する大浦。現在は市町村合併で長浜市になっているが以前は伊香郡西浅井町。古来、湖北水上交通の要衝として知られ塩津、海津と並ぶ湖北三湊のひとつに数えられた。05_2その歴史は古く万葉集にも詠われている。また、中世の大浦庄に比定され、半島先端付近にある菅浦地区に残された「菅浦文書」と呼ばれる古文書(重文)には鎌倉時代から室町時代にかけてくり広げられた相論の相手方として登場する。大浦観音堂は集落北東の山裾に位置し、天台宗に属する。別名「腹帯観音」と呼ばれ安産の祈願所として知られる。04以前は東方の八幡宮の別当寺のような存在だったようで、明治期に神社から分離され現位置に移されたという。お堂前の広場は小公園になり、ほとんど廃寺同然になっている遍照寺という時宗のお寺と境内を分け合っているような状態である。02お堂のすぐ南東側、石造物が集められている一画に際立って立派な五輪塔がある。花崗岩製。直接地面に置かれているようで台座や基壇は認められない。地輪下端は埋まって確認できないが現状塔高約192cm。地輪の上端幅は約90cmある。昭和47年3月、地輪下端を掘り出して調査された田岡香逸氏の報文によれば総高は196cmとあるから5cmほど地面に埋まっているようである。同報文によれば地輪幅は下端で約96.2cm、地輪の高さは右(南)側で40.2cm、左(北)側で49.3cmというから下端が不整形で、高さは幅の半分程度しかなく地輪の背が低くく裾拡がりの形状であることがわかる。水輪は高さ約55.5cm、最大幅約77cm、上下のカット面が大きく横張が少ない球形に近い形状を呈する。火輪は軒幅約77.5cm、上端幅約33.5cm、高さ約39.5cm。軒口はあまり厚くなく中央で厚さ約10cm、隅で約12cm03火輪は全体に低平で下端面は平らに仕上げ、軒反は隅近くで軽く反転する程度。屋根の勾配は緩く屋だるみはほとんどみられず、四注の描く線はおおむね直線的である。空風輪は一石で彫成し、高さ約52cm、風輪は背が高く深鉢状を呈し、最大径約38cm、くびれ部分の径は約28cm、空輪の最大径は約36cmで中心よりやや低い位置に最大径がある。各輪には五輪塔四門、すなわち上から「キャ、カ、ラ、バ、ア」の四門展開の梵字を各輪に配しているが、その構成や展開の仕方が通常と異なり変則的なものとなっている。彫りが浅く風化も進行して空風輪の梵字は肉眼では確認しづらい。水輪は北側と南側はバン、東側バー?(涅槃点のようなものが左側にあるように見える)で、西側は舟形光背を彫り沈めて胎蔵界大日如来ないし阿弥陀如来と思われる定印を結んだ座像を半肉彫りしている。地輪は西側アン、南側アーク、東側アーンクで北側は左にウーン、右にシリキエンを並記している。川勝政太郎博士はこのウーンとシリキエンについて釈迦如来の脇侍である文殊、普賢の二菩薩ではないかと推定されている。いずれの梵字も独特の書体で大きく浅く薬研彫される。以上述べてきた特長をおさらいすると、①地輪が低平、②地輪が裾拡がり、③水輪の上下のカット面が広い、④水輪が横張の少ない球形、⑤火輪が低平、⑥軒口が厚くない、⑦軒反が顕著でない、⑧風輪の背が高めで深鉢状、⑨空輪の重心が低い、⑩浅く大きい梵字の薬研彫、⑪変則的な梵字の配置といったところであろうか。紀年銘は認められないがこうした各部、細部の特長、さらには安定感のある塔姿全体から醸し出される古雅な雰囲気を総合的に考慮すればこの五輪塔が非常に古いものであることがわかる。造立時期について、田岡香逸氏、川勝政太郎博士ともに鎌倉時代中期、それも前期に近い頃のものと推定されている。五輪塔としては近畿でも屈指の古塔に数えられ、近江では最も古い様式を示す五輪塔として極めて注目すべき優品である。ただ、地輪が南側に少し傾いてきており、水輪から上が不安定でグラグラと動く状態になっているのが気にかかる。このままでは遠からず倒壊のおそれがあり早急な保存措置が望まれる。01_2

また、すぐ傍らには珍しい双身の板碑が数基ある。板状の花崗岩で上部を山形に整形した2基がくっついたような形状を呈する。保存状態のよい中央のもので現高約80cm、幅は下端近くで約54cm、上方で約51cm。厚さは約13~14.5cmである。中央上部に諸尊通有の種子「ア」を陰刻する以外は何も刻まれていない。碑面は平らで二条線や額部は省略されたものか表現されない。種子の出来もいまひとつであることから、室町時代でも後半に降るものと推定される。あまり類例のない貴重なものである。このほかにも小型の五輪塔や宝篋印塔の残欠、一石五輪塔や石仏が見られる。いずれも中世に遡る石造物である。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   田岡香逸 「近江伊香郡の石造美術」-西浅井郡黒山・大浦と木之本町木之本-

