石造美術紀行

石造美術の探訪記

埼玉県東松山市石橋 青鳥城跡「虎御石」の板碑

2019-01-21 22:57:38 | 埼玉県

埼玉県東松山市石橋 青鳥城跡「虎御石」の板碑
 青鳥城跡の東寄り、関越自動車道を隔てたオタメ池の東畔の緩斜面に建っている。通称"虎御石"。地上高375㎝、幅70~77㎝、厚さ14㎝。緑泥片岩製。見る者を圧倒するサイズの武蔵型板碑。比企・入間地域最大の板碑とされる。頭部の山形、その下の二条の切込、そしてあまり突出しない平らな額部、碑面は輪郭を巻かず広くとって蓮座上に雄渾で鋭い筆致の胎蔵界大日如来の五点具足種子「アーンク」が大きく、しかも深く鋭利に彫り込まれている。蓮座(蓮台)は花弁を凹ませて表現されており、特に正面中央の大きい宝珠形の花弁は背面に達するくらい深く彫り込まれている。花弁の上部には、斜め上方から見た花托部分を波打たせた二重の沈線の楕円形で表現し、花托内側には11個の小さい同心円状の凸部をポツポツと並べて雌蕊(実)を表現する。花弁を凹ませた蓮座は、江戸時代以降の墓標などにも見かけるが、形式的にデフォルメされた近世以降のやり方とは全く異なっている。種子の間から向う側にある花托と花弁が見える表現は、まるで種子が宙に浮いているような視覚効果があって面白い。こうした蓮座表現はこの板碑に限らず武蔵型板碑によく見られるものだが、近畿ではあまり見かけない。身部下方に達筆な草書体で「真言不思議/
誦無明除/一字含千里/即身證法如」の文字がある。これは弘法大師空海が「般若心経」を真言密教の立場で注釈したとされる「般若心経秘鍵」の秘蔵真言分にある偈頌からの抜粋。さらにその下に「右志者引上為善聖□敬白/応安二己酉卯月八日施主等/古今身之□□□如件」の紀年銘と願文がある。応安二年は1369年、南北朝時代。アーンクの文字中央やや下よりで折損して継いであるほか、向かって左上方にやや大きい欠損があり、下方の刻銘付近に細かい剥離などが見られる。背面にはコンクリート製の補強材が施され安定が図られている。東松山市指定文化財。
 なお、傍らに現高約87㎝の図像板碑がある。上半から右側にかけて欠損するが、雲に乗って梵篋を捧げ持つ声聞形のレリーフがある。無銘で時期は不明。像容表現は優秀で14世紀代には行くだろうか、よくわからない。






武蔵型板碑の意匠表現、青石自体の色彩と質感、陰影の織りなすコントラスト感、凛々しさとでもいいますか…
、見慣れた近畿方面の石造とは違った魅力にあふれています。とは言え、写真今いちに加え取材調査不足でとうてい記事にUPできる状況にないのですが、そうそう行くことができない中、数年前にたまたま探訪する機会があり、無責任な内容のままですがあえてUPしときます。ちょっとくらい不満足な状態でもどんどんUPしてかないと続きません、あしからず…。


