石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 京都市東山区新橋通東大路東入林下町 知恩院五輪塔

2008-03-30 22:38:22 | 五輪塔

京都府 京都市東山区新橋通東大路東入林下町 知恩院五輪塔

知恩院04の御影堂から西の阿弥陀堂へと続く高い渡り廊下の北側、収蔵庫との間の目立たない場所に立派な五輪塔がある。さすがに浄土宗総本山だけあって参詣者も多いが、この五輪塔を気に止める人はまずいない。しかし、かつては北野東向観音寺塔や革堂行願寺塔などとともに忌明塔として知られたもののひとつであったという。06知恩院は法然上人が吉水の一画に草庵を結んだのが発端となり、最初は、今の勢至堂付近だけのもっと規模の小さかったものが、慶長年間に寺域を拡大、今日の大伽藍となったという。五輪塔は台座は見られず、直接地面に据えられ、細長い切石を井桁に組んで地輪の周りを囲んでいる。地輪は比較的背が低く、水輪は適度な横張があって曲線に硬さはない。ただ最大径が下方にあって重心が低い。あるいは上下逆に積まれている可能性がある。火輪の垂直に切った軒口はぶ厚く、隅に向かって反転する軒反は力強い。四注の屋だるみはさほど顕著でない。空風輪の曲線はスムーズで、ややくびれは強いがとりわけ07_2空輪の完好な宝珠形は申し分ない。各輪とも素面で種子、紀年銘等は見られない。高さ約277cm、地輪幅約104cm、同高約79cm、火輪幅約101cm、規模も大きく、各部のバランスも素晴らしい。緻密で良質な花崗岩製。各部素面、梵字も無く、銘も確認できない。しかし、表面の風化も少なく、遺存状態は極めて良好、エッジの利いた鋭い彫成をよく今に伝えている。かつてこの地には西大寺末寺の律宗寺院の速成就院があったとされ、この五輪塔はその旧物だということである。なるほど律宗系寺院などによくみる鎌倉後期様式の完成された典型的な大型五輪塔である。造立は恐らく13世紀末ごろと思われる。真偽のほどは怪しいが忍性の墓塔との伝承もあるらしい。いずれにせよ京都でも有数の見るべき五輪塔である。

参考:川勝政太郎 『京都の石造美術』 145ページ

   竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 50~51ページ

   (財)元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告


滋賀県 野洲市三上 御上神社縁束石

2008-03-30 11:50:13 | 台座・礎石

滋賀県 野洲市三上 御上神社縁束石

美しいコニーデ形の山容で近江富士として親しまれる三上山は、湖東のみならず、たいていの琵琶湖周辺地域からその優雅な山容を望むことができる。03孝霊天皇6年、ここに御上神社の祭神、天之御影命が降臨したと伝えられる。05三上山の西麓、神体山を拝する場所にある御上神社の創建は古代に遡り、平安時代には相当の社格で信仰を集めたことが確認される。おそらく先史時代の山岳信仰や磐くら信仰のようなプリミティブなところからスタートしていると思われる。楼門、拝殿、本殿が南北に並び、本殿左右に摂社がある近江でよく見かける典型的な社殿配置である。本殿、拝殿は鎌倉時代初め、楼門は南北朝期のものとされ、国宝、重要文化財に指定されている。近江はこうした古い神社建築が実にたくさん残っている点で奈良・京都に引けをとらない。優れた石造美術が多く残ることと様相が似ている。さて、三上神社の本殿は仏堂の要素をミックスした独特の社殿建築で、本地仏を阿弥陀如来とする神仏習合のなごりをとどめている。背面07を除く周囲に縁が設けられ、その柱を受ける束石(一種の礎石)は、石造美術として川勝博士により紹介されている。花崗岩製。直径36cm。本殿の4隅、左右に3個づつ、正面4個14、都合14個ある。平面六角形、側面は素面で上部は抑揚のある複弁反花で装飾されている。小花は見られず、一辺の中央に1弁、左右角に弁先がくるよう配されている。石灯篭や宝篋印塔などの石塔の基礎や台座と同じような意匠である。上端には円形の柱受座を刻みだし、その周縁部には連珠文を飾っていた痕跡がある。正面右端の個体の側面に横向きにして「建武二二年」(建武4年(1337年))銘があるとされるが半ば埋まってはっきり確認できない。この頃、本殿に縁部を補加したものと考えられている。三上山周辺の妙光寺山から東光寺山にかけて中世の寺院跡が集中し、戦国期に焼滅・退転するまでは神仏習合の一大信仰地域の様相を呈していたと推定されている。御神神社も応仁・文明の乱でしばしば戦場の巷となったらしく、近隣の寺社等の多くが焼亡したと伝えられる中、今日まで古い社殿が残っているのはまさに奇跡といえる。この他、鎌倉時代の木造狛犬が伝わる。これは石造の狛犬を考える上でも参考になる優品である。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 250~251ページ