        『民俗文化』第104号

 

湖北もこのあたりまでくると広々とした湖水の量感が違いますね。道路もよく整備され、かつ自然豊かで風光明媚な景色が車窓に流れていきます。実に快適なドライブです。もっとも陸上交通が今日のような姿になったのは近代以降で、それまでは湖上水運がメインでした。大浦も若狭、越前方面と近江、さらには大和・京都などを結ぶ水上交通の要衝、つまり人と物が集まる場所だったわけで、古い歴史を秘めた土地柄といえます。そしてそこに古い石造物が残っている。いろいろと考えさせられるものがありますね、ハイ。ここの五輪塔は小生の最もお気に入りの五輪塔の一つです。2m近い大きさがあってどっしりとした安定感があり、古色然とした雅な雰囲気に魅せられます。水輪の像容がデザインのポイントになっていますよね。これまでに何度か来ていますがいつも立ち去り難い気分にさせられます。ちなみに観音堂の脇から裏山に向かう小道を少し登っていくと石造物が集積された一画があります。裏山は現在砂防工事が行なわれており、工事に伴ってあたりにあった石造物を集めたとのことです。実はここにも最近発見された極めて注目すべき遺品がありますがこれは改めてご紹介します。


滋賀県 愛知郡愛荘町東円堂 真照寺宝篋印塔

2010-09-09 23:41:40 | 宝篋印塔

滋賀県 愛知郡愛荘町東円堂 真照寺宝篋印塔

東円堂という、何やらいわくありげな風変わりな地名、集落内に入ると辻に東円堂城跡と記された石碑が立っている。01_2この附近に中世城郭があったのだろうか、現在はそれらしい遺構は認められない。02_2集落の南寄りにある浄土宗法性山真照寺は元亀年間の中興とされる。決して広くない境内で一際存在感を示す宝篋印塔が南面する本堂前西側に立つ。元亀年間よりもはるかに古い遺品である。台座や基壇は伴わず無造作に延石を埋めた地面に置かれている。花崗岩製で相輪を亡失し、代わりに小型の宝篋印塔の笠と五輪塔の火輪以上を重ねて載せてある。笠上までの現存塔高約102cm。基礎は幅約53cm、高さ約40cm。壇上積式で各側面とも羽目には格狭間を入れ、格狭間内には三面に開敷蓮花、一面だけを宝瓶三茎蓮のレリーフで飾っている。基礎上は反花で素弁の隅弁の間は一辺あたり3葉の覆輪付単弁とし弁間には小花がわずかにのぞく。各花弁には微妙な膨らみと緩やかな勾配を持たせており、その表現は優美で平板に退化したものとは自ずと異なる。04_3上端には低い塔身受座を方形に作り出している。格狭間は若干肩が下がり気味ながら全体として整美な形状を示し、花頭中央の曲線は水平に延びて短い両脚部の間は広めにとっている。開敷蓮花のレリーフは平板陽刻風のよく整った形状で分厚くして側面のツラから突出するタイプではない。三茎蓮の彫成もシャープで美しい出来映えを示す。右の葉が上向きで左の葉はやや下を向きシンメトリではない。06_2塔身は高さ約26.5cm、幅約27cm余でわずかに幅が勝る。各側面には金剛界四仏の種子を刻んでいる。彫りは浅く月輪や蓮華座は伴わない。文字は小さくタッチも弱い。笠は軒幅約47cm、高さ約35.5cm。上は六段だが軒下を段形にせず蓮弁請花とする。隅弁の間に3葉の素弁の主弁を置き、弁間に小花をのぞかせる点は基礎上の反花と対応する。蓮弁は表面を平らに仕上げて弁先が軒口に及んでツライチになる。03_2軒口は薄めにして請花の側面を全体に少し膨らみを持たせているのですっきりして優美な印象を受ける。隅飾は二弧輪郭付で軒から5mmほど入って少し外傾しながら立ち上がる。輪郭内は素面。相輪の亡失は惜しまれるが全体に表面の風化が少なく、細部の意匠、彫成とも優れた典雅な宝篋印塔である。05_2装飾的な基礎や笠に比べ塔身の意匠表現がやや貧相に感じるが、同様の手法は近江ではよく見かける。笠、基礎、塔身は大きさのバランスや石材の質感に違和感はなく一具とみてよいだろう。無銘であるが造立時期について川勝博士、田岡香逸氏ともに鎌倉時代末頃と推定されている。元は五尺塔と思われ規模はそれほど大きくなく装飾的で優美な意匠表現から受ける印象は豪健というよりは瀟洒といった方がいいかもしれない。なお、宝篋印塔の笠下は通常段形にするがこれを蓮弁にする例は全国でも20~30例程しかないと思われ希少である。大和では弘長3年(1263年)銘の高取町上小嶋観音院塔や永仁頃と推定される生駒市円福寺南塔などかなり古くから見られるが近江では13世紀代に遡る例は確認されていない。本塔は笠下を蓮弁にする宝篋印塔としては近江で最も古く手法的にも優れた作品とされている。

