石造美術紀行

石造美術の探訪記

京都府 京都市上京区北野 北野天満宮石鳥居及び東向観音寺五輪塔ほか

2008-09-29 23:05:48 | 五輪塔

京都府 京都市上京区北野 北野天満宮石鳥居及び東向観音寺五輪塔ほか

北野天満宮の参道左手、西側に東面するのが東向観音寺(真言宗泉涌寺派)である。文字どおり東面するため東向というらしく、古くは参道の反対側にも西向のお寺もあったと伝えられるが早く廃絶して今はその正確な位置さえ定かではない。03本堂南側のやや奥まった場所に巨大な五輪塔が見える。築山の上に建ち、一条七本松付近にあった源頼光が退治した土蜘蛛が住んだ塚から明治時代に出土したという六地蔵石幢の龕部と思しき残欠のほか、中型の五輪塔数基が築山のすぐ脇に並んでいる。菅原道真公の母堂、伴氏の供養塔と伝えられ、昔から京の人が忌明にこの大きい五輪塔に詣でる風習があったという。道真公は平安時代中頃の人なので五輪塔の年代を考えるとちょっと古すぎる。元は少し離れた北野天満宮参道の西側にある伴氏社の小祠があるところにあったものが02明治時代初めの神仏分離によって現在の場所に移された。それ以前は北野天満宮の名物として有名だったらしく天満宮を描いた古い絵には必ず鳥居と五輪塔が描かれているという。川勝政太郎博士によれば、鷲尾隆康という公家の日記『二水記』に大永2年(1522年)四十九日に当たる9月8日に北野の石塔を拝んだことが記されているという。01「北野の石塔」がこの五輪塔であることはまず疑いないだろう。そして鷲尾隆康は、この塔が菅公の御母の墓で、世間の人が忌明に必ずこの塔に詣でるいわれは判らないと述べているという。室町後期には既に菅公の母堂の供養塔とされていたことや忌明参りの風習が定着しており、武家や庶民に比べ有職故実に詳しいはずの公家でさえそのいわれに関する知識があやふやになっていたことを示している。このことから、忌明参りの風習が室町時代後期よりかなり遡る頃からのものであることが推測できる。本来死や葬送に伴う穢れを嫌う神社の境内になぜ忌明塔があったのかは判らないが、神仏習合や別当寺の関係、そして何らかの「結縁」が謎解きのキーワードになるだろう。そして忌明の風習のルーツには惣供養塔など個人の墓塔ではない、供養(作善)のための石塔に対する信仰のパターンが見え隠れしているように思う。五輪塔は高さ1.5mほどの築山の上に立っていることも加わってまさに見上げるばかりの巨塔である。花崗岩製で高さ約4.5m。梵字や刻銘は見られず素面。全体に空風輪が大き過ぎる観があり、しかも空輪のくびれが目立ってやや不出来な印象を受ける。鉢形の風輪はまずまずだが、空輪の重心が高いことと先端の尖りが気になる。離れた場所からの表面的な観察では石材の色調や質感に違和感はないものの、いちおう空風輪は後補の疑いをぬぐいきれないだろう。この点は後考を俟つしかない。地輪は植え込みに隠れ確認しづらいが、低くどっしりしたもので上端幅より下端幅が広く安定感のある古調を示し、下端付近は不整形で土中に埋め込む前提であったことがわかる。水輪は左右のふくらみに欠けやや背の高い印象ながら上下のカット面が大きくこれも古調を示している。01_4火輪は全体に低く、軒反は緩く真反りに近い。軒口の厚みも適度で、軒口の厚みが隅に向かって増していく隅増しがほとんど見られない。底面に比べ頂部が小さいこともあって屋根の勾配はあまり強くない。また四注の屋だるみも顕著でないので伸びやかな印象を与えている。これらも古い特長といえる。空風輪、特に空輪に違和感があり全体のバランスを悪くしているが、総じて古い特長を示しており、鎌倉時代中期、13世紀中葉頃に遡るものと見てよいと考えられる。

