石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 蒲生郡竜王町小口 本誓寺宝篋印塔

2008-07-19 11:51:13 | 宝篋印塔

滋賀県 蒲生郡竜王町小口 本誓寺宝篋印塔

先に紹介した善法寺から東にわずか約150m、街道(県道165号春日竜王線)の東に面して牟礼山本誓寺(浄土真宗仏光寺派)がある。07本堂前、境内南側に基礎から相輪まで揃った宝篋印塔が立っている。花崗岩製で高さ約171cm。五輪塔の地輪のような無地の四角い切石の上に立っている。傍らには層塔の笠石や一石五輪塔、小形の宝篋印塔の基礎などが集めらている。基礎は上2段で側面四面とも輪郭を設け、格狭間を配して内側面に、開敷蓮花のレリーフを刻んでいる。側面の高さに対する幅の割合が大きく安定間がある。06格狭間は肩が下がらず、側線がスムーズで脚部は短く、概ね整った形状を示す。開敷蓮花のレリーフは立体的に張り出している。塔身は高さよりやや幅が勝り、北西側正面を除く3面には蓮華座上月輪を線刻した中に南西側「タラーク」、背面南東側に「ウーン」、北東側に「アク」の金剛界四仏の種子を、雄渾とはいえないが端整なタッチで薬研彫している。本来「キリーク」があるべき北西側には幅広の舟形背光を彫りくぼめ、合掌する俗形坐像を半肉彫りしている。風化摩滅が比較的少なく可憐な表情が実に印象的で、衣文は明らかでないが襟や袖が表現されている。これについて佐野知三郎氏は「僧形と思われる合掌坐像」とし、田岡香逸氏は「合掌する地蔵坐像」とされている。笠は上6段下2段。軒と区別してやや外傾する隅飾は3弧輪郭付で、輪郭内には蓮華座上の月輪を平板に陽刻している。各面とも月輪内に地蔵菩薩の種子と考えられる「カ」を陰刻するというが肉眼では確認できない。相輪も完存し下請花複弁、上請花は小花付単弁、先端宝珠は重心がやや高い。九輪の逓減は目立つ方ではないが、伏鉢や上下請花、宝珠などの曲線部に硬い感じが出ている。03造立年代について、佐野氏は「鎌倉後期後半を過ぎるものと思われる」とされ、田岡氏は鎌倉後期後半式で1320年ごろとされている。構造形式・意匠表現が完成し定型化した近江の宝篋印塔のアイテムをほぼ押さえ、彫成も全体に抜かりなくいきとどいた感じだが、相輪の仕上がりや格狭間の脚部など細かいところに雑さが見て取れる。基礎の張り出し気味の開敷蓮花、幅広の塔身なども新しい要素である。佐野、田岡両氏の指摘のとおり、鎌倉末期頃として大過ないものと考えられる。なお、田岡氏は笠の隅飾内に地蔵菩薩の種子「カ」を見出され、さらに塔身に阿弥陀仏の「キリーク」に代わって刻まれた像容を地蔵菩薩と判断され、「六道能化の地蔵菩薩に引接され、弥陀の浄土に安住できるという信仰にもとづくものであるから」同じ浄土信仰に通じる旨を指摘されているのはさすがだが、僧侶も出家俗人も、そして地蔵菩薩にしても皆「僧形」であり、持物や印相により判定するのが常道である。浄土に引接される造立主の俗人出家の合掌姿である可能性も残ることから、地蔵菩薩と断定するには、もう少し慎重さが必要と思われる。

参考:佐野知三郎 「近江石塔の新史料」(六) 『史迹と美術』426号

   田岡香逸 「近江竜王町の石造美術―鏡・薬師・七里・小口―」『民俗文化』 125号

   池内順一郎 『近江の石造遺品』(上) 235~238ページ

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 173ページ

田岡香逸氏は「像容の解釈が十分でない」とか「本稿によって補正されるべきである」など佐野氏に対して礼を欠くような記述をされていますが、これはいただけません。小生は冷静で慎重な佐野氏の姿勢を支持したい。池内順一郎氏も指摘されているように、田岡氏はどうも一言多いので、損をされているのではないでしょうか。ともあれ、今日小生がこうして石造美術と邂逅でき、その素晴らしさに触れることができるのは、川勝博士はいうまでもなく、田岡氏をはじめとする先人の業績と学恩のおかげであり、こうした先人への敬意と感謝の気持ちを常に忘れず、謙虚な態度で粛々と、理解を深めていくことが大切と感じています、ハイ。