   平凡社 『滋賀県の地名』 日本歴史地名体系 25


京都府 京都市東山区円山町 安養寺宝塔

2008-03-25 00:06:49 | 京都府

京都府 京都市東山区円山町 安養寺宝塔

桜の名所円山公園は今からの季節大勢の花見客で賑わいを見せる。13_2円山公園でも最も奥まったところ、安養寺の境外堂である吉水の弁天堂がある。さすがにここまで足を伸ばす人は少ない。ましてこの弁天堂の裏、崖下の狭い場所に京都でも有数の石造宝塔が隠れるように立っていることを知る人はけっこうな石造マニアといって過言ではない。花崗岩製。基礎は失われ、代わりに平らな自然石になっている。自然石をあわせた現高約3m、塔だけの残存高2.44mに及ぶ巨塔。塔身は首部と軸部よりなり円盤状の框座や匂欄部は見られない。軸部は最大径を高めにとった壺形で、短い首部の直線、肩から裾にかけての曲線は08_2スムーズで美しい。正面に扉型を薄肉彫し、扉は左右に開き、縦長の長方形の龕部を彫りくぼめ内に並座する如来坐像を半肉彫りしている。印相は風化により明らかでないが、頭頂の肉髻がはっきり見える。扉の召し合わせ部分と上下の長押には一段を設けて、手の込んだ表現である。法華経見宝塔品に説かれる多宝、釈迦の二仏を表す天台系の教義に忠実な意匠である。笠は大きく平らで、軒は厚く全体に緩やかな反りを見せ、若干内斜ぎみに切っている。笠裏には垂木型は見られない。四注はむくりを見せ低い隅降棟を削りだしているのが見られる。笠頂には低い露盤が表現されている。相輪は九輪の3輪目と4輪目の間で折れ、6輪目以上の先端部を欠く。低い伏鉢と彫りの深い単弁下請花の間に頸部を設けている。九輪は凹凸を非常に明確に刻みだし14_2ている。銘は見られず、造立年代は推定の域を出ないが、相輪や笠の形状は一般的な鎌倉後期の石造宝塔と15は一線を画する古調を示し、鎌倉中期、場合によっては前期末くらいまで遡る可能性がある。基礎が失われている点は実に惜しまれるが、低いどっしりとしたものであったことは想像に難くない。五輪塔や宝篋印塔とは一味違う宝塔の美しさをよく示す優品。なお、この石塔は天台の高僧、慈鎮和尚(歌人として有名、百人一首にも登場する前大僧正慈円)の塔との伝承がある。元より実証困難な伝承に過ぎないが、慈鎮は吉水と呼ばれたこの地に住んだとされ、法然上人は慈鎮和尚から吉水の一画を得て、それが今日の浄土宗総本山知恩院につながっていく。この地に天台系の教義に基づく古い石造宝塔が残っているということは、とりもなおさず、かつてこの付近が天台系の影響下にあったことを示しているといえる。石造美術に興味のある諸兄、円山公園に遊ぶ場合は八坂神社の石灯篭、それから少し離れるが知恩院の五輪塔とあわせてぜひ立ち寄って欲しい。

参考:川勝政太郎 『京都の石造美術』 89~90ページ

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 12ページ

   竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 46~47ページ

写真右上:笠と相輪下部の意匠・造形、写真右下:扉型内の二仏並座

塔身の肩のあたりの曲線、すぼまりぎみの裾、伸びやかな笠、悠々とした軒反、小生が宝塔に惹かれるのはこのあたりにあります。実に素晴らしい宝塔です。うーんわかってもらえましょうか・・・。


