石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市南田原町 南田原地蔵石仏

2010-04-15 23:14:43 | 奈良県

奈良県 奈良市南田原町 南田原地蔵石仏

白砂川に沿って長谷方面に通じる道路の東側に地蔵石仏が立っている。01小橋を渡った川向いの小高い場所にある墓地に通じる参道の入口にあたる場所で、赤い前掛けと手向けられた香華が地元の厚い信仰をうかがわせる。一見すると特に何ということもない、ごくありきたりな石仏に見えるが、これが大和でも屈指の古い銘を持つ石仏であることを知っているのはかなりの石造マニアかもしれない。02後補と思われる台石の上に固定されており、高さ約124cm、幅約52cm、奥行き約31cmの粗く長方形に整形した花崗岩製で、平らな正面に高さ約84.5cm、最大幅約38cmの少しいびつな二重円光背を彫り沈めた中に右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像を厚肉彫りする。足元の蓮華座は大ぶりの線刻で彫り沈めの外にある。像高は約73.5cm、表面の風化摩滅が進み、面相は完全に摩滅している。衣文も風化して分かりづらくなっているが、室町時代以降によく見られる腰から足首にかけての衣文襞を図案化したような定型的な表現とは異なっている。体躯のプロポーションのバランスがよく(要するに頭でっかちではない)、袖裾、膝の裳裾ともに短めに処理している点は古風である。肩から胸、両肘にかけての肉取もなかなか優れている。頂部には枘とみられる約5.5cm×約6cm、高さ約3.5cmの突起があり、元々は笠石を載せていたことがわかる。彫り沈めの外側、向かって右側に「建長□年三月七日田原本尾庄藤井在次」の刻銘が確認できる。ちょうど年数のところが剥離したように欠損して建長何年なのか読み取れないのが遺憾である(建長は鎌倉中期1249年~1256年)。左側上方にも刻銘の痕跡のようなものが認められるが肉眼での判読は困難。大和の石仏の中でも屈指の古い在銘品であり、笠仏のあり方を考えるうえからも注目すべき石仏といえる

参考:清水俊明 「奈良県史」第7巻 石造美術

   太田古朴 「大和の石仏鑑賞」

ところで、小生は大和を中心に無数に残る箱仏(笠石付石仏龕)の原形が本例や弘長2年(1262年)銘の南山城当尾の東小阿弥陀石仏(首切地蔵)のような笠仏にあるのではないかと考えています。大雑把な感覚的なものですが、13世紀初め頃と推定される三郷町勢野の一針薬師のように表面を平らに整形する以外ほとんど手を加えない自然石に平らな自然石の笠石を載せたものが、13世紀中葉頃に一歩進んで、粗く長方形に整形した正面に光背を彫り沈めて厚肉彫する手法を採用し、さらに安定して載せやすく直線的な長方形に本体(塔身)部分を整形するようになり、だいたい13世紀末~14世紀初め頃から次第に石塔などの影響からか笠は軒反を持たせた寄棟形になっていくのではないかと考えるのですがどうでしょうか。なお、ここから少し南に行くと道路脇の岩面に有名な南田原の磨崖仏があります。地蔵石仏の最高到達点である和歌山県地蔵峰寺の本尊を作ったあの伊行恒(経)の作品で、元徳3年(1331年)銘のハンサムな阿弥陀さまです。是非こちらもあわせてご覧いただくことをお薦めします、ハイ。


京都府 木津川市加茂町森 森八幡宮石碑

2010-04-01 22:43:08 | 京都府

京都府 木津川市加茂町森 森八幡宮石碑

 

