石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 高市郡高取町 壺阪 壺阪寺宝篋印塔

2008-02-28 23:29:10 | 奈良県

奈良県 高市郡高取町 壺阪 壺阪寺宝篋印塔

壺阪寺は高取町の南東の山中にある古刹。別名南法華寺。創建は奈良時代に溯るとされ、西国三十三ケ所観音霊場第6番札所としても著名。16枕草子や今昔物語などにも登場し、平安時代から名刹として知られる。鎌倉時代には興福寺一乗院末となって法相宗と真言宗を兼ね、南北朝以降は越智氏との関わりが深かったようであるが、総じて中世の様子はいまひとつはっきりしない。仁治3年(1243年)に西大寺叡尊がここで大勢に菩薩戒を授けたとされている。室町時代の木造三重塔の奥にある阿弥陀堂(最近新しい堂に建て替えられ現在の名称は不詳)の裏に近世の宝篋印塔と並んで建っている。川勝政太郎博士は三重塔の南の高台にあるとするので移築されたのかもしれない。表面の風化がやや進んだ印象で細かい欠損部分もあるが基礎から相輪まで完存している。花崗岩製。高さ約215cm。22基礎は半ば以上埋まり、観察できないので詳細は不明だが側面無地で非常に低いもののようである。基礎上には背の高い複弁反花座(弁数は各辺3枚と4隅で都合の16枚)を別石で置く。塔身には輪郭がなく、蓮華座上の陰刻月輪内に金剛界四仏種子を薬研彫する。種子は比較的小さくあまり雄渾なものとはいえない。笠は軒と笠下段形が同石、笠上が別石で、笠下は異例の3段。笠上は6段。4隅の隅飾突起も各別石。軒上四隅に浅い窪みをつけ隅飾を据えているのが観察される。外傾の目立たない隅飾は3弧輪郭内に蓮華座上の月輪を平板に陽刻し、輪郭内に種子(ア字と思われるが、風化により判読不能の部分があり八辺全てア字かどうかは不明)を陰刻する。相輪は伏鉢、請花、凹凸のはっきりしない線刻に近い表現の九輪の上に水煙、竜珠を挟み宝珠とする。水煙と竜珠を交えた本格的な相輪は層塔に多く、宝篋印塔では珍しい。境内には仏教のエピソードをテーマとした壮大なレリーフや観音菩薩の巨像などの石造物が最近次々と整備されており、一見の価値があるが、この宝篋印塔はひっそりと目立たない場所にあり、参詣する人もほとんど誰も気付かない。隅飾などを別石にするのは大和には少ない京都系のデザインで、凝った細部と確かな彫技、各部とも欠損なく揃っている点など、人知れず苔むしてしまっているような代物ではなく、もっと注目されるべき優品である。川勝博士は京都・嵯峨清涼寺にある伝・源融墓とされる宝筺印塔との共通点や大蔵派による関東系宝篋印塔との関連についても指摘されている。無銘で造立年代の推定は難しいが川勝博士、清水俊明氏は鎌倉中期とされる種子の弱さや清凉寺塔に比べ全体にシャープさに欠けることからもう少し新しいようにも思える。13世紀末~14世紀初め頃ではないかと思う。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 180~181ページ

 

 

   川勝政太郎 『京都の石造美術』 115ページ

   清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 268ページ

 


奈良県 奈良市中ノ川町 中川寺跡五輪塔

2008-02-26 00:19:33 | 五輪塔

奈良県 奈良市中ノ川町 中川寺跡五輪塔(伝・実範上人廟塔)