奈良県 奈良市藺生(いう)町 青竜寺宝篋印塔

2008-03-21 01:33:06 | 奈良県

奈良県 奈良市藺生(いう)町 青竜寺宝篋印塔

旧山辺郡都祁村は最近合併で奈良市になった。古来都介野とも呼ばれた標高400mを越える山深い高原地帯で、三陵墓古墳群や小治田安万侶墓などの古い遺跡も多い。02中世を通じ興福寺領で、東山内衆と呼ばれる土豪達が活躍、染田天神連歌講、あるいは中世城郭群や数多い石造文化財など興味深い活躍の痕跡を今に残している。06藺生は都祁の西南端の一番奥まった集落。青竜寺は集落の南のはずれのなだらかな尾根上に建っている。趣きのある茅葺の本堂、よく手入れされた明るい境内には五輪塔の残欠や石仏が散在する。境内入口の覆屋内にある石仏には建武銘があるとされるほか、境内無縁塔に室町後期の在銘石仏がいくつかあるという。本堂向かって左に一際目立つ宝篋印塔がある。角ばったレンガ状の石材を約2m四方に並べて区画した中に壇上積基壇を設けている。基壇は幅133cm、高さ約60cmで、長短の切石を方形に組んだ地覆の四方に束を立て羽目石をはめ込み、上にほぼ同大の長方形の板状の葛石を2枚載せている。葛石の外周下端には薄い一段を設けている。05羽目石は素面で格狭間は見られない。背面(南側)の羽目石上端中央に逆台形の穴が開けてある。この穴から火葬骨を基壇下の埋納施設に落としこんだものと思われる。したがって基壇は塔とワンセットのものと考えてよく、当初から現位置に建っていた可能性が高い。台座は見られず基壇上に直接基礎を据えている。塔は基礎から相輪まで完存している。基礎は上2段、側面は全て素面で背は低め、塔身は輪郭を巻き、大きい陰刻月輪内に雄渾なタッチで金剛界四仏の種子を薬研彫する。笠は下2段上6段。軒は薄め、かさ全体に比して隅飾はやや小さく、二弧輪郭付で軒と区別して先端に向かって緩く外反する。08 輪郭内は素面。相輪は珍しく露盤を一石彫成している。露盤側面は二区に区切って輪郭を巻き、内に格狭間を配する。この露盤を入れると笠上は7段になる。相輪請花は上下とも素弁、宝珠は下端のくびれにひ弱さはなく、重心を中央に置いて完好な曲線を描く。九輪の突帯彫成もしっかりしている。花崗岩製、塔高約225cm。刻銘は確認できない。笠の段形の立ち上がり、塔身種子の彫りともにエッジが利いてシャープな印象で、二区格狭間入り露盤を含めると笠上7段になる点は文応元年(1260年)銘の額安寺塔、弘長3年(1263年)銘の観音院塔に共通する特徴で注目してよい。清水俊明氏は1310年~1330年頃と推定されているが、基礎の低さと相輪宝珠の形状、隅飾の形状などから鎌倉中期末から後期初め、13世紀末ごろのものと思われる。①微妙に弧を描いて外反する小さめの隅飾、②相輪下請花が素弁、③基礎側面が素面、④塔身の輪郭といった大和系の宝篋印塔の特徴をいかんなく発揮している。基壇まで備え、各部揃った見事な宝篋印塔といえる。来迎寺の宝塔・五輪塔群や水分神社狛犬、観音寺層塔など石造美術の宝庫である都祁を訪れる際には何としても見ておきたい優品である。なお、清水俊明氏によると付近の白石にあった大宝篋印塔が大正初年に売られ、名古屋方面にあるという。『奈良県史』では正応4年(1291年)銘とあるが、『史迹と美術』294号に川勝博士が写真入りで紹介された正応6年銘という、昭和34年当時、白沙村荘にあったものと同一と思われる。川勝博士の記述を引用する「花崗岩製、高さ9尺3寸7分・・・中略・・・複弁反花座が据えられ・・・中略・・・基礎側面は無地で、一面に刻銘がある。正応6年癸巳/五月五日造立也・・・中略・・・塔身は・・・中略・・・周辺に輪郭を巻くものであって月輪内に金剛界四仏の梵子を現す。笠では隅飾は観音院のと同様に、無地の二弧であるが、直立せずやや開いている。」写真を見る限り青竜寺塔によく似るがより基礎が低い。青竜寺塔の造立年代を推定するヒントになるだろう。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術 364ページ

