石造美術紀行

石造美術の探訪記

三重県 伊賀市守田町 守田十三仏石仏

2011-10-31 22:48:50 | 三重県

三重県 伊賀市守田町 守田十三仏石仏

名阪国道上野インターチェンジのすぐ西の小高い場所に天台宗袖合山九品寺があり、寺の前の道を丘陵裾に沿って250m程行くと道路の左手(北側)、丘陵裾が少し削られたスペースがある。ここに幅約2.6m、高さ約1.75m、奥行き約1.6m程の花崗岩の岩塊がある。01_2ほぼ南面する扇形に見える平坦面に地蔵石仏と十三仏が刻まれている。正面向かって右側、岩の表面を高さ約63.cm、幅約32.cmの舟形光背形に彫り沈め、内に像高約60.5cmの地蔵菩薩立像が半肉彫されている。03彫沈めの外、下方には線刻(ないし薄肉彫)の蓮華座を刻出する。地蔵菩薩は右手に錫杖、左手に宝珠の通有の姿で、衣文表現は簡略化が進み、面相表現もやや稚拙である。彫沈め光背の外、上部に地蔵菩薩の種子「カ」、向かって右側に「八幡大菩薩」、左側に「神主」、蓮華座下方に「永正十五天戊寅/四月廿四日」の刻銘があるというが、紀年銘以外は肉眼での判読は難しい。02あるいは「神主」というのは願主かもしれない。八幡大菩薩とはいうまでもなく八幡神の神仏習合時代の神号である。応神天皇を祭神とすることなどから皇祖神として、また源氏をはじめとする武家の守護神として全国で幅広い信仰を集めてきた。本地は阿弥陀如来とされ、錫杖を持つ僧形八幡神の姿も想起されるが、地蔵石仏との関係についてはよくわからない。04地蔵像の向かって左側、高さ約107cm、幅約46cmの縦長の長方形の彫沈め枠があり、下方は彫沈め左右端が約5cm程の幅で枠外下方に伸びているので、あたかも方形の台が薄肉彫りされたようになっている。枠内に3列4段に十三仏が半肉彫りされている。いずれも座像で像高は18cm内外である。肉眼ではほとんど判読できないが、各像容頭部右に尊像名が、また各像容間には多数の結縁者と思しい法名が陰刻されているという。さらに彫沈め枠の外側、やや下寄りの向かって右に「永正十七年庚辰二月時正」、左に「本願施主蓮()忍」の陰刻銘があるが、肉眼では判読が難しい。十三仏というのは、1不動明王(初七日:秦広王)、2釈迦如来(二七日:初江王)、3文殊菩薩(三七日:宋帝王)、4普賢菩薩(四七日:五官王)、5地蔵菩薩(五七日:閻魔王)、6弥勒菩薩(六七日:変成王)、7薬師如来(七七日:太山王)、8観音菩薩(百ヶ日:平等王)、9勢至菩薩(一年:都市王)、10阿弥陀如来(三年:五道転輪王)、11阿閦如来(七年:蓮上王or蓮華王)、12大日如来(十三年:抜苦王or祇園王)、13虚空蔵菩薩(三十三年:慈恩王or法界王)の13尊である。石造で各尊を並べる場合の配置にはいくつかのパターンがあるらしい。05_2本例では最下段が3,2,1、下から2段目は4,5,6、3段目が7,8,9、4段目は10,12,11と下から上にコ字状に進むよう配列され、13のみ単独で最上部中央に位置する。4段目は、阿閦と大日の順序が逆転している。密教の教主である大日如来を尊重してあえて中央に配するものと考えられているが変則的である。また、虚空蔵菩薩の上方には天蓋が薄肉彫りされる。十三仏信仰の起源については諸説あるらしいが、一般的には十王思想から発展したものと考えられている。冥府十王の本地仏に阿閦、大日の2如来と虚空蔵菩薩を加えた各年回忌の回向・供養の本尊で、概ね15世紀初め頃にその後につながるスタイルが定着したとされる。片岡長治氏によれば石造の遺例は全国に500以上あり、大部分は生前供養である逆修の目的で造立され、その造立主は六斎念仏などの様々な講衆であるらしい。07逆修供養をする場合の月日が定まっていて、1=1月16日、2=2月29日、3=3月25日、4=4月14日、5=5月24日、6=6月5日、7=7月8日、8=8月18日、9=9月23日、10=10月15日、11=11月15日、12=11月28日、13=12月13日となっているそうである。基本的に後生安楽の願意を元に作られたものと考えられ、庶民信仰として根付いたものである。六道輪廻の衆生を極楽浄土に引接する地蔵菩薩を脇に刻んでいることもそうした祖先の思いや祈りが表われていると見てよいのかもしれない。永正15年は西暦1518年、初め地蔵菩薩像が彫られ、2年後の永正17年(1520年)に十三仏が作られている。16世紀前半の十三仏は近畿地方では古い部類に属するという。