森八幡宮は、鎌倉末期、正中三年(1326年)銘の不動明王と毘沙門天王の素晴らしい磨崖仏で著名。八幡神の摂社神の本地である旨が銘にあり、勇壮な毘沙門天と重厚な不動の姿を片麻岩の壁面に線刻で描いてある。毘沙門天の風にたなびく天衣、不動の火炎光背の複雑な曲線など、その表現は絵画的で下絵をもとに刻んだものと推定される。01片麻岩という表面が薄く剥離しやすい石材のため、風化が進み、毘沙門天の胸部付近が損なわれているのは遺憾であるが、現在は覆屋で保存が図られている。02この磨崖仏は古くから諸書に紹介されているのでここではこのくらいにして、境内の一角にある石碑を紹介したい。元は参道石段下の渓流にかかる石橋の傍らにあった可能性があり、現在は社殿近くに移されている。下端はコンクリートで固められ埋まっているが、現高約87cm、幅は広いところで約28cm、奥行き約22cm。棒状に粗く整形した花崗岩の正面を平らに彫成し、三行(左右割付の干支などの一部を除く)の造立銘が陰刻されている。太田古朴氏は右から「以平邦成次刀弥之功建畢/當八幡宮御寶前之石橋/寛元三年乙巳三月日/橋大工/紀富久」と判読された。向かって右側の以平邦成云々の行は文意がやや通りにくい点があり、03難読文字が交じるので太田氏の判読には疑義がなくもないが、當八幡宮云々の中央の行と紀年銘の部分は肉眼でも確認できる。橋大工云々の部分も読めそうで読めない難字で、ここもやや疑問が残る。いずれにせよ架橋の記念碑であろうことはまず疑いない。寛元三年(1245年)銘は当尾地域では最古の石造銘で注目される。一般的に中世に遡る石橋の古いものは残っていないとされるが、この銘文によりその存在が確認される。しかしながら現在参道手前の小川に架かる長さ3mばかりの延石を3本並べた石橋が銘にいう石橋であるかどうかは不詳。伝承では天平期に勧請され9世紀半ばにもその祭祀が拡充されたとされる森八幡宮が、少なくとも13世紀中葉にはこの場所で現在と同じように近在の崇敬を集めていたことを示している。

参考:川勝政太郎 新装版「日本石造美術辞典」東京堂出版

   太田古朴 「大和の石仏鑑賞」綜芸舎

   山本寛二郎 「南山城の石仏」(上)綜芸舎

   中 淳志 「当尾の石仏めぐり」東方出版

 

当尾屈指の石仏として有名なのであえて紹介しませんが、ここの毘沙門天はかっこいいです。小生お気に入りの石仏のひとつです。この橋碑の方はちょっと地味な存在で案外忘れられている気がしますのでご紹介したいと思った次第です。写真左:小生の下手な写真では銘はちょっと判りにくいですね。刻銘の彫りは割合深くしっかりしています。むろん風化摩滅もありますが、むしろ読めそうで読めない難字でしょうね。写真右:側面から背面は特に手を加えられた様子はありません。写真下:参道下の現在の石橋。この石橋が銘にあるものなのでしょうか、わかりません。長い年月の間に大雨等で流失してしまった可能性も少なくないのではとも思われますが、どうなんでしょうかね?

 

 

追伸:上記記事をUPした後から、昭和36年12月発行の『史迹と美術』320号に、「森八幡宮石橋に関する新資料」と題して片岡長治氏がこの石碑を報告されていたことが判明しました。それによれば、コンクリートで固められた下端は約20cm埋まっており、高さは106cmあるらしいこと、当時75歳の古老が子どもの頃から現在の場所にあったらしいこと、「御寶前」という表現について、鎌倉時代の金石文の実例を示されたうえで平安時代から既に使われていること、参道石段下の向かって右側に江戸時代末期の弘化4年銘の石橋の供養碑(写真左下:向かって右手の石灯籠と階段の間に小さく見えるのがそれ)があることなどが記されています。やはり参道下の延石の石橋についての結論は控えておられますが、古い石橋を考えるうえで示唆に富む内容を簡潔に述べておられます。なお、『史迹と美術』の同号には太田古朴氏による森八幡宮蔵の神像に関する報文もありたいへん参考になります。