石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市菖蒲池町 称名寺五輪塔ほか

2011-02-18 01:41:14 | 五輪塔

奈良県 奈良市菖蒲池町 称名寺五輪塔ほか

近鉄奈良駅の北西、約300mにある日輪山称名寺は、浄土宗西山派に属し、茶祖・村田珠光に縁深い寺として有名である。07文永二年(1265年)興福寺の念仏道場として開かれ、興福寺の別院として、浄土、法相、天台、律の四宗を兼ね、興北寺とも称されたという。05本堂の東側から北側にかけて境内墓地が広がり、東側の塀沿いには大量の小石仏や石塔が集積されて一大偉観を呈する。一説に松永久秀が多聞山城の壁材として使ったもので、城の破却後、散乱していたものを集めたというが、確かなことはわからない。その数は約二千体といわれる。ざっと見渡したところ、最も多いのは箱仏(石仏龕)で、小型の五輪塔、板碑、小型の通常石仏、背光五輪塔などが見られる。06_2ほとんどが室町時代以降のもので、これだけたくさんの石仏・石塔が集められているにもかかわらず、一石五輪塔を見かけないのは奈良の地域色であろう。墓地の入口に近い小屋内には大型の石仏四体が並ぶ。全て花崗岩製で、向かって右端は、舟形光背の頭光円に蓮弁を刻む来迎印の阿弥陀如来立像で、等身大のすらりとしたプロポーションの非常に丁寧な作風。04_3室町時代後半という説もあるが、もっと古いかもしれない。その右はオーソドクスなスタイルの地蔵菩薩立像で、舟形光背の上部に阿弥陀の種子「キリーク」を陰刻する。大永七年(1527年)の紀年銘が肉眼でも読め、大勢の結縁者名が下方に刻まれている。01_2その左は破損の激しい地蔵菩薩立像で、向かって左脇光背面に線刻の観音菩薩立像が残る。尋常でない破損状態は火中したためと思われる。面相部は剥落し、ところどころ黒ずんで、いくつかに折れたものをセメントで接いだお姿が痛ましいが、観音の線刻を伴うのは非常に珍しい意匠で、諸所に優れた作風の痕が見て取れる。室町時代前半のものと考えられている。02左端の地蔵菩薩立像はやや小さく、二つに折れたのを接合してあるが、頭部と胴部の色調や風化の程度がずいぶん異なる。このほか、石仏・石塔群の北寄りには、数体のやや大型の箱仏が並べられ、中央に弘治二年(1556年)銘の地蔵菩薩立像が立っている。舟形光背の上部にキリークを刻むのは大永銘のものと同じである。ずらりと並べられた小石仏や箱仏の多くは錫杖を持つ地蔵菩薩で、阿弥陀はほとんど見当たらない。京都ではこの逆の現象が見られるが、これも奈良の特色とされている。

最も注目されるのは、墓地の東寄りの一画にある立派な五輪塔である。数枚の延石を方形に並べた基壇上に反花座を置き、その上に各部完存の五輪塔を据えている。総高約210.5cm、塔高約180.5cmの6尺塔である。総花崗岩製で、地輪の幅は約65.5cmで高さ約46.5cm。水輪の径約60cm。火輪の軒幅約61cm、高さ約37.5cm。風輪の幅約37cm、空輪幅約34.5cm。03複弁反花座は幅約92.5cmで、四隅が間弁、一辺あたり主弁4枚の典型的な大和系のものである。西側の地輪下端中央と接する反花座上端に小穴があって深く奥につながっている様子である。これは細かく砕いた火葬骨片を挿入した納骨穴と思われ、原位置を保っているか否かは不明だが、恐らく塔下に骨瓶なりが埋け込まれていたのだろう。塔下に骨を納めることにより、五輪塔の功徳にあやかるべく墓地の惣供養塔として造立されたものと考えられる。各部とも全くの無地で無銘。空輪先端の尖りがほんの少し欠ける以外は欠損が見られず、反花座も一具のもので保存状態は極めて良好。全体によく洗練され整美な印象で、豪放感よりも温雅な雰囲気がある。地輪がやや高めで、空風輪のくびれが大きく、軒口は重厚だが軒反が少し隅に寄り過ぎて力強さが若干足りないこと、あるいは反花座の蓮弁の様子などから、造立時期は恐らく鎌倉末から南北朝初め頃、概ね14世紀前半頃と推定して大過ないだろう。反花座を備えた典型的な大和系の五輪塔で、梵字等を全く刻まないのは律宗系のスタイルともいわれる。