県道から急な坂道を下って雑木林の中を何十メートルか行くと道の行き止まりのところに悠然と建っている。覚盛、叡尊らによる戒律復興運動に先鞭をつけた実範上人の廟塔と伝承され、地元の人の話によると興福寺による年一度の供養が今も続いているという。03側面二区で羽目石に格狭間を刻んだ立派な壇上積基壇の上に、蓮弁がやや高い複弁反花座を置き、五輪塔はその上に建つ。清水俊明氏は花崗岩製とされるが石英粗面岩製に見える(不詳)。無地で無銘だが典型的な鎌倉後期仕様でその特徴を余すところなく発揮する。高過ぎず低からず適度な安定感を持つ地輪、やや重心を上におくが下窄まり感の少ないスムーズな水輪の曲線、厚く切った軒反りは力強く、椀形の風輪、空輪の宝珠形も申し分ない。総高280.cm、塔高190.cm。整い過ぎの感もあり、高い反花座、火輪の軒口中央の直線部が目立つ点、基壇羽目石の格狭間の肩がやや下がっている点など鎌倉後期でも末に近い頃のものと思われる。基壇上には小さい石塔の残欠(空風輪と宝篋印塔の笠)が置かれている。実範上人の没年は平安末の天養元年(1144年)とされ、五輪塔の造立時期とはかなりの開きがある。04五輪塔のある場所は実範上人が開いた成身院のあった中川寺跡といわれ、『招提千歳伝記』によれば天永2年(1111年)に実範上人は中川寺から唐招提寺に移ったと伝えられることから、その開基は12世紀初頭であろうか。平安末期から鎌倉時代にかけて隆盛を誇ったようだが『大乗院寺社雑事記』に文明13年(1481年)本堂を残し寺は炎上したと記載されており、その後再興されたのだろうか、江戸末期まで興福寺一乗院門跡の持寺として本堂や多宝塔などがあったらしい。明治の廃仏毀釈により退転したという。現在は雑木林で他に何も残っていないが、山深い丘陵尾根の南向きの斜面を整地した平坦面が広がり、ところどころ空堀状の窪みが廻っている。平坦地に接する湿地となった谷側はそう高くないが急な崖状になっている。五輪塔のルーツを語る上でよく引き合いに出される五輪塔形陽刻のある神戸市徳照寺の梵鐘(長寛2年(1164年)銘(※これは再鋳銘らしく当初は大治4年(1129年)銘との由である)は、元ここにあったものとされる。五輪塔形のルーツ、そして鎌倉後期に五輪塔が大きく普及する原動力ともなった南都仏教の戒律復興運動のルーツを考える時、ここ中川寺跡は抜きに語れない由緒のある場所である。今となっては往昔を偲ぶよすがも何もかも一切が地上から消えうせた雑木林の木漏陽の下に五輪塔のみが一人黙って建っているだけである。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 290ページ

   平凡社 『奈良県の地名』 日本歴史地名辞典30 655ページ

   元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告書

   近畿日本鉄道・近畿文化会編 『大和路新書別巻1南山城』 綜芸社

妄言:雑木林に一人この伝・実範塔を眺めていると、その整美さゆえか、どこかすかした感じで何やら訳しり顔をしてくすくす笑っているかのようにも感じる。中川寺のことをずっとここで見てきたあんたはさぞかしいろんな事情を知ってるんだろうな・・・。しかしそういうあんた実は平安末期の実範さんには会ったことはねぇはずだろって言い返してやりました。実範さんは、後にここを出て光明山寺で亡くなったそうですが、南都法相系でありながら密教(醍醐寺系、天台も)、戒律、浄土教という気になるキーワードを早く平安末期にアイデンティファイされたキャラ。初期五輪塔を考える上でキーパーソンの一人と睨んでます。


奈良県 奈良市法蓮町 不退寺裏山墓地五輪塔

2008-02-24 11:11:24 | 五輪塔

 

奈良県 奈良市法蓮町 不退寺裏山墓地五輪塔

 

不退寺の北、04_3直線距離にして100mほど、門前の細い道を左にとって小さい池の横を通り、ウワナベ古墳の森を広い国道越しに左手に見ながら150mほど北上すると右手、人家奥の斜面に墓地がある。墓地に入ると左手、奥まったところの斜面下に大きい五輪塔があるのがすぐわかる。06四角く形成した黒っぽい安山岩を組合せて区画して一段高い基壇状に作っているが、石材の断面が新しいことから基壇状の区画は当初からのものとは考えられない。おそらく今の場所は原位置ではなく、どこか近くから移されたのではないかと思われる。火輪は地輪と少し時計と逆方向にずれている。在原業平の墓というのは、もとより伝承に過ぎない。複弁反花座は、一辺5弁の蓮弁を持ち、蓮弁の傾斜は緩く、側面の高さは全体の1/3程度と低い。地輪は低めで、水輪はやや重心を上にとった球形で、厚めに切った火輪の軒反りは力強く、風輪は少し背が高い椀形、空輪はやや押しつぶしぎみの宝珠形を呈する。01_2各部のバランス、保存状態ともに良好。隙のない整美な姿に厳しさを秘めた佇まいを見せる。無地で無銘。総高246cm、塔高222cmと大きい。きめの細かい青みがかった良質の花崗岩製。典型的な鎌倉後期仕様の大形の五輪塔である。台座の蓮弁5枚という例はあまり多くなく、天理市長岳寺五智墓に集中して例がある。不退寺と長岳寺を結ぶものは何であったのだろうか。いずれにせよ何らかの律宗系の影響下に1300年を前後する頃に、高僧の墓塔ないし墓地の惣供養塔として造立されたものとみて大過ないのではないだろうか。

 

 

