古典などに登場する石造(その2)「亡魂水を所望する事」『義残後覚』巻二の八
備州谷野(備後甲奴郡矢野郷(広島県府中市上下町)付近に比定)に、介市太夫という人が夜念仏をして三昧(墓地)を廻っていた。田舎では、宵から明け方まで鉦を叩いて念仏を唱えて歩くという念仏行があった。
ある時、石浜勘左衛門という人が、所要があって偶々夜中に谷野の墓地を通ったところ、石塔・卒塔婆の陰から二十歳くらいの女の人が白い帷子を着て髪を乱した姿で現れ「水を一口ください」と請う。すると勘左衛門、「何だお前は!幽霊が誑かそうとするか!」と刃一閃、斬りつけると女は跡形もなく消えてしまった。勘左衛門は足早に自宅に立ち帰るなりぶるぶる震えて寝込んでしまい、病みついて百日後に死んでしまった。
それを聞いた介市太夫が、早速鉦を頸にかけて夜半に出かけた。念仏をして墓地を回ると例の幽霊が出てきて念仏に感謝し、自分が死んだ際には、供養してくれる出家者もなく、信心もなかったのでこうして浮かばれずにいたが、あなたに剃髪してもらい供養してもらいたい、と頼んできた。今日は剃刀の準備がないので、明日の夜、用意をして髪を剃ってあげよう、と答えると、幽霊は感謝し、さらに喉が渇くので水を一口くださいという。介市太夫は谷間に行って鉦に水を汲んできて飲ませた。
宿に帰った介市太夫は、「侍衆」にこんな不思議なことはないので、夕方に墓地に行って離れてご見物なさいと伝えると、大勢が墓地のそこかしこに隠れて様子を見守った。夜半に介市太夫が墓地に行くと、例の女の幽霊が現われた。念仏を勧めながら女の頭に剃刀をあてがって髪をそろりそろりと剃っていく。
やがて東の空がほのぼの明け始める。隠れていた侍衆が集まってきて見れば、介市太夫が剃刀をあてがっていたのはなんと二尺ばかりの「五輪のかしら」で、古ぼけた五輪塔を覆っていた蔦や苔を剃刀でそぎ落としていたのだった。こういうこともあるのだ、と猛々しい武士たちも菩提心を深くし、亡霊も成仏したとみえてその後は現れなかった…というお話。
小生も打ち捨てられた五輪塔の残欠が苔むしているのをよく見かけますが、怖いというより何となく物悲しい印象のお話です。
高田氏の解説によると、出典の『義残後覚』の編著者は愚軒、文禄5(1596)年の識語が国立国会図書館蔵の転写本にあるとのこと。16世紀末頃の成立らしい。愚軒という人物は詳細不詳で、高田氏は豊臣秀次の伽衆の一人と推定されています。『義残後覚』の内容は、怪談に特化したものではなく、戦国時代の様々なエピソード集だそうです。
この話からは、16世紀末頃には既に誰にも供養されず苔むした五輪塔が三昧にあったらしいこと、地方などでは、往々にしてこうした夜念仏が行われていたらしいことがわかります。夜念仏供養関係の石造物は各地にあります。さらに、白い帷子で髪を振り乱すという幽霊の定番のキャラが江戸時代以前、既に出来ていた可能性を示しています。亡霊が勘左衛門に水を請うくだり、原文では「この石塔にあふて、ねがわくは水を一くち賜び候へ」とあり、「石塔にあふて」の意味が今ひとつわかりにくいですが、有名な『餓鬼草紙』の「食水餓鬼」のシーンを思い出せば、「石塔にあわせて」とか「石塔ごしに」or「石塔にそわせて」というような意味なのかなと思います。介市太夫が水を与えるくだり、原文は「はるばる谷へ行きて、叩き鉦にすくふて、亡魂にぞ与えける」とあります。その三昧は、近くに水場がない少し高い場所に立地する設定だと思量されます。中世墓は往々勝地にあり、墓地のそういう立地条件を読み取れるかもしれません。「侍衆」と介市太夫の関係はよくわかりませんが、日ごろから付き合いのあるスポンサーのような帰依者という設定なのか、彼自身が侍衆の一人で在家の念仏者だったのか…、少なくとも侍衆と念仏者が近しい関係だという設定かと思われます。「五輪のかしら」とあるのは五輪塔の空風輪部分と思われ、2尺ばかりというから約60㎝、空風輪としてはかなり大きいものです。それとも塔高が約60㎝の小型五輪塔の空風輪部分をいうのかは不詳です。人頭大ということを言いたかったのでしょうか…。
こうした話が読者に受け入れられるには、いかにもな、まことしやかな設定、信ぴょう性のあるフィクションが求められるので、話の設定の裏に、当時の世間一般的な"事象"に対する常識的な理解の仕方というものが潜んでいるはずです。そういう穿った読み方をしていくと面白いと思います。むろん、史実や真実の立証のためのツールということではあまり使えそうにありませんが…。
参考:高田衛編・校注『江戸怪談集』(上)岩波文庫
夜念仏関係の石造物の例(奉寄進常夜灯/夜念仏願主)享保年間の石灯籠の竿の銘。
伊賀市内某廃寺。怪談の舞台のような荒れ果てた山中の無住廃寺。本文とは直接関係ありません。