ここからさらに道沿いに100m程進むと道の右手の斜面、吹さらしのトタン屋根の覆屋の下にも岩塊が横たわっている。幅約2.1m、高さ約3m、奥行き2.5m程の花崗岩の自然石で、ここにも南面して地蔵菩薩と十三仏が見られる。こちらは地蔵像が左側にあり、舟形光背形を彫り沈め、内に単弁蓮華座に立つ錫杖、宝珠の地蔵菩薩立像を半肉彫りする。像高は約90cmあってひとまわり大きい。十三仏は縦約130cm、下方幅約67cm、上方幅約61cmのほぼ長方形の彫沈め内に像高20cm前後の座像を3列4段に配する。4段目を10,12,11とする配列は同じである。最下段のみ単弁蓮華座が薄肉彫りされる。虚空蔵菩薩の上の天蓋はこちらの方がやや表現が細かい。銘は確認されていないが造立時期は相前後する頃のものと考えられている。天蓋、蓮華座、地蔵像の衣文表現など全体にこちらの方が少し手が込んでいるように見受けられるので、若干先行するかもしれない。

 

参考:川勝政太郎『伊賀』近畿日本鉄道・近畿文化会編近畿日本ブックス4

     〃 「十三仏信仰の史的展開」『史迹と美術』第520号

        ※ オリジナルは「大手前女子大学論集第3号」

   片岡長治「十三仏シリーズ1 伊賀盆地(三重県)における石造遺品について」

       『史迹と美術』第493号

     〃 「十三仏碑について-付名号碑-」『日本の石仏』4近畿篇

 

地蔵石仏と十三仏のセットが2基というか2つ、至近距離に存在しているわけですが、川勝博士は前者を北、後者を南、片岡氏は前者をA、後者をBと呼んでおられます。とりあえず小生は「扇」と「トタン屋根」とでも名付けておきましょうかね…。前者は市の指定文化財に指定されており近くにはそれを示す石造の標柱や顕彰碑があります。「扇」の付近にはそのほか近世の地蔵石仏や小型の五輪塔の残欠数点ありました。

片岡氏の報文が載る『史迹と美術』493号は昭和54年4月発行で、前年末に亡くなられた川勝博士への追悼文集「故川勝主幹を偲んで(その一)」が掲載されており、博士のお人柄やエピソードが記されています。中でも坪井良平氏の追悼文にある博士と坪井氏との約束や「四十前後の会」のことなどたいへん興味深いものがありました。

