石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 天理市柳本町 長岳寺地蔵石仏笠塔婆

2011-11-30 21:41:24 | 奈良県

奈良県 天理市柳本町 長岳寺地蔵石仏笠塔婆

長岳寺は山辺の道沿いにある古刹で、高野山真言宗、釜口山と号する。01境内や付近には見るべき石造美術が多い。02境内は季節の花々や紅葉が美しく、石造のみならず仏像や建造物も優れたものが残されている。本堂前、向かって右手、やや奥まった不動石仏の前に笠塔婆が立っている。現在載せられている笠石は、境内にあった適当なものを見繕って載せられたものというが、当初の姿を彷彿とさせるには十分である。軸部は現状高約151.5cm、幅約33cm、厚さ約18cmの扁平な角柱状で、花崗岩製。本堂前から一段上った大師堂に通じる石階段の下から5段目の延石に使われていたのが、昭和50年6月、石階段修復のためひっくり返すと像容と刻銘が見つかったため、取り出され現在の位置に移された経緯がある。上端面には枘の痕跡が認められたという。右側隅が一様に欠損しているのは石階段に転用された際に打ちかかれたものだろう。05正面上方に舟形光背形を彫り沈め、内に像高約45cmの地蔵菩薩立像を半肉彫りする。右手に錫杖、左手に宝珠の通有の地蔵像で、衣文はやや簡素であるがプロポーションはまずまず整っており、表情は端正で、錫杖の彫り方などは丁寧である。蓮華座は光背彫り沈めの下端外側に線刻に近い薄肉彫りで表現され、蓮弁は5葉の請花の下に反花7葉を組み合わせており、凝った表現と言える。04_2正面中央に約28cm×約18cmの横長の長方形を浅く彫り沈め、その中に相対する一対の僧形像を薄肉彫りしてる。向かって右側の像は岩座のようなものの上にあって経机前に端座しているように見える。左像は膝をついて合掌し右像を拝んでいる。師弟の僧の姿を表していると見られている。その下方の平坦面に中央に一行の陰刻銘がある。「元亨二年(1322年)壬戌卯月日僧行春」と判読されている。清水俊明氏は、願主が行春で、師僧の供養のために造立されたのではないかと推定されている。さらに、境内に残る、初重軸部に珍しい獅子に跨る文殊菩薩を刻んだ層塔が西大寺叡尊(1201年~1290年)による供養塔と伝えられ、弘安年間にここで叡尊が梵網経を講じたとも伝えられることなど、当時の長岳寺が叡尊と関わりがあったこと、そして元亨二年が叡尊の三十三年忌に当ることから、供養の対象になった師僧が叡尊ではないかと推定されている。となれば刻まれた師僧像は叡尊その人の像である可能性があって注目されるが、摩滅が進んで像容が見えづらくなっているのが惜しまれる。

 

写真左下:師弟の僧と思われるレリーフ。左側が願主の行春、そして向かって右側こそが思円上人か?

 

参考:清水俊明 「長岳寺元亨銘石仏と暗峠弘安銘笠塔婆」『史迹と美術』456号

     〃  『大和の石仏』(増補版)

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

 

文中法量値は清水俊明氏の報文によります。同報文によると、昭和の初めに石階段を修復した際に転用されてしまったらしく、昭和50年の6月20日、偶然石材から石仏と刻銘の一部を見つけられた御住職からの連絡を受けて清水氏がその日のうちに飛んでいったそうです。刻銘部分には昭和の初めの頃のセメントがこびりついており、御住職と清水氏が協力し取り除かれたそうです。

昭和の初めから40年くらいの間は石段として人々に踏まれてきたわけで、何ともおいたわしいことでしたが、こうして再び陽の目をみることになったのは喜ばしい限りです。

弥勒石仏、板五輪塔婆、宝篋印塔、層塔、五智墓の石塔群、奥の院の不動石仏等々境内と付近には石造ファン必見の優れた石造がたくさんあってとてもいっぺんには紹介しきれません。折々ご紹介していきたいと思います。長岳寺さんはご本尊、楼門など数々の優れた文化財に加え、何より、いかにもな大和の古寺の風情が色濃く残り、静かで風光明媚な佇まいが素晴らしいお寺です。それからお寺でいただけるそうめんもお薦めです。


奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑

2011-11-28 21:39:42 | 奈良県

奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑

天理市苣原は市街地から東方、布留川を遡った山間の静かな集落で、大念寺は集落のほぼ中央、公民館とは国道25号の旧道を挟んだ北側に位置する。01_2融通念仏宗で向台山来迎院と号する。本堂向かって左手に一際目を引く立派な十三仏が立っている。03以前は旧本堂前の門前右側にあったが近年本堂改修に伴って現在の場所に移建された。花崗岩製で高さ約2m、幅約52cm、正面を平らに整形し、十三仏を半肉彫りしている。全体の姿は縦長の板状ないし偏柱状で上端を山形にした板碑形を呈する。よく見ると下端はやや幅が狭く、下から3/4程まではほぼ同じ幅で立ち上げ、上部1/4ほどは上端に向かって少し幅を狭くしてから先端の山形につなげている。側面から背面は粗く整形したままである。虚空蔵菩薩を除く12尊は三列四段とし、像高は約20cm前後で各尊とも蓮華座に座す。十三仏は各回忌の本尊を供養するもので、十王信仰から発展したと考えられている。1初七日:不動明王、2二七日:釈迦如来、3三七日:文殊菩薩、4四七日:普賢菩薩、5五七日:地蔵菩薩、6六七日弥勒菩薩、7七七日:薬師如来、8百ヶ日:観音菩薩、9一年:勢至菩薩、10三年:阿弥陀如来、11七年:阿閦如来、12十三年:大日如来、13三十三年:虚空蔵菩薩という順列が定まってきたのが室町時代初めの14世紀末から15世紀初め頃とされている。04その頃の古いものは十三仏を種子で表すが、像容で表す例も室町時代を通じて次第に増加してくる。05_2また、各尊の配列にはいろいろなパターンがあって興味深い。本例における配列は、右下からスタートして、3・2・1、6・5・4、9・8・7、12・11・10で右から左に進み、一度右に戻って上の段に進んでいく。なお、上段の中央は阿閦如来で大日如来が中央にない。古い例ほど変則的な配列になるといわれている。各尊像を見ていくと、1不動明王はいかめしい表情で右手に利剣を携えている。2釈迦如来は施無畏与願印、3文殊菩薩は三ないし五髻の童子形で剣を右手に持つ。4は菩薩形で蓮華か何かを持つようで普賢菩薩、5地蔵菩薩は声聞形で持物は錫杖と宝珠、6弥勒菩薩は胸元に塔のようなものを捧げもっているのでそれとわかる。02_27は胸元の左手に薬壺らしいものを乗せる如来形で薬師如来、8は菩薩形で大きい蓮華を捧げ持つ観音菩薩、9の勢至菩薩は合掌している。10の阿弥陀如来は指で輪を作った両手を胸元に掲げた説法印。11阿閦如来の印相は普通左手で衣の一端を執り、右手は降魔印とされるがこれは左手は胸元にあって右手は肩の辺りに上げた施無畏印のように見える12は智拳印とわかるので金剛界の大日如来である。上部に単独で配される13虚空蔵菩薩は、やや大きめに作られ、左手に剣、右手は何かを胸元に捧げ持つ(三弁宝珠か?)。面相部の残りも他に比べると良く、端正な表情が印象的である。頭上には立派な天蓋のレリーフがある。下端近くの平坦面に陰刻銘がある。右端に「天文廿二二年乙卯」、左端に「二月十五日」とある。その間に六行にわたり「琳祐 衛門/道西 弥六/妙西 源六 道善/妙光 助九郎 三郎二郎/道慶 助五郎/三弥 又三郎」と結縁者名が刻まれている。天文廿二二(=24年)は西暦1555年、室町時代後期16世紀中葉の造立である。時代相応で各尊ともやや頭でっかちでお人形さん風の像容になってはいるが、2mもある良質の花崗岩を用いて蓮華座や面相、持物など細部の意匠表現まで丁寧に仕上げており、大和でも最も大きく作風優秀な十三仏として著名なものである。このほか境内には箱仏や双仏石などが多数見られる。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

   清水俊明 『大和の石仏』

   土井 実 『奈良県史』第17巻 金石文(下)

 

十三仏もなかなか興味深いテーマでこれからも見て行きたいと思っています。庶民レベルの信仰の表われと考えられているようですが、これだけ立派なものを作れるのはそれなりに有力な人達だったと思います。中世の終りから近世初め頃にかけてちょくちょく作られているようで、近畿では大和に特に多いようです。諸書に取り上げられて著名なものですが大和の代表選手ということでご登場願うこととしました。そうそう、これまた難読の地名ですが「ちしゃはら」ないし「ちしゃわら」と読みます。


