石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 東近江市勝堂町 瑞正寺宝篋印塔

2010-10-25 00:33:45 | 宝篋印塔

滋賀県 東近江市勝堂町 瑞正寺宝篋印塔

浄土宗紫雲山瑞正寺は勝堂集落内の少し南寄りに位置する。至徳年間の創建、元和元年の中興と伝える。新しい本堂北側の境内墓地中央に立派な宝篋印塔が立っている。01花崗岩製。下端が若干埋まり、相輪の先端を欠いた現状地表高は約145cm。元は160~170cm程と推定され五尺半塔であろう。基礎の下端は埋まって確認できないが基壇や台座は見られず直接地面に据えられているようである。01_2基礎上は二段。幅約59.5cm、高さ約35.5cm、側面高は約29cmで背が低く安定感がある。側面は各面とも輪郭を巻いて内に格狭間を入れる。そのうち東面、西面の二面はよく似た意匠の三茎蓮のレリーフで飾り、北面の格狭間内は素面である。注目すべきは南面で左右に葉茎を伴わず一茎上に開く蓮華を表現している。一茎蓮文様は近江式装飾の中でも珍しく、長浜市の大吉寺跡宝塔(建長三年銘)の基礎にあるものを最古とし、石造物の宝庫である近江でもわずか10数例が知られるに過ぎない。格狭間はよく整った形状を示し側線がスムーズで中央花頭部が広く肩があまり下がらない。輪郭は束の幅が約9.5cm、葛部の幅が約4.5cm、地覆部は下端が埋もれて分かりにくいが約5cmで束の幅が広い。03また、輪郭、格狭間とも彫りが浅い。基礎は高さ約27cm、幅約26.5cmで各側面には金剛界四仏の種子を直に薬研彫し、月輪や蓮華座は伴わない。字体は端正であるがタッチが弱く雄渾とは言い難い。現状北面する「ウーン」面から東面する「タラーク」面の下端が少し欠損している。02笠は上六段下二段で軒幅約52.5cm、高さ約39.5cmで軒厚は約6cm。三弧輪郭付の隅飾は基底部幅約17.5cm、高さ約22.5cmと大きく軒からわずかに入ってほぼ垂直に立ち上がる。隅飾輪郭内はいずれも蓮華座上に平板陽刻した径約9cmの円相月輪内に諸尊通有の種子「ア」を陰刻している。相輪は伏鉢上と九輪の二輪上の2箇所で折れ、モルタルで補修されている。九輪の七輪目の一部を残してその先を亡失し、残存高は約41.5cm。九輪の凹凸はしっかり刻んでおり伏鉢、下請花の側線の描く線は概ねスムーズで接合部のくびれに脆弱な感じはない。また、下請花は単弁八葉で丁寧に曲面を刻出し、ふっくらとした花弁に仕上げている。風化のせいかもしれないが小花は見られない。塔身は一見すると風化の程度、石材の色調や質感が外の部分と少し異なるように感じられる。しかし、笠石の下端面などをよく観察すると塔身と同じく斑岩質の少し粉っぽいような様子が見て取れ、石の質は似ている。サイズ的にもまず釣り合っていることから一具のものと考えてよさそうである。06無銘で造立時期は不詳であるが、三弧輪郭式の隅飾と隅飾内の蓮華座月輪種子、輪郭格狭間と近江式装飾文様などいきとどいた荘厳に加え、垂直に立ち上がる大きい隅飾、側面からの入りが深く背の低くく安定感のある基礎、各段形の的確な処理の仕方、どっしりと力強い全体のフォルム取りなど随所に鎌倉時代後期の特長が強く出ている。さらに塔身種子の弱さは近江では広く見られる地域的な傾向なのでこれを除くと格狭間の形状、彫りの浅い輪郭格狭間、ほぼシンメトリな三茎蓮など細部表現も時代を降らせて考える材料はないと思われる。造立年代は恐らく鎌倉時代後期でもその前半、13世紀末から14世紀初頭頃の造立として大過ないものと思われる。基礎の一茎蓮は希少で、他の検出例の多くは残欠である点に鑑み、本塔は表面の風化がやや進んではいるものの相輪先端を除けば大きな欠損がなく基礎から相輪まで各部が揃っている点で貴重な存在である。一茎蓮には未開敷蓮華つまり蕾のものと花が開いたものがあるが、本例は恐らく一茎の開敷蓮花としては最も古い事例と考えられる。なお、附近は古墳の多い場所で同墓地には近くの古墳から出たと伝えられる石造物が残されている。凝灰岩製と思われる板状の部材で石棺の一部と考えられている。このほか、墓地には室町時代のものと思われる小型の宝篋印塔の笠や小石仏、一石五輪塔など中世に遡る石造物が散見される。