元この五輪塔があった伴氏社前の石鳥居も忘れてはならない。花崗岩製で高さ約2.7mの小さいものだが、左右の柱が太く転びが小さいのでどっしりとしている。02_2貫は外側に貫通せず、島木と笠木は反りが緩く、隅増しも小さい。こうした特長は先に紹介した大原勝林院墓地の石鳥居(2008年2月6日記事参照)にも共通するもので造立が中世に遡る可能性を示している。また、額束が島木に割り込む手法は珍しいとされている。注目して欲しいのが柱の台石である。自然石の上面に柱受座を削りだしたもので、受座に単弁反花が見られる。間弁(小花)が大きく蓮弁は高く抑揚感があるが、南北朝期以降に石塔の台座や宝篋印塔の基礎上などに多々見られるようになる複弁で「むくり」が目立つ反花とは一線を画する意匠である。川勝博士は鎌倉時代の作風を示すものとされて03_2おり、なるほどおっしゃるように、先に紹介した滋賀県野洲市の御上神社本殿の縁束石(2008年3月30日記事参照、建武4年(1337年)銘)などに比べると、反花が定型化に至っていない意匠であることが観取される。また、川勝博士によると、北野天満宮を描いた古い絵図のうち、観応2年(1351年)に描かれた西本願寺所蔵の絵巻物『慕帰絵詞』巻六に五輪塔の前にある鳥居が見られるそうで、これは木造のようであるとのこと。もし絵が実物の写生であれば、石鳥居はそれ以降のものと考えなければならないことから、台石と鳥居本体の石材の色調や質感の違いを考え合わせ、初めは木造の鳥居が柱の台石上に建てられ、室町時代に耐久性のある石製のものに取り替えられたのではないかと推測されている。したがって鳥居が当初から五輪塔とワンセットのものであったと仮定するならば、この台石も五輪塔と同じ鎌倉中期頃のものということになる。石塔と石鳥居が共存する例がまれにあるが、こうした石鳥居のあり方を考えていくうえからも貴重なものといえる。なお、北野天満宮にはこのほかにも石燈籠の古いものがある。社殿前の向かって右手、回廊前の柵の中にある石燈籠がそれで、六角型、花崗岩製だが風化が激しく基礎の蓮弁が辛うじて認識できる程度である。高さ約1.8mと小形で、宝珠と請花は小さ過ぎるので別物と思われる。笠の勾配が緩やかで中台が薄く瀟洒な感じを受ける。宝珠と請花を除くと全体のバランスがよく、古来茶人や庭園家の間で模造品の手本「本歌」として珍重されてきたもののひとつ。北野天満宮の摂社白太夫社の名を冠する「白太夫型」燈籠と呼ばれるもののモデルになったものである。川勝博士は香川県白峯寺の文永4年(1267年)銘の石燈籠に類似することから、同じ鎌倉時代中期末頃のものと推定されている。

   参考:川勝政太郎『京都の石造美術』141~144、216、236~237ページ

      竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 100~105ページ

川勝博士の博識にはいつもながら舌を巻きます。大きい五輪塔は不出来な空風輪が全体の印象を損なっていますが、それ以外はよく見ると笠置の解脱上人塔や生駒の鳴川墓地塔など古いタイプの五輪塔と似ています。石燈籠の写真はピンボケ&手ブレで掲載できるようなものが撮れませんでした。すいません。この石燈籠には、まつわる伝説があって、渡辺綱が一条戻橋に出没する女鬼に空中に拉致され格闘の末にその腕を切って脱出、墜落したところが北野天満宮の回廊の屋根で命拾いしたお礼にこの石燈籠を奉納したというもの。渡辺綱は嵯峨源氏の出で源頼光四天王の筆頭として知られる豪傑。10世紀後半から11世紀初め頃の人なので石燈籠より約250年程も前の人物で時代があいません。したがって所詮は根拠のない付会でしょうが、そういって否定するのみではつまらない。そこは割り切って伝説はあくまで伝説として大切にする奥行きのある鑑賞態度が必要かと考えます。石鳥居の写真もどうもイマイチですので、なるべく近いうちに撮り直してきたいと思っています、ハイ。

補遺:大きい五輪塔の法量について、元興寺文化財研究所「五輪塔の研究」平成6年度調査概要報告の51ページ、京都府分の補遺に数値を記載していただいておりました。ご紹介いたしますと、塔高403cm、地輪幅159.5cm、同高73㎝、水輪幅182cm、(132cmの誤植か?)同高123cm、火輪幅147.5cmとのこと、火輪の高さ、空風輪の数値がありませんが、大きいので登らないと計測できなかったのかもしれません。従前から人口に膾炙している高さ4.5mという数値よりは高さがやや低いようです。それとやはり地輪が低いことがわかります。採寸実測したという話を知らないないので、この数値は非常に貴重です。元興寺文化財研究所様の学恩に深く感謝するものです。