 

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔補遺附、装飾的系列補説」『史迹と美術』380号

     〃  新装版『日本石造美術辞典』

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書

 

田岡香逸氏は笠下を蓮弁にする宝篋印塔を「特殊宝篋印塔」と呼んでおられますが、池内順一郎氏が指摘されるように、これだけをもって「特殊」とするのはおかしいと思います。笠の軒下を蓮弁とする宝篋印塔とか笠下請花の宝篋印塔というように素直に呼んだ方が適当と思われます。奈良のほかに兵庫や京都などにも例があるらしいですが半数以上は滋賀に集中しているようです(『蒲生町史』393ページには全国22例中15例が滋賀と述べられています。ちなみに奈良は観音院、円福寺、正暦寺でしょうか、3例となってますが都祁来迎寺など奈良にはもっとありますよね…)。その意味では近江の地域色といえるかもしれませんが、近江のものは南北朝以降の小作品がほとんどで小生はむしろ残っている宝篋印塔の絶対数が違う、つまり近江は分母が大きいということも考えないといけないかなと思っています。石灯籠の中台などでは古くからよくある手法なので応用したのかもしれませんしね。

なお、東円堂という地名は南都興福寺にかつて存在した東円堂領の荘園「大国荘」がこの附近にあったことに由来しているという話もあるようです。(拠『近江愛知川町の歴史』第1巻古代・中世編)


滋賀県 東近江市妙法寺町 妙法寺薬師堂宝篋印塔

2010-09-04 23:44:58 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市妙法寺町 妙法寺薬師堂宝篋印塔

名神高速道路八日市インターチェンジの北約250mにところに妙法寺町の会所がある。すぐ南には光林寺の山門があり会所の西側の広場には袴腰付の鐘楼か太鼓楼のような面白い建物がある。01_2元は薬師如来の古仏を祀る薬師堂が会所に利用されたようで、会所の南側、辻に面して道路より一段高く周囲を石積みにした一画があり、その上に小祀や石仏などとともにこの立派な宝篋印塔が祀られている。02昭和40年、光林寺の宝篋印塔の調査に来た川勝政太郎博士らにより偶然見出され、『史迹と美術』誌に発表されて以来広く知られるようになったものである。花崗岩製で塔高約204cm、全体に表面を粗叩き風に仕上げている。基礎は上二段で各側面ともに輪郭を巻いて内に格狭間を入れる。輪郭の彫りがかなり浅い。また、左右の束部分の幅が広く、格狭間左右端と輪郭の内際との間もやや広めにしているので、横幅のある基礎側面の割りに格狭間は少し寸詰まったような観がある。肩はあまり下がらず脚間が狭い。基礎幅約67.5cm、高さは約49cm、側面高約39cm、基礎下端が不整形で測る場所により数値が違う。基礎下端の状況から基壇や台座を伴わず直接地面に埋め込んでいたと推定される。塔身は幅約32.5cm、高さ約35cmと高さが勝る。西側面のみに高さ約26cm、幅約16.5cmの舟形光背形に彫り沈めた中に像高約23cmの定印の阿弥陀仏座像を半肉彫りしている。03蓮華座があるとの記述もあるが肉眼では確認できない。像容はやや頭が大きく表現は少々稚拙ながら親しみの持てる優しい表情が見て取れる。残りの3面は素面で各3行の刻銘に当てている。像容面の向かって右に「永仁参年乙未」、左に「二月十九日」、北面に「右志者為過/去幽霊成/佛得道石」、東面に「塔一基造/立之仍當國/吉田四良次郎西円」、南面に「安主野神/雑賀三ヶ所/寄進也」と川勝政太郎博士により判読されている。04_2文字は大きいが特異な字体で判読に苦心したと川勝博士も述べておられる。肉眼でも紀年銘などところどころ読める。永仁三年(1295年)2月19日、西円という法名を名乗る吉田四良次郎なる人物が願主となり近親と思われる物故者の供養のためにこの塔を造立し、安主、野神、雑賀の三ヶ所の田地を寄進したとの趣旨である。笠は上六段下二段、軒幅約61cm、高さ約52cm。隅飾は一弧素面、軒と区別しない延べづくりで真っすぐ立ち上がり基底部幅約18.5cm、軒下からの高さ約33.5cmを測る長大なもので古風な様相を示す。相輪は高さ約66.5cm。九輪の5輪目の上で折れている。05昭和40年頃には上半のみが残り下半は行方不明であったらしくその後下半部分も発見されてうまく接いである。上下とも請花の花弁が確認できない。浅い単弁の蓮弁が彫ってあったものが風化摩滅した可能性も残るが、川勝博士は古い手法と解されている。九輪の逓減は顕著でなく太い沈線で各輪を区切る。この九輪の手法は日野町北畑八幡神社塔や近くの光林寺塔と共通する。ただし、これらの相輪に比べると全体的にやや粗製の感は拭えない。塔身の阿弥陀如来や願文の内容を踏まえれば、川勝博士が指摘されるように宝篋印塔という密教系のスタイルを採用していても、造塔の趣意は浄土系信仰に基づくものと考えられる。なお、寄進された造塔供養料田の3ケ所の地名を比定できるには到っていないようであるが、造立供養料田寄進の刻銘は竜王町弓削阿弥陀寺宝篋印塔にも見られこうした石塔造立の背景を考えるうえでたいへん興味深い。吉田四良次郎西円については在俗出家した富裕層、在地有力者であろう。川勝博士は愛知川を隔てた現在の犬上郡豊郷町付近、かつての愛知郡吉田庄に拠を置いた佐々木氏の支流とされる吉田氏ではないかと推測されている。また、妙法寺町という地名から何らかの寺院の存在が想起されるが残念ながら詳しいことはわかっていない。この薬師堂が地名の由来になったと思われる古い寺院の後身ではないかとも推定されており、隣接する光林寺にも前身を妙法蓮花寺といったという伝承が残る。ともに平安後期の古仏を本尊とし、鎌倉時代後期の宝篋印塔が残ることを考慮すれば、立派な宝篋印塔を造立し供養料田を寄進する藤井行剛や吉田四良次郎のような在地有力者の崇敬を集めるだけの寺勢を誇った古寺がこの付近にあったと考えることができるだろう。それが「妙法寺」の地名の由来になったと考えても不都合はないだろう。身近にあって物言わぬ石造物は、幾百年もの間、地域の移り変わりを見てきた生証人として時に失われた中世の歴史を紐解くヒントを与えてくれるのである。