 

 

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術

      元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成四年度調査概要報告

 

 

五輪塔はもちろんですが、大量に集積された箱仏群は一見の価値があります。これだけあっても在銘品はほとんどないそうです。それにしてもさまざまな石仏・石塔のオンパレード、よく見ると名号板碑や笠塔婆、南北朝は降らないだろう宝篋印塔の笠石、梵字を彫った低い地輪残欠、像容板碑などもあって、一様ではありません。奈良の中世、特に室町時代以降の石仏・石塔の様相を端的に知ることができる場所として、石造マニアにとっては非常に興味深いスポットといえるんじゃないでしょうかね、ハイ。


奈良県 宇陀市室生区大野 大野寺尊勝曼荼羅種子磨崖仏

2011-02-13 11:18:44 | 奈良県

奈良県 宇陀市室生区大野 大野寺尊勝曼荼羅種子磨崖仏

近鉄室生口大野駅の南方約400m、宇陀川の右岸、川岸にそそり立つ高さ約30mの溶結凝灰岩の岩壁面に有名な大野寺弥勒大磨崖仏がある。鎌倉時代初期、01興福寺雅縁僧正のプロデュースにより、宋人石工らの手で刻まれたと伝えられ、元弘の乱で焼失し今は痕跡をとどめるだけの笠置寺本尊の姿を写したものとされる。後鳥羽上皇の臨幸を仰いで承元3年(1209年)に竣工したと伝えられる。03総高約13.6mの壺型の光背型を深く彫り沈め、内側を平滑に仕上げて像高約11.5mもある優美な弥勒如来の立像を線刻する。自然豊かな周囲の景観とよくマッチして、石造ファンならずとも一見の価値がある全国でも屈指の磨崖仏である。この弥勒大磨崖仏は諸書に取り上げられている著名な観光スポットでもあるので、ここではこれ以上詳しくは述べない。

今回は大磨崖仏の足元、向かって左側約5mばかり離れた壁面に刻まれた種子曼荼羅について紹介したい。ほぼ垂直に切り立った岩壁面は、縦約4m、横約3mほどの範囲がほぼ平らになっており、その中央に径約2.2mの大月輪円相を浅く彫り沈めて、大円相内には中央に一つ、その周囲に八つの小月輪を線刻する。各小月輪内には優美な蓮華座を細く線刻し、それに乗る種子を月輪内いっぱいに大きく薬研彫している。中央の小月輪は一際大きく、主尊である金剛界大日如来の種子「バン」を配する。文字は太く端正で、雄渾なタッチと彫りのシャープさが相まって実に見事なものである。大日如来を囲む周囲の種子は、八大仏頂尊のものとされる。06_2仏頂尊とは、仏の頂相(つまり頭のてっぺん、肉髻の部分)を尊格化したもので、極めて密教的な概念仏である。八大仏頂尊の種子も、大日如来同様どれも雄渾でシャープな彫整が際立つものだが、類例の少ない珍しい梵字なので判読は意外に手強い。先学の書物でも一つひとつを解説したものをこれまで知らない。空点に大きい仰月点を備えたものが多く、真上から時計周りに「キリーン」(光聚仏頂)、「シロン」(発生仏頂)、「ラン」(白傘蓋仏頂)、「シャン」(勝仏頂)、「コロン」(尊勝仏頂)、「トロン」(広生仏頂)、「シリー」(最勝仏頂)、「ウン」(無辺声仏頂)と仮に読んでおきたい。また、大月輪の下方向かって左下には三角形、右下に半月形の彫り沈めを設けて、三角形の内側に不動明王の種子「カーン」を、半月形の中に降三世明王の種子「ウーン」を薬研彫で表している。どちらもその文字は大きく、彫り沈めの内側に収まりきれないで若干外にはみ出している。さらに、大月輪の上方には、左右とも同じように浅く彫り沈めた三つの小さい円相を三弁宝珠のような位置関係に配置し、内に「ロー」(須陀会天≒飛天)の種子を都合六つ、薬研彫している。