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 128ページ

   (財)元興寺文化財研究所  『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告


奈良県 宇陀市 大宇陀区牧 覚恩寺十三重塔

2008-02-24 09:47:17 | 奈良県

奈良県 宇陀市 大宇陀区牧 覚恩寺十三重塔

津風呂川の上流左岸、旧大宇陀町の最南端、吉野町との境、西側の山地から東に向かって開けた陽当たりのよい小さい盆地に牧の集落はある。01中世には竜門庄に属したようで、『吾妻鑑』に出る有名な源義経の「腰越状」に彼が竜門牧に潜伏した旨の記述が見える。正平年間に書写された川上村東川運川寺蔵の大般若経奥書に南朝方として楠木氏と並んで牧定観・堯観父子の名や「牧之城内」などの記述があるという。背後の山には中世城郭の牧城跡がある。02「牧」氏は「真木」氏と書くこともあるようである。集落の中央に神社があり、その南側に会所があって付近が覚恩寺の旧境内だろう。今は廃寺のようで、重要文化財の藤原期の薬師如来坐像と鎌倉時代の阿弥陀如来坐像を安置する鉄筋コンクリートの収蔵庫のみが残る。そばには住職のものと思われる近世の無縫塔が草に埋もれている。現地の案内看板によれば寺は牧氏の菩提寺で、筒井順慶によって焼かれたとされるが由緒は不詳とのこと。収蔵庫の東、生垣に囲まれた細長い一画の奥、コンクリートの低い垣で囲まれ石造十三重塔が建っている。高さ4.15m。二重の切石基壇を備え、初重軸部(塔身)以外の軸部は笠と一体彫整にした通例の構造形式。基礎は適度な幅:高さ比だが上端より下端の幅が広めで安定感がある。塔身は幅よりやや高さが勝る。各層の軒口は垂直に切って適度な厚みがあり、隅近くで力強い反りを見せるが軒中央の直線部分がやや目立つ。各笠裏に一段の垂木形を削り出し、各層逓減率はみごとに計算され、フォルムのデザイン完成度は高い。珍しく基礎も塔身も無地にしている効果もあって、全体に整美ですっきりした印象を与える。相輪先端の宝珠と請花はコンクリートで後補。 銘は認められず、造立年代は不詳。川勝博士は軒反の形状などから鎌倉末期の典型作とされている。一方、収蔵庫前の案内看板には室町初期の典型的な作品とあって見解が分かれている。長慶天皇(1343?~1394?)の墓塔との伝承によって造立を室町初期とするのであれば本末転倒である。清水俊明氏は鎌倉時代の余風を伝える南北朝時代とされる。種子や格狭間など装飾的な細部ディテイルを持たず、フォルムは整美ながら逆に際立った特長がない点が年代推定を困難にしている。小生としては軒反の力強さ、高さが勝る塔身など室町に降ることはないと思う。14世紀前半~中頃でいいのではと思う。材質についても川勝博士は石英粗面岩製、清水氏と案内看板は花崗岩製と見解が分かれる。風化し苔むした表面からどちらが正しいのか、あるいはそのどちらでもないのかについては即断できない。しかし小生には花崗岩製には見えない。なお、石英粗面岩は流紋岩(流紋岩質溶結凝灰岩なども含む)のこと。重要文化財指定の優品。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 246ページ

      清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 504ページ

      平凡社 『奈良県の地名』 日本歴史地名体系30 781~782ページ


京都府 八幡市八幡 石清水八幡宮五輪塔

2008-02-21 00:24:51 | 五輪塔

京都府 八幡市八幡 石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)