   川勝政太郎 「石造美術講義(18)」『史迹と美術』 294号

   平凡社 『奈良県の地名』 日本歴史地名体系30

写真左下:基壇羽目石上端に穴あるのがおわかりだろうか

ちなみに都祁地域は石造美術の宝庫ですが、旧白石塔のように流出してしまったものも多いようです。来迎寺の嘉暦2年銘十三重層塔は大正8年売却され現在神戸市須磨寺にあるというし、水分神社の永仁3年銘の石灯篭は早く江戸時代に流出、今は大阪の個人所有になっているようです。そういえば最近、運慶作といわれる仏像がオークションにかけられたニュースがありましたが、こういうことを聞くと心が痛みます。石造美術は、たとえ現在個人の所有地にあっても、元々個人の所有物として造立されたものではありません。金に任せた好事家、それにつけこむブローカーは言うまでもなく、たまたまその時の土地の所有者や住職などが売ってしまうなど、例えその時の法律は許しても、人間として日本人として先祖と子孫に顔向けできない恥ずべきことだと思います。公開されている場合はまだましですが、死蔵されているような場合は深刻です。石塔造立の功徳により衆生の幸福を祈願した先祖達の心に思いを致し、2つとない日本の、そして地域の財産として子孫のためにいつまでも守り伝えていくべきです。好事家の趣味の対象として取引されるようことは2度と繰り返されてはいけないことだと思います。今からでも可能な限り元に戻していただきたいと思います。


奈良県 生駒郡平群町鳴川 千光寺宝塔

2008-03-19 00:08:58 | 五輪塔

奈良県 生駒郡平群町鳴川 千光寺宝塔

千光寺は役小角が大峰山に移る前に修業したと伝える山岳霊場で、元山上と呼ばれる。真言宗醍醐派。07本堂裏の一段高いところに近世の五輪塔と並んでこの宝塔がある。高さ133cm、花崗岩製。宝塔といっても一見したところでは五輪塔に見える。五輪塔と呼んでも差し支えない。03あえて宝塔とするのは、塔身に首部が設けられていること、笠頂部に露盤が見られることによる。非常に低い基礎、塔身は横張りが弱く樽型で上端に高さ2.5cm程の段を付けて低い首部を削りだしている。笠は全体に高く、軒口は薄く全体に緩く反る“真反り”に近く、四注の屋だるみも緩い。軒口は心なしか内斜気味に切ってあるようにも見える。笠裏に垂木形は見られない。上端を広めにとっているせいか屋根の傾斜がきつく見える。笠頂部に低い一段を設けて露盤を表現している。通常の宝塔では相輪とするところを伏鉢と宝珠としている。伏鉢も塔身に似て樽型で押しつぶしたように上下に短い。宝珠との境に頸部を設けるのも古い手法。宝珠は全体になだらかなカーブを描きながら先端を尖らせ下端を水平気味にそろえて最大径を下にもってくる。川勝博士いわく「蓮の蕾の下方を切りとったような」形状を呈し古風な宝珠の意匠表現である。02_2各部素面で刻銘、種子等は見られない。造立年代は鎌倉初期とされている。こうした珍しい形状は他に比較する材料が少ないため、確かなことはいえないが、笠がやや高い点を除けば平安末期とされる当麻北墓の五輪塔(2007年3月3日記事参照)と全体のプロポーションに通じるものがあるように思う。むしろ五輪塔の祖形が宝塔にあるとの考え方に立てば、千光寺塔がより古いとの見方も成り立ちうる。09一方、当麻北墓塔の石材は凝灰岩、千光寺塔は花崗岩である。凝灰岩は平安期の石塔に多く採用され、花崗岩の採用が一般化するのは東大寺再建に伴い来日した伊派をはじめとした宋人石工の活躍により石材加工技術が発展するようになる鎌倉時代初期以降とされている。もっとも凝灰岩は鎌倉期にも見られるし、鎌倉以前の花崗岩製品がないわけではないが、大きな流れとして捉えるならば凝灰岩は古く花崗岩は新しいとの考えは概ね正しいと思われる。原始的な形態をとどめているとはいえ、宝珠や塔身の曲線、四注の屋だるみや軒反など千光寺塔の造形は一定レベルに達した花崗岩加工技術がなければ彫成しえない可能性が高いと思われる。このように考えてくると千光寺塔の造立年代は13世紀初めごろとして大過ないと思われる。なお、寺蔵の梵鐘に「大和国平群郡千光寺 元仁2年(1225年)乙酉四月日」の銘があり、これはそのころ千光寺の何らかの施設整備が行なわれた可能性を示すもので、このあたりもヒントになるだろう。すぐそばに鎌倉後期と思われる十三重層塔がある。壇上積の基壇を備え、低い基礎は側面素面、雄渾な金剛界四仏の種子を塔身側面月輪内に薬研彫し、厚めの軒口と適度な軒反と各層の逓減も美しいが惜しくも相輪先端を欠く。花崗岩製で高さ約3.5m。鎌倉時代後期半ば頃のものと思われる。