なお、九品寺の墓地には塔身後補ながら基礎上・笠下各3段、笠上5段と段形がやや変則的ですが立派な宝篋印塔があり、川勝博士によれば鎌倉後期のものとのことです。


奈良県 奈良市川上町 伴墓五輪塔

2011-10-15 09:07:12 | 五輪塔

奈良県 奈良市川上町 伴墓五輪塔

若草山から北西方向に伸びる尾根の西側斜面に共同墓地公園の三笠霊園がある。山腹の斜面を段々に整形し、棚田状になった平坦面に近現代の墓標がたくさん立ち並んでいる。01霊園の一番上から少し下がった場所に一際古そうな石塔が立ち並ぶ一画がある。03標高は150mくらいあって、たいへん見晴らし良いロケーションである。この場所は伴墓(トモバカと読む、一説にトンボバカ)と呼ばれている。この地には往昔、永隆寺という寺院があったとされる。奈良時代、八世紀初め頃、大納言大伴安麻呂(大伴旅人の父、家持の祖父)がこの近くに創建し、没後しばらくしてこの地に移されたと伝えられる。大伴氏の氏寺で伴寺と呼ばれたという。02それがやがて東大寺の末寺となり、いつの頃か廃絶して東大寺の墓所となった。さらに郷墓に発展したようで、あるいは先に郷墓があってその一画に東大寺の墓所が出来たのかもしれないが、その辺りの事情は不詳。今回紹介する五輪塔が江戸時代に東大寺の境内から移されてきた頃には既に東大寺の墓所になっていたと思われる。五輪塔はこの墓所の東寄りにあり、傍らに槙の木があるのですぐ目に付く。元禄16年(1703年)、東大寺俊乗堂付近にあったものをここに移建したと伝えられている。直接地面に据えられており基壇や台座は見当たらない。地輪下端は地面下にあって確認できない。キメの粗い花崗岩製で表面の風化が進み、細かい欠損が多い。総高約173cm、地輪は上半に比べ下半に細かい欠損が目立つ。地輪幅は約76cm、高さは約46.5cm。地輪上端面はほぼ水平で各側面中央に梵字「ア」を大きく薬研彫りする。水輪は幅約62cm、高さ約45.5cm、横張が少なく上下のカット面、つまり地輪や火輪との接合面が大きい。四方には地輪と同様の手法で「バン」を刻む。火輪は通常の五輪塔では平面(垂直投影の形)が方形になるが、これは平面三角形を呈する。この特異な形状こそ三角五輪塔と呼ばれる所以である。05火輪の軒の隅付近は少し欠損しているが、平面三角の各辺長は約78cmに復元できるという。高さは約38cm。軒先線のアウトラインは直線にならず中央で外に膨らませている。06軒端は垂直に切らず、屋根の勾配がそのまま火輪下端面に交わり軒厚がない。軒反も認められず火輪下端面は平坦で、隅降棟はむくり気味になっている。また、現状では火輪上端面に欠損による凹凸が目立つことなどから、狭川真一氏は上端面の側辺が下方に弧を描き、降棟の稜線上端が三角錐状になって風輪を抱くように上に伸びていたと推定されている。火輪上端が風輪下方にくい込むように見えるこうした形状は、噛合式と呼ばれ、古い五輪塔の特長とされる。火輪の各屋根面三方には、やはり同様に「ラン」を刻んでいる。四角形であれば各部四隅を合わせるが火輪だけが三角形なので本来火輪の隅がどこにあったのかが問題になるが、重源上人創建とされる三重県伊賀市新大仏寺に伝わる小型の水晶製三角五輪塔では火輪以下が一石彫成され、火輪の三角の隅のひとつを地輪の隅に合わせるようになっていることから、それが本来の位置だった可能性が高いことが指摘されている。この五輪塔でも現状ではそのようになっている。04_2空風輪は高さ約43cm、風輪はやや腰高で高さのある深鉢状を呈し、空輪は重心が低く押しつぶしたような蕾形でいずれも古い形状を示す。四方に梵字が認められるが風化摩滅がきつい。火輪以下に鑑み「カン」、「ケン」と思われ、各部に刻まれた梵字は大日如来法身真言「ア・バン・ラン・カン・ケン」である。三角五輪塔は俊乗房重源上人(1121年~1206年)に縁のある東大寺別所や寺院等に金属製や水晶製の舎利容器などさまざまな形で残されている。その後は何故かほとんど普及しなかったために重源上人の代名詞、専売特許のように語られることが多い。本例も重源上人自身、ないし上人にごく近しい関係者が関与して造立された何らかの供養塔、あるいは上人没後さほど間をおかずに作られた上人の墓塔と考えられている。紀年銘こそないが、重源上人との関係を考慮すれば、造立時期は自ずと鎌倉時代前期と推定され、古風な各部の形状はそれを裏付けている。重源上人の事跡、そして五輪塔を考える上で見逃せない貴重な資料である。重要文化財指定。なお、近くにある寄集め塔に積まれた段形状の部分は各部別石の宝篋印塔の部材のように見える。複数あったと思われ、どれも元はかなり巨大なものだったと推定される。その外にも伴墓には中世前期に遡るような石塔残欠が多数みられる。これらの中にも鐘楼丘付近から運ばれてきた可能性が高いものが含まれるだろう。

 

文中法量値は狭川氏の報告によります。勝手ながら便宜上数値は5mm単位で2捨3入,7捨8入としました。氏はこの五輪塔をミリ単位で実測され詳細に観察並びに検討しておられますので、詳しく知りたい方はぜひ氏の報告をご覧ください。