尊勝曼荼羅は、別尊曼荼羅の一種で、息災・増益に高い効験が期待され、平安時代以来絶大な信仰を集めた「尊勝陀羅尼」の根源につながる曼荼羅で、密教の加持祈祷修法の本尊として描かれてきた。善無畏訳の二巻軌と不空訳の一巻軌の少なくとも二種類の典拠があるとされるがメジャーだったのは前者だという。典拠により詳細部分には不統一なところがあるようだが、主尊は大日如来、その周囲八方を八大仏頂尊が囲み、下方手前に不動、降三世の明王が並び、上方左右に須陀会天が飛ぶ。さらに上方中央に天蓋、下方手前中央に香炉を配するのだそうで、天蓋や香炉までは確認できないが、この磨崖種子の構図は、まさにこの尊勝曼荼羅のスタイルに相違なく、石造ではあまり類例のない特殊な事例として注目される。

絵画の別尊曼荼羅は、密教の世界観を表した金・胎の両部曼荼羅と異なり、特定の目的(息災・増益等)のもとに行われる修法の本尊として作成され、その修法が終わればその役割も終る。04_2修法後の扱われ方はよくわかっていないが、大切に保管され今日に伝わることから、同様の修法の際等に再利用された可能性もあったかもしれない。しかし、その使用は基本的に即時的・一時的であって、反復継続して用いられる前提のものではないと考えられている。そしてこうした修法は師弟相伝等の秘密性の高いものであったという。こうした性格の別尊曼荼羅の一つである尊勝曼荼羅を、永久性が期待される石という素材で、人々の目に触れやすい川沿いの岩壁に作った意義は何であったのだろうか。弥勒大磨崖仏との教義上の直接的な関連性はないと思われるが、確かなところはわからない。あるいは尊勝曼荼羅、あるいは尊勝陀羅尼の持つ効験を半永久的に弥勒磨崖仏に献じた供養だったのかもしれない。紀年銘はなく、造立時期は不詳とするしかないが、端正で雄渾な種子や蓮弁の様子などから鎌倉時代中期を降らない時期のものと考えられている。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術

   望月友善編 『日本の石仏』4近畿編

   林 温 「別尊曼荼羅」『日本の美術』NO.433

   望月友善 増補版「種子抄」『歴史考古学』第53号

 

対岸の大野寺の境内にしだれ桜が満開になる頃が一番のお薦めシーズンですが、新緑の頃、紅葉の頃も素晴らしいです。弥勒像は1209年に出来たということなので800年前ですね、その間の世の移ろいを微笑みながら眺めておられるわけで、まったく感心します。曼荼羅種子磨崖仏は弥勒像の足元にあるので、あまり目立たず、対岸からは距離もあるので観察には双眼鏡が必要かもしれませんね。小生はたまたま減水時にズボンの裾をまくって渡河を敢行しましたが、川原石は水苔で滑りやすく、転倒するとカメラはパーになりますし、溺れる危険もあり、ハラハラでした。まねはしないでください。何よりご本尊のお膝元ですのでその辺りも心してください。なお、弥勒像は対岸から眺める優美なお姿と違って、真下から見上げるとその壮大さと存在感に圧倒されます。深く彫り沈めた光背の側面には細かいノミ跡が無数にあってその作業のたいへんさを知ることができます。