 

参考:川勝政太郎「近江宝篋印塔の進展(一)」『史迹と美術』356号

     〃  新装版『日本石造美術辞典』

   八日市市史編纂委員会編 『八日市市史』第2巻中世

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書

   平凡社『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25

 

これも川勝博士が注目されて以来たいへん著名な宝篋印塔で、今更小生がとやかくいうようなものでもありませんが、光林寺塔を紹介してこちらをご紹介しないわけにはいかないと思い駄文を弄する次第です。例によって文中法量値はコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はお許しください。さて、どちらも原位置を保っているという確証はありませんが光林寺の宝篋印塔とは直線距離にして50m余しか離れていません。造立の時間差はわずか11年です。距離も造立時期も近い両塔ですがその作風はずいぶん異なるように思います。本塔の一弧素面の長大な隅飾や基礎の作り方は古いスタイルを踏襲しているようで細部を見てもあまり装飾的でなく、むしろ少し野暮ったい感じがあります。一方の光林寺塔はシャープで装飾的、たいへん洗練された趣きを示してします。同一の石工の手になるとはちょっと考えにくいのですがどうでしょうか。この作風の違いを地域の違いや時期の違いで説明するのはちょっとムリなので、この付近では13世紀末から14世紀初頭のこの時期に異なる系統の石工(厳密にはその“作風”)が共存しあるいは競合していたと考えるほかないと思われますがいかがでしょうかね。それから旧愛知郡の吉田氏ですが、佐々木秀義の息子で宇治川の先陣争いで著名な佐々木四郎高綱の弟に当る吉田冠者六郎厳秀を祖とするとされ、降って室町時代には弓術師範として佐々木本家の六角氏に仕え、その頃の本拠は現在の竜王町付近だったらしいです。なんでもその吉田家の弓術は日置吉田流と呼ばれ近世弓術の主流だったんだとか、戦国末から江戸初期の京都の豪商、角倉了以もその末裔だと伝えられているそうです。吉田某という刻銘だけでそこまで考えるのは所詮憶測の域を出るものでなく牽強付会ですがいろいろ興味は尽きませんね。流石に川勝博士は可能性を指摘しておられるだけで吉田冠者がどうだとか日置吉田流や角倉了以が何だとかそんなことまで述べておられるわけではありません。事実と想像の境を見失わないことは大切ですが、あれこれと”空想”を膨らませるのも石造の楽しみです、ハイ。