滋賀県 米原市上丹生 松尾寺層塔

2008-09-25 00:21:39 | 層塔

滋賀県 米原市上丹生 松尾寺層塔

国道21号線をJR東海道本線醒ヶ井駅前で南に曲がり、丹生川の清流沿いに山手に進み、右に折れて川を渡り険しい山道を徒歩で標高約400m余りの場所に位置する松尾寺まで登って行くルートは山裾からは1時間以上はかかる行程である。41松尾寺は標高504mの松尾寺山山頂から南東に少し降った斜面に立地している。お寺の機能は山麓の里坊に移転しているため、現在この山上伽藍は無住となっているが、定期的に手入れされている様子がうかがえ案内看板もある。本尊は観音菩薩、寺伝では役小角開基、義淵僧正の弟子とされる宣教創建による霊仙寺7子院のひとつで、息長氏出身で唐に渡り彼の地で非業の最期をとげた霊仙三蔵修業の地といわれ、伊吹山の三修の高弟松尾童子が中興とされるなど、修験道系の山岳信仰との深い関わりを示す古いエピソードを伝えている。39また「飛行観音」として航空関連の崇敬を集めているとのこと。標高は先に紹介した大吉寺跡に比べると低いが、人里離れた山深い雰囲気は共通する。往昔は子院50余を数え、本坊・子院をあわせて松尾寺という集落を形成していた。茶が特産であったというが明治時代に上丹生に合併した。急な石段を上がると正面に本堂跡の方形土壇がある広い平坦地付近が本坊の跡である。本堂は江戸初期、彦根藩の庇護のもと整備された寛永期の建築であったが惜しくも昭和56年1月、豪雪により倒壊、今も片隅に朽ちかけた当時の建築部材が集積してあるのが何とも痛ましい。46本堂跡の向かって左には蔵が残り、その手前に鐘楼か塔の跡と思われる石積の方形壇がある。その奥、斜面裾の細長い平坦面に目指す石造層塔がある。ごつごつした岩盤が露呈した場所に直接基礎を据えた高さ約5mの九重塔である。逓減率が大きく、全体に安定感がある。花崗岩製。基礎は側面四面とも輪郭を巻いて格狭間を配し、側面のうち三面は、格狭間の左右に一対、宝瓶に挿した未開敷三茎蓮花の浮き彫りがある。山手の背面のみは宝瓶三茎蓮花はみられず格狭間の左右に刻銘がある。「願主法眼如意敬白(向かって右側)/文永七年(1270年)庚午八月日(向かって左側)」。各側面とも輪郭の幅は比較的狭く、格狭間は上辺がまっすぐ水平に近く肩はあまり下がらない。宝瓶三茎蓮花のためのスペースをとる必要性からか格狭間の側線が少し窮屈になって意匠表現上の苦心の跡がうかがえる。12一方、刻銘のある面だけは格狭間の側線はスムーズで整った形状を示す。また、基礎上面には低い一段を設けて塔身受座を刻みだしているもあまり例の多くない珍しい手法といえる。初重軸部は蓮華座を線刻した上に舟形背光を彫り沈めて顕教系の四方仏坐像を厚肉彫りしている。36彫りが深く、像容は体躯の均衡よく面相も優美で、この種の四方仏の中では最も優秀な範疇に入るだろう。笠の軒口の厚みはあるが隅増がなく反転も比較的緩いもので、屋だるみも目立たない。初重屋根と二層目軸部、二層目屋根と三層目軸部が一体彫成されるが、三層目屋根から六層目までは軸部と屋根がそれぞれ別石となる。さらに二層目軸部の四面中央に月輪内に五大四門の梵字「ア」、「アー」、「アン」、「アク」を陰刻し、三層目にも同様に「バ」、「バー」、「バン」、「バク」が見られる。川勝政太郎博士は五輪塔と同様にキャ・カ・ラ・バ・アの五大梵字の四門展開が六層目から二層目にわたる軸部にあったものが、後補した際に省略したものと推定されている。表面の観察からでは軸部のみ後補なのか笠も後補なのかは明らかでない。六層目屋根と七層目軸部以上は最上層を除き軸部と屋根が同体になっている。最上層笠の頂部には露盤を刻みだしている。43 各笠裏に垂木型は見られない。相輪は先端宝珠に少し欠損があり、九輪の上で折れたものを接いである。おもしろいのは九輪の上、水煙か下請花あたる部分が立方体になって各側面には舟形背光形に彫りくぼめて半肉彫り四方仏坐像を配している点で他に例を知らない。04 以上のようにこの松尾寺塔には通常の層塔に比べると個性的な構造と特殊な意匠表現が随所に見られる。まとめると、(1)格狭間の左右に配した基礎の宝瓶三茎蓮レリーフ、(2)基礎上面の軸部受座、(3)笠と軸部を一体整形した層と笠と軸部を別石とする層が混在している、(4)軸部に五大四門の種子を配する、(5)笠裏に垂木型がみられない、(6)相輪の九輪上にある四方仏を刻出した龕部、(7)各層の逓減率がやや大きいといったことがあげられる。これらは作風が定型化する前の創意工夫の過程における個性の発揮と考えて差し支えないものと考えられ、近江式装飾文様のあり方や近江の層25_2塔を考えていくうえでこの松尾寺塔は欠くことのできない存在といえる。(1)について、川勝政太郎博士は、戦前に早くも初重軸部の本尊ないし四方仏への供花の意味合いがあることを指摘され、一般的には格狭間内に配する近江式装飾の蓮華文様のレリーフの初現的な意匠表現と推定されている。その後、格狭間内に三茎蓮花を持つ建長三年(1251年)銘の大吉寺跡宝塔(長浜市)や寛元4年(1246年)銘の安養寺跡層塔(近江八幡市)が世に知られるようになったため、松尾寺塔を近江式装飾の初現そのものとすることはできなくなっているが、早い段階のあり方やルーツを考えるうえで貴重なヒントを与えてくれる、そういう意味においては川勝説の根幹は今日もその意義を失ってはいない。また、(3)は軸部別石手法の消長を考える上からも注意すべき点である。このように見てくると松尾寺塔が近江の層塔を考えていくうえで示唆に富む特長を備えた興味深い事例であることがわかると思う。そして何よりも山深い寺跡の木陰に凛と佇む姿は見るものを惹きつける。いつまでも眺めていたい、立ち去り難い気分にさせてくれる、数多い近江の層塔中の白眉といえる。風化による表面の石肌荒れや細かい欠損はあるが総じて保存状態もよく、13世紀後半の紀年銘も貴重。後世に長く伝えていかなければならない優品。重要文化財指定。

なお、少し離れた岩盤上には14世紀中頃のものと思われる宝篋印塔の基礎があり、上に相輪を欠いた15世紀代に降るであろう小形宝篋印塔が載せてある。ほかにも小形の五輪塔の残欠や一石五輪塔が各所に散見される。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 247ページ