 

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』

   清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

   藤澤典彦 「重源と三角五輪塔の周辺」『重源のみた中世-中世前半期の特質-』

        シンポジウム「重源のみた中世」実行委員会

   狭川真一 「伴墓三角五輪塔実測記」『元興寺文化財研究所 研究報告2004』

    〃   「噛合式五輪塔考」『日引』第6号 石造物研究会

 

三角五輪塔は、重源上人以降、何故かほとんど普及しなかったようです。ほとんどは近世以降の古制追従例で伴墓にも模倣品がいくつか残されています。教義上、五輪塔の火輪は本来三角形で、この形こそが五輪塔の本格だということもできるわけです。若い頃、醍醐寺で真言密教を学んだ上人の信仰、思いがこの形に表れていると考えられています。醍醐寺には上人以前から三角五輪塔の伝統があったようです。通常のように平面四角で宝形造にした火輪に比べ、見る角度によって落着きがないように思います。石の節理も考慮すると作りにくいということもあったかもしれません。この辺に三角五輪塔があまり普及しなかった原因があるような気がしますが、どうなんでしょうか。

現在の大仏殿が再興される以前の東大寺の古い境内を描いた絵図を見ると、大仏殿東方、鐘楼のある高台にいくつか石塔が描かれています。このエリアは鐘楼丘と呼ばれ、重源上人を祀る俊乗堂もここにあります。俊乗堂の傍らには今も古い凝灰岩製の層塔の残欠が残されています。現在、鐘楼丘にこの三角五輪塔があったことを示す痕跡は何も残されていません。また、源頼朝の供養塔なるものもこの辺りにあったと伝えられるそうですが、あるいは伴墓にバラバラに残された宝篋印塔がそうなのかもしれません。重源上人が建てた浄土堂は戦国期の兵火で焼失し、その故地に公慶上人によって建てられたのが今の俊乗堂ですので、その際にでも付近の石塔をまとめて伴墓に移したのかもしれませんね。その辺りの経緯には実に興味深いものがありますが、あいにく不勉強で詳しくは承知しておりません。ちなみにすぐ近くには「嶋左近尉」の名を刻んだ背光五輪板碑があり有名な戦国武将の墓塔といわれていますが、よくわかりません。

 

 

 

17世紀中葉頃に描かれた東大寺「寺中寺外惣絵図」を見ると、「俊乗石廟」という五輪塔らしき石塔が、浄土堂跡の西側、天狗社の南、高台の斜面かと思われる場所に描かれ、その東側、浄土堂跡との間に「源義朝公」、「源朝臣頼朝公」と注記のある宝篋印塔らしいものが2基描かれています。さらに浄土堂跡の東には層塔が2基描かれています。浄土堂跡にその後建てられたのが今の俊乗堂なので、これらが伴墓にある石塔であるならば、そのおおまかな当時の場所は見当がつくと思われます。「寺中寺外惣絵図」は大仏が露座に描かれ、当時の境内の様子がかなり忠実に描かれています。こうした古い絵図に描かれた石塔などをあれこれと考えるのも実におもしろいですね。

 

嶋左近は大和の人といわれています。石田三成の重臣として関が原の戦いで戦死したようです(行方不明説も)。背光五輪板碑に紀年銘はありませんが、刻まれた干支は関が原の戦いのあった慶長5年と一致し、9月15日というのもばっちりです。背光五輪板碑としての形状も概ねこの頃にものとして問題ないように思います。ただ、五輪塔の正面に、このように大きく俗名を刻むというのはあまり例がないように思いますが、どうなんでしょうか…、わかりません。興味深いですが真偽も含め後考を俟つほかありません。


奈良県 奈良市北御門町 五劫院地蔵石仏

2011-10-10 14:45:42 | 五輪塔

奈良県 奈良市北御門町 五劫院地蔵石仏

奈良東大寺の北方に近接する五劫院は思惟山と号し、東大寺末の華厳宗の寺院。本尊は五劫思惟の阿弥陀座像(木造)。10_4俊乗房重源上人が宋から将来したと伝わる鎌倉時代初期の重要文化財。02_4四十八願を成就し西方極楽浄土の教主となる以前の阿弥陀如来(=法蔵菩薩)が成道に際して五劫という長時間、瞑想思惟しその間に螺髪が伸びて大きく膨らんだ様子を表した珍しい像である。