埼玉県 秩父郡長瀞町野上下郷 野上下郷釈迦種子板碑

2014-02-06 00:11:37 | 埼玉県

埼玉県 秩父郡長瀞町野上下郷 野上下郷釈迦種子板碑
荒川上流左岸、川沿いに通る国道140号から西にわずかに入った小高い場所に目を見張るような大きさの板碑が建っている。05台上高537cm、幅120cm、厚さ12cm、日本最大の板碑として著名な存在で、「野上下郷石塔婆」として昭和3年に国史跡に指定されている。元は現在地より50m程川寄りの場所にあり、今の位置に移建されたのは明治時代のことという。長瀞の地は緑泥石片岩の産出地で、板碑の原材料を切り出した採掘地のひとつとして知られる。板状の片岩の台石に長方形の穴を穿孔し板碑本体の基底部(根部)を差し込んでいる。この台石が本来一具のものかどうか疑問もあるようだが、あるいは一具と考えてもいいかもしれない。地表下に隠れた部分が少なくとも1.5m程度はあると思われ、それも合わせると全長はおそらく7mに近いと推察される。規格外の大きさである。先端の山形、その下には2段の切込(二条線)を施す。切込み直下に一筋の沈線を引いて平滑に仕上げた長大な碑面には、外縁に線刻で長方形の枠取りを設け、枠内の上半に「伊の三点」と呼ばれる三弁宝珠のような形の荘厳点を加えた釈迦如来の種子「バク」を薬研彫の雄健なタッチで大きく刻んでいる。02武蔵の板碑の種子は「キリーク」が圧倒的で「バク」は比較的珍しい部類になるそうである。04_2主尊下方には花托を備えた蓮座を同様の彫法で表現する。その下方、碑面中央付近に光明真言の梵字を四行に分けて陰刻し、さらにその下方中央に「應安二年乙酉十月日」の紀年銘を大きく刻み、左右にやや小さい文字で二行ずつ「願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道」の「法華経化城喩品」の偈頌の四行と「権小僧都□□、道観、大檀那、行阿、比丘尼妙円、正家、正吉、結衆三十五人、道観、敬白」の陰刻願文を左右に分けて配列する。刷毛書体の種子や蓮座は雄渾そのもの、銘文も楷書体の達筆であるが、こうした手法自体は盛期の武蔵型板碑に通有する特長で、何もこの板碑だけに限ったものではないかもしれないが、何しろキャンバスも大きいので一際深い印象を受ける。03本尊を釈迦とし法華経の偈を引くところを見ると法華系の信仰背景があるのかもしれないが、「行阿」は阿弥号を名乗る念仏者かもしれず何とも言えない。よく見ると二条線の切込みの彫整がシャープさに欠けるなど手法的には今一つのところも見受けられ、川勝博士が指摘されるように退化傾向とも考えられよう。大きさのせいもあるだろうが全体的にやや大味な出来映えと言うべきかもしれない。応安二年は南北朝時代の西暦1369年に当たる。在地の武士層と思われる在俗出家者の妙円、行阿(親子?夫婦?)がメインスポンサーとなり、その一族郎党であろうか、35名の結衆の出資により造立されたことが知られる。一説に戦死した近くの城主の13回忌供養のために未亡人が中心となって造られたとも言われているらしい。これほどの石材を切り出し運搬することを考えると、遠距離にある採石場から運ばれたとは想定しづらいので、同じ町内でもかなり近い場所から採掘されたと考える方が自然で、至近距離にある荒川の河床付近にある緑泥石片岩の露頭から切り出された可能性を指摘する見解もある。その巨大さから武蔵型板碑のシンボリックな存在として位置づけられ(かなりキャッチーな意味で)、空に向かって聳え立つ巨大な雄姿は、いかにもそれにふさわしい存在感を示している。長瀞地域ではこの頃を境に板碑の造立が急速に下火になるらしく、最大にして地域最後の板碑であるという。山が間近に迫る川沿いのおそらく交通の要所であったであろうこの場所に、なぜそのような板碑が作られたのであろうか、興味は尽きない。

参考:川勝政太郎『石造美術入門』
      日本石造物辞典編集委員会編『日本石造物辞典』

幸いにして念願の関東の本格板碑をいくつか見る機会に恵まれました。さすがに埼玉県は板碑の本場だけあって見るべき板碑がてんこ盛り。じっくり見て歩くには2・3日では到底無理な相談で、それこそ何週間も要すると思われます。今回も相当駆け足の行程でしたが、路傍やお寺の墓地などに普通に板碑がありました。何ということのない小さい板碑に目をやると鎌倉末や南北朝時代の年号がちらほらと見られたのには舌を巻きました。板碑には古くから分厚い研究の蓄積があり、不勉強な小生なんぞは所詮門外漢の部類に過ぎませんので板碑を語ろうなどおこがましい限り、100年早いというわけですが、今後も追いかけていきたい対象です。幾多の先人達を魅了してきたのもむべなるかな、とにかく理屈抜きに美しいもんです、ハイ。