   〃 新版『石造美術』 75ページ

   〃 『近江 歴史と文化』 187~188ページ

   平凡社『滋賀県の地名』 日本歴史地名体系25 882ページ

   滋賀県教育委員会編 『滋賀県石造建造物調査報告書』 44~45ページ

写真右上:素晴らしい像容の四方仏、写真左中:基礎上面の軸部受座、写真左下:相輪の上部の龕、写真右中上:格狭間脇にある宝瓶三茎蓮花、写真右中下:文永七年の紀年銘が格狭間左側にある、写真右下:軸部の月輪内の梵字・・・どれもわかりにくいイマイチの写真ですいません。とにかく四方仏の面相が優美、つまりハンサムです。なお、直線距離にしておよそ1.5kmほど北西、三吉集落の南東の山裾にある八坂神社にも元亨三年(1323年)銘の九重層塔があります。あわせて見学されることをお薦めします。よく似た規模の層塔ですが、四方仏の出来映えにはずいぶん違いがあります、ハイ。


滋賀県 長浜市野瀬町 大吉寺跡の石造美術(その2)

2008-09-17 00:56:00 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 長浜市野瀬町 大吉寺跡の石造美術(その2)

本堂跡の北西に頼朝供養塔との伝承を持つ石造宝塔がある。塔の回りは自然石を方形に並べて区画され、周囲より少し高くなっている。03_2全体に破損が目立ち、総花崗岩製で笠頂までの現在高約157cm、基礎は幅約92cm、高さ約44cmと非常に低く安定感がある。側面は輪郭格狭間式で、南面に三茎蓮花、西面に一茎未開敷蓮花のレリーフを配している。北面は格狭間内素面、東面は剥落破損が激しく明らかでないが、うっすら輪郭の痕跡のようなものが見えることからやはり輪郭格狭間があったとみて間違いない。01_2下端は埋まって地覆部はっきりしないが、束が広く葛部の幅が狭い。格狭間は輪郭内いっぱいに大きく表現され、花頭中央が広く伸びやかで整った形状を呈する。輪郭、格狭間の彫りは浅い。塔身は首部と軸部を一石彫成し、下がすぼまった円筒状の軸部は素面。軸部南側に「建長三年(1251年)辛亥/七月日」の刻銘が浅く大きい文字で彫られている。文字の存在は確認できるが、風化摩滅が進行し肉眼では判読が難しい。首部は太く短い。首部から亀腹部にかけて大きく破損したものを継ぎ合わせて修復してある。この部分は内部を丸く刳りぬいて奉籠孔を設けてあったものが、砕けて散乱していたものを拾い集め復元したものである。02_2笠は軒幅約82cm、高さ約45cm、屋根の勾配が緩く伸びやかな印象で、屋だるみも顕著でない。また、軒口はさほど厚みを感じさせず軒反も緩く、軒口の厚みの隅増しもほとんどない。笠裏には低い垂木型の一段を削りだし、中央を円形に彫りくぼめて浅い首部受けを設けている。四注に隅降棟を持たないのも特長である。笠の4隅の内、2箇所が破損し、その内1ヶ所は上手く接がれて修復されている。頂部には低い露盤がある。ぼろぼろに風化した相輪の九輪部の残欠が載せられている。これは当初のものと思われる。全体に破損が目立つ上に、表面の摩滅も激しく、田岡氏が指摘されるように、堂宇の火災で熱を受けた影響があるものと考えられる。Photo_2建長三年という紀年銘は、近江の石造宝塔としては在銘最古である。石造宝塔の鎌倉中期のメルクマルとして極めて重要な存在であり、輪郭、格狭間式の基礎側面の手法や近江式装飾文様を考える上でも欠くことのできない貴重な史料である。四注隅降棟を持たない伸びやかな軒先、緩やかな屋根の勾配、低くどっしりとした基礎、花頭中央が広く、輪郭内いっぱいに広がった大きい格狭間など、この塔の特長を把握しておくことが、石造宝塔はもちろん、宝篋印塔や層塔など他の形式の石塔や残欠にも通有する石造物の構造形式や意匠表現を理解するうえでいかに大切かは論を俟たない。このほか、本堂西側には六角形石燈籠の基礎がある。各側面に輪郭と整った格狭間を配し、上端は小花付単弁の蓮弁で飾り、中央に竿受の丸い孔が見られる。格狭間の形状から鎌倉後期頃のものとされている。Photo_3さらに中心伽藍跡から一段下がった山道脇に今も清水をたたえる苔むした長方形の石造水船がある。恐らくこれも中世のものだろう。石階段に南西にある鐘楼跡とされる土壇上には石造層塔の最上層ないし宝塔のものと思われる笠石が転がっている。軒幅は60cmほどはあろうか、小さいものではない。軒の様子から概ね鎌倉末期頃のものだろう。さらに覚道上人像のある石室の脇に石塔残欠や板碑、一石五輪塔などが集積されており、この中に文明19年(1487年)銘の宝篋印塔基礎が、そして元池といわれる涌水地点には明徳三年(1392年)銘の水船があるとされるがいずれも見つけられなかった。五輪塔の残欠や石仏などはいたるところに散見される。宝塔の修復は昭和44年5月のことで、地元の全面的な協力のもと、田岡香逸氏や福沢邦夫氏らが尽力されたとのこと。

参考:田岡香逸「滋賀県東浅井郡浅井町野瀬・大吉寺跡の石造美術」『近江の石造美術』(1)