滋賀県 蒲生郡竜王町小口 善法寺宝塔

2008-07-17 01:15:14 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 蒲生郡竜王町小口 善法寺宝塔

先に紹介した島八幡神社宝塔から南西に1km余、町の中心綾戸の西隣が小口で、集落の西寄り、祖父川の堤防に近いところに音響山善法寺(浄土宗)がある。境内西側の墓地の入口、少し高い植え込みの中に石造宝塔が立っている。Photo基礎から相輪まで欠損のなく揃う。花崗岩製で高さ約172cm。植え込みのツツジが基礎を左右から覆い確認しづらいが、切石の基壇をしつらえて基礎を据え側面四面とも輪郭を巻いて格狭間を入れており、格狭間内には南側、北側に三茎蓮、西側に開敷蓮花、東側に散蓮(一弁)のレリーフを刻んでいるという。002格狭間は輪郭内いっぱいに広がり、肩はあまり下がらず、側線は豊かな曲線を描き、脚部は短く、脚間は狭い。輪郭、格狭間ともに彫りは深いものではなく、内面は概ね平坦に調整している。三茎蓮は口縁部だけの宝瓶から立ち上がる左右非対称の意匠で、二面ともほぼ同じ。開敷蓮花と散蓮は植え込みに完全に遮られて見えない。塔身は軸部と首部からなり、その間に縁板(框座)を円盤状の回らせている。軸部には上下に長押状の突帯を回らせ、その間に扉型を四方に平板な陽刻で表現している。亀腹部の曲面は極めて狭く、比較的厚めで高いしっかりした縁板(框座)部を経て首部に続く。素面の首部の立ち上がりは垂直に近く、匂欄の段形は見られない。笠裏には中央に円穴を穿って首部を受け、続く2段の段形は内側は斗拱型、外側は垂木型を表すものであろう。垂直に切った軒口はあまり分厚いものではない。軒反は上端では力強いが下端は平らに近く、厚みのない軒口とあいまってスッキリした印象を与える。四注には隅降棟を断面凸状の三筋の突帯で表現し、露盤下で隣接する左右の隅降棟の突帯が連結する。笠頂部にはやや低めの露盤を刻みだしている。03相輪は上請花と九輪最上部の境に折れているが上手く接がれている。ドーム状の伏鉢、下請花は複弁、九輪は逓減がやや強く凹部は沈線に近づいている。上請花は小花付単弁、宝珠とのくびれが目立つ。宝珠は重心が高く、先端には尖り部が見られる。無銘ながら基礎の近江式装飾文様3種を使い分けるバリエーション、塔身の扉型や三茎蓮に見られる線の細い繊細な意匠、笠の軒口のスッキリした印象など、重厚さや力強さはあまり感じられず、整美で繊細な感じが漂う。全体として非常によく似た構造形式、意匠ながら相輪の形状は正和5年(1316年)銘の島八幡神社塔よりも若干新しく、鎌倉時代末期頃の造立年代が想定される。10なお、佐野知三郎氏は鎌倉後期後半、田岡香逸氏は南北朝前期1350年頃とそれぞれ推定され、池内順一郎氏は佐野氏を支持されている。善法寺はもと天台宗で、西方山中に伽藍を構えていたが天文年間に浄土宗転じ、さらに元禄年間現在地に移転したといい、宝塔もその際、山中から移されたものとされている。無銘ながら近江の石造宝塔としての一典型を示すもので、表面の風化もあまりなく、その上各部欠損なく揃っている点で希少価値の高い存在といえる。なお、墓地の入口に石造物の残欠などが集積された一画があり、その中に変わった一石五輪塔?を見つけた。花崗岩製の小さいもので、基礎の半ばは地中に埋まっている。空風輪が相輪になっており、五輪塔ではなく宝塔と思われる。「一石宝塔」というのは極めて珍しい。一石五輪塔の手法を踏襲した戦国時代頃のものと思われ、その頃の宝塔のあり方を考える上で興味深い。