滋賀県 長浜市西浅井町黒山町 東光院五輪塔

2011-11-13 23:16:15 | 五輪塔

滋賀県 長浜市西浅井町黒山町 東光院五輪塔

JR湖西線永原駅の西方約1km、黒山集落の東寄りに東光院がある。慶長年間の開基(中興)で真言宗智山派、本尊は薬師如来とのことだが、現在は無住の小堂があるだけの侘しい佇まいである。しかし境内には多数の小石仏や小型の五輪塔が賑々しく集積されて祀られており、01黒山石仏群と呼ばれている。04たくさんの石仏には夫々に赤い前掛けが付けられ香華も絶えない様子で、寺は廃れても地元の篤い信仰が息づいている。一説に賎ヶ岳合戦の柴田軍の菩提を弔う石仏群と伝えられるようだが伝承の域を出ず不詳。また、近くの神社境内にあったものが明治初期の廃仏棄釈の折、別の場所に移され埋められていたといい、その後の開墾で出土して現在の場所に運ばれて来たとも伝えられる。真相は不詳だがいずれにせよ原初の位置をとどめているとは考えにくく、付近から集められてきたと考えるべきなのだろう。大部分は小石仏と小型の五輪塔で占められるが、中には層塔、宝篋印塔、宝塔、規模の大きい五輪塔の残欠や寄集めが見られる。その中で唯一各部材が揃った整美な姿をとどめている五輪塔が注目される。現状では基壇や台座は見られず直接地面に据えられている。花崗岩製。塔高は約178cmで六尺塔として作られたものと考えれる。地輪は、幅約75.5cmに対し高さは約34cmとかなり低平である。水輪は最大径約69cm、高さ約57cmで、その形状は球形に近く最大径がほぼ中央付近にあって横張や裾の窄まりは感じられない。02_3火輪の軒幅約68.5cmに対して上端の幅がやや小さく約22.5cm。高さは約42.5cm。03軒口の厚みは中央で約11.5cm、隅で約13cmとそれほど分厚いという感じは受けない。軒口の隅増しも少なく、軒反もどちらかといえば緩い。空風輪は一石彫成で高さ約45cm、風輪径約32.5cmに対して空輪径約29.5cmで風輪の径がやや大きい。風輪は深鉢状で空輪との境のくびれは少なく、空輪はやや腰高で球形に近い。空輪先端の尖りは欠損しているが残存する尖りの基底部はやや大きめである。各部とも四方に梵字を薬研彫りしている。火輪以上の梵字は風化摩滅が進み判読しづらいが五輪四門の梵字であろう。05_2大ぶりだがやや線が細い梵字である。地輪と水輪の梵字の方角が揃っていないので積み直されている可能性が高い。06各部のサイズ、風化の程度や石材の質感などから一具のものと考えてよいと思うが、似た大きさの古い五輪塔の残欠が他にも数基分見られることから寄集めの可能性も完全には排除することができない。もっとも各部の特長、低平な地輪、水輪の形状や火輪の軒反など総じて古風を示すと見てよく、全体の統一感は保たれているように見える。無銘。造立時期について、田岡香逸氏は1300年頃と推定されている。あるいはもう少し遡らせてもいいように思うが、それでも概ね13世紀後半頃だろうか。程近い場所にある大浦観音堂五輪塔(2010年9月30日記事参照)と高島市今津町酒波寺五輪塔(2008年10月3日記事参照)の中間に位置づけることが可能な特長を示すように思われる。この外、境内にある層塔、宝塔、宝篋印塔も不完全な残欠や寄集めになっている点は惜しまれるが(中には見立物にでもするためだろうか、部材を抜き取って粗悪な後補品に入替えてあるようなものもある)、作風優秀で規模の大きいものも複数確認できる。これらについて詳しく述べることは割愛するが、鎌倉時代から南北朝時代の年代が想定できる。また、多数の小石仏や小型の五輪塔もほとんどが中世に遡るものである。

 

田岡香逸 「近江伊香郡の石造美術―西浅井町黒山・大浦と木之本町木之本―」

     『民俗文化』第104号

瀬川欣一 『近江 石の文化財』

 

文中法量値はコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はお許しください。

写真左中と右中:五輪塔の隣には不完全ながら層塔が3基、宝塔が3基あります。写真左下:奥まった巨木の下には立派な宝篋印塔の笠が多数集積されています。写真右下:ずらりと並べられた小石仏と小型の五輪塔群です。よく見ると一石五輪塔や板碑も交じります。写真の手前に写っている一見すると五輪塔の火輪のように見えるのは露盤があるのでたぶん層塔の笠石です。これだけの石造物が集められているのは石塔寺や引接寺を除くとそうなかなかありませんね。しかも数だけでなく質的にも詳しく調査されて然るべき濃ーいものがあります。本文中にある大浦観音堂五輪塔も近く、嘉元2年銘の黒山道地蔵石仏(2010年10月9日記事参照)がすぐ近くにあるのであわせて訪ねられることをお薦めします。