ちなみに"劫"というのは途方もなく長い時間を表し、四十里四方の山より大きい岩盤を天女の羽衣で三年(一説に百年)に一度づつだけふわっと撫でる。それを延々と繰り返し、ついに岩盤が磨減してなくなるまでに要する時間よりも長い時間だということが『大智度論』にあるという。01その五倍が五劫でそれは一説に216億年とも言われる。03

境内北側の裏手に墓地が広がる。本堂向かって右手、墓地の入口の覆屋内に二体の石造地蔵菩薩立像が納められている。いずれも南面し、下端は土中に埋まって確認できないが、現状高で約2mはある。西側の地蔵は見返り地蔵と称される。像高約152cmのほぼ等身大で、石材は凝灰岩質とされるが、黒色で硬そうな感じを受ける。黒っぽい溶結凝灰岩ないし安山岩と思われる。下端には蓮華座を刻むようだがはっきり確認できない。舟形に整形した光背面に地蔵菩薩の立像を厚肉彫りしている。お顔を左に向けてふり返り、体全体はやや右斜めに向って歩を踏み出している様子が裳裾からのぞいた足先から見て取れる。07_2これは極楽に向かう途中、引接する衆生が遅れていないか、漏らさず付いて来ているか確認のためにふり返っている姿だとされる。珍しさでは本尊五劫思惟の阿弥陀像と負けず劣らずのものである。市内では他に伝香寺に小さいものがあるという。持物は右手に錫杖、左手に宝珠の通有のもので、左手は腹の辺りに添え掌上に宝珠を載せる普通の表現だが、右腕は下ろして手を下に向けて錫杖を執り、錫杖の上半を右肩に軽く担ぐようにしている。09頭部は大き過ぎず身幅のある体躯は堂々として全体のプロポーションは均衡良く、衣文表現も含め概ね写実的で、衣裾がなびく様子などは的確に表現されている。面相はごく近くで見るとやや歪んでいるが、拝する側から見て温和に見えるようにきちんとデザインされているように見受けられる。手先や足先の表現にも抜かりはなく、作者の行き届いた配慮には目を見張るものがある。光背面の左右に細く浅い刻銘が小さい文字で刻まれている。摩滅が進み不完全だが、向かって右は「右意趣者東大寺花厳恵順…/御菩提、奉造立供養者也…」と二行、左が「永正十三…」と部分的に判読されている。08東大寺関係者による造立と知られる。永正13年は西暦1516年。石造物が粗製乱造の時期を迎える16世紀前半の作とは到底思えない素晴らしい出来映えで、太田古朴氏が後刻を疑っておられるのも首肯できる。04ただ、大和にはこのように作風優秀で時代の様式観を超越したような出来を示す例も稀に見られることから、この地蔵石仏もそうしたもののひとつに数えられるのであろう。

東側の地蔵は花崗岩製。像高約152cm。下端には剣状にした覆輪付単弁を並べた蓮華座を刻み、舟形光背に地蔵菩薩を厚肉彫りする。光背上端近くの中央に阿弥陀如来の種子「キリーク」を薬研彫りし、極楽引接の願いを込めた地蔵菩薩のお姿と推察される。右手に錫杖、左手に宝珠の通有の持物。やや頭が大きく、撫肩、痩身のすらりとした体型で、衣文表現は線刻を交えた平板な感じで写実性にはやや欠ける。姿態にも見返り地蔵のような動きやダイナミックさがなく、定型的な意匠で面白みに欠ける。ただ面相は優れ、切れ長のきりりと涼しい眼を浅く彫り沈め、端正で若々しい表情には流石に石工のクラフトマンシップ=魂がこもっているように感じられる。こうした目元の表現は、大和の石仏の手法として戦国時代以降受け継がれていく。06また、左手の宝珠に小さい蓮華座が表現されている点は面白い。紀年銘はないが、光背面左右に刻銘がある。05向かって右に「三界万霊」、左に「念仏講中」と大きい文字で陰刻され、下方には左右ともに小さい文字で結縁者の名前がたくさん刻まれている。室町時代の紀年銘を持つ他の石仏にも通有に認められる定型化した意匠表現が目立つが、細部には優れた部分も認められ、造立時期は見返り地蔵とあまり隔たりのない頃と考えられている。独創性は少ないが、仕上げは丁重で保存状態も良好である。ほぼ同大で同時期の地蔵菩薩が左右に並ぶが、一方は時代にそぐわない独創的な異形の作品、一方は典型的な室町時代の作風で、両者の違いをはっきり体感できる好材料と言える。