石清水八幡宮の参詣者用駐車場に接する御旅所の左手奥、神応寺という寺に向かう参道と水路に囲まれた細長い三角形の一画に巨大な五輪塔がある。12想像していたほど大きくないというのが第一印象だったが、石段を上ってさらに近づき、間近で観察するとやはり大きい。台座の蓮弁は大きすぎて何枚あるのか一見しただけではわからない。自分の身長が地輪の上端高より低い。台座に登らないと地輪の上面が見えない。普通ならしゃがまないと見えない火輪の下面を見上げるとたくさんの鑿跡がはっきり残っている。正面から見上げる写真しか見ていなかったので、茫洋として間の抜けた印象を持っていたが、斜めの角度で少し離れてみると、この五輪塔の印象が変わる。空輪だけは全体に比較して少し小さい感じだが、これほどの大きさにもかかわらず、19全体の均衡がきちんととれている。ここは石清水八幡宮のある男山丘陵の東麓、神仏混合時代に存在した極楽寺という神宮寺の跡だという。五輪塔はその極楽寺の一角に建っていたとされる。このように巨大な五輪塔を移設することは考えにくいことから、元位置を保っていると思ってよいのではないだろうか。五輪塔は石垣と石柵で囲まれ、御旅所側からは一段高い場所にある。傍らに説明板があり、航海記念塔とある。平安末期に摂津尼崎の日宋貿易の商人が航海の無事を感謝して建立したものだという。あるいは、九州宇佐八幡を石清水に勧請した大安寺の僧行教の墓塔であるとか、西大寺の叡尊が蒙古襲来時に敵調伏の祈祷を行い、命を落とした元軍将兵の供養のために建立したものともいわれる。石を運ぶ時に火花で綱が焼き切れたので竹を利用して綱を作って引いたとか、八幡の忌明塔であったとか、伝承は多い。鎌倉中期終わり~後期初め頃とされた川勝博士の説に時期的にいちばん近いのは、叡尊による元寇供養説である。川勝博士が指摘されるように石清水八幡宮と関係の深かった西大寺を通じて大和系の石工の関与も十分に考えられる。五輪塔は花崗岩製で、高さ6.08m、地輪の幅2.44mとされるが、高さは総高なのか塔高なのかは不明。切石の基壇と反花06座の高さだけで50cmはありそうなので、6mを総高とするならば、塔高は約5.5mとなる。火輪の隅棟の曲線は伸びやかで、ぶ厚い軒先の反りは力強く、水輪はあまり下すぼまりとならない安定感のある球形で、どっしりとした低めの地輪とそれを受ける台座は傾斜が緩く曲線の伸びやかな単弁反花で荘厳され、隅弁は間弁(小花)にならないタイプ。その下の切石の基壇も含め、塔全体のバランスは見事に整っている。風輪はやや深めの鉢形で、空輪の宝珠形も申し分ない。地輪は一石ではなく、下部に数個の石材を組み合わせ、その上に巨大な一石の石材を据えて地輪を構成している。13この大きさに見合う石材が見つからなかったからと言われている。しかし、元の石材の大きさは、地輪と火輪にさほど大差はないように見える。どこから石材を調達したのかということもあるだろうが、宇治川と木津川、桂川が合流するこの場所を考慮すると、水運を前提に考えるのが合理的ではないだろうか。少し離れるが、山城町の泉橋寺では、同じ頃である鎌倉時代後半に5mを超える巨大な地蔵の石材を運搬していることを考慮すると、大きい石材をまったく入手できなかった可能性は高くないように思える。むしろ運搬上の都合と考える方が、より合理的ではないだろうか。五輪塔の製作工程、つまり、大まかな石材を切り出してからこの場所に搬入し整形したのか、別の場所で整形された各輪をここに運んで組み立てたのかということも考えておかなければいけないが、最も質量(or重量)が大きい地輪を物理的に運搬できなかったため石材を分割せざるをえなかったという可能性は高いと思う。さらに、なぜ地輪が一石でないのかについて、もうひとつの可能性として、構造上の意図からあえて地輪を一石にしていないのではないのかと推定してみたい。つまり地輪下に何らかの埋納施設を設け、そこに追納する場合を想定した構造であったのではないかということである。台座は明らかに組み合せ式であり、地輪下の台座中央にスペースを作り得る構造である。切石基壇も同様に、井桁に組んだとすれば、中央にスペースを作り得る。地盤を固め、あるいは繰込石などで補強し地面に埋納坑を掘ってあるかもしれない。いずれにせよ、このスペースを反復継続して利用するために地輪の下部にあえて可動式の小さい石材をはめ込んだ可能性は考えられないだろうか。この小さい石材を外しても五輪塔全体の重心は崩れない。これを脱着して埋納スペースの利用を可能にしたと考えることも可能ではないだろうか。もっとも、誰もが簡単に脱着できては管理上望ましくない。しかし、これだけの大きさの五輪塔である。小さい石材といっても少人数ではそうそう動かせないサイズである。したがってそうした管理面からの心配は少ないだろう。とにかく、近世の大名墓などを除けば、日本最大の五輪塔で、保存状態もよく、力強さと優美さを兼ね備えた、鎌倉時代に遡る優品で、まさに重要文化財にふさわしい。

 

写真:上左、上右…全景、中右:切石基壇と反花座、下左:地輪上中央に小さく見えるのはタバコの箱です。巨大さが伝わりますか?ウーンちょっと分かりにくいですね…。とにかくでかいです。ハイ。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 21ページ