参考:佐野知三郎 「近江石塔の新史料」(六)『史迹と美術』426号

   田岡香逸  「近江竜王町の石造美術―鏡・薬師・七里・小口―」『民俗文化』125号

   池内順一郎 『近江の石造遺品』(上) 232~234ページ

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 173ページ


滋賀県 蒲生郡竜王町島 八幡神社宝塔

2008-07-15 23:18:41 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 蒲生郡竜王町島 八幡神社宝塔

竜王町の中央、役場や苗村神社のある綾戸の北西にあるのが島で、県道541号から西に入って集落を抜けると、北側の水田の中の一画に石造物が集積されている場所がある。09もとは集落東方の八幡神社のお旅所があったところとされ、川勝博士の紹介文には「道端の木立の下に島の八幡神社に属する宝塔が見える」とある。今は水田の中にぽつんと取り残された小さな蕪荒地である。昭和47年の田岡香逸氏の報文では、既に現在と同様水田中にあることがわかる。また、ここは古屋敷、堂田という小字らしく、池内順一郎氏は往昔、ここにお堂があった可能性を指摘されている。11_2小形の五輪塔の部材や石仏、一石五輪塔に囲まれ石造宝塔が中央に立っている。基礎は半ば地面に埋まり、相輪の先端を欠いた状態での現在高約150cm、花崗岩製。地面に埋まっている基礎の下半はハッキリ確認できないが、各側面壇上積式とし、羽目部分に格狭間を配し、北面のみ三茎蓮、残り3面は開敷蓮花のレリーフを格狭間内に刻出する。格狭間はかなり肩が下がった形状を示す。塔身は軸部と首部からなり、縁板(框座)で仕切られている。軸部はやや下すぼまりの円筒形で、下端と亀腹部の曲面との境に平らな突帯を鉢巻き状に回らせ、06_2その間に四方の扉型を薄い突帯で表現している。亀腹の曲面部は狭く、10高い突帯で縁板(框座)を円盤状に刻みだし匂欄部の段形をつけずに素面の首部に直接つないでいる。首部は大きく、下が太く上が細い。西側の扉型の左右の扉面と北側の扉型間のスペースに4行にわたり「正和五年(1316年)/丙辰十月廿五日/一結衆造立/之」の刻銘が肉眼でも確認できる。笠は笠裏に2段の垂木型を設けている。軒口はあまり分厚い感じは与えず、上端の軒反に比して下端が割合平らになっている。四注隅降棟は断面凸状の三筋の突帯で、露盤下で左右が連結する。頂部には露盤が方形に立ち上がる。相輪は九輪の7輪目までが残り、それより上部を欠いている。伏鉢は側辺にさほど硬さもなくまずまずの曲線を見せ、下請花は複弁で九輪の凹凸もやや彫りが浅いがそこそこはっきりしている。全体に表面も風化も少なく、シャープな感じの彫りがよく残っている。苔もほとんどみられず緻密で良質な花崗岩の白さが、さえぎるもののない周囲の広い水田と遠くに望む丘陵の風景によく映えて眩しいくらいである。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 115ページ

   川勝政太郎 『近江歴史と文化』 134ページ

   池内順一郎 『近江の石造遺品』(上) 215~216ページ

   田岡香逸 「近江蒲生郡の石造美術―竜王町・近江八幡市―」『民俗文化』109号

計測値における若干の誤差はやむないものとして、田岡香逸氏、池内順一郎両氏によれば基礎下端から相輪残存部の頂までの高さを約165cm程度と報じられてますが、川勝博士は高さ195cmとされており、約30cmの差は謎です。そばに相輪先端部分が転がっており、(写真左下参照)195㎝というのはこれを含めた計測値なのかもしれません。ただ、この相輪先端部は大きさや形状、石材の質感、概ね適当なものですが、なぜか接合面が整合しないのでやはり別物か、不整合を補う小破片が亡失している可能性があります。ここ竜王町も見るべき石造美術の豊富なところ、わけても宝塔が比較的多いところです。写真右上:ポツンと水田中にまさに島のように取り残された土壇に立つ宝塔。写真右下:銘文がおわかりでしょうか…。撮影日時が異なるので、写真の色調がずいぶん違っちゃってますね、すいません。ちなみに重要文化財指定、流石です、ハイ。


滋賀県 東近江市五個荘三俣町 称名寺宝篋印塔

2008-07-08 19:02:35 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市五個荘三俣町 称名寺宝篋印塔