このほか墓地内には六字名号板碑など中世に遡る石造物が多く残されている。中でも無縁塚中央にある地蔵十王石仏は注目すべきもので、像容の風化が進み細部が失われているが等身大の立派な石仏である。鎌倉後期説、室町後期説、江戸初期説と造立時期について専門家の意見が分かれる。錫杖頭の大きいこと、整ったプロポーションなどから小生は少なくとも室町中期を降ることはないと思う。

また、墓地の一画には江戸時代に東大寺の大勧進として大仏並びに大仏殿の再興に生涯を捧げた公慶上人をはじめ東大寺関連の廟所がある。一際目を引く五輪塔が公慶上人の墓塔である。よく見ると細部には江戸時代の特徴が現れているが、壇上積基壇の上に複弁反花座を設け、各部四方には大日如来の法身真言「ア・バン・ラン・カン・ケン」の梵字を深く薬研彫りしている。五輪塔としては最高の荘厳がなされ、たいへん立派なものである。さらに墓地の入口には石造鳥居があり、「妙覚門」と刻まれた額が面白い。所謂「墓鳥居」で、「妙覚」とは、談山神社の摩尼輪塔に見るごとく(2009年5月10日記事参照)仏果の至高位を示すものと思われ、恐らく東大寺廟所に伴うものだろう。現在の額は新補で、古い額は見返り地蔵の足元に置かれている。

 

 

 

 

 

 

 

写真左上:神社でもないのに何故か鳥居が…これは墓鳥居というやつです。鳥居右手の覆屋の中にお地蔵さん達がいらっしゃいます。写真右上:お地蔵さん同士が話し合っているふうにも見えます。右上二番目:少し見上げかげんのアングルにすると一層頼もしい感じが増します。左上三番目:たいへんハンサムなお顔です。左最下:無縁塚の地蔵十王石仏。全体長方形で厚肉彫りの地蔵菩薩立像の左右に薄肉彫りの十王像があります。風化摩滅が激しいですがお地蔵さんのアウトラインから受ける感じは古そうです。この時はあまり時間がなかったので改めて詳しく観察する必要がありそうです。右最下:公慶上人の墓塔です。復古調の五輪塔で、梵字は五輪四門かと思いきや大日法身真言でした。

 

 

 

参考:太田古朴  『美の石仏』

   清水俊明  『奈良県史』第7巻石造美術

   川勝政太郎 『石の奈良』

    〃    新装版『日本石造美術辞典』

   望月友善編 『日本の石仏』4近畿篇

 

 

 

 

 

見返り地蔵、あるいは見返し地蔵とも言いますが、お顔は童顔温和ながら体躯はどっしりして頼もしく、写実性と動きのあるダイナミックな表現で鎌倉時代なんじゃないかと思ってしまいます。永正じゃなくて永仁でも不思議でないような出来映えですが、衣文には少々ざっくりしたような粗いところもあり、うーん正直混乱しますね。こういうのは特異な事例として埒外に置いておくほかないのでしょうか…。いずれにせよ素晴らしい作品だということだけは確かです。なんか隣の地蔵さんの方を気にしているような位置関係が面白いですね。