   〃 「近江湖北・湖東の石造美術」(2)『民俗文化』70号

   川勝政太郎『近江歴史と文化』202~203ページ

   〃 新装版『日本石造美術辞典』181~182ページ

   平凡社『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25 971~972ページ

当時既に60歳を越える高齢で、しかも眼が不自由だったにもかかわらずこのような急峻な山に登り精力的に調査と復元に携わられた田岡香逸氏の熱意には今更ながら頭が下がります。ちなみに当時の田岡氏からみれば子どものような(実際には孫かひ孫の世代ですが)年齢の小生は、情けないことに道に迷ったせいもあり、息も切れ切れで、寺跡に着いても汗だくのまま暫く倒れ込んでしまいました。その田岡氏も平成4年に亡くなられ、その後の池内先生、瀬川氏の業績、最近では兼康氏ら研究がありますが、田岡氏のように求心力のあるピニオンリーダーが率先して未開の分野に切り込んでいった当時の勢いに比べると近江の石造研究の今日は寂しい限りです。田岡氏らの活動が盛んであった昭和40年代後半で近江の石造物の研究はストップしているといって過言ではない気がします。若い近江の石造研究者の奮起を期待せずにおれません。なお、現地は渓流沿いから右に折れる場所がわかりにくいので、道に迷うおそれがあり、軽装では本当に遭難する危険性があります。冬季は積雪と凍結で本格的な登山を覚悟しないと難しく、夏季は雑木下草の繁茂が激しく道を見失いやすいうえに、見通しが利かず遺構の見学に適しません。したがって春季ゴールデンウイーク頃が寺跡を探訪できる唯一のシーズンとされています。山道も寺跡も手入れされておらず、できれば存知おられる方の案内をお願いするか、少なくとも単独行動は避けるのが賢明かと思われます。ちなみに覚道上人というと、ほぼ同時代か一世代くらい前に、後嵯峨院の信任厚かった嵯峨浄金剛院第二代長老に同名の人物がいます。この人は大炊御門流の鷹司伊頼の子息で禅空といったらしく、浄土宗の碩学であるので、弥勒信仰の厚い大吉寺の覚道さんとは別人でしょうね…たぶん。寺跡は県指定史跡です、ハイ。


滋賀県 長浜市野瀬町 大吉寺跡の石造美術(その1)

2008-09-17 00:22:14 | 滋賀県

滋賀県 長浜市野瀬町 大吉寺跡の石造美術(その1)