旧五個荘町三俣の集落ほぼ中央を東海道新幹線の高架が南西~北東に抜け、大同川が南北に流れる。新幹線と大同川が交わる場所のすぐ北西側に天台真盛宗木龍山称名寺がある。01境内東側はブロック塀に囲まれた境内墓地になっており、北側中央付近のブロック塀沿いに立派な宝篋印塔がある。相輪は失われ、小形の宝篋印塔の笠と相輪の九輪部の残欠が載せてある。花崗岩製、笠頂部までの現在高約115cm。基礎幅約64cm、笠の軒幅約55cm。上2段式の基礎はおよそ1/4程度がモルタルで塗り固められた地表下に埋まっている。したがって下端は確認できない。14側面は各面とも輪郭を巻いて格狭間を配し、格狭間内には三茎蓮のレリーフがある。輪郭は左右の束部がかなり広く、格狭間はやや肩が下がり気味で彫りは深い方である。基礎上の段形は風化が激しく角がとれているが逓減が大きく、塔身までの奥行きがあって懐が深い。塔身は基礎、笠に比べやや小さく、天地逆に積まれている。幅に比して高さが勝る。金剛界ないし顕教四仏と思しき種子が月輪内に薬研彫されているようだが風化が激しく東側「キリーク」以外は判然としない。西方阿弥陀仏の「キリーク」が東面するので、方角も逆になっている。笠は上6段、下2段、軒と区別した長大な隅飾が目を引く。やや外傾して先端は笠上の5段目に達する。輪郭を巻かず素面で各面に「ア」と見られる種子を陰刻する。池内順一郎氏は三弧と報じておられるが笠上2段目相当の高さに茨を設けた二弧に見える。各段形は垂直に立ち上がらず、やや傾斜し、軒幅に比して頂部が小さく逓減が大きい。無銘。全体に表面の風化が激しいが、各部石材の質感にさほど違和感はなく、一具のものと考えて支障ないと思われる。素面に種子を刻む長大な隅飾の意匠は類例が少ない独創的なもので、この塔の個性が強く出ている部分である。類例が少ないということは造立年代の推定が難しいということにつながる。基礎輪郭の左右の束の広い点、奥行きのある低い基礎のフォルム、幅よりも高さの勝る塔身、長大な素面の隅飾などは古調を示す特長といえる。一方で隅飾がやや外傾する点、格狭間の形状、段形の彫りの甘さなどは新しい要素と考えることができる。こうした要素のうち、新しい要素にも注意を払わなければならないが、古い要素の方がより確度が高いファクターになり得うると考えたい。07_2これらをトータルで考えると、鎌倉後期前半台、恐らく13世紀末から14世紀初頭頃の造立と推定しておきたい。なお、池内氏は基礎の比高、格狭間の形状から南北朝前期と推定されている。なお、宝篋印塔のすぐ東側には、宝塔のものと思しき基礎に五輪塔の残欠などを積み重ねた寄集塔がある。宝塔の基礎については、上端に不自然な凸凹があることから、宝篋印塔の基礎の段形をはつった可能性を池内氏は指摘しておられる。はっきりしないのでとりあえず宝塔基礎としておく。花崗岩製、幅約62cm、高さ約36cm。側面は各面とも輪郭格狭間を彫り、東面のみ格狭間内を三茎蓮のレリーフが確認できるが、外3面は定かでない。西側の下端には大きな鏨の痕と思われる3つの半円形の窪みがついている。表面の劣化が激しい。上に載っているのは、恐らく五輪塔の地輪で、側面四方の上寄りに直接「ア」、「アー」、「アン」、「アク」の地輪四門の梵字を刻む。さらにその上に載るのは宝篋印塔の塔身であろうか、金剛界四仏の種子をずいぶん上寄りに刻んでいる。その上には小形の五輪塔の火輪と空風輪を積んである。いずれも中世の遺物で、特に宝塔(?)基礎は鎌倉時代末頃まで遡る可能性を残している。そのほか、墓地東隅の無縁塚には戦国時代の石仏や一石五輪塔が多数見られる。

参考:池内順一郎 『近江の石造遺品』(上) 352、387~388ページ

   五個荘町史編纂委員会 『五個荘町史』 857ページ


滋賀県 東近江市小八木町 春日神社宝篋印塔

2008-07-06 12:10:12 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市小八木町 春日神社宝篋印塔