   川勝政太郎 『京都の石造美術』 140ページ

   竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 207~209ページ

  (財)元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』 平成4年度調査概要報告


『近江の石造遺品』の著者 故・池内順一郎先生の展覧会行ってきました。

2008-02-20 23:09:22 | お知らせ

故・池内順一郎先生の展覧会行ってきました。『近江の石造遺品』の著者 故・池内順一郎先生の展覧会、雪をついて草津市の「しが県民芸術創造館」に行ってきました。会場のプロフィール紹介で知ったのですがお生まれは大阪だったんですね。仏足石や格狭間孔雀文などの拓本がメインでした。湖西市の少菩提寺跡の多宝塔や朝国の観音寺跡宝篋印塔(伝時頼塔)の拓本は一見の価値があります。使ってみえた拓本道具、特に黒いバッグの色つやや質感は印象的でした。地域の歴史や文化財に関する講演やセミナーの講師も数多く務められたようで、その際のレジュメ、手持ち原稿、さらには『湖国と文化』の編集過程の原稿は読みやすい癖のないタッチの肉筆も生々しいものでした。故人を偲ぶ遺品の数々を目の当たりにでき、雪をついて来た甲斐がありました。先生のライフワークであった石造物の美術的、文化財的な価値や調査の魅力が観る人に伝わり、近江に第二、第三の池内先生が出てくることに期待したいです。でも展覧会は2008年2月24日(日)までです。近江の石造マニアは必見!ぜひ観覧されたし。入場無料です。

ただ、ちょっと気になったのは、個々の拓本に解説がなかったことです。池内先生が調査され記録を残された数多くの石造物の中には、現在は既に失われたものもあるかもしれません。どこのどういう価値がある石造物の拓本なのか、わからないままでは先生が本当に伝えたかったことがちょっと届かないのでは?と思いました。ひょっとすると石造物の場所がわかると盗難などの危険性があるので、わざとそうしているのでしょうか・・・。


滋賀県 犬上郡甲良町正楽寺 勝楽寺の石造美術(その2)

2008-02-16 01:07:35 | 滋賀県

滋賀県 犬上郡甲良町正楽寺 勝楽寺の石造美術(その2)

勝楽寺本堂左17手墓地の奥、山裾に五輪塔の部材を長方形に並べ囲んだ一画に3基の重制無縫塔が並ぶ。いずれも花崗岩製で高さ90cm前後。中央が開山(雲海)塔で、向かって右が二世(深渓)塔、左が三世(九岩)塔とされる。中央塔は、前後二石を組み合わせた平面八角形の切石基壇上に立ち、基礎、竿、中台は八角形で基礎底部の各角に短い脚を設け左右に持送りをつけ、各側面に輪郭を巻いて内に格狭間を配する。上面は低い一段を経て抑揚感のある複弁反花とし、さらに受座につなげて竿を受ける。竿は正面に「開山」の2字を陰刻し、側面には1つおき(「面取」に相当する面)に蓮華座上の舟形背光の前に3連如意宝珠を積み上げたレリーフを中央に配する。中台は薄い受座底を設け、単弁請花で無地の薄い側面を受け、上面には複弁反花座を刻みだす。その上に単弁二重鱗葺の蓮華座を載せ卵形の塔身を置く。18丁重な彫りと細部までいきとどいた意匠・表現は典麗かつ温雅で、塔身の曲線も素晴らしく3基中最古と考えられる。開山塔にふさわしいが、竿正面の「開山」銘については川勝博士、田岡香逸氏ともに後刻と推定されている。なお、開山の雲海正覚(or意?)和尚は暦応4年(1341年)の示寂。没後間もない頃の造立と思われる。田岡香逸氏は1370年ごろと推定されており、33回忌にでも造塔したのだろうか。小生は賛同しかねる。09右塔には切石基壇は見られず直接地面に基礎を据えている。中央塔と同じく基礎、竿、中台は平面八角形。基礎各側面に輪郭を巻き内に格狭間を配す。基礎上面は中央塔に見られる一段は省き反花を経て竿受座に続ける。反花は基礎側面中央に通常の複弁を、左右(基礎側面各角に当たる)に覆輪付単弁を配し、隙間には根元まで延びる間弁(小花)を入れている。複弁と単弁を交互に配す珍しい意匠である。竿は正面に「昭塔」の2字を陰刻し、「面取」に相当する各面の中央に開敷蓮花のレリーフを飾る。1つおきにレリーフを飾るのは中央塔と同じである。10中台は下底に竿受座を設け繰形に持ち送り一段張り出して側面を素面にしている。中台上面は平らに切って椀状の単弁二重鱗葺の請花座を挟んで卵状の塔身を載せる。中央塔に比べると細部の意匠に簡略化が見られ、基礎側面の格狭間の肩が下がるなど新しい要素が見て取れる。左塔も直接地面に基礎を据え、同様に基礎、竿、中台は平面八角形で、基礎側面に輪郭を巻いて内に格狭間という意匠は他塔と同じで、そこから一段を経て反花、竿受に続ける手法は中央塔と同じである。反花は基礎各角に細長い間弁(小花)を入れる。これは大和15系の五輪塔の反花座の隅弁によく見られる手法である。竿は正面中央に「穆塔」の2字を陰刻し、「面取」相当面に1つおきのレリーフを入れる手法は他塔と同様である。レリーフは中央塔と同じく舟形背光に3連如意宝珠を蓮華座上に積む意匠である。中台は下底から側面は右塔と同じく繰形の持ち送りの上下に一段を設け、側面は素面とする。中台上面は中央に薄い複弁反花座を刻みだし、シャープな小花付の覆輪付単弁の蓮華座を載せる。この蓮華座の上面に低い塔身受座を刻みだす。その上の塔身は他塔に比べ側面のカーブに硬さが目立ち円筒状に近い。基礎の輪郭や格狭間、竿のレリーフ、塔身を受ける蓮花座の蓮弁など細部の彫りが深くシャープな印象を受ける。3基ともよく似た感じの無縫塔だがよく見ると微妙にそれぞれの個性があり、最古と見られる中央塔の構造・形式や意匠を基本的に踏襲しつつ細部の意匠に少しずつ個性を主張する部分を交えている。右塔が南北朝末期、左塔が室町初期の造立されている。無縫塔は卵塔とも呼ばれ、鎌倉前期、京都泉涌寺開山塔として大陸から導入採用され、主に禅宗の高僧の墓塔として普及し、その後宗派を越えて広がり、今日も僧侶の墓塔として多く造立されている。塔身と基礎を基本とする単制のものがほとんどだが、竿と中台、請花を備えた本格的な重制の無縫塔は、近江でも珍しく、欠損のない優品が3基並ぶ様子はまさに壮観、見るべきものである。