野瀬集落に入ってしばらく行くと、辻に四天王寺出口常順管長揮毫による「寂寥山大吉寺」と大書された石碑が立っている。01さらに東の山手に狭い道を行くと最も奥まった渓谷に現在の大吉寺がある。静かな山寺で風情のある佇まいを見せ、特に庭園の造作には見るべきものがある。自動車はここに停め、ここからは徒歩で登山になる。渓流沿いにしばらく進み、途中で右に折れ、九十九折になった急峻な山道をどんどん登っていく。やや開けた尾根上にある仁王門の跡を過ぎ、さらにしばらく登るとようやくにして本来の大吉寺の跡に着く。田岡香逸氏によると仁王門は旧長浜市内に移築されているとのことだが不詳。山裾の寺からは健脚でも片道1時間以上の道程である。振り返ると眼下に小谷山の向うに琵琶湖が広がり、竹生島が浮かぶ絶景が広がる。標高918mの天吉寺山山頂から南に延びる尾根の東側斜面に位置し、標高は700mくらいだろうか、寺跡といっても建物は何も残っていない荒地になっている。雑木が多く全体を見渡せないが整地した平坦面が点在し、中心伽藍の跡とされる場所はかなりの規模で、上下2段ないし3段に分かれ、ところどころに石積も見られる。方形に区画され一段高い土壇状になった本堂跡には自然石の礎石が整然と並び、5間四方の規模が想定される。本堂西側には自然石を組み上げた立派な石階段があって往時をしのばせる。このほか塔跡、経蔵跡、鐘楼跡と伝えられる低い方形土壇が点在し、自然石の礎石が残っている。本堂跡の東側にも広い平坦面があり、そこから東に少し上がった尾根の斜面に南北に長い平坦面があり、その北寄に覚道上人入定窟なるものがある。05西斜面に開口する古墳の横穴式石室によく似た構造の自然石を組んだ石室内に花崗岩の板石を組み合わせた龕を設けたもので、龕の入口には左右観音開の扉がある。扉内側を水磨きで仕上げ、罫線を薄く陰刻して8行にわたる銘文を刻む。02「星霜五百歳之刻/沙門覚道悲遺法/遠祈薩淂忽霊/夢告遂渡唐迎一、(以上向かって右扉、以下左扉)切経安当寺速欲/待三会之暁写影/於石而己/正応二年(1289年)己丑十二月七日沙門覚道」とあり、覚道という僧が中国から一切経を請来し、弥勒再生の竜華三会の時を待つために石の自肖像を刻んだ旨がわかる。03龕奥壁に高さ約29cmの覚道上人の像がある。丸彫りに近い写実的な表現で、風化もほとんど見られず、袈裟の細部まで良く残っている。右手にした払子を左手前に横たえ、半肉彫りした曲彔という椅子に端座する頂相風の雰囲気。目鼻が大きく唇厚く自信に満ちた表情がうかがえる。頭上には左右に円相を彫り沈めて蓮華座、舟形背光の如来坐像を薄肉彫りしている。向かって左は定印なので阿弥陀で問題ない。右は諸仏通有の施無畏与願印と思われ、特定は難しいが銘文の趣旨に鑑み川勝、田岡両氏とも弥勒如来とされている。入定窟というと、洞窟に篭り結跏趺坐したまま成仏するイメージを受けるが、龕内部は幅高さ奥行きとも40cmに満たず人が入るには小さ過ぎ、外側の石室も龕部と一体となった構造であることから、「入定窟」は適切な表現ではない。04_2あるいは廟所的な遺構と考えることも可能かもしれない。龕部の地下や奥壁の向うなどに上人の火葬骨など納めた施設等がないとは言い切れないが、田岡氏によればそうしたものは確認できないとされる。入定窟という言葉のイメージによって「死去」が連想されるが、銘文からは上人が正応二年12月に没したということは読めない。石像安置のための石室と考えるのが穏当との田岡氏の説に従いたい。上人が生涯をかけて請来した一切経は、残念ながら大吉寺の伽藍とともにこの世から消え去って久しいが、上人の強い信仰心と熱い思いが700有余年を経た今日も石に刻まれた肖像と銘文を通じて我々見るものに伝えらていることに感銘を禁じえない。大吉寺には銘文を裏付けるように、弘安8年(1285年)覚道上人が一切経の勧進を催したとの勧進状が残っているらしい。大吉寺は、貞観7年(865年)天台の安然(円)和尚開基、本尊は観音菩薩と伝える。また、天台座主慈恵大師良源(元三大師、角大師として有名)は、母堂が当寺に祈願して授かったと伝え、天元5年(982年)母の遺誡に従って当寺で百箇日護摩法を修法したとの記録が残っているらしい。さらに、嘉吉元年(1441年)成立、真偽不詳の「興福寺官務牒疏」にも「在同国浅井郡草野郷、号天吉山、僧坊五十七宇、天智天皇六年、役氏入峰、然后、桓武帝延暦九年、橘朝臣奈良麻呂本願也、始天台宗、後一条帝万寿元年(1024年)、秋篠寺霊円僧都中興、自是為法相宗、真言兼宗、本尊浮木観音大士」との記載がある。平安期のこうした伝説・伝承の類は真偽不詳で確かめようがないが、地元草野庄司家との強い結びつきのもと、平安時代から知られる天台の古刹であったということはほぼ間違いないのではないかと思う。平治元年(1159年)16歳の源頼朝が、平治の乱に敗れ落ち延びる父義朝一行とはぐれて当寺に匿われたことが「吾妻鑑」に見え、これを契機に鎌倉幕府の庇護を受けた模様で、さしずめ覚道上人は鎌倉期の中興といった位置づけになろうかと思われる。建武元年(1334年)に兵火に罹ったため、暦応元年(1338年)にも勧進が催されている。さらに観応の擾乱に際して近江に入った足利尊氏に味方したらしく、観応2年(1351年)同寺衆徒宛の尊氏の御教書などが残るという。鎌倉・室町時代を通じて幕府の庇護のもと寺勢隆盛を極め堂宇の整備が進んだものと思われる。平坦地が随所に見られることからも多数の子坊を擁したことはまず疑いない。大永3年(1523年)には浅井氏の台頭につながる京極家の内紛である「大吉寺梅本坊の公事」事件の舞台となり、大永5年(1525年)には六角氏と京極氏の戦いによる兵火で壊滅的な被害を受けたらしい。その後は浅井氏の庇護を受けて復興したらしく、元亀3年(1572年)7月には織田信長の命により、木下藤吉郎に攻められたことが「信長公記」に見える。このように、中世を通じて極めて興味深い歴史を今に伝える大吉寺であるが、度重なる兵火をかいくぐって盛衰を繰り返しながら営々と法灯が守られてきたこと、そして山上の寺跡が極めて良好に保存されていることは、まことに注目すべきことで、まさに当地域の誇りとすべきことといえる。かけがえのない文化遺産、後世に守り伝えていかなければならい地域資源である。(その2へ続く)


滋賀県 高島市マキノ町上開田 称念寺(薬師堂)宝塔

2008-09-15 00:24:28 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 高島市マキノ町上開田 称念寺(薬師堂)宝塔