参考:滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書

写真左中:基礎の一茎蓮です。にょきと真っすぐ立ち上がる茎の先に蓮華が見えますでしょうか。写真右下:三弧輪郭の隅飾です。輪郭内の蓮華座月輪と「ア」です。写真左下:石棺の部材です。計測しませんでしたが目測1m四方くらいの大きさで溝が彫ってありました。

文中法量値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。本塔はあまり知られていないようですがなかなか優れた宝篋印塔です。流石に田岡香逸氏は早く本塔の一茎蓮に注目されており永仁頃の造立と推定しておれらました。それから北方約200mにある共同墓地に14世紀中葉から後半頃の造立と考えられる立派な五輪塔がありますので併せてご覧いただくことをお薦めします。


滋賀県 長浜市西浅井町黒山 黒山道二体地蔵石仏

2010-10-09 17:16:14 | 滋賀県

滋賀県 長浜市西浅井町黒山 黒山道二体地蔵石仏

JR湖西線永原駅の西方約400m、黒山に向かう道路が山裾に沿ってカーブする場所の南側、07道路に沿って黒山川がすぐ南を流れる道路脇に幅約250cm×奥行き約110cm、高さ約125cmの不整形な長方形の花崗岩の岩塊が少し唐突な感じで置かれている。01この岩塊に注目すべき石仏が彫られている。昭和49年4月、大津市在住の石仏研究家であった川端菊夫氏によって紀年銘が確認され『史迹と美術』に発表されて以来注目を集めることとなった石仏である。岩塊北西側、幅約230cmの広く平らな壁面の中央に、ほぼ同じ大きさ同じ手法で2体の石仏が並んで刻出されている。いずれも舟形光背形を彫り沈めた中に地蔵菩薩の立像を厚肉彫りしており、向かって右側の舟形光背形は高さ約80cm、最大幅約35cm、同じく左側で高さ約78.5cm、最大幅約37.5cm。05像高は右側で約69cm、左側で68.5cmである。舟形光背形の彫り沈めの下側にはそれぞれ蓮華座が刻出されている。ともに太い陰刻線で縁取った蓮弁を浮き出させるような手法であるが蓮弁の形状が左右で若干異なる。向かって左側のものの方が蓮弁を大きく表現しており、右側に比べてふっくらとした印象を受ける。03_2この点は川端氏が指摘されている。右側の蓮弁は幅がやや狭いが描かれる曲線は柔らかい。印相持物も異なっており、右像は合掌、左像は右手に柄の短い錫杖を執り左の掌に宝珠を載せている。それ以外の肉取りや衣文表現などは一致しており、同じ石工により刻まれその時期もほぼ同じと考えてよいだろう。頭部が大き過ぎずスマートな体型で、像容表現は一見すると、ややもすれば稚拙とも感じられるが、袖裾が長くならないで膝下付近にとどまっている点や裳裾から両足にかけての表現に写実的なところを残している点など細部は古調を示している。02表面の風化摩滅が進み左像面相は辛うじて眉から目元にかけて痕跡をとどめ右像の面相はほとんど確認できない。右像の舟形光背形の向かって右側に陰刻銘があるのが肉眼でも認められる。川端氏は「…立嘉元二年(1304年)二月十八日」と判読されている(「年」「月」「日」の3文字は伏字)。嘉元二は肉眼でも確認できるが「嘉元二」と「年」の間が少し離れており、干支があったのかもしれない。たが肉眼では「年」は「十」にも見え、川端氏の報文に掲載された拓本を見ても同様である。川勝博士、清水俊明氏ともにこの点には特に触れておられないが、あるいは十二月十八日の可能性もあるように思うがいかがであろうか。いずれにせよ古い在銘の石仏が必ずしも多くはない近江にあって鎌倉時代後期、14世紀初頭の紀年銘は貴重。近江の石仏を考えていくうえでの基準資料として見逃せない石仏である。かけがえのない故郷の遺産としていつまでも後世に守り伝えていってもらいたいものである。また、我々はこの石仏の特長、例えば蓮華座の形状や柄の短い錫杖、裳裾の処理の仕方といった細部をしっかり観察しておくことが大切であろう。