なお、勝楽寺に程近い若一神社には鎌倉後期の完形石造宝塔があり(2007年2月1日記事参照)、裏山の勝楽寺城はハイキングコースとして整備されている。静かな境内に立ち文武に優れた乱世の奸雄の不敵な生き様に思いをはせるのも一興、石造マニアならずとも訪れたい場所である。

写真上左右:立ち並ぶ様子、中左:中央塔(開山)、中右:右塔(2世)、下、左塔(3世)

参考:『滋賀県の地名』平凡社日本歴史地名体系25 787~788ページ

   川勝政太郎 『歴史と文化近江』 176~177ページ

   川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 133ページ

   田岡香逸 「近江彦根市と犬上郡の石造美術」―北野寺・唯念寺・念称寺・勝楽寺―

        (後) 『民俗文化』188号


滋賀県 犬上郡甲良町正楽寺 勝楽寺の石造美術(その1)

2008-02-16 00:22:55 | 宝篋印塔

滋賀県 犬上郡甲良町正楽寺 勝楽寺の石造美術(その1)

慶雲山勝楽寺は婆沙羅で知られる武将佐々木高氏(京極導誉)の菩提寺で、臨済宗建仁寺派。寺蔵の有名な導誉の肖像は京都国立博物館に寄託される。背後の山塊は導誉が築かせその後多賀氏などが拠った勝楽寺城の跡で尾根筋などに遺構が残る。現在の寺の本堂は江戸時代のものだが、山門は城跡から天明年間に移建された城唯一の木造遺構と伝えられる。03建武4年(1337年)ごろ柏原から甲良庄に根拠を移した導誉は、康永4年(1345年)に甲良庄地頭職を得ている。以後、応安6年(1373年)78歳で亡くなるまで当地を本拠としたという。勝楽寺は、導誉ないし息子の京極高秀が暦応4年(1341年)、京都東福寺5世山叟慧雲の法嗣であった雲海正覚(正意?)和尚を招いて開山とし建立された。雲海和尚は間もなく死去し、入寂の際の遺偈の墨跡が残る。その後も京極氏の菩提寺として隆盛を誇ったが戦乱を経て次第に衰退し、時々の領主から断続的に保護を受け続け今日に至っている。本堂背後の山裾に安山岩製(硬質の砂岩の可能性も残る)の瀟洒な宝篋印塔がある。04京極氏の重臣、新平兵衛尉の墓というが不詳。平らな切石を敷いて基壇とし基礎は上2段式で側面は各面とも壇上積式で内に格狭間を配し、格狭間内三方に三茎蓮花、山側の背面のみ大きい開蓮花のレリーフを格狭間内いっぱいに飾っている。格狭間は側線や花頭の曲線に硬さがあり、大きい開蓮花は下底が平らで中房が水平に細長く花弁が左右に行くにしたがってS字状に変形する。多分に図案化が進行したものである。塔身は月輪内に蓮華座を設けないで金剛界四仏の種子を薬研彫する。種子は月輪のやや上方に偏って深く刻まれ、曲線を強調した独特のタッチで達筆ではあるが雄渾や端麗といった形容詞にふさわしいものとはいえない。笠は上6段下2段で二弧輪郭付の隅飾は軒から入って立ち上がり、直線的に外傾する。相輪も欠損なく、伏鉢の曲線は硬く下請花は複弁、上請花は小花付単弁。九輪部は線刻で表現し、逓減がやや大きい。宝珠の曲線は滑らかだが重心が少し高く上請花とのくびれが大きい。石材のせいもあってか全体に表面の風化が少なく保存状態は良好。意匠の細部は退化・形式化が進んでいるが表面処理や彫り自体は丁寧に仕上げられている。