旧マキノ町上開田集落の東端、民家から少し上がった山裾に、称念寺(浄土宗)に属する薬師堂と阿弥陀堂が東西に並んでいる。21現地案内看板によると、元ここは西明寺という天台寺院で、廃絶後、称念寺に属する飛び地境内になったらしいが、昔から地元の人たちにより手厚く保護管理されているとのこと。06手入れがいきとどき明るく静寂な雰囲気に好感が持てる。参道入口、小川を挟んで反対側に小宇のあるのが称念寺のようだが現在無住の様子である。薬師堂に祀られる一木彫7尺余の薬師如来立像は像内に延久6年(1074年)8月25日の墨書銘があり、近江における11世紀後半の基準作としての重要性に鑑み、国の重要文化財に指定されている。ちなみに荘園整理令で知られるこの延久という年号は、6年の8月23日に承保元年に改元されている。したがって厳密には延久6年8月25日という年月日は存在しない。わずか2日の違いなので改元の情報が届いていなかったのであろう。また、阿弥陀堂の丈六阿弥陀如来坐像も平安末期のもので県指定文化財との由である。付近に比定される開田庄は、天元元年(978年)には既に存在しており、建長8年(1256年)、同5年に焼失した延暦寺実相院の造営料所となったとのこと。この実相院は薬師如来を本尊とし、当地との結びつきに何らかの薬師信仰が介在した可能性を指摘する説もある。参道の西側、杉の巨木の根元に立派な石造宝塔が立っている。14宝塔の東側には自然石を組んだ小祭壇が設けてあり、地元の方によると思しき香華が絶えない。相輪先端を亡失しているが現在高約260cmあり、元は10尺に及ぶ巨塔である。石材はやや褐色がかった花崗岩で、表面観察による印象の域を出るものではないが安曇川の三重生神社塔などに見る白っぽいきめの粗いものとは異なる。原位置を保っているかどうかは不明だが、基礎を直接地面に据えている。基礎側面は四面とも壇上積式の輪郭を巻き、羽目いっぱいに大きい格狭間を配する。格狭間内は比較的平坦に調整され素面で近江式装飾文様は確認できない。花頭中央の幅が広く伸びやかで、古調を示す。基礎幅約92cm、基礎下端が不整形で基礎高は一定ではないが約60cm前後。左右の束部の幅約12cm、葛部の幅約10cm。輪郭、格狭間の彫りはさほど深くない。04 塔身は首部と軸部を一石彫成し、高さ約71cm、軸部の径は下端で約62cm、肩のやや下で約63cmとほんの少し裾がすぼまるもののほぼ円筒形。表面は素面で縁板の円盤框座も見られず、首部は基底部径約42.5cm、高さ約10cm、基底から4cm余の高さのところに段があって、下段は匂欄を表現しているものと思われる。笠は軒幅約87cm、高さ約60cm、笠裏に2段の段形を設けて垂木型を表し、さらに径約49cm、高さ約2cmの円形の受座を最下面に削りだして首部を受けている。これはあまり例の多くない手法である。軒口は中央で厚さ約14cmと厚く、隅に向かって厚みを増しながら力強く反転する。頂部には基底幅約35cm、高さ約4.5cmの露盤を刻みだしている。四注には隅降棟を断面凸状の突帯で表現し、露盤下で左右の隅降棟の突帯が連結する通例を踏襲する。屋だるみはあまり顕著ではなく、照りむくりは認められない。相輪は総じて大きめで、九輪の8輪目までが残り、残存高約71cm。伏鉢の側線はやや直線的で硬い。下請花は複弁で九輪の凹凸はハッキリしている。10尺塔というと近江でも屈指の巨塔に数えられる。この規模の大きさに加え、全体に受ける豪放感とでもいうべき生き生きとした力強さ、しかも重厚でどっしりした印象があり、逆に繊細さや脆弱さは少しも感じさせない。無銘ながら笠の軒反や厚み、屋根の勾配、段形の彫りの鋭さ、格狭間の形状などを見ても石造美術が盛期を迎える鎌倉後期の作風が看取され、14世紀初め頃の造立と見て大過ないと考える。相輪の欠損が惜しまれるが湖西から湖北にかけて数多く分布する石造宝塔の中でも屈指の優品である。このほか薬師堂周辺には層塔の笠数枚が無造作に集積され、石仏、小形五輪塔の残欠などが若干見られる。

参考:川勝政太郎『近江歴史と文化』69ページ

   平凡社『滋賀県の地名』日本歴史地名体系25 1068ページ

   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』 188ページ

(なお、『滋賀県石造建造物調査報告書』に基礎幅72cmとあるのは明らかに誤りで92cmが正しく7と9の錯誤と思われます。平成5年3月に発行された同書は、小生も近江の石造美術を訪ねるにあたりその恩恵に浴することひとかたならぬものがありますが、平成2~4年度にかけて866万円の事業費をかけ調査記録され、滋賀県下の石造建造物を悉皆的に網羅した労作です。取組として高く評価されるものですが、石燈籠や石仏は対象外で、報告書には紀年銘があろうとも残欠はまったく含まず、概ね主要部位が揃った優品に限っている点は惜しまれます。また個々の記述内容にばらつきがあり、この種の錯誤・誤植が結構多いので注意を要します。ま、錯誤や誤植が多いのは当サイトも同じ、よそのことは言えないですね

※ 写真左下:笠裏の丸い首部受座の様子、右下:相輪下請花が複弁なのがおわかりでしょうか。法量数値は例によってコンベクスによる実地略計測によるものですので、若干の誤差はご容赦ください。知る人ぞ知る(ほとんどの人が知らないともいう…ウーン、とにかく)素晴らしい宝塔、一見の価値ありです、ハイ。