京都府 相楽郡和束町撰原 撰原峠地蔵石仏

2011-11-10 00:58:18 | 京都府

京都府 相楽郡和束町撰原 撰原峠地蔵石仏

和束川沿いの府道木津信楽線から東の山手の道に入り峠を越えた集落の中を西に折れ、茶畑横の山道を北西に150mほど登っていくと左手の林の中に平坦地があり、多数の箱仏などが並ぶ。01奥の斜面に板状の自然石を上下左右に組んで石室状にした龕部が設けられ、内に地蔵石仏が祀られている。04香華が絶えない様子で、地元の篤い信仰がうかがえる。石室は現状高約2.1m、屋根石幅約1.7mで、後世に組まれたものとも言われるが不詳。石仏本体は、高さ約169cm、下方幅約91cm、上方幅約85cmの上部を丸く整形した縦長の板状の花崗岩の石材の正面に、像高約126.5cmの地蔵菩薩立像を厚肉彫りしている。下方は緩い弧状に厚みを残して石材の幅いっぱいに蓮華座を整形し、表面に線刻で中央1葉、左右各4葉づつの大ぶりの整った蓮弁を刻む。下端は台石上にモルタルで固定されており明らかでない。頭部の周りには径約56cmの頭光円を線刻する。像容は彫成に優れ、やや首が短く撫肩だが体躯には幅と厚みがあって堂々としている。02とりわけ鎬立った深い衣文の襞の曲線が幾重にも重なる表現は出色である。目鼻が大きくおおらかな面相の彫りも確かで、細部のどれを見ても鎌倉期の石仏の一典型を示す傑作と言えるだろう。左手は胸元に差し上げ宝珠を乗せ、右手は錫杖を持たず下に垂れて掌を見せる与願印とする。05これは奈良市十輪院の本尊地蔵石仏などと同じで古式の印相とされる。足元近く左右の平坦面に各2行、計4行の陰刻銘がある。向かって右側に「釈迦如来滅/後二千余歳」、左側に「文永二二年/丁卯僧実慶」とあるのが肉眼でも何とか確認できる。文字は大きめで伸び伸びとした筆致は古調を示す。二を2つ並べるのは四。鎌倉中期、文永4年(1267年)の造立と知られる。釈迦如来滅後二千余歳というのは、釈迦の教えが忘れられ失われる末法の世に入ったことを示す。同様のフレーズは当来導師(=弥勒)という言い方とワンセットになることが多いので、やはり本例も弥勒信仰を示すものと考えられている。兜卒天にあって菩薩行を終えた弥勒が56億7千万年後に如来となって下生し多くの衆生を導く龍華三会までの間、末法無仏の世界の衆生を救う役割を担うのが地蔵菩薩とされる。この石仏も弥勒と結びついた地蔵信仰の表れと考えられる。むろん作風優秀、しかも鎌倉中期の在銘の基準資料として貴重な石仏である。和束町には仏滅二千年云々の銘を持つ鎌倉中期から後期の石造物が3つあって注目される。残る2つは北方直線距離にして約400mの和束川沿いにある白栖弥勒磨崖仏と鷲峰山頂の金胎寺宝篋印塔(ともに正安2年(1300年)銘)である。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   太田古朴 「文永四年撰原峠地蔵石龕仏」 『石仏』創刊号

 

彫成が全体にいきいきとして闊達な感じに溢れ、曲面の彫成にも抜かりがありません。大ぶりで整った蓮弁、バランスよくどっしりとした体躯、お顔も目鼻が大きくおおらかでしかも整っいて実に好感が持てます。これほどの地蔵石仏にはめったにお目にかかれません。自然豊かで静かな環境とあいまってお薦めです。それにしてもちょっと写真はまずいですね…うまく伝わりますかね…どうもすいませんです。