 

左下写真:最も古い形態の”五輪塔”と江戸時代前期と思われる新しい五輪塔が仲良く並んでいます。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 149ページ

   元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告

   清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 428~429ページ

   平凡社 『奈良県の地名』日本歴史地名体系30 65~66ページ

 

 

この他にも鳴川には優れた磨崖仏や弘安4年銘のゆるぎ地蔵など見るべき石造美術が多いので、また別途紹介します。

 


奈良県 生駒郡平群町鳴川 鳴川墓地五輪塔

2008-03-16 09:15:14 | 五輪塔

奈良県 生駒郡平群町鳴川 鳴川墓地五輪塔

山深い鳴川の一番奥にある古刹千光寺からさらに奥に山道を登っていくと行き止まりに共同墓地がある。04尾根斜面の雑木林は段々に整地され墓塔が立ち並び、墓地入口には小形の五輪塔や一石五輪塔、箱仏などが集められている。09この尾根のピークを低い土壇状に整形し、中央に角張った自然石を不整形に組み並べた上に五輪塔が立っている。花崗岩製で高さ約195cm。全体に表面の風化が進んでいる。地輪、水輪、火輪の四方側面に大きくア・バ・ラの五大の種子を雄渾かつ端正なタッチで刻む。四面とも東方発心門のようである。幅広くで彫りの浅い薬研彫で、空風輪にあるべきキャ・カの種子が風化のせいか見られない。全体的なバランスとしてもやや小さいので空風輪は別物の可能性が残る。地輪は低く安定感があり、水輪は小さめで横張り感は少なく、裾のすぼまりがなく上下に押しつぶしたような形状。種子の向きが斜めにずれている。火輪は全体に低く、軒口はそれ程厚くなく、隅増しのあまりない反り、四注の屋だるみともに緩く伸びやかな印象を与えている。鎌倉後期の大和系五輪塔に通有する反花座は見られない。こうした特長は、文永10年(1273年)銘の生駒市興融寺五輪塔、笠木寺解脱(貞慶)上人五輪塔などと概ね共通する古い意匠表現で、鎌倉後期様式が定型化する以前の古調を示す。造立時期は鎌倉中期、13世紀中頃まで遡らせて考えることが可能である。古い墓地の惣供養塔であろう。規模も大きく、雄大な種子が印象に残る優美な五輪塔である。いつまでも静かに墓地を見守っていてほしいものである。

先に紹介した不退寺裏山墓地五輪塔(2008年2月記事参照)の写真と見比べてみればよくわかると思いますが、ここの五輪塔は、律宗系の五輪塔の厳しさすら感じさせる剛健な力強さとは明らかに趣きを異にしています。何というか伸び伸びとしてどことなく神秘的です。品があって優雅で、とてもいい感じです。なお、千光寺の石造宝塔等をはじめ付近には見るべき石造美術がいくつかありますが、これらは改めて別途紹介します。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 428ページ

   元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告

妄言:実測による数値や形式分類といった客観的合理性を伴う学問的アプローチで石塔などの相違や変遷を追及していくことは保存保護を考える上からも重要ですが、意匠表現が視覚的に与える効果など、なかなか数値で測りにくいところもあります。価値を価値として認識するのは結局のところ一人ひとりの人間ですので、いいものはいいんですといえる感覚を醸成していくことがまずは第一歩になると考えています。静かな木漏れ日の下でこうした優れた五輪塔の持つ雰囲気や趣きをじっくり味わうことも実はとても大切なことだと思います。