造立時期は室町時代、15世紀半ばないし後半ごろまで降ると思われる。また、本堂左手の墓地に導誉の墓と伝えられる宝篋印塔がある。07花崗岩製で塔身は失われ、笠と相輪は原型をとどめないほど破損しているが、なかなか大きいもので田岡香逸氏は8尺塔と推定されている。基礎は上2段式で側面は輪郭格狭間、三茎蓮花のレリーフを正面にのみ入れている。こうした破損は風化や倒壊によるものとは考えられず、火中したか故意に打ち欠かれたかいずれかであろう。破損が著しく造立年代の推定は困難だが、導誉の没年である応安6年よりは遡りそうである。1305年ごろと推定されている田岡氏の説に従っておく。24導誉塔の左には塔身が五輪塔の水輪に入れ替わった宝篋印塔がある。傍らに「赤田栄公墓」と刻まれた自然石の碑が立つ。上端近くまで埋まった切石基壇の上に据えられ、基礎は側面壇上積式で上2段。各側面に格狭間・三茎蓮花のレリーフを飾る。格狭間は上花頭中央が狭く、やや肩が下がり、脚部が極めて短い。彫が非常に浅いのが特長。笠は上6段下2段で、軒は薄く、軒からかなり入って二弧輪郭付の隅飾が外傾しながら立ち上がる。隅飾輪郭内は素面。相輪は上請花と宝珠を欠損する。伏鉢の曲線はスムーズで下請花は複弁、九輪はやや逓減が目立つ。田岡氏は1315年ごろと推定されているが、もう少し新しく南北朝前半ごろものではないだろうか。赤田栄公がどういう人物かは不詳。(その2に続く)

写真上左:本堂裏宝篋印塔全景、上右:本堂裏宝篋印塔基礎の開蓮花、

下左:導誉塔、下右:赤田塔

なお、導誉の墓とされる宝篋印塔は柏原清滝寺徳源院の京極家墓地(応安6年銘)にもあります。

※ 参考図書はその2にまとめて記載します。

 

  

【追記】

 今更ながら少し記事を補足させていただきます。記事にある「赤田栄公」というのは赤田栄という人物で、赤田左衛門尉とも。赤田氏は嵯峨源氏。赤田というのは越後の地名で、鎌倉時代の初め頃、幕府の御家人として渡辺綱の子孫が彼の地の地頭に任じられ名乗るようになったとか。その後、近江犬上郡に移住、佐々木源氏に属したようですね。代々名前が一字なのは遠祖に当る源氏の伝統を継ぐものでしょうね、渡辺党の祖であるかの頼光四天王の一人渡辺綱も一文字名です。赤田栄は佐々木導誉とほぼ同時代の人で観応の擾乱で戦死したと伝えられているようです。しかし、赤田氏はその後も拠点を移しながら室町・戦国時代を生き抜いた近江の名族だということです、ハイ。

 赤田栄と京極導誉との関係は不勉強で存じ上げませんが、導誉の墓と伝えられる宝篋印塔のそばに寄り添うように墓塔とされる石塔がまつられていることから、導誉の旗下に属したのでしょうか、あるいは徳源院京極家墓所に北畠具行の供養塔とされる石塔があるように、敵対したものの導誉も一目置くような花も実もある勇士だったのでしょうか、そのあたりは機会があれば今後調べたいと思います。

 なお、赤田栄の墓とされる寄集め塔ですが、無銘なので彼の墓塔と断定することはできません。塔身にある五輪塔の水輪は室町時代に降る別物でしょうが、宝篋印塔の基礎と笠は恐らく一具のもので、その形状から推定される造立時期は、観応二年とされる赤田栄の没年と齟齬のない頃と思われます。(2011年1月追記)