滋賀県 高島市今津町浜分 願海寺宝塔ほか

2008-09-02 01:18:20 | 五輪塔

滋賀県 高島市今津町浜分 願海寺宝塔ほか

今津町浜分の南端、東から西に向かって流れる石田川と南北に走る県道海津今津線が交わる地点から北東側すぐに宝船山願海寺(曹洞宗)がある。湖岸に程近く東側には日吉神社が隣接している。本堂向かって左手、境内の南端近く松の木のそばに2基の石塔が立っている。04東側は石造宝塔、西側は五輪塔のように見える。しかし、このうち五輪塔と見えたのは、寄せ集めで、水輪と火輪、空風輪は五輪塔のものであるが、地輪の代わりに石造宝塔か層塔の基礎を流用している。水輪はかなり大きく、下すぼまり気味で重心がやや高い。火輪は水輪に比べるとやや小さく大きさの釣り合いが取れていない。空風輪はさらに小さく、こうして見てみると各部すべて別物の寄せ集めと判断し得る。水輪、火輪ともにきめの粗い花崗岩で風化が激しいが、空風輪は緻密な石材で風化の度合いが違う。06地輪に代わる基礎は、幅約75cm、高さは下端が埋まりはっきりしないが40cmに少し足りない程度と思われ、幅に比してかなり高さが低い。側面は四面とも輪郭を巻いて格狭間を配し、三茎蓮花のレリーフを刻んでいる。輪郭は束がかなり広い。格狭間はやや肩が下がり気味ながらも側線に直線的ところはなく、かつあまり膨らむものではない。脚間が狭い。茶色っぽい斑紋の交じる花崗岩製で、上に載っている五輪塔の水輪のようにきめの粗いざらついたものではない。03幅:高さ比の低さ、束部の広い輪郭は、しっかりとした三茎蓮花の表現とあいまって古調を示す特徴と思われ、特色ある格狭間の形状は、退化と見るよりは意匠表現が完成するまでの試行錯誤の過程、定型化以前の形状と判断できそうである。造立時期は概ね13世紀後半~末頃として大過ないものと思われる。後述する永仁2年(1294年)銘の宝塔基礎よりも少し古いのではないかと思われる。一方、宝塔は、相輪を亡失して代わりに五輪塔の空風輪で補っている以外は基礎、塔身、笠と揃っている。空風輪を除く高さ約160cm余。塔身と基礎は大きさの釣り合いが取れているが、笠は少し小さいことから別物の可能性が高い。12基礎は幅約76cm、高さ約50cm、側面3方を輪郭で巻いて格狭間を配し、格狭間内は三茎蓮花のレリーフで飾っている。南側のみ切り離しの素面とし、6行ほどにわたって大きい文字で刻銘がある。中央少し右寄りに「永仁弐甲午」(1294年)の文字は肉眼でもはっきり確認できる。左上部には剥離部分もあり、拓本でもとらないと判読できないが、最後は敬白で終わっているようである。格狭間は花頭中央部分、それに隣接する左右の内側の弧の幅が極端に小さく、外側の弧が異様に広い奇異な形状で、側線下方が少し角張っている。塔身は高さ約69cm、軸部と2段の首部からなり、軸部は上下がすぼまり気味の円筒形で北側を舟形光背を彫りくぼめ、蓮華座に坐す如来像を半肉彫りしている。お顔から右膝にかけて剥落して、面相や印をうかがうことができない。首部は軸部との間に匂欄部に相当する段形を有する。笠は幅約61cm、高さ約43cmで笠下に斗拱型をぶ厚く2段に削りだし、軒口は厚く、隅に向かって厚みを増しながら力強い反りを見せている。屋根は低く、勾配は緩い。屋だるみをもたせた四注には隅降棟を表現している。隅降棟の突帯は比較的高い露盤の下で連結する。笠裏の段形と軒口の厚さに比べて屋根の高さが低く、軒先の伸びやかさがなくやや寸詰まりな印象を受ける独特の形状である。07大きさのバランスに難があるが、笠の造立時期は基礎とほぼ同じ頃か若干新しいのではないだろうか。基礎と塔身は一具のものと認めてよい。ただし、寄せ集めの五輪塔の基礎もこの塔身と大きさや年代にさほど齟齬がないと思われ、組み合わせの適否については慎重にならざるを得ない。基礎、塔身、笠ともに石材は隣の寄せ集め五輪塔の基礎と同じ茶色っぽい斑紋の交じる白く緻密な花崗岩で、風化の程度や質感もほぼ同様のものである。表面の茶色の斑紋は鉄分が表面に滲み出たか、染み付いたような感じで、苔や地衣類もほとんど見られないことから、これらの石塔部材が最近まで土に埋まっていた可能性が高いと思われる。なお、境内東側の小祠内にいくつかの箱仏類に交じって中央に祀られている阿弥陀如来坐像と思われる石仏は、像容がしっかり彫り出されたかなり優れた作風のもので、中世でも室町時代前半以前に遡る可能性がある。このほかにも境内の片隅に五輪塔の残欠が集積されている。

参考:今津町史編纂委員会 『今津町史』第4巻 477~478ページ

法量数値はコンベクスによる実地略測ですので、多少の誤差はご勘弁ください。

あえて苦言:今津町史によると「総じて摩滅が著しいが「永仁二甲午二月十七日」という紀年銘が判読できる…」とありますが、それ以外の銘文の記述はありません。写真を見ていただければわかるように、「孝子」や「敬白」など肉眼でも何とか読めなくもない文字もあり、剥落部分を除けば判読が困難なほど摩滅が著しいとはいえない表面状態です。拓本などの手段を講じれば銘文はそこそこわかるはずです。先祖の思いを伝えるかけがえのない銘文です。紀年銘だけが判ればよしとするにとどまらず、将来の風化摩滅の進行や万一の盗難などに備える記録保存とその価値を情報発信する意味からも、もう少し詳細な調査と記述によって町史はその責任を果たしてほしかった。小生のような個人的なマニアの忘備メモなどとは違って公的な町史なんですから、拓本もお寺や檀家の理解が得やすいはずですし、公的責任においても得るべきです。自分達の故郷の歴史を後世に残すための町史が貴重な銘文を採録しないでいったい誰がするのですか!とあえて申し上げたい。別途どなたかの史料紹介があったのかもしれませんが、だとしても町史が銘文を採録しない理由にはなりません。ちょっと言い過ぎたかもしれませんがあえて苦言、関係者の方、もしご覧になられていたらご免なさい、お許しください。