奈良県 吉野郡吉野町山口 薬師寺宝篋印塔

2008-03-12 23:10:24 | 奈良県

奈良県 吉野郡吉野町山口 薬師寺宝篋印塔

山口神社の西、国道と谷筋を挟んだ山裾、集落の最高所にあって眺望はすごぶる良い。薬師寺は田舎の集落によく見られる小さいお堂で、地区の会所のような状態になっている。01_3正面石段を上り、向かって左手、石柵内に宝篋印塔がある。花崗岩製で複弁反花座上に立ち、相輪を欠いて五輪塔の空風輪が載せられている。元は寺の西方の山林中に石塔類が散乱する場所から運ばれたらしい。02_2したがって寄せ集めの可能性が高い。しかし、笠と基礎は風化の程度、石材の質感、サイズ的な釣り合いから一具のもの考えてよいと思われる。川勝政太郎博士によれば、台座と塔身は別モノで、塔身は層塔の初重軸部の転用であるとのことである。何ともいえないが、確かに笠と基礎に比べこの塔身はやや大きい印象で、バランスが良くない。やはり別モノと考えるのが自然かもしれない。あるいは別の宝篋印塔の塔身かもしれない。塔身側面に大きく陰刻した月輪内いっぱいに薬研彫で刻まれた金剛界四仏の種子は、非常に雄渾で力強い。基礎上2段、側面四面とも素面で、背が少々低い点を除くと取り立てて特徴はないが、一側面に四行にわたり「父母師長/往生安楽/建治四年(1278年)/願主□□」の銘文が刻まれているという。四行にわたる文字は認められるが、肉眼では判読できない。03_2一方、笠には珍しい特徴がある。笠下2段は通常だが、笠上は3段を経て4段目の上端が四注状に傾斜をもって頂部平面につながっている。この四注部分隅降棟の辺長はごく短く直線的で、天理市長岳寺五智墓にある宝篋印塔の残欠によく似ている。奈良市須川町の神宮寺宝篋印塔のように若干の屋だるみをもって削りだした露盤につなげていく手法に比べるといささか簡略化した感じがある。05_2二弧素面の隅飾突起は軒から入って直線的にやや外傾して立ち上がる。軒の厚みは割合少ない。別モノとされる台座は風化が激しいが四弁の複弁反花付き、よく見られるタイプのもので、反花の傾斜の緩やかさが古調を示し、少なくとも鎌倉末期は降らないと思われる。建治4年は奈良県の在銘宝篋印塔では4番目に古い。屋蓋四柱形の宝篋印塔に年代的な指標を与えるものとして貴重。重要文化財に指定されている。現高約85cmと元はせいぜい5尺塔程度だろう。この宝篋印塔は先行する輿山塔、額安寺塔、観音院塔の3基に比べるとずいぶんと小さい。中・小形の宝篋印塔基礎で無銘素面の残欠や寄せ集めはいろいろな場所でよく見かける。こうしたサイズのものが13世紀後半段階で数多く造立されていたかどうかはわからないにしても、小さい無銘素面の残欠を一概に室町時代以降のものと片付けてしまうことの危うさを示している。

なお、石柵脇の手水鉢の下にもう一つ別の複弁反花座がある(写真右下)。大きいものではないが、やはり反花の傾斜が緩く、全体に扁平で、反花端が側面端よりかなり内に入り込む。低い側面を二区の長方形の輪郭状に区切って彫りくぼめ、内部に格狭間を入れている。反花座側面を輪郭状に区画して格狭間を入れる手法は桜井市粟殿墓地正平3年塔、天理市苣原の五輪塔台座や京都府加茂町西小墓地五輪塔で見たことがある。これは関東の石塔台座に多いスタイルで大蔵派系統の意匠にも通じる手法。座受部分の一辺に底に貫通する埋納穴と思われる小穴がある。(なかなかおもしろい反花座ですので見落とさないでくださいね。)