奈良県 桜井市出雲 十二柱神社五輪塔

2008-02-12 01:12:03 | 五輪塔

奈良県 桜井市出雲 十二柱神社五輪塔

国道165号から北側に出雲の集落内を通る旧道に入ると北側の山の手に十二柱神社がある。石段の右手に大きい五輪塔が建つ。03相撲の祖で埴輪の発明者としても有名な野見宿弥の供養塔との伝承があり、元は南方300mの野見宿弥の塚といわれた場所(塚の本)にあったものを明治20年(一説に明治16年)にここに移したらしい。野見宿弥は垂仁朝の人で、実在したとすれば古墳時代初め頃になる。出雲という地名からの付会伝承であろう。高さ2.8m余のきめの粗い花崗岩製で表面の風化はやや進行している。直接地面に据えられ基壇や台座は見られない。地輪は低めでやや下方が広く、水輪は球形で少し側面が欠損しているせいか背が高く見え、全体のバランスから見ればやや小さめである。火輪は軒が異常に厚く、軒反には隅増しが顕著でなく、全体に真反りに近い緩やかな曲線を描く。火輪の隅降棟の屋だるみは緩い。空風輪は大きく高い。風輪の椀形、空輪の宝珠形ともにスムーズな曲線を描き硬い感じは受けない。各輪四方に薬研彫の種子があるが、通常の四門ではなく、清水俊明氏によれば地輪にはヂリ(持国天)、ビ(増長天)、ビー(広目天)、バイ(多聞天)の四天王、水輪は金剛界四仏、火輪はバイ(薬師如来)、バク(釈迦如来)、キャ(十一面観音菩薩)、カ(地蔵菩薩)、風輪はカーン(不動明王)、ユ(弥勒菩薩(如来))、マン(文殊菩薩)、ボロン(一字金輪仏頂)、空輪は一字欠損しバン(金剛界大日如来)、ア(胎蔵界大日如来)、サ(観音菩薩)となっているとのこと。このような複雑な種子の配列例は他にみることができず極めて異色といえる。規模が大きく、全体のフォルム、種子などのディテイルも個性的で定型化した鎌倉後期仕様のものとは異なった特長がある。ぶ厚い軒口などは剛健であるが、水輪の横張が足りないので安定感には欠け、大きく高い空風輪とあいまって全体に背伸びしたたように見える。造立時期の特定は難しいが、下広がりの地輪と横張の少ない水輪、反りの緩やかな異様に厚い火輪の軒はいちおう古い特徴で、鎌倉後期仕様の様式が普及する以前のものと見たい。傍らの説明板によると鎌倉初期とあるが、それはちょっと古すぎると思う。鎌倉中期末ないし後期初めごろのものではないだろうか。また、移建時に地輪内に一字一石経を納めた穴があったと伝え、今も地輪内にそのままにしてあるという。納経による作善・供養と思われ、五輪塔の造立趣旨を考える上で興味深い。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術 231~232ページ

なお、大和盆地を挟んだ西側の当麻には宿弥との相撲で敗れた「当麻蹴速之塚」の伝承を持つ大きい五輪塔があり、こちらも訪ねられるとおもしろいでしょう。


池内順一郎氏(近江の石造物研究者)の業績をしのぶ展覧会が開催されます

2008-02-08 08:20:42 | お知らせ

池内順一郎氏(近江の石造物研究者)の業績をしのぶ展覧会が開催されます

故・池内順一郎氏の業績をしのぶ展覧会が開催されます。平成20年2月14日(木)~2月24日(日)、草津市野路町の県民芸術創造館において、『故池内順一郎氏の足跡からたどる文化財調査の魅力知・楽・探 近江の石造遺品-拓本などを中心に-』と題して行なわれるとの由、小生がリスペクトする池内先生は、昭和41年頃から高校教員の傍ら旧神崎・甲賀・蒲生郡など近江の石造文化財調査・研究をライフワークとされ、多大な成果を残されました。また平成12年に亡くなられるまでの間、淡海文化を育てる会の事務局長や『湖国と文化』編集長をつとめられるなど広く近江の文化振興に尽くされました。京都の川勝博士や西宮の田岡氏はいわば全国区ですが、池内先生は地元旧蒲生町の方で、バイクを駆って颯爽と石造物を廻られていたとの話です。日野町の瀬川欣一先生(この方は元・日野町の教育長)などとともに、地域から内発的に石造物の価値を発揚された点に偉大さを感じます。小生なども学恩の余慶に与かる身、ぜひとも見に行きたいと思っています。