旧湖東町小八木集落の北東寄りに位置する春日神社は、奈良春日大社から分祀したと伝え、本殿(国指定重要文化財)及び神門(県指定文化財)は15世紀中頃の建築。文安元年(1444年)の本殿棟札が残っているらしい。03神社境内から北側にかけては、奈良時代の寺院跡で小八木廃寺と呼ばれる。白鳳時代の古瓦や舌を出したおもしろい鬼板瓦が出土している。神社境内には礎石とされるものも残っている。今回目指す宝篋印塔は社殿西側の竹薮にある。自然石を積み上げた方形壇上(これはごく最近のもの)に宝塔の基礎と思しい四角い石材を置き、その上に載せてある。01台になっている宝塔の基礎は上端面に丸い孔を大きく穿ってあり、手水鉢に転用されたものであることが東側側面中央にある水抜きの小孔によりわかる。宝篋印塔の基礎底面は平坦ではなく、中央が瘤のように膨らんでおり、台の宝塔基礎の上端の手水鉢のための穴に栓のようにはめ込まれているが、宝篋印塔の基礎の底面の出っ張りの方が大きいので塞ぎきれていない。このため少し基礎が浮いているので何となく不安定に見える。安定を得るために平坦につくるべき底面にあえてこのような出っ張りを設けることは不審である。現在の宝塔の基礎は明らかに別物を後に組み合わせたものであるが、元々塔下の何らかの施設、例えば地面下に設けた穴に甕を埋けて石積で囲んだようなもの、あるいは延石を組み合わせた基壇とセットになった構造の奉籠施設のようなものを塔本体の基礎が構成していた可能性があるように思われる。市指定文化財。花崗岩製で高さ約159cm、基礎幅約52cm、笠の軒幅約48cm、相輪高さ約60cm。基礎側面は高さに比して幅が広くかなり低い。側面四面とも壇上積式で、羽目部分に内側素面の格狭間を配している。格狭間はやや曲線部に硬さが出ており、花頭部分のカプスが深く、脚部が垂直に立ち上がって間隔はやや狭い。02基礎上は反花式で四隅を間弁としないタイプのもの。各間弁は幅が広く、反花は全体的に傾斜が緩やかで温和な印象を与える。塔身は幅と高さが拮抗し側面に金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子は弱いタッチで小さく、彫りも浅い。キリーク、タラークは直接刻み、ウーン、アクだけに月輪を伴う。笠は上6段、下2段、軒口は比較的薄く、隅飾は二弧輪郭付で軒から少し入って立ち上がりやや外傾する。輪郭内は素面。相輪も完存し、九輪部上部で折れたものを上手く接いである。伏鉢の曲線はスムーズで申し分なく、下請花は複弁、九輪は凹部を太い沈線で表現し、逓減がやや目立つ。上請花は小花付単弁で先端宝珠は重心がやや高いが概ね完好な曲線に近い。全体的に表面のざらつきが目立つが、笠段形の角、相輪の請花や基礎の格狭間など随所にシャープな感じがよく残っており、多少の風化摩滅の進行もあろうが、元々こういう荒叩き風の表面処理の手法をとったものと思われる。造立年代について、近くの案内看板には南北朝時代とあり、田岡香逸氏は鎌倉末期1325年頃と推定されている。概ね14世紀前半から中葉頃ものとして大過ないものと思われる。各部完存の見ごたえある宝篋印塔である。台になっている宝塔の基礎は、正面東側のみに輪郭、格狭間を見るが、残る三面は素面。先に触れたように手水鉢に転用されたと思われ、上端面中央に丸い穴があり、格狭間中央に水抜穴が穿たれている。北側側面の下端中央には半円形の穴があり、奉籠坑の可能性がある。輪郭、格狭間ともに彫りが非常に浅い。幅約59cm、下端が埋め込まれているが現高約28cm。田岡氏は室町後期と推定されているが、サイズや格狭間の形状を見る限りそこまで降るものとは思えない。そのほか傍らには相輪の残欠が転がっている。