参考:佐々木利三 「屋蓋四柱形の石造宝篋印塔について」『史迹と美術』588号

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 266ページ

   清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 514~515ページ


京都府 木津川市加茂町美浪 西光寺墓地五輪塔

2008-03-11 00:26:17 | 五輪塔

京都府 木津川市加茂町美浪 西光寺墓地五輪塔

区画整理と開発が進む加茂駅周辺を見下ろす丘陵斜面に広がる共同墓地がある。入口に無縁石塔が大量に集積され、中世末期から近世初めの小形の五輪塔や背光五輪塔などが多数みられるほか、相撲取のものと思われる近世の石塔が何基かあって興味深い。墓地の北側に西光寺がある。さほど大きくない境内は、広い墓域に囲まれ墓寺の観がある。境内南隅に立派な五輪塔3基が、切石を長方形に組んだ基壇状の区画内に南北に並んでいる。02いずれも良質な花崗岩製、各輪素面で梵字は見られない。便宜上北塔、中央塔、南塔と呼ぶ。北塔は繰形座上に立ち、高さ約146cmと3基の中では一番小さい。01地輪は高すぎず低すぎず、水輪はやや重心が高く裾すぼまり感が強い。火輪は全体に低めで軒口は厚く軒反はやや力が抜け下端より上端の反りがやや勝る。空風輪は完好な曲線を描く。全体的なバランスも整い総じて温雅な雰囲気がある。中央塔は大和系の反花座を備え、高さ約165cm。地輪の比高はやや大きい。水輪は北塔よりも裾すぼまり感が小さく、03美しい曲線を描く。火輪は3基中で最も軒厚く、軒反に力があり、その分屋だるみも強い。一方、風輪の曲線はやや硬く、空輪は大きく重心が高いので球形に近く、くびれも強い。南塔は高さ約155cmで台座がなく、代わりに平らな長方形の切石2枚を基壇状にして地輪下に敷いている。地輪と水輪は中央塔とほぼ同一規格だが、やや地輪の比高が低い。火輪の軒反は力強いが軒口の厚みは中央塔に及ばない。空風輪の曲線は硬く、空輪先端の尖りが3基の中では顕著である。3基ともよく似た規模で、各部の特長、新旧の要素に混乱があって各部が入れ替わっている可能性は残る。鎌倉後期から南北朝時代にかけて相前後して造立されたものと考えられる。また、北塔の繰形座は、叡尊塔をはじめ西大寺流の高僧墓に多く見られることから注目してよい。さらに、墓地の中央付近、近・現代の墓塔に混じって一際立派な五輪塔があるのが見える。花崗岩製、高さ約185cm、西光寺境内の3基に比べると表面の風化がやや進行している。最近補加された真新しい切石が地輪下に見られるが、台座は見られない。各輪に五輪塔四門の梵字を大きく薬研彫し、書体は雄渾かつ端正。ただし方角は各輪バラバラのようである。地輪は高すぎず低すぎず、水輪はやや小さめで裾すぼまり感のない整った球形で古調を示す。火輪の軒は厚く軒反は全体に緩く反る感じである。空風輪のくびれは強いが曲線はスムーズで空輪の重心は低い。火輪の軒や水輪、各輪の雄大な梵字など随所に古調をとどめるが、空風輪の形状、線が細めで彫りの深い薬研彫の手法を鎌倉中期にまで遡らせるには若干躊躇を感じる。鎌倉後期形式が定型化する直前、鎌倉中期末~後期初頭ごろの造立とみたいがいかがであろうか。旧加茂町を含む南山城地域は見るべき石造美術が集中する一大メッカ。川勝博士が指摘されるように、京都とはいっても石造美術の文化圏としては大和に属する。

参考:元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告

   川勝政太郎 『京都の石造美術』

写真上:右が北塔、写真中:手前が北塔、写真下:墓地塔(写真下だけは撮影日時が異なります。)