奈良県 奈良市川上町 若草山十国台三体石仏

2011-10-04 00:12:45 | 奈良県

奈良県 奈良市川上町 若草山十国台三体石仏

若草山の山頂に通じる奈良奥山ドライブウェイを上っていくと道は急カーブを繰り返しながらやがて十国台と呼ばれるピークに達する。04_4十国台には駐車スペースがあってここから山頂までの道の勾配はいくぶん緩くなる。01十国台から山頂に向かってさらに400m余り行くと、道路の北側に「三体地蔵」と書かれた標柱が立っている。この標柱から北側の緩斜面を100m程歩いて下っていくと木立の中に石柵が目に入る。この石柵の内に三体石仏が置かれている。ドライブウェイから一歩入ると道らしい道はないが、起伏の少ない緩斜面で下草はほとんどなく木々が疎らで視界はきくので、05北方向に真っすぐ歩いて行けばすぐにわかると思う。ドライブウェイを通過する自動車が少ない時には辺りは静寂そのもので、落ち葉を踏み分ける鹿の足音に驚いてしまうような環境である。訪う人も極めて少なく、賽銭として供えられた10円硬貨のくすんだ表面がそれを物語っている。石仏は幅約115cm、奥行き約65cm、現状地表高約40cmの不整形の自然石を台石とし、その上に高さ約135cm、幅約102cmの舟形光背形に整形した本体をほぼ東面して載せ、光背面を共有する三尊石仏が半肉彫りされている。03石材は三笠安山岩(「カナンボ石」)である。「三体地蔵」と言うが、石仏一般を総称して石の地蔵さんと言うに異ならず、三尊形式であっても地蔵菩薩はそこに含まれてはいない。中尊は阿弥陀如来、脇侍は向かって右側が観音菩薩、左側も如来像である。いずれも立像で頭光円は見られない。下端は厚みを残して単弁八葉の蓮華座を刻むとされるが蓮弁ははっきりしない。中尊は像高約94cm、右手を上げ左手を下げて、両手とも親指と人差し指で輪をつくる来迎印である。重なりあう衣文の表現はやや平板ながら整って荘重感があり、面相表現も優れている。02_3向かって右の観音像は像高約68cm、十一面観音と思われ、頭上の丸い突起は宝冠上の小面であろう。手元があまり判然としないが、持物の宝瓶とそこから伸びる蓮華らしいものが外側の肩上に表現されている。左側の如来像は像高約70cm、右手は施無畏印、下した左手先は剥落しているが与願印ないし蝕地印で弥勒如来と推定されている。観音菩薩の現生利益、未来仏たる弥勒如来への下生願望、阿弥陀如来は極楽往生と尊格の信仰特性を踏まえ造立願意を慮るのもこうした石仏造立の背景を考えていく上では有意義なことである。総じて作風優秀であるが、体躯に比してやや頭部が大きく、衣文表現に少し平板なところが見られる。無銘のため造立時期は不詳とするしかないが、従前から鎌倉末期頃のものと推定されている。プロポーションや裳裾の処理の仕方などから小生はもう少し降るのではないかと考えている。なお、太田古朴氏、清水俊明氏によると、この地は東大寺法華堂の千日不断花の修行場で行場の本尊として祀られていたとのことだが、法華堂の千日不断花の修行なるものがいかなるものなのかは不詳。

 

参考:太田古朴・辰巳旭 『美の石仏』

   清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術

 

文中法量値はコンベクスによる実地略測値ですので多少の誤差はご容赦ください。

清水先生は観音様の持物を念珠と蓮華瓶とされていますが、念珠がよくわかりませんでした。

落ち葉を踏み分けて進む雰囲気が何とも言えないロケーションですが、下草がないので割合歩きやすく、個人的には下手に整備された通路などはない方がいいと思います。木立の下の静寂の中で石仏と向かい合えるのは至福のひと時です。ただ、案内の標柱がないとまずたどり着けない。しかも標柱の文字が下り車線からしか見えないので見落としやすく上り車線からも見えるようにしてもらって、もう少しだけ文字を大きくしてほしいと思います。なお、十国台近くには「出世地蔵」という地蔵石仏があるとのことで目を凝らして運転していましたがついぞ見つけることができませんでした、無念。料金所でもらうパンフには三体地蔵や出世地蔵も見どころと記載されていますが小さい見取図で、あまり現地に行くための参考にはなりません。森林環境を損なわない範囲で結構ですので何とか最低そこに行けるように地図や案内表示だけはしっかりしてほしいところです。ま、これも石造マニアのわがままでしたかね。関係者の方にはどうかお許しを。

 

千日不断華の修行について、少し判明しました。不動明王、観音菩薩、地蔵菩薩などの諸尊に千日間にわたって花を供える修験道的色彩の強い行法で、「当行」と称されるものだそうです。

東大寺には平安時代前期、真言密教が導入されましたが、こうした密教的山岳修行が行なわれるようになったのは、醍醐寺の開祖であるかの理源大師聖宝によるところが大きいとのことです。なお、最近は行なわれなくなっているそうです。