「そうらくぐんわづかちょう」、「えりはら」と読みます。ちょっと読みにくい地名かもしれませんね。


奈良県 奈良市川上町 若草山十国台出世地蔵石仏

2011-11-07 00:08:04 | 奈良県

奈良県 奈良市川上町 若草山十国台出世地蔵石仏

奈良奥山ドライブウェイを上っていくとやがて十国台と呼ばれる尾根のピークに達する。03ここを過ぎるとすぐ道路は下り坂の急カーブになる。この急カーブの途中、道路の北側に面してひっそりと地蔵石仏が立っている。十国台からはほぼ真南、直線距離にして約200m程のところである。02オーバーハングした馬酔木の葉陰に隠れるように立っており、よほど注意していないと見落とす。川上町と雑司町の町境で道路の南側は雑司町である。上面が平らな自然石の上に約40cm×40cmの平面を粗く方形に整形した高さ約15cmの台石を置き、その上に現状高約99cm、最大幅約47cmの光背と一体成型の厚肉彫りの石仏を載せている。台石は当初から一具のものかどうかは不詳。花崗岩製、ほぼ南面し、像高は約75cm。像容は右手に錫杖を執り、左手に宝珠を載せる通有の地蔵菩薩立像で、下端には覆輪付単弁八葉の蓮弁を並べた蓮華座を刻む。光背上部は一見すると円光背のように丸くなっている。これは光背上部の周縁が欠損しているためで、頭頂上の光背面が前方にせり出していることから当初は舟形光背形であったと考えられる。さらに上から1/4ほどのところ、ちょうど像容の肩から首にかけての辺りで折損している。幸い面相部の遺存状態は良好で、眉の線から鼻筋の処理の仕方、まぶたや頬から口元にかけての表情の作り方は市内伝香寺の永正12年(1515年)銘地蔵石仏に通じる作風である。光背面、向かって右下寄りに「良源房」と陰刻銘があるが、紀年銘はない。衣文表現は簡略化が進み、頭部がやや大きめで袖裾が蓮華座に達するなど室町時代も後半の特長が現れている。造立時期は16世紀前半から中葉頃と見て大過ないと思われる。出世地蔵と呼ばれているようだがその所以については不詳。なお、傍らにも高さ40cm程の小型の地蔵石仏がある。

 

参考:太田古朴・辰巳旭 『美の石仏』

   清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

 

正倉院展に行ったついでに再訪し、やっと見つけましたのでUPします。どうでもいいのですが出世地蔵が見つからないままというのもちょっと気になるもんです。十国台に駐車し徒歩での探索に切り替えて見つけました。先にご紹介した三体地蔵のように特に標識もなく木陰に隠れて自動車では非常にわかりづらいお地蔵さんでしたが、道に面しているので徒歩なら難なく見つけられると思います。光背上半の欠損が目立ちますがそれ以外の残りは悪くありません。なかなかいい表情のお地蔵さんでした。付近には十国台以外に適当な駐車スペースはなく、たぶんこれが唯一のアクセス方法ですが、ドライブウェイの名のとおり基本的に自動車向けの道路で徒歩向きではありません。しかも下り急カーブの途中にあり見通しも良くないので歩かれる場合は自動車の通行に十分注意してください。


五輪塔の記事について

2011-11-02 19:04:52 | ひとりごと

五輪塔の記事について

福井県越前町で60年以上前に見つかっていた五輪塔の地輪部に織田氏の祖先の名が刻まれているのが確認されたとの記事を見ました。

五輪塔がメディアで取り上げられ記事になるのは珍しいことで、石造ファンとしてはたいへん嬉しいことだと思います。

記事によると、織田信長の祖先とされる織田親真(ちかざね)という人物の墓だということです。縦横20㎝程の地輪側面に「喪親真阿聖霊/正応三年庚刀二/月十九日未尅」と陰刻されているようです。親真は平清盛の孫に当たる資盛の子息だといわれているようです。

ただ、記事にある銘文の解釈について、いささか疑問を感じましたのでコメントしたいと思います。

こういう場合に故人の俗名を刻むことは稀で、たいていは法名だと思います。おそらく「親真阿聖霊」というのは、親(おや)である「真阿」(しんあ)という阿弥号の人物の霊魂…という意味ではないかと思います。「孝子七月吉日」と別の面に彫られているとのことですが、孝子というのも親の菩提を弔う石造物によく見られる慣用句です。(つまりこれは真阿という念仏者の供養をその子が行なった石塔で、親真、まして織田氏との関係を示すようなものではない。)

この地方の五輪塔について詳しくありませんが、没後間もない造立とすれば13世紀末になります。一般的にこの頃の五輪塔にしては非常に小さく、基礎の背がやや高いように思いますがどうなんでしょうか?

織田信長平氏ルーツ説否定!ということの是非はさておくとしても、石造物の価値や意味を改めて考える機会を世間に発信してくれた関係者に敬意を表したいと思います。

川勝博士は実物を見ないで論ずることを戒められています。これくらいにしておきます。お聞き流しください。