ひとつの場所で4基も見ごたえのある五輪塔が揃う例はそうそうないのでお勧めです。


京都府 向日市物集女町 来迎寺宝篋印塔並びに両部曼荼羅板碑

2008-03-03 23:56:53 | 京都府

京都府 向日市物集女町 来迎寺宝篋印塔並びに両部曼荼羅板碑

京都府向日市物集女付近も都市周辺部の宿命とはいえ例に漏れず開発が進み、かつての街道沿いの農村の痕跡すら探すことが難しくなってきている。南側100m足らずのところには物集女城跡があり土塁や堀が残る。01さらに南東約500mには古墳時代後期の前方後円墳として有名な物集女車塚古墳が窮屈そうに団地内の緑地に収まっている。浄土宗西山派紫雲山来迎寺の狭い境内の北に接して広い府道140号線が東西に走る。昔からの集落にある小寺院という原風景は失われつつある。09南面する山門をくぐると正面の本堂、右手の収蔵庫ともに鉄筋コンクリートで収蔵庫の南側、白壁沿いの狭いスペースに両部曼荼羅板碑と宝篋印塔が並んで立っている。宝篋印塔は東側にあって高さ約164cm、総花崗岩製で基礎から相輪まで完存している。基礎は割合低く、側面は3面に輪郭を巻いて内に格狭間を配する。背面は格狭間がなく数人の願主名と貞和4年(1348年)2月の紀年銘があるというがはっきり確認できなかった。貞和4年は北朝年号で南朝年号では正平3年にあたる。格狭間内は素面。基礎上は反花式で複弁の抑揚のあるタイプ、両隅弁間に小花を挟んだ中央弁1葉、都合一辺3弁で弁先が側面からかなり入り込んでいる。塔身受座は比較的高く削り出している。塔身は金剛界四仏の種子を陰刻月輪内に薬研彫する。タッチは端麗ながら力強さに欠け温和にまとまった感じである。笠は上6段下2段の通有のもので、軒が薄い印象。二弧輪郭付の隅飾は軒から入って直線的に外傾する。カプスの位置をやや低く隅飾基底部分を少し幅広めにしている。相輪は九輪部6輪目と7輪目の間で折れているのをうまく接いである。伏鉢下請花は複弁、九輪の凹凸ははっきりしたタイプで上請花は風化が激しいが単弁のようである。宝珠はスムーズな曲線を見せるが重心がやや上にあって上請花との間のくびれが大きい。薮田嘉一郎氏は「鎌倉前期に創始され、後期に完成された石造宝篋印塔の様式はこの時代に至って円熟し、やがて頽れて行くのであるが、本塔はやや古様を保ち、最も整備温和の麗姿を見せる。10蓋し鎌倉様式掉尾を飾る一名品であろう。」と評されている。一方、両部曼荼羅板碑は高さ156cm、幅91cm、厚さ33cm、やや不整形長方形で良質な凝灰岩の正面を平らに整形し、上端は破損しながら額部状に突出させているのが判然としているが左右の破損面も同様に突出して中央平面部を囲むようになっていた可能性も否定できない。そうするとやはり川勝博士が推定されるように古墳の石棺を2次利用したものなのかもしれない。下端は楕円形素弁を二重鱗状に配している。正面の平らな面には上下に大きく2つ平らな丸いレリーフを設けている。上レリーフは胎蔵界の中台八葉院を表す八葉の蓮華で、中房にアーク(大日如来)を配し、上から時計周りにア(宝幢)、アー(開敷華王)、アン(弥陀)、アク(天鼓雷音)の4仏、右上にアン(普賢)、右下にア(文殊)、左下にボ(観音)、左上にユ(弥勒)の4菩薩の種子をそれぞれ蓮弁内に大きく薬研彫する。中央アークが大きく、4菩薩より4仏の種子がやや大きい。下のレリーフは陽刻円相内を細い2条の陰刻線で縦横に区切り、中央にバン(大日)、上にキリーク(弥陀)、右にアク(不空成就)、下にウーン(阿閦)、左にタラーク(宝生)の5仏の種子をそれぞれ陰刻月輪内に薬研彫している。金剛界曼荼羅成身会を表す。中台八葉院で胎蔵界を、成身会で金剛界の両部曼荼羅をシンボライズする。胎蔵界では西方弥陀のアンが下に、金剛界ではキリークが上にくるので両界共通の西方の弥陀が全体の中央に寄るようになっている。石棺を利用し両部曼荼羅を刻みだした塔婆ないし石仏の一種で、いわゆる板碑として明確にカテゴライズできるものではないのかもしれない。石造の両部曼荼羅は関東の板碑にもちょくちょく見られるようだが、このあたりでは非常に珍しい。力強い種子の書体、威風堂々として野趣溢れる作風は見るものを圧倒する。造立年代は不詳とするほかないが、川勝博士は南北朝時代前期のものと推定されている。寺蔵の平安後期の薬師、阿弥陀の木像とともに、もともと付近にあった薬王山光勝寺(廃寺)の旧物ということである。

参考:川勝政太郎・佐々木利三 『京都古銘聚記』 132~133ページ

   薮田嘉一郎 補考付『宝篋印塔の起源 続五輪塔の起源』 裏表紙及び163ページ

   川勝政太郎 『京都の石造美術』 175ページ

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 272ページ

   竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 190~191ページ