 

参考:川端菊夫 「湖北黒山道の二体地蔵石仏」『史迹と美術』第444号 1974年

      清水俊明 『近江の石仏』 創元社 1976年

      川勝政太郎  新装版『日本石造美術辞典』 東京堂出版 1998年

 

 川端報文によれば、地元の人の話として昭和40年代前半頃にそれまで川の土手に転がっていたのを引き上げたとのことです。

 ところで広い意味では磨崖仏も石仏の一形態ですが、普通の石仏と磨崖仏の違いは何かというと、動かせるか否かということです。石仏は運搬が可能ですが、岩盤に彫られた磨崖仏は動かせませんよね。つまり動産と不動産みないなものでしょうか。ですから、許されない行為ですが理屈上は岩盤を割ったり刳り抜いて動かせるようにしてしまうと磨崖仏が石仏になってしまいます。この黒山道の地蔵石仏の場合は巨岩の部類に入る岩塊の壁面に彫られているので磨崖仏といえなくもないわけです。しかし容易ではないにせよ移動させることは可能で、現に川から引き上げられていますので川勝博士をはじめ諸先達は磨崖仏とは呼んでおられませんね、ハイ。それから例により文中法量数値はコンベクスによる実地略測ですので多少の誤差はご容赦ください。

 なお、川端氏について、この方は本職は小学校の先生で校長先生をなさってみえた由。川勝博士と同年の明治38年のお生まれですが川勝博士に師事され石造の中でも特に石仏に力を入れられたリスペクトすべき近江の石造美術の大先達です。

追伸:

サイトUPを機に再訪したところ、方角が少し違っていましたので修正しました(すみません…)。二体地蔵石仏は岩塊の西側ではなく北西側にあります。08_2 再訪の際、たまたま花を供えにきてみえた地元のご高齢の女性にお話をうかがうことができました。嫁いで来てかれこれ50年以上になるとの由、岩塊が本当に移動されたのかお尋ねしたところ、本当だとのことでした。元は5~10m程下流側の川の対岸の土手にあったとのことで、土地改良か河川工事かの関係で移動させる必要が生じ、「どかた」(工事関係者か)の人達がやっとこさで移動させたとのお話でした。さらに岩塊北側の側面に作りかけのまま放置された石仏の頭部らしいものがあることをこの女性に教えてもらいました(右の写真中央に丸い部分があるのがおわかりいただけますでしょうか…)。周囲を彫り沈め径10cm程の丸い地蔵菩薩の頭部のような部分が刻出されているように見えます。いわれると確かに人為的な感じを受けました。何かの事情で製作途中で放置されたのでしょうが、詳しいことはわかりません。二体地蔵石仏に加えここにも花が供えられています。花を供え石仏にぬかずかれるこの女性のお姿に接し、地元の信仰に厚いほとけ様だということに改めて気付きました。貴重なお話を聞かせていただいたうえに、遠いところからよく訪ねて来てくれたと喜んでいただき恐縮した次第です。謹んで感謝の意を表したいと思います。