参考:田岡香逸 「近江愛知郡の石造美術(後)‐秦荘・湖東・愛知川‐」『民俗文化』176号

竹を背景にした石塔は緑に映えてGOOD!まさに「石造美術」にふさわしいものだと思います。実際には蚊が多くてやってられません、ハイ。同様に塔身四仏種子のウーン、アクのみに荘厳を施す意匠はすぐ近くの愛荘町香之庄神社前宝篋印塔にも見られます。前にも書きましたがこの付近は非常に石造美術の豊富な場所で、各集落ごとに中世の見るべき石造美術があるといって過言ではない程の様相を呈しています。(その割に従前からこれらを紹介したものが少ないような気がします…)なお、神門西側には柵で保護された謎の岩塊があり、興味を引かれます。堆積岩のようにも見えるし、築地塀の痕跡のようにも見えます。いったいこれは何なんでしょうか?


滋賀県 東近江市神田町 高麗寺前宝篋印塔

2008-07-04 00:29:16 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市神田町 高麗寺前宝篋印塔

重要文化財指定の石灯籠で有名な河桁御河辺神社があるのが神田町で、集落南東にある高麗寺の南、会所前の空き地に小形の五輪塔や一石五輪塔などの石造物が寄せ集められている。01その中央に一際目を引く宝篋印塔がある。現高約157cm、基礎幅約63cm、軒幅約56cm、花崗岩製。基礎は半ば埋まって下端が見えないが、幅に対する高さ比は小さく低いものと思われる。側面は各面とも輪郭を巻き、格狭間を入れ、三茎蓮のレリーフを配する。輪郭、格狭間、三茎蓮ともに彫りは浅く、輪郭の左右の束が広い。基礎上の段形(2段)を別石とする。塔身は幅よりやや高さが勝る。月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫しているらしいが、風化摩滅が進行し、肉眼でははっきり確認できない。02しかし雄渾なタッチで大きく刻んだタイプではない。(これに限らず近江では雄渾な種子を薬研彫する例はほとんど見られない。)笠は下2段上6段、各段形は彫りは甘く、傾斜が目立つが段形の逓減が大きく安定感がある。笠上の段形に比べ笠下の段形が目立って低い。隅飾は軒と延作りの1弧でほぼ垂直に立ち上げている。隅飾は輪郭は見られず、各面とも「アク」梵字を直接陰刻しているというが肉眼では確認しづらい。相輪は九輪の8輪を残して以上は欠損している。伏鉢は低く、下請花との間のくびれ部に頸を設けているように見える。下請花の花弁は風化により明らかでない。九輪部の逓減がやや目立ち、九輪の凹部は沈線に近い。相輪は別物の可能性を一応考えておく必要があるが、石の質感、風化の程度、大きさのバランスなどから基礎から笠までは一具のものと判断して差し支えないと思われる。基礎上段形を別石とする点はこの付近では珍しく、一弧素面に梵字を彫った隅飾もあまり例の多いものではない。基礎の各ディテール、笠の隅飾など非常に古い特長を示す一方、ややシャープさに欠ける笠の段形の彫りの出来は案外新しい要素かもしれない。紀年銘もなく、造立年代は不詳とするしかないが、鎌倉時代後期でも初めに近い、13世紀末から14世紀初頭頃と見るがいかがであろうか。参考とすべき例を考えれば、旧愛東町百済寺本堂横の寄集とされるもの、市内川合寺町西蓮寺塔、旧五個荘町三俣称名寺塔などに相通じる要素が含まれると思われる。これらはいずれも型にはまらない個性的な特長を示し、古いのか新しいのか判断に苦しむところであるが、概ね定型化の過程の産物と考えられる。

参考:八日市市史編纂委員会 『八日市市史』 638ページ

   滋賀県教育委員会 『滋賀県石造建造物調査報告書』 125ページ

『八日市市史』では「基礎と塔身の間に層塔の屋根らしいものを挟む」としていますが、層塔の屋根に似てなくもないですが、少々小さ過ぎるし「軒反」も見られないなど形状的にも別石の段形と考える方が適当です。ちなみに、別石の段形にする宝篋印塔は、近江ではほとんど見かけませんが京都には割合多いものです。それにしてもこの手の基礎は、バラバラの残欠であったなら宝塔の基礎と見分けがつきません。近江では別石段形の宝篋印塔は非常に少ないとはいえ、従来宝塔の基礎と考えられている基礎残欠であっても、別石段形の宝篋印塔の基礎である可能性を疑ってみる余地を考えてみてもいいのかもしれません。