石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県長浜市野田町 野田神社宝篋印塔

2007-05-13 21:20:13 | 宝篋印塔

滋賀県長浜市野田町 野田神社宝篋印塔

田根小学校の南方、田んぼの中に神社の杜が見える。社殿向かって右手に宝篋印塔がある。06_5 最近積まれた石積み基壇の上に直接立っている。白っぽい表面の粗い花崗岩製で全体的に表面の風化が激しいが相輪先端以外は各部揃っている。基礎は上2段式で、下およそ1/3が埋まっているが幅に対する高さの比は低く、側面四面とも輪郭を巻いて、輪郭左右を広くとり、輪郭内を深めに彫り込んで格狭間を入れる。格狭間は肩の下がらないしっかりした形状で、内部は素面。基礎上の2段の段形は低い。塔身は比較的風化の程度がましで、月輪を陰刻して金剛界四仏の種子を薬研彫する。字体はそれほど強くない。本来東であるべき阿閦如来のウーン04が正面南向になっているので方角は右に90度ずれている。笠は上6段、下2段で、上の段形に比べ下の段形が低い。軒と区別してやや外反する大きめの隅飾は3弧輪郭付で、輪郭内は素面とする。相輪は5輪以上を欠損する。伏鉢はやや直線部が目立ち円筒形に近い。その上の請花は複弁式。そばに元の基壇部材と推定される2枚の平たい板状の切石が無造作に置いてあり、2枚を合わせた中央に穴を開けた痕跡があって塔下に何か埋納したことを暗示している。 目測5尺ないし5尺半塔か。紀年銘等は確認できないが、低い基礎、隅飾の特徴などから概ね鎌倉後期14世紀初め~前半ごろのものと考えて大きく誤らないだろう。

写真左:宝篋印塔の現状 写真右:基壇材と思われる板状の石材

余談:新築の基壇は、平成16年6月に完成し、足利尊氏公奉納宝篋印塔と刻まれた御影石の真新しいプレートが正面にはめ込まれています。このように地域資源でもある石造美術を地元の有志により修復し顕彰するのはたいへん結構なことですが、部材を積み替えたり地面下に手を加えたりする際は、遺物や遺構の改変や破壊のおそれがあるので細心の注意が必要です。先立って学術的な調査をすることが望ましく、調査により塔の構造や年代・性質などを明らかにできるかもしれないし、何も検出できなかった場合でも他所から塔が移動されたことがわかるでしょう。今回も基壇修復に際しそうした配慮があったと信じたいものです。近くに放置してある基壇材の板石も散逸しないようお願いしたいです。なお、近くの大已貴神社の宝篋印塔を見学した際、地元の方から本塔の存在を教えていただき訪ねたもので、特に参考とした文献はありません。その方によれば、野田神社、大已貴神社、素盞鳴神社の宝篋印塔は、みな足利尊氏が奉納したものという伝承があるとのことでした。どの塔も年代は尊氏の頃よりもうちょっと古そうです。


滋賀県 大津市長安寺町 長安寺宝塔

2007-05-09 00:17:25 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 大津市長安寺町 長安寺宝塔

逢坂の関に程近い山寄りの斜面に閑静な境内を構える長安寺、本堂から一段下がった山裾の斜面を平坦に整地した場所にこの宝塔はある。21_1 この付近は、三井寺の有力子院であった関寺の旧地と伝えられるが鉄道がすぐ下を通り、民家が建て込んで宝塔のすぐ近くまで迫って、古の関寺のイメージはなかなか想像すべくもない。この長安寺宝塔には、関寺の霊牛の供養塔との伝承があり、数多い近江の宝塔の中でも古来著名なもののひとつである。関寺再建に使役された牛が実は迦葉仏の化身だということで、藤原道長をはじめ大勢が参詣したことが当時の貴族源経頼の日記である『左経記』などにみえる。万寿2年(1025年)のことで、まもなくこの霊牛は死亡し、堂後の山手に埋葬されたという。宝塔はその直後の造立で、関寺の鎌倉時代の伽藍の旧状を描いた三井寺所蔵の古図に霊牛の供養堂と思しき堂が見え、恐らく堂内にこの宝塔があったのではないかという推定がなされてきたのである。今日ではそこまでは遡らないだろうというのが定説になっている。近づいてまずその塔身のボリューム感に圧倒される。高さ約3.5m、高島市三尾里の鶴塚塔など近江には基礎や相輪を含めれば高さでこれを凌駕する宝塔はあるが、小さく低い基礎と相輪を欠いてこの大きさである。特に塔身は他の追随を許さないサイズである。サイズだけでなくデザインや構造形式においても規格外といえる。基礎は平面八角形で半ば埋まって下端は見えないが、低く平らなもので、23 塔身や笠に比較して小さい。側面は垂直に上端面に続かず、上端から10数cmのところで傾斜をつけた面を八方の側面に設けているが傾斜面は均等ではない。塔身は圧倒的な存在感を示す。平面円形で、軸部は重心をやや上に置く縦に長い壷型を呈し、全体にやや歪んでいる。扉型や匂欄、框はなく、素面で荒叩きに仕上げ、側面は全体にゆるく曲線を描き亀腹との区分は明確でない。背面には縦方向に大きくヒビが入っている。37 下端から40cm程のところに水平方向に1条の陰刻線が見えるが当初からのものか否かは不明。首部は円筒形で上部をやや細くして笠に続く。首部は比較的太くしっかりしてしかも短いものではない。匂欄の柱とも見える線が見えるが、当初からのものか不詳。笠は平面六角形。屋根の傾斜は緩く伸びやかで、屋根の勾配に反りはほとんど認められず、むしろややむくり気味に見える。底面は概ね平坦であるが、中央付近はやや窪んで、六角形の塔身受を薄く削り出し、各稜角部から放射状に隅木を表現している。10 隅木は軒先に至らず途中で消失している。軒先は薄く、各軒は緩く全体に反って真反に近い。背面側の軒の一端が大きく欠損している。露盤は丸みを帯びた六角形で露盤頂上を平らに整えている。露盤上には後補の平面正方形の平らな台部とその上の宝珠を一体整形したものが載っている。川勝博士は、塔身軸部の緩やかな曲線と長い首部、笠の屋根勾配や軒反の手法や、多角形の基礎や笠という奇抜なデザインから「悠容として迫らざる平安時代の気分」を見てとられた。また、鞍馬寺経塚出土の銅製宝塔を引き合いに、相輪よりも宝珠が似つかわしいとされている。(※1)一方、田岡香逸氏は各部の材質の違いと形式観によって平安時代説を明確に否定された。塔身のヒビ割を火中によるものとされ、笠、塔身、基礎それぞれが石質の違う花崗岩で、基礎と笠には火中の痕跡はなく、笠は鎌倉中期を降らないが、肩の張りが目立つ塔身や輪郭を持つ基礎は鎌倉後期以降のもので、結局寄せ集め塔であるとされた。(※2)川勝博士も一定これを認めながらも無視し難い平安後期的様式と、鴨長明が建暦初年(1211年)ごろ、この地を訪ね、「関寺より西へ2、3町ばかり行きて、道より北のつらに、少したちあがりたる所に、一丈ばかりなる石の塔有云々」と『無名秘抄』に記している点に注目され、万寿2年の霊牛供養塔との証明はできないが、平安末期に関寺近くに建てられた供養塔だろうと推定されている。(※1)小生としては川勝博士の説を支持し田岡氏の見解には賛成できない。確かに石の色が変色しているように見え、大きく縦に方向にヒビが入っているが、例えば東近江46市の今崎町の日吉神社(引接寺)宝篋印塔のようにはっきり火中した痕と小生の目には見えない。笠と基礎は塔身と花崗岩の質感が異なるが、それだけをもって寄せ集め塔と断定はできないと思う。基礎に輪郭があるというがそのようには見えず、田岡氏のごとく明確に断定すべきないだろう。類例のない多角形の笠と基礎の意匠やサイズはむしろ定型化以前の形式と見るべきで、 背の高い塔身軸部のややいびつで側面のなだらかな曲線、太く長い首部の形状など、近江において大吉寺塔(建長3年)や最勝寺塔(弘安8年)など鎌倉中期以降定型化していく一般的な宝塔のデザイン形式に連なっていくものとは到底考えられず、近江における鎌倉時代の宝塔の形式系譜の埒外にあるスタイルである。あえて近いものを考えれば、川勝博士も類似性を指摘された保安元年(1120年)銘の経筒が出土した鞍馬寺経塚上に建てられた国宝指定の石造宝塔であろう。

写真…左上:全景、左中:笠、左下:基礎、右上:塔身首部と笠裏、右下:六角形の笠や八角形の基礎がよくわかるアングル

(余談:結局のところ無銘であり結論は出ない。よって諸説あって構わない。川勝博士と田岡氏の両御大には著作を通じて多大な学恩に預かっている。ただ常識的で寛容な川勝博士の学風に比べ、自説の正当性や知見の豊富さをラジカルに時にヒステリックに訴える田岡氏の学風を小生はどうしても好きになれない。むろんその不朽の業績はリスペクトされなければならないのですが…。田岡ファンの皆さん気を悪くしないでくださいね。)

参考

※1 川勝政太郎 『石造美術』 98~99ページ

※2 田岡香逸 『近江の石造美術6』 17~18ページ


滋賀県 長浜市上野町 素盞鳴神社宝篋印塔及び五輪塔

2007-05-08 08:05:16 | 五輪塔

滋賀県 長浜市上野町 素盞鳴神社宝篋印塔及び五輪塔

小堀遠州ゆかりの孤蓬庵へ向かう道すがら、集落の西のはずれに素盞鳴神社がある。長い参道を抜け左手に社殿、右手に池と井戸があり、井戸の裏手、東側の竹薮の前の小さい空地に五輪塔と宝篋印塔が東西に並んで立っている。12_1 宝篋印塔は切石を井桁に組んだ上に2枚の板状の切石を据えた二重の基壇上に立ち、おそらく基壇に埋納空間があると推定される。基礎は側面四方ともに輪郭を深めに彫り沈めた中に格狭間を配する。格狭間内は素面。上は反花式で、花弁の傾斜は緩く抑揚感がなく、べちゃっとした感じで、左右隅弁の間に3枚弁を配し各弁間に小弁の先端をのぞかせている。塔身受座も低く、風化により角がとれて反花座と一体化したかのように見える。塔身は金剛界四仏の種子を月輪内に薬研彫する。笠は上6段、下2段で、軒と区別した3弧輪郭の隅飾は直立に近く大きい。輪郭内は素面。相輪は2輪目と9輪目の上の2箇所で折れているが補修されている。伏鉢はやや円筒形に近いもので、請花は下複弁、上単弁、宝珠と上請花のくびれはやや大きい。高さ約195㎝。銘は確認できないが鎌倉後期後半から末期のものと見て大過ないだろう。一方の五輪塔は2枚の板状切石を並べた基壇上に立ち、向かって右側の切石の接合面と地輪との間に火葬骨を投入できる隙間がある。各輪素面で銘も確認できない。地輪は低すぎず高すぎず、水輪は重心をやや上において裾のすぼまりが目立つ。火輪の軒は厚く隅で力強い反りを見せる。火輪頂部は狭く屋だるみの曲線がやや大きい。風輪は少し平らで空輪との接合面はよくくびれ、空輪の重心は高めで先端の小さい尖りまでよく残っている。花崗岩製。火輪軒の一端が大きく欠け地輪上に置いてある。散逸しないように心がけて欲しい。高さ約155cm。火輪は鎌倉スタイルをよくとどめるものの空風輪や水輪の形状はやや新しい要素を含み、宝篋印塔よりは一世代新しいものとみる。14世紀半ばから後半にかけてのものと推定したい。博学諸彦のご叱正を請う。苔むした宝篋印塔と五輪塔が並んで静かに佇み、周囲の緑に溶け込んで、藪椿を背景にして何ともいえない独特の空間を演出している。石造美術のすばらしさをしみじみと感じることができた探訪であった。

参考

川勝政太郎 『歴史と文化 近江』 201~202ページ

同 「近江宝篋印塔の進展(三)」『史迹と美術』360号


宝篋印塔について(その3)

2007-05-04 12:05:50 | うんちく・小ネタ

宝篋印塔について(その3)

この宝篋印陀羅尼経と銭弘俶が作らせた金属製小塔を結びつけるものとして道喜という僧侶が康保2年(965年)に書いたとされる「宝篋印経記」をあげなければならない。これは経典ではなく体験談的なエピソード記録文で原文漢文体。扶桑略記に記載があり、京都栂尾高山寺や河内長野の金剛寺など各地に伝わる宝篋印陀羅尼経の本文に付属してワンセットで書写されたものが残されているようで、薮田嘉一郎氏はこれらを元に定本化を試みられている。それによると「去応和元年、遊右扶風、干時肥前国刺史称唐物出一基銅塔示我。高九寸余、四面鋳鏤仏菩薩像、徳宇四角、上有龕形如馬耳、内亦有仏菩薩像、大如棗核。捧持瞻視之頃、自塔中一嚢落、開見有一経、其端紙注云。天下都元帥呉越国王銭弘俶国王揩本宝篋印経八万四千巻之内安宝塔之中供養廻向已畢顕徳三年丙辰歳記也。文字小細老眼難見、即雇一僧令写大字一往視之。文字落誤不足眈読、然亦粗見経趣。…中略…問弘俶意。於是刺史答曰、由无願文其意難知、但当州沙門日延、天慶中入唐、天暦の杪帰来、即称唐物付嘱其塔之次談云。…中略…爰有一僧告云。汝願造塔書宝篋印経安其中供養香華、…中略…于時弘俶思阿育王昔事、鋳八万四千塔、揩比経毎塔入之。是其一本也云々。…後略」とあり、応和元年(961年)に今の佐賀県で、中国からの招来品という銅製の塔を国守から見せられた時の記録であることがわかる。戦いに明け暮れ残虐行為にも手を染めた銭弘俶が心身耗弱状態に陥り、僧の勧めに従い阿育王の故事に倣って宝篋印経を納めた八万四千の塔を鋳造、功徳により救われたというエピソードとともに、天暦年間の終わりごろ(957年ごろ)中国から帰った日延なる僧がその塔の一部を招来し、国守がもらったのだというのである。四角い屋蓋部に馬耳の如き龕形があるという旨の記述の内、隅飾を示すものと思われる「如馬耳」という言葉が早くも使用されていることは